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しあわせな木  作者: 汪海妹
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8 希望の塔













   8 希望の塔












   













   静香












   

 春樹君が突然訪ねてきて、そして、あんなことを言って帰っていってしまってから、わたしの中の何かが確実に変わってしまった。こんなに長い間、動かなかった春樹君とわたしの距離と関係が、急に変わり始めた。


 それはありえないことでした。

 出会ったばかりの頃、彼は本当に子供で……。まだ顔だちに少年らしさを残した生意気な男の子だった。子供だったから、つい、そばに寄せてしまったんです。どうにかなるようなことなんてないだろうと。


 秀との関係は刺激的だったけれど、自分の疲れを癒してくれる存在ではなくて……。結局はわたしは春樹君の若々しい明るさを利用していた。わざとひねくれた様子をしてみせる春樹君は、でも、本当に純粋だった。その綺麗さに救われてたんです。


 誤算でした。


 男の子は時間が経てば男の人になる。男の子として見られなくなった時、でも、会えなくなるのが嫌だった。彼の気持ちを知りながら、わたしは甘えていました。本当の自分を見せずに、彼の好きな静香さんを演じていた。わたしは秀といる女の自分よりも、春樹君といる自分の方が好きでした。たとえ、それが偽物の自分でも。


 そして、彼の心の中に踏み込みすぎた。そんなことすれば傷つけるとわかっていて、それなのに、止められなかった。それは、彼に触れたかったからです。彼の心にも、体にも、もっと近づきたかった。案の定、彼は傷つき、そして、連絡が絶えた。


 彼の気持ちに応える気もないのに、ずるずるとその優しさに甘えてきた。その時間がとうとう終わった。予測していたことでした。

 でも、予測できてなかったこともある。それは、春樹君がいなくなってしまった後の、自分の毎日の空虚さでした。いなくなって初めて、春樹君と会っていた時間がどれだけ自分を慰めていたのか実感しました。


 久しぶりに連絡が来て、スペイン料理を食べた時、最後になるってわかってた。長い間わたしに付き合ってくれた春樹君のために、春樹君の好きな静香さんをきちんと演じ切ろうと思ってました。彼と改札の前で分かれて背を向けた時、最後まで演じ切って役目を果たしたとほっとすると同時に、強烈な感情が襲いました。


 自分も普通の女の人のように愛されたい。

 毎日自分の家に帰ってくる男の人がほしい。


 彼に背を向けて一歩一歩遠ざかって行く時に、涙が出てしまったのはそのせいで、でも、それを彼に見せるつもりなんてなかった。気持ちに気づかないふりをして甘え続けたのは卑怯でした。これ以上、彼を混乱させるつもりなんてなかったんです。

 それなのに、彼はなぜかわたしを追いかけて来て、そして、わたしは泣いているのを見られてしまった。


 その日からしばらくすると、春樹君から電話がかかってきた。その時、結局自分は彼を混乱させてると思った。でも、この電話に出ないで、そして、時間が経てば、彼にはきっともっと彼に相応しい女の人が現れるだろう。自分の役割は今ここでじっとおとなしく身を潜めることです。彼が2度と訪ねて来なくなるまで。


 その孤独な自分の情景は、あまりにも寒々しくて、自分の芯を冷やしました。もちろんその情景には秀は入り込んでこない。あの人はそういう男ではない。所有欲はあるけれど、自分を誰にも与えない男。大体、奥さんがいる人ですから。

 きっと、自分は10年か20年後、ぞっとするほど醜い女になっているに違いない。孤独という波に洗われて、皺だらけになって。絶対に会いたくない。春樹君には2度と会いたくない。将来どこかで再会しようと約束したけど、惨めな自分を見せたくありません。


 落ち込んで、でも、同じような日々が始まると、少しずつ自分を取り戻した。どうかしてた。きっとやってける。だってわたしは強いじゃない。


 そんなある日にカウンセリングルームのドアを開けると、新規のクライアントのフリして嘘ついた春樹君が、入り込んでた。


 あの日、後から思った。あの子、久しぶりに高校生に戻ったみたい。悪戯っ子の頃に。最近、落ち着いたと思ってたのに。本当にちゃっかりしてるというか、なんというか……。あの、慌てて赤い顔して謝り出した春樹君の顔、思い出した。先生に怒られてる時みたいな顔。


 思い出して笑った。ひとりで。家で。

 温かい気持ちになりました。


 そして、変わってしまったんです。わたしは。


 言うならばあの日、あの、春樹君がわたしに好きだと言った日に、彼はわたしの中に何かを残していってしまった。なんとなくそれが温かくて、でも、わたしはその温かいものと普通に生活をしていました。春樹君に電話しようとか具体的なことは別に考えずに、でも、何度もわたしを好きだと言った彼の顔が思い出されて、絶対に消えない。


 不思議でした。春樹君がわたしのことを好きなのは、なんとなくわかっていたはずなのに、口に出して言われると、それを受ける自分というのが、予測不能だったんだってこと。自分が指揮してたはずのオーケストラが、気づくとタクトを奪われていて、勝手に何か演奏し始めた。でも、そこで奏でられる曲は、明るくて甘い。自分にこんな優しい曲が奏でられるなんて、今日の今日まで知りませんでした。


 わたしにだって、わたしにだって、もしかしたら、諦める必要なんてなくて、お日様のようにきらきらしたものが手に入れられるって信じてもいいのかもしれない。だって、わたしが子供の頃から欲しかったのは、ただ、それだけ。


 少しずつ積み重なっていく、希望の塔のようなものがわたしの心の中にあって。それは、もろいものだった。大切にしないと、崩れてしまう。だけど、自分にとっては間違えなくかけがえのないものでした。


 そんなある日、1人で家にいる時に秀から電話がかかってきた。わたしが怒ってバッグをぶつけて、彼が出てった。あの日以来でした。この時だけは、秀が悪魔のように思えた。電話に出なければ、秀は勝手に家に来る。鍵を持ってるから入り込んでくる。


「もしもし」

「静香?」


 でも、電話に出て、来るなと言っても来る。今までそうだった。自分が会いたい時は、相手の都合は聞かない。相手が会いたいかどうかは関係ない。


「今から行くから。なんか欲しいものとかある?買ってくけど」

「……」


 何かいいことがあったんだと思う。声が弾んでいた。


「ごめん」

「なに?どうした?」

「来ないで」

「え?生理かなんかなの?」


 秀はまだ、機嫌が良かった。そして、いつものように単純で、デリカシーがない。

 わたしはなんてお人好しなんだろう?この無責任な男が、この時少し可哀想だと思うなんて。腐れ縁。この人とも随分長い付き合いなので。


「会えない。もう。今日だけじゃなくて」

「え?何言ってんの?突然」

「とにかく、来ないで。ごめん」

「また、いつものあれだろ?お前に定期的に訪れるやつ」

「……」


 秀の上機嫌だった声色が変わった。


「とにかく行くから」


 電話が切れた。秀が来ると言ったら、来る。そして、必ずわたしを抱くだろう。自分のものだと確かめるために。そうすると、わたしの中にある脆い塔が壊れてしまう。


 強く来るなと言えない自分が結局はダメなのだと思いながら、でも、気が付いた。2度と秀に抱かれたくない。指一本触れて欲しくない。何度も寝た仲なのに、どうしてこんなに激しく拒絶するのかわからない。でも、嫌なものは嫌だった。


 それからのわたしは、たしかに少しおかしかった。

 旅行用のスーツケースを引きずり出して、当面の生活に必要なものを片っ端から入れていく。そして、逃げ出した。自分の家と、男から。


 駅で電車に乗ってから、思う。まるでDVの夫から逃げ出す妻のようだ。ただ、秀のために言っておくけど、確かに強引な人だけど、女を殴る人ではないし、わたしが本気でやめろと言ったら、わたしを無理矢理抱くような男でもない。


 電車の座席に揺られながら、スーツケースの取っ手のあたりについた引っ掻き傷を見るともなしに見る。


 電車が揺れる。


 わたしが結局は断れないんだ。不安そうな顔して駆けつけてくる秀の顔を見たら、結局は許してしまう。許したらまた、今までの自分を繰り返す。わたしはだから、自分から逃げ出した。いくら不倫とはいえ、憎しみあいながら一緒にいたわけじゃない。きちんと話もせずに逃げ出すなんて、ひどい仕打ちだってわかってる。わかってるけど、こんな子供じみた方法でしか拒絶できない。人はいつもここぞという場面では幼稚なものだ。

 たどりついた部屋を開けて、ぐちゃぐちゃな様子とわたしがいないのを秀はもう見ただろうか?その時、携帯が震えた。見なかった。見なかったけど、きっと秀だと思う。


 あの人は、わたしになにかを与えることのできる男ではないのだから、今、空っぽの部屋に佇む様子なんかを思い浮かべる必要なんてない。そうは思っても、その像は消えなかった。そして、2人の思い出のよかったことだけが次から次へと思い出されてくる。きっと今、秀は、今度という今度は冗談じゃないのだと思い知っただろう。


 こんなときザマアミロと思えるほうがどれだけ楽だろう?最悪の気分になった。男を傷つけてばかりいる女。確かに秀は奥さんがいるだけじゃなく、わたし以外にも女がいるどうしようもない男だけど、だけどその場面、場面では優しかった。会いたい時に会える人ではなかったけど、一緒にいる時はいつも楽しませてくれて、元気をくれた。今日もきっとふとわたしのことを思い出して、わくわくしながら電話してきたはずだ。子供みたいに無邪気なところがあって。あの人……。


 そして、電車が目的の駅に着いて、わたしはスーツケースを引きずりながら、ホームにおりる。葛西。来てしまった。衝動的に飛び出して、そして、病人のようにふらふらと。


 ポケットの携帯が震え出した。出して、画面を見た。秀だった。

 この人が、電話をかけて相手が出なかったとき、2回も、3回も、電話をかけるのは珍しい。出ずに、でも、ずっと画面を見ていた。切れるまで。神谷秀という名前を見てました。


 電話が切れて、それからわたしは歩き出した。とりあえず、どこかお店に入って落ち着こうと。改札を抜けて、右へ進む。駅前を見渡すと、ビルの2階にファミレスを見つけた。スーツケースを引きずってそこまでいくと、エレベーターが見当たらなくて、スーツケース抱えて階段を上る。その時、わたしは一体なにをしてるのだろう?とちょっと思った。深夜にこんなところで。


 ファミレスに入って、コーヒーを頼んで席に落ち着いた。コーヒーを飲んだら、秀に電話をかけて謝った後、家に帰ろうかと思った。そして、秀が機嫌を損ねていなければ仲直りすればよい。そこまで考えて、でも、秀の腕に抱かれてる自分の様子がこれっぽっちも頭に浮かばなかった。もうやっぱりだめなんだと思いました。秀が可哀想だという気持ちは溢れるほどにあるけど、抱かれたいという気持ちがこれっぽっちもない。突然終わってしまっていた。わたしの中の秀に関するものが。


 携帯を出して、テーブルに置く。連絡先から、ひとつ探し出す。


 上条春樹


 さっき、秀の名前を眺めたみたいに、春樹君の名前をしばらく眺めました。


「どうかしてる」


 思わず1人でつぶやいた。突然、夜中に電話かかってきて、それで、今あなたの家の近くにいますといわれたら、春樹君、なんていうかしら?思いつかなかった。聞いてみたくなった。どうしても。そして、秀のことを思って、ふさいでた気持ちが軽くなった。

 えいっ、わたしはボタンを押した。彼は2、3コールですぐに出た。


「もしもし?静香さん?」


 驚きと喜びの混じった春樹君の声を聞いた時に、不安でたまらなかった気持ちが消えた。


「春樹君、助けて」

「え、なに?どうしたの?いま、どこ?」

「葛西の駅前のファミレス」

「うちの近くにいるの?」


 びっくりしてた。


「すみません」

「いや、謝んないでもいいけど。なにがあったの?ああ、まぁ、いいや。すぐ行くから。そこ、動いちゃだめだよ」


 電話が切れて彼が現れるまでの間、わたしは今までに感じたことがないくらい幸せでした。電話をかければ自分を迎えに来てくれる人がいるというのは、なんていいものなんだろう。

 そしてしばらくするとジーンズにパーカー引っかけた春樹君がお店に入ってきて、お店を見渡した。そして、わたしを見つけて近寄ってきた。真向かいに座って、スーツケース見てる。


「出張?」

「家出」

 

 ぽかんとした。春樹君。


「1人暮らしの自分の家を出るのは家出とは言わないんじゃ……」

「でも、出たの」

「なんで?」


 しまった。なんて説明するか考えておけばよかった。


「男の人が来るから」

「男の人?」

「うん」


 意味が通じてないに違いない。支離滅裂。


「その……、付き合ってる人」

「彼氏?」

「いや、彼氏ではない」

「……」


 不可解な顔された。でも、春樹君は細かいことは気にしないことにしたらしい。気を取り直して会話を再開した。


「その男の人が来るからって、なんで静香さんが家を出るの?」

「別れたいの」

「はぁ」


 少し恐る恐ると聞かれた。


「別れたいって言えばいいんじゃないの?」

「顔見てると言えなくなっちゃうのよ」

「それってまだ、好きなんじゃないの?」


 顔あげて、春樹君の顔見た。


「好きじゃない」


 春樹君はしばらく黙って、わたしを見た後に言った。


「じゃあ、家にあげなきゃいいじゃない」

「うちの鍵持ってるんだもん」

「それで、自分の家なのに逃げ出してきたの?」

「うん」


 春樹君、笑い出した。


「おかしい……、ていうか、大人気ない。ちょっと可哀想、その人」

「もう、笑い事じゃないの」

「で、俺に助けてって、何をしたらいいの?」

「今晩、泊まるところがないの」

「うちに泊まりたいの?」

「……うん」

「いいよ。じゃ、もう遅いし、行こう」

「そんな、あっさり許しちゃうの?」


 彼は早々に立ち上がって、わたしのスーツケースに手をかけてる。わたしは、自分から言い出しといてなんだけど、席に座ったままコーヒーカップに両手かけたまま、下から春樹君の顔見上げた。


「他の人なら絶対だめ。静香さんはいいよ。特別だから」


 そう言って笑った。励まされた。その笑顔に。


「それ、まだ、残ってるの?さっさと飲んで」


そして、テーブルの上のレシート持つと、わたしを待たずにレジへ行ってしまう。わたしはコーヒーを慌てて飲んで、バッグを肩にかけて、彼の背中を追った。さっき1人で不安な気持ちでカバン抱えて上った階段を、春樹君がかばん抱えて降りるのを見ながら降りる。下まで降りきると、春樹君がわたしに向かって片手を差し出した。


「今日の静香さんは捕まえてないとどっか行っちゃいそう」


 わたしが手を伸ばすと彼が捕まえて嬉しそうに、そして、ちょっとだけ恥ずかしそうにした。わたしの手より大きくて、少し硬くて、男の人の手に捕まって歩く。確かにこの日、わたしは子供のようでした。1人では、男の人と別れることのできない女でした。1日のうちに男から男に梯子するという、趣味の悪いことをした。

 でも、ごめんなさい。幸せでした。この人に電話してよかったと思った。


「あの、ごめんなさい。夜、遅くに突然」


 春樹君が笑った。


「静香さん、それは今日、一番最初に言うセリフだから」

「今更か」

「今更だね」


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