4 小春日和
4 小春日和
上条春樹 26歳
上条暎万 22歳
春樹
「お兄ちゃん、これで荷物全部?」
「ああ」
「なんか結構、荷物少ないな〜」
妹はそういうと、ててっと部屋の奥へと行くと、ベランダに続く引き戸を開けた。
「ああ〜、いい夕焼け。眺めいいね。ここ」
「寒いから閉めろよ」
「小春日和だよ。今日は。それに、荷物開けたり、掃除したり、窓開けて埃を出したほうがいいよ」
ま、それもそうかと思う。
「あとは俺がやるからお前、帰れよ」
「なに言ってんのよ。いきなり部屋に一人になったら寂しいよ。お兄ちゃんも」
そう言って妹は手近な段ボールのガムテープを剥がし始めた。
「こんな時手伝えって言ったら、それこそ、わんさか女が集まるんじゃないの?声かけなかったの?」
「んなことするわけないだろ」
一人暮らしを始めることは、家族以外に職場にしか教えていない。自分の巣を荒らされるのは好きではない。妹が開けた段ボールは本の入ったものだった。
「仕事関係の本ばっか」
「まぁな」
暎万は雑巾を絞って、この前買って組み立てたばかりの本棚を拭き始めた。
「新しく買わないで、家の本棚持ってきちゃえばよかったのに。お兄ちゃん、まだ見習いみたいなもんで、給料安いんでしょ?」
誰に似たのか、妹は結構ズケズケとした物言いをする。それが、一般的な基準と少しずれているという自覚があるのか疑わしい。
「男にあんま、給料の話すんなよ。暎万」
怒ってというより、妹の会話センスを心配して言っておく。それから、自分の手前にあった段ボールを開けた。服が出てきた。とりあえず寝室に運びながら、妹に向かって言う。
「母さんが寂しがるだろ?俺の部屋が空っぽになると」
暎万がはははと笑う。
「わたしが出づらくなっちゃったよ。もう」
「え?お前、出る予定とかあんの?」
慌ててリビングに戻った。彼氏と同棲するとか言い出すのだろうか……。どうでもいいけど、この前まで彼氏のかの字もなかったくせに、展開が早すぎるぞ。
暎万はじっと俺の顔を見る。
「出るわけないじゃん。わたしはこのお江戸で一人暮らしできるほどの所得なんかありません。大体、自宅暮らしほど便利なものはないのに、なんでわざわざ?将来の話だよ。将来の」
同棲のどの字もないな。やっぱり妹は妹。そんな突然、別人のようにはならないか。
「それにしてもさ、お母さんが寂しがるんだから、もうちょっと近いとこにすればよかったのに、なんで葛西なの?」
「別に全然近いじゃん。知らない?暎万。葛西って父さんと母さんが結婚して一番最初に住んでた街だよ」
妹はぽかんとした。
「そうなの?お父さんとお母さんって最初っから、おじいちゃんとおばあちゃんと一緒に暮らしてたんじゃないの?」
「俺が生まれるのに合わせて同居開始したんだよ。だから、二人の始まりの街なの。それがちょっと面白いと思ってさ。同じ街に住んでみようかなって」
「自由だな〜」
「自由だね」
暎万はすっかり手を止めて、これまた新しい椅子に座って休んでる。
「時々、遊びに来ていい?」
「来る前にちゃんと前もって言えよ」
暎万がさっき拭いていた棚の端っこから本を並べていく。
「女の人とバッティングするか」
「仕事を持ち帰ってるからだよ。自分の巣に女は入れないから」
暎万が眉間に皺を寄せた。
「なんだよ」
「お兄ちゃんにもそういう人がいたら、心配しないのに」
「は?」
暎万は返事をせずについと立つと洗面所の方へ行ってしまった。背中を見ながら、ちょっと呆然とする。初めてかもしれない。暎万に心配されてしまった。しばらくすると、戻って来てニコニコしている。
「寂しくなったらいつでも呼んでね」
「……」
一瞬なんて言い返してやろうかと思って、でも、妹の笑顔を見ているうちにふっと笑ってしまった。
「なに?」
「いや、別に」
「冗談じゃなくて、本気だよ。呼ばれたらちゃんと来るから」
「大丈夫だよ。子供じゃないんだから」
自分で気づいてないんだろうな。暎万は短い間に変わった。多分、自分が幸せだからなのだろう。幸せになると、周りの人にも幸せになってもらいたいものなのだと思う。
妹は結局、その日の夕ご飯まで一緒に食べてから帰って行った。
社会人になってからもう少しで3年目になる初春。
俺は長年住んだ実家を出て一人暮らしを始めることにした。
去年は妹の暎万にいろいろあった。妹には昔から男を避ける傾向があって、そのことで静香さんに時々相談に乗ってもらっていた。ほら、彼女はカウンセラーだから。暎万のことは昔から何かと気にかけてきたと思う。手助けしてやらないと心配なところがあって……。特に恋愛しようとしないところ。
暎万のことを相談していたはずなのに……。なんでだろうな?兄弟というのは密接に繋がっているものらしい。暎万の問題という、例えるなら地中に埋まっていた長い芋を引き抜く時に、その芋には自分も繋がっていて、静香さんに手伝ってもらって暎万を引っこ抜くはずが、自分も抜けてしまった。
その時に言われた。
もうそろそろ、自分のことを考えたほうがいい。
自分のこと?
何を考えろというのか?だっていつも手助けが必要なのは暎万の方で、俺には何も問題なんてない。俺は心配なんてされたことないぞ。
いや、あった。
ありました。
年上の綺麗な人。口は悪いけれど、俺が会いたい時にはいつも受け入れてくれた。
そして、いつもある一定の距離から、俺の話をきちんと聞いて、一つか二つ、言葉をくれた。
決して俺に触れることはなかったけれど、心配してくれた。こんなに長い間、心配してくれた。
静香さん
彼女にはずっと俺が見えていた。自分自身にすら見えていなかった俺の姿。
そう、暎万はずっと恋愛しようとせずに生きてきた。でも、恋愛をしようとせずに、心を開かずに生きてきたのは暎万だけではない。
それは自分も同じだった。
何もなかったわけではない。でも、まともに彼女と呼べるような女がいたことなんてない。どんな女がいても、心から惹かれたことなんて一度もなかった。ただ1人を除いては。
唯一、心が開けると思えた相手、静香さんには驚くほどに自分は臆病だった。
最初はただの好奇心。どうしても先へ行きたくて。そして、人は深みにはまっていく。気づけば引き返せないほどの深みに。会う回数が重なるたびに少しずつ自分の中にあの人に対する想いが積み重なっていく。少しずつ大きくなる、それは、彼女を求める自分の行き場のない想いでした。
本当はどこかでわかっていたんだと思う。自分が問題を抱えていて、年齢を追うごとにそれが深刻になっていくことに。自分が追い詰められてきていることに。
だけど、そんな自分を見たくなかった。彼女のことが好きで欲しいけれど、一言も言えない自分。そう、自分は、本当に欲しいものがある時に、それを欲しいと言えない人間。
もうそろそろ、自分のことを考えたほうがいい
暎万の問題にのめり込もうとする俺に彼女が放った言葉
それは曖昧に誤魔化し隠してきた俺の気持ちをも含めて、自分のさまざまな弱さを日のもとに曝け出し、そして、俺を深く傷つけた。
彼女は俺をひどく傷つけた。
昔から、それこそ、幼稚園の頃からといってもいいかな?女の子にモテてきた。ひとえに顔形のせい。
自分という人間は、クリスマスとかにプレゼントコーナーで綺麗な包装紙に包まれて、目玉の売り場に並べられて、売られている商品のようだ。
みんな、その、包装紙に騙される。
俺は別に特別な人間じゃない。中身は普通だと思う。劣っているとは思わないけれど、さりとて、なにか人並み以上に優れたものを持っているとは思えない。
才能とか、個性とか、そういうものがない。
顔形が整っているよりも、人にはないような才能を持っていたり、自分のやりたいことがはっきりわかっていて、それに一生懸命になれるやつのほうが、どれだけかっこいいか。
俺は見かけだけ。包装紙を剥いでしまったらがっかりされるような人間。外側が派手なだけに中身を期待されて、そして、がっかりされるような人間なんだ。だから、誰の前でもそれを脱がない。
誰もそんな本当の自分を見ようとしてくれない。そして、勝手に俺に期待して寄って来る。疎ましかった。みんな。
静香さんにはその本当の俺が見えていた。
でも、わがままなようだけど、それが見えているということを、言わないでほしかった。
俺が誰にも見せまいとしているものを、見ないでほしかった。
自分は何も見せずに、何もさらさないくせに。
何もかも見られて、二人のバランスを崩してしまって、もう前のようには二人で会えない。
とうとう失ってしまった。
出会ったその日から、自分のものになるなんて、一度も思えなかった女性。
暎万が帰って行った後にシャワーを浴びて、部屋着でリビングのソファーに座る。静かだなと思う。一人の家ってこんな静かなんだ。同じ家に人がいると、部屋にこもって仕事していても気配もあるし、何かしら音がするものだ。ずっとそういう環境で暮らしてきた。そういえば自分は一人になったことがなかった。
音がほしくなって、テレビをつけた。深夜のニュースをやってる局を選んで、キャスターがたんたんとニュースを読み上げる画面を見るとはなしに見る。でも、ニュースは頭に入ってこない。
自分のことを考えたほうがいいと言った彼女になんでそんなこと言うのかと聞いた。
彼女はこう言った。
あなたのことが心配なのよ
静香さんはどういうつもりであんなことを言ったのだろう?静香さんにとって俺ってどういう存在だったんだろう?
軽く目をつぶった。ニュースキャスターの声が聴こえる。
静香さんにいろいろ言われて、心の中にずかずかと踏み込まれて、俺は一度彼女から逃げ出した。だけど、あの時の暎万には静香さんの助けが必要で……。もう一度連絡して、顔を合わせた。
静香さんのアドバイスを受けた暎万は、自分の中の何かを乗り越えたのだろう。初めて彼氏ができた。それが初秋のこと。会ってお礼を言わなくてはと思いながら、いつの間にか年を越してしまい、そして、自分は家を出た。
指を折って数えてみる。小指まで折って引き返す。馬鹿げたことしてる。わざわざそんなことしなくたって覚えている。
8年。出会ってから8年経った。
キャスターがちょこんとお辞儀をして、カメラが後方に引く。ニュースが終わってしまった。テレビを消して、リビングの電気を消した。