2 若者らしい悩み
2 若者らしい悩み
春樹
「ただいまー」
「おかえり」
とある夜、家へ帰るといつものようにテレビの前に妹の暎万が転がっている。中学3年生。中高一貫の女子校に通っているのでこっちと違って受験生ではない。気楽なものだ。
ダイニングの椅子に鞄を置いて制服の上着を脱ぎながら、ふとキッチンの方を覗いて気づいた。
「あれ?」
「おかえり」
「珍しいじゃん」
ワイシャツ姿でキッチンに立つ父がいた。
「たまには早く帰してもらわないとね」
「それで、たまに早く帰ってきて何してんの?おばあちゃんは?」
「今日は羽伸ばしてくださいって言ったらおじいちゃん連れて出かけて行ったよ。見たい映画があるって」
そう言いながらニンニクを刻んでる。俺はリビングで寝っ転がっている妹に向かって言った。
「おい、暎万。やることないんだったら、手伝えよ」
「えー、なにー?聞こえなーい」
絶対聞こえないふりしてるだけだ。あいつ。しかも、夕飯前にポテトチップ食べてるし。まぁ、暎万が間食のせいで夕飯を残すのを見たことがない。問題なのは一日の総摂取カロリーの方なのだけれど。
「何作ってるの?手伝うよ」
父は笑った。
「たいしたものじゃないからいいよ。お前こそ受験生なんだから、座ってなさい」
夕飯はあさりのスパゲッティーにサラダだった。
「おいしーい」
エマが喜んだ。
「でも、少なーい」
「お前、さっきポテトチップ食ってたじゃん」
「量の問題じゃなーい。品数が少なくって味のバリエーションがなーい。いつもはもっとおかずが多いのに」
「お前なー」
我が妹ながら呆れる。
「文句言うなら手伝って自分で一品作れよ。何品も作るの大変なんだぞ。」
父は俺たちのやりとりを面白そうに眺めていたが、ポツリと言った。
「そうそう。おばあちゃんはいつも頑張って品数たくさん作ってくれるけど、大変なんだぞ。お前たち感謝しろよ。当たり前の事じゃないんだから」
怒ってるわけでも説教じみた口調でもない。淡々と話してた。
「春樹、勉強順調か?」
「今のところ、まぁ、大丈夫、かな?」
「志望校とか、学部は大体決めたって言ってたけど、迷っていることとかないのか?」
「う〜ん」
話してる俺たちをじっと見ながら、暎万がそっと俺の皿からアサリをさらった。
「暎万、見えてるぞ。」
「足りないなら、お父さんのをあげるから、お兄ちゃんから取るのはやめなさい」
「足りないっていうか、久しぶりにお父さんのスパゲッティー食べたらあれも食べたくなっちゃった」
「何?」
「カルボナーラ」
「だめだ。生クリームないし」
「え〜。じゃあナポリタンは?あれに粉チーズどばっとかけて食べたい」
「ダメだ」
「なんで?ベーコンと玉ねぎあったし、ピーマンもあったと思うけど」
父はため息をついた。
「たまには粗食というか、まぁ、これで粗食とは言えないと思うけど……。毎日のようにパーティーみたいに食べるのはやめなさい。そういう癖つけると、将来病気になるぞ」
「え〜。食べるために生きているのに?」
いや、生物は生きるために食べているはずだ。暎万の世界では、風は逆に吹いている。
「今度作ったげるから、休みの日に」
「ほんと?」
暎万の目がキラキラした。
「約束だよ」
「わかった、わかった。だから、今日はこれで我慢しなさい」
父は自分の皿を差し出した。食事を取られてニコニコしている。
「父さんが、ダイエットしているみたいじゃん」
「だって、お父さんの料理久しぶりなんだもん」
暎万は皿を抱えたままで俺に歯向かう。
「春樹、いいから」
父がとりなした。
食後に皿まで洗おうとするのを止めさせて、自分が台所に立った。暎万を説得する労力よりも直接洗ってしまった方が楽だ。父はキッチンで俺の横に立って、俺の手つきを見ている。
「春樹は器用だな。何でもできる」
思わずぶっと笑った。
「よく言うよ。自分の方が男のくせに何でもできるくせに」
父は料理以外の家事も一通りできる。
「そりゃ、父さんは他にやってくれる人がいなかったからな」
父は母1人子1人の母子家庭で育った。学生の頃は勉強の傍ら、働いている母親の代わりに家事をしていた人だ。
「ねぇ、父さん」
「ん?」
「父さんって、おばあちゃんに気を使ってるの?」
「は?」
父はしばらくぽかんとした後に笑い出した。
「何を言い出すかと思ったら」
「だって疲れて帰ってきてんのに、わざわざ台所立ってるの見たら、気を使ってるのかなとも思うよ」
我が家は母方の祖父母と同居している。父はいわばサザエさんのマスオさんのような立場なのだ。
「まぁ、そうだなぁ。気を使ってんだろうな。でもな、春樹、おばあちゃんが上手だからみんな気づかないだけで、おばあちゃんだって父さんに気を使ってるぞ」
「え?」
「みんなに気づかれないようにみんなのためにいろいろ気を使ってくれてる。おばあちゃんがいるから、みんな居心地良く暮らせるんだ。でもさ、主婦って会社員と違って休みがないじゃない。年中無休なんだよ。だから、たまにはさ、休ませてあげないと」
「うん」
「だから、気を使うというか、ありがとうの気持ちかな?」
「……」
そういう風には考えられていなかった。祖母がしてくれることが当たり前になりすぎてて。
「ま、それにしても子供って知らぬ間にいろいろ考えてるもんなんだな。お前は、まぁ、もう子供とは言えないけどさ」
父はそういうと冷蔵庫から缶ビールを取り出した。
「飲むの?」
「なんとなく飲みたくなったな」
プルトップを開けるとテーブルに座って缶のまま飲んでいる。俺は洗った食器を乾燥機に入れてスイッチを押すと、ビールを飲んでいる父の横に座った。
「ねぇ、父さん」
「なんだ?」
「今の仕事ってどうやって決めたの?」
父はちょっときょとんとした。
「なんで急にそんなこと聞くんだ?」
「自分の参考にしたくて」
「参考って、弁護士になりたいって言ってたの、迷ってるのか?」
「迷ってるってほどでもないんだけどさ」
父は苦笑いした。
「でも悪いけど父さんのは参考にならないなぁ」
「なんで?」
そう言うと遠い目をした。
「若い頃一時期自暴自棄になっていたことがあって……。その頃がちょうど仕事を決める時期だったからな。成行で今の会社入ったようなものだから」
「父さんが?」
驚いた。自暴自棄というのと父が結びつかない。自分の知っている父はいつも安定していた。自由奔放な母を支える、独楽の軸のような人なのに。
「人って時間とともに変わるものだと思うよ。もっとも変わらない部分もあるんだろうけどね」
18年間の自分の経験からでは実感できないことだった。
「それで?何に迷ってるの?」
「うん……」
暎万はお風呂に入ってる。祖父母はまだ帰ってきてなくて、母は海外にいる。家の中は静かだった。
「春樹は法学部行って、司法試験目指すんだろう?すごいなぁ」
無邪気と言ってもいいような笑顔だった。
「父さん、目指すだけじゃすごいって言えないよ。受からなきゃ」
「お前は大丈夫だよ。努力家だから」
そう言われて嬉しかった。
「でも、本当になりたいのか分からなくなっちゃったのか?」
俺は首を傾げた。
「向いてるのかなと思うし、なれれば社会的ステータスも高い職業だし……」
「うん」
「だけどさ、そう言うので職業って決めちゃっていいのかな?といっても、じゃあ他に俺にはこれしかないっていう生きがいとか目標みたいなの、俺にはないんだけど」
自分は無我夢中になったことがない。
「人生で偉大な事をやり遂げる人ってもっと、はっきりした目標を持ってるものじゃない。俺にはそういうのなくて。ないまま将来のこととか決めちゃっていいのかなって思って」
「うん」
「それともそのうち生きていたら、俺にもこれしかないっていう生きがいみたいなの、できるのかな?」
父は、灯りが仄暗くついたリビングダイニングの席で柔らかく笑った。自分とよく似た顔の、その目元の皺を見るとはなしに見た。
「真面目に話してんだけど」
「いや、ごめん。春樹でもそういう若者らしいことで悩むんだなって思って」
「俺がじじくさいってこと?」
「いや、違うな。論理的?悪い言い方すれば冷めてる?」
ため息が出た。
「あんまり人には言わないけど、俺、自分の冷めてるとこって好きじゃない。熱くなれる奴見てると羨ましいって思うことがある」
「春樹が?」
父が目を丸くした。
「熱いふりするのと本当に熱いのは違うでしょ?だから、無理に自分を変えようとは思わないけどさ」
「そうか」
頬杖つきながらまるで初めて会った人を見るように人の顔をじろじろ見た。
「まぁ、でも、悩んで得る答えというのも大切なんだけどさ」
「うん」
「悩んでる行為自体が大切なんだと思うよ」
「つまりは、答えは教えられないってこと?」
父は笑った。
「春樹の答えは春樹の中にしかないし、それに悩むという過程を通して人は成長するものだからさ」
もっともらしいことを言っている。俺は矛先を変えた。
「ねぇ、父さんの生きがいって何?」
「なんだ。自分のが教えてもらえないって知ったら人のを聞くのか」
父はちょっと目を丸くした。
「お前は本当に要領が良いなぁ」
「いいじゃん。教えてよ」
「教えるのはやぶさかではないんだけどさ。この年齢で感じていることをそのまま言うと、お前の人生を変に限定しそうで怖いな」
そう言いながらしばらく考えている。父の答えを待つ間のその沈黙が心地よかった。2人には少し広すぎるリビングに落ちる沈黙が。
「父さんもさ、若い頃には自分の世の中での価値みたいなものについてそれなりに悩んだかな」
「うん」
「でも、自分の価値をね、人に決めさせてはいけないのだと思うよ」
「え?」
「自分の生きがいと言うのは人が決めるものじゃなくて、自分で決めるものなんだ。そこさえ間違えなければきっと最後にはたどりつく」
「抽象的すぎるよ」
「だめか」
父はもう一度考える。俺のために言葉を選ぶ。
「人の真似をしちゃいけないってことかな。人は一人一人違うんだからさ。生きがいっていうのも一人一人違うんだよ。それを人と比べちゃいけない」
「人と?」
「これはかなり強くなければできないと思うけどね。誰もがビルゲイツである必要もスティーブ・ジョブズである必要もないんだ。春樹は春樹なんだから」
「ああ……」
父の言葉を頭の中で反芻する。
「つまりはスティーブ・ジョブズと自分を比べるなと言うこと?」
「まぁ、簡単に言うとそういうことになるな」
俺はまゆをしかめた。
「わかったような、分からないような」
「当たり前だ。父さんがこの歳まで毎日コツコツ生きてきてやっと分かった事を18歳のお前に簡単にわかられてたまるか」
父はそう言って残りのビールを飲んだ。