昔のおままごとを引きずり続ける幼馴染が何度注意しても「ご主人様」呼びをやめてくれない
当時、リリーは日本にやってきたばかりで、まだ日本語がおぼつかないところがあった。
遠い親戚だというおれ以外には頼れる相手もおらず、いつもおれの後ろをとてとて着いてきて人形みたいな顔でジッと見つめるのだ。
金髪碧眼に綺麗な肌。ザ、西洋人みたいな見た目で、つまり、リリーは可愛かった。おれみたいなヤンチャ小学生ですらその輝きに魅了されるくらいには。
そんなリリーが、親鳥に甘える生まれたての雛みたいにくっついてくる。
おれは、分かりやすく調子に乗った。
リリーの面倒を見てやっているのだ、という意識も強かった。
リリーの好きなおままごと遊びも、わんぱく小僧だったおれにとっては面白いものではなく、であれば、どうせならおれの好きなようにやらせろ、と強気に出た。
言った。
「リリー、おれのことはご主人様と呼べ!」
言ってしまった。
人生最大の失敗である。
「ごしゅじん、さま……」
感情の薄い顔でリリーが繰り返す。
「そうだ。これからはご主人様だ。分かったな?」
「うん……ごしゅじんさま」
こうなればおままごとも立派なロールプレイングである。
好きな漫画の必殺技を真似するように、棒切れの剣で世界を救う勇者になるように、おれはリリーのご主人様になった。
なってしまった。
「ずっとだぞ!学校でも、ご飯食べてる時でも、これからずっとずっとだぞ!」
「うん……!」
自ら華麗に退路を塞ぐ愚か者のおれを、どうか誰か殴り飛ばしてやってほしい。
この時のおれは、まさか十年後も二十年後も、リリーにご主人様と呼ばれ続けることなど、一片たりとも想像していなかったのである。
そんなわけで、二年後だ。
小学校も高学年になると、自意識みたいなものが如実に芽生えてくる。女子はおしゃれに興味を持ち始めるし、男子はみなで集ってカードゲームに興じたりなんかして。
そんな中でやはり、リリーの存在はとりわけ目立っていた。
『どうしてリリーちゃんは髪の色が違うの?』
この頃になるとリリーもだいぶ日本語を喋れるようになっていたが、そもそも自己主張が苦手だったせいか、おれ以外のやつらとはなかなか仲良くなれないでいた。
「お前さ、おれ以外に友だち作らねーの?」
「友……だち……?」
「そう、友だち」
「初めて聞く日本語」
「嘘つくの上手くなったなお前!」
「えへへ」
「褒めてないからな?」
「……でも、わたし、友だちいない」
「ぐぁっ」
「ご主人様は、ご主人様。友だちじゃない」
「だから、その呼び方やめてくれって……」
そんなある日、クラスの男子がリリーにちょっかいをかけているのを見つけた。
複数人でリリーを取り囲み、にやにやしながらその容姿を揶揄していた。みんなと髪の色が違うこと、目の色が違うこと、背が小さいこと、日本語を喋らないこと。
リリーは、黙っていた。
おれと喋るときみたいな柔らかい笑顔も消して、口もむっつりつぐんで、ただ、泣きそうな顔で時が過ぎるのを待っていた。
おれはブチ切れた。
その集団にむけて猛然と飛び蹴りをかました。開戦の合図である。
「ってて……。あの野郎、次会ったらぜってえぶちのめす」
顔にできた擦り傷を抑えながら戻ると、すぐにリリーが駆け寄ってきた。
「ご、ごしゅ、ごしゅ、ごしゅっ」
「愉快な呼吸だな」
ハンカチで涙を拭ってやる。
「うぅ〜〜〜!」
「なに泣いてんだよ」
助けただろ。お前は傷ついてないじゃん。
なんで、泣いてんだよ、お前。
「だって、だってぇ……!」
「あのな、」
これ以上、リリーに泣いてほしくなかった。涙を流してほしくなかった。リリーには笑顔でいてほしかった。可愛くて、無垢な笑顔で、おれの後ろをとてとて着いてきて、意外と饒舌な喋りでおれを安心させてほしかった。
「おれがリリーを守るのは、当たり前だろ」
「なんでぇ……?」
擦り傷が痛かったけど、目の周りにできたアザが痛かったけど、リリーが泣いてるのを見てこっちまで涙が出そうになってしまったけど。
それでも、おれは、震えそうになる声に喝を入れて、力強く魔法の言葉を宣言した。
「おれは、リリーのご主人様だからな」
宣言した。
宣言をしてしまったのである。
バカヤロウ。
そんなこんなを経由しながら、おれとリリーは高校生になる。
同じ高校に進学したおれとリリーは、幸いなことにクラスまで同じになった。
ここまでくればさすがのリリーも社交性みたいなのが身に付いてくる。おれにべったりなのは相変わらずだったが、それでも一応、俺が面倒を見なくてもやっていけるくらいには愛想も良くなっていた。
高校一年。
初めての教室。
周りを見知らぬ同級生たちに囲まれて緊張したが、ホームルームが終わる頃には隣の席のやつらと談笑できるくらいにはなった。
途中から後ろの女子も会話に加わり、和やかな空気が流れ、これならクラスメイトたちと仲良くやっていけそうだな、なんて思っていた時。
リリーがとてとてと近づいてきて、言った。
「ご主人様」
「!?」
「!?」
「!?」
空気が凍った。
『これより一年A組、第一次緊急会議を始めます。全員、着席』
「お前らチームワーク抜群ですね!」
帰り支度を終えていたやつまで席に着いていた。
こ、こうなるから嫌だったんだ……!クラス全員から汚物を見るような目を向けられておれは頭を抱えた。
「まあ待ってほしい。これはみんなの聞き間違いかもしれないよ?」
いかにも秀才げな七三分けの男子が、きらりと光るメガネを押し上げて言う。
「リリーさんはご主人様と言ったんじゃない。例えばそう、ゴブリン様と言ったんじゃないか?」
「あり得るね」
「それは鋭い発想」
「あ〜びっくりした。それなら納得だよ」
「待って?おれの顔ってみんなから見てゴブリンに近いの?」
みんなの視線が集まる中、リリーはぼそりと。
「ご主人様は、ご主人様」
「「「「「ゴミクズ」」」」」
「待ってくれ!誤解だ!」
「ご主人様がそう呼べって」
「うわぁ」「最低」「いたいけな女の子に……」
「違っ!いや合ってるけど!違うんだ!そうじゃないんだ!」
ゴリゴリと社会的信用が失われていく!
おれは慌てて事情を説明した。
「へえ、リリーちゃんとご主人様って親戚なんだ」
ご主人様って呼ぶのやめろや。
「全然血が繋がってるようには見えないけどな」
「まあ、遠い親戚なら似なくて当然でしょ」
「それにしてもリリーちゃん可愛いなぁ。肌とかすべすべだし顔ちっちゃいし」
「高嶺の花って感じだよね」
「ご主人様の方は安値のバナナって感じだけどね」
「リリーちゃん可愛いなぁ」
「待て!今シャープな切れ味でおれの頸動脈掻き切っていったやつ誰だ!?」
いくらなんでも言いすぎだろ!
「でもさ、その呼び方はそろそろ直した方がいいんじゃない?」
「おれもそう言ってるんだけどな」
ちらりとリリーの方を見ると、ものすごく不満そうな顔で、あるいは泣きそうにも見える顔で。
「ご主人様はご主人様だもん」
「ご主人様、最低!いいからご主人様って呼ばせてあげなよ!」
「そうだそうだ!」
「おれの味方はいねえのか!?」
「ならさ、おままごと遊びが発端だっていうなら、その線から矯正していったらどうだい?」と七三分けがメガネを光らせる。
「どういうことだ?」
「他のマシな呼び方にできるんじゃないかってことさ。ご主人様以外にも、いくつか違う役職で遊んだこともあるんだろう?」
「なるほど!」
おままごとはリリーの大好きな遊びだった。ご主人様と呼ばせる前はいろんな役柄に付き合って遊んだのを覚えている。
「リリー、ご主人様以外に、他の呼び方で呼んでみてくれよ」
言うと、リリーは過去の記憶を手繰り寄せるように目をつむって一言。
「おいしゃさま」
「性犯罪者」「ロリコン」「ミスター海綿体」「控えめに言って死ね」「もげろ」
「誤解だ!!!!!」
初日からひどい一悶着がありながらも、高校生活はそんな感じで平穏に過ぎていった。
ところで、招待を送った彼ら全員が結婚式に参加してくれたことは、ありったけの喜びと感謝を込めてここに明記しておきたい。
おれとリリーは高校生活でかけがえのない学友たちと出会うことができた。
高校の三年間が過ぎると、おれたちは大学生になる。ここで、おれとリリーの関係は一つの転機を迎える。
おれが、リリーを好きになった。
今更だけど、初恋だった。
ついでに一つ付け足しておきたい。
リリーと喧嘩をした。
初めてだった。
「あのさ、いつも言ってるけど、やめてくれってそれ」
「むう……」
「むうじゃない。いい加減名前で呼んでくれって言ってるだろ?」
少し前から、こう言った言い合いは表面化するようになっていた。昔なら笑って流せたご主人様呼びに、当時は心が強く乱された。
「ご主人様はご主人様だもん」
「だからさぁ」
あの時、おれはなんて言ったんだっけ。「迷惑だ」とか「二度とご主人様って呼ぶな」とか、そのくらいキツいことは言ったかもしれない。
そんなわけで、拗ねた。リリーが。
唇をへの字に曲げて、二度とこいつなんかと口を効かんと言わんばかりにそっぽを向いた。
おれとしてもここで引き下がるわけにはいかず、涙目で鼻水をすするリリーを無視して大学の課題に手をつけた。
そんな些細なことから始まった冷戦は、わずか数時間で幕を閉じることになる。
リリーの両親からこんな電話が届いたからだ。
『娘が門限の時間になっても帰ってこない』
次の瞬間、おれは夜の街に駆け出していた。
「何してんだよ!」
リリーはすぐに見つかった。
駅のそばの繁華街に立ち尽くす金色の髪の女の子。問題は、その周囲を三人の若者が取り囲んでいることだった。
おれは男たちの間に割り込んだ。
とにかく怖かった。リリーがこのまま消えてしまうんじゃないかって。おれのせいでいなくなっちゃうんじゃないかって。
でも、きっとリリーの方が怖かったはずだ。背なんかまだ中学生に間違われるくらい小さくて、夜の街で大の男に囲まれて平気なはずがなかった。
だからおれは、リリーの手を握った。
「さあ、帰ろう。おじさんもおばさんも心配してる」
「ちょ、ちょ、ちょ。待ってよ兄さーん」
軽薄な声に呼び止められたけど、今はこんなやつらの相手をしたくなかった。ただ、早く二人きりになりたかった。
日常に戻りたかった。
「お二人さんどういう関係なわけ?そもそもさぁ、あんた本当にこの子の知り合い?誘拐なんじゃないのー?」
「うっわロリコンかよー」
ただただ不快だった。
「うるさい。お前らには関係ない」
「えー?ちょっと、お兄さんがくるまでこの子を保護してあげてたのは俺たちなんスけど?感謝してほしいくらいなンだわ」
その時、男の一人がリリーに手を伸ばして、その肩を抱き寄せようとした。
「やめろ!」
反射的にそれを振り払う。
その拍子に、おれの爪が男の腕を一直線に傷つけていた。
「あ」
やばい、と思ったときには手遅れだった。小学生のときみたいにはいかない。男たちの明確な敵意が膨れ上がったのを感じた。
意図しない開戦の合図だった。
大怪我をせずに済んだのは、単にリリーが咄嗟の判断で警察を呼ぶフリをしてくれたからだ。それでも三、四発はもろに食らって、おれはみっともなく地面に座り込んだ。
「う"〜〜〜!あ"〜〜〜!」
「だから、泣きやめってば」
なんで泣いてるんだ、なんて言わない、
おれももう大人になったから、あのときの答えが分かる。
だって、リリーは優しいから。
自分が傷つくことより、自分のせいで誰かが傷つく方が辛いんだ。
「悪い、もっと綺麗に助けられたらよかったんだけど」
「う"〜〜〜〜〜!う"ぇ〜〜〜!」
「ああもう、もうちょっとお淑やかに泣けって」
涙を丁寧に拭ってやる。
「あのさ」
これ以上、リリーに泣いてほしくなかった。涙を流してほしくなかった。リリーには笑顔でいてほしかった。可愛くて、無垢な笑顔で、おれの後ろをとてとて着いてきて、意外と饒舌な喋りでおれを安心させてほしかった。
「これからまた、こういうことがあったとき。それでもおれは、リリーを守りたい」
「なんで……!なんでぇ……っ」
擦り傷が痛かったけど、目の周りにできたアザが痛かったけど、リリーが泣いてるのを見てこっちまで泣きそうになってしまったけど。
それでもおれは、リリーを安心させたくて。
魔法の言葉を。
『おれは、リリーのご主人様だからな』
それでも、それでも、それでも。
この言葉だけは絶対に言いたくなくて。
だから代わりに、こう言った。
「好きだ」
「う"、あ"……」
「おれは、リリーが好きだ。だから、」
言い終わる前に、リリーの小さい体が抱きついてきた。首元に、暖かな涙が染みていく。その体温の暖かさにおれも安心して、小さな頭を優しく抱き寄せる。
「あ"〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!」
「なんで、勢い増しで泣くんだよ!」
「あ"〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!」
とまあ、大学生のときに起きた転機はそんな感じで終わりを迎えた。
結論から言うと、それをきっかけにリリーはおれの名前を呼んでくれるようになった。
大事なことなのでもう一度言わせてほしい。リリーがおれの名前を呼んでくれるようになった。
そういうわけで、あとの物語はほとんど蛇足になる。
もちろん、二人で歩いているところをお巡りさんに誘拐犯と間違われたエピソードや、単五専用の電池ホルダーに単一電池が入らないという当然の事実、それでもなんとか初体験を終えられた話、婚約指輪を用意するために専門店のお姉さんにリリーの指のサイズを伝えたとたん営業スマイルが凍った話、いろいろあるけれど、そこは特に語る必要を感じない。
ただ、おれたちは幸せだってこと。それだけだ。
ああ、一つ忘れていた。
リリーはおれを名前で呼んでくれるようになったけど、夜抱き合っているとき、実家に帰省したとき、みんなを呼んだ結婚式の壇上で、今でもたまにおれを困らせるように「ご主人様」呼びをすることがある。イタズラっぽい笑みを浮かべて。
どうやらこの呼び方は、何度注意してもやめてはくれないらしい。
ただ、それでも、リリーがここまで感情豊かになってくれたことをおれは嬉しく思っている。
『昔のおままごとを引きずり続ける幼馴染が何度注意しても「ご主人様」呼びをやめてくれない』【了】
読了ありがとうございました