<<後編>>
「…まず、一刻も早くこの場を片付けないと」
壁に手をついて、私はゆっくりと立ち上がる。目の前は文字通り血の海が広がっていた。
海の中心に浮かぶように横たわっているケイトに目を向ける。彼女と多くの言葉を交わしたわけではないが、聡い娘だということを会話の中で察せるほどには優秀な生徒だった。将来的に私の研究を継いでくれる存在であったかもしれない、今となっては何もかも終わったことだが。
私がケイトを見つめる中、ルーがその視線を遮るように体を割り込ませてきた。
「これ、どうするの」
「どうするって…バレないように処分するしかないだろう」
「今、食べていい?発達の素、鮮度がいのち」
「…」
ケイトが目の前でなぶられる様を見るのは少し抵抗があったが、別位相生命体の捕食には興味があった。無言で頷く。
私の許可を得たルーはケイトの側に寄るために血溜まりを渡る。血が乾いてきたのか、彼女が足を踏み出す度にネチャッという音が研究室に響いた。
ケイトに辿り着いたルーがしゃがみ、彼女を抱えるように孔跡のある頭を持ち上げる。突然、ルーの肩辺りから肉の槍が生え、ケイトの頭めがけて突き刺さった。槍が脈動する。きっと脳から髄まで取り込んでいるのだろう。なかなか衝撃的な光景だった。
食事が終わったのか、槍が頭から離れて肩に吸い込まれる。槍が生えていた辺りを遠目に確認するが、傷ひとつ見えなかった。
「彼女、美味しい」
ルーがボソッと呟く。
「孤児院のは美味しくなかった。腐ってるのかと思った」
「…そうか」
「ロバート、不味いの寄越したらわかってるよね」
私が意図をはかりかねているのを見て、真顔で恐ろしいことを言う。
「…了解した」
人間を調達するだけでも大変なのに、どうやら美味しい人間を用意しなければならないらしい。美味しい人間って…なんだ?
研究室にあった布という布をかき集めて血溜まりを埋め立てる。吸って赤くなったものをケイトの遺体の入った袋に詰めることを繰り返し、どうにか研究室を元の状態に戻す。
「問題はこれの処分の仕方だな」
部屋の真ん中にある中身の詰まった大きなずだ袋の前で、頭を悩ませる。町外れで燃やすか埋めるか沈めるかする必要があるが、こんなものを一人で運ぶにはあまりに不審すぎる。
運搬方法について考える最中、部屋の隅で暇そうに髪を弄っているルーを見て、あることを思い出す。
「そういえば、ルー。あの触手のようなものってどうやって出し入れしてるんだ?」
「これ?」
彼女の肩から例の肉槍が小さく顔を出した。
「これは元々私の一部、だから出し入れできる」
「なるほど、じゃあこれをどうにかはできないのか…」
空間の理を超越したルーの体なら、このデカブツを取り込んでもらうことができるのではないかと思ったが。
「これを、ルーが持てばいいの?」
私の独り言を聞いていたのか、袋を指差して困り事を尋ねてくる。
「ああ。持つって言っても体の中に一度入れてもらいたいんだが」
「できる」
そう彼女がいうと肩から出した肉槍で器用に袋を手繰り寄せる。そして、一瞬にしてそれは跡形もなく肩に吸い込まれていった。袋が肩に近づいた時に見えた一瞬の歪みに視線がいった時に、何故か強い恐怖心を抱いた。
「…すごいな」
「別に凄くはない。ロバートもその口にモノを詰めること、できるでしょ?それと一緒」
「…」
いや、規模が違いすぎるだろ。
「だからといってずっとこうしておくわけにはいかない。体の居心地が悪いから」
「なるほどな。流石に昼間の今から処分するのは人目が怖い。夜になってから、外れの湖に沈めるとしよう。それまで我慢できるか?」
ルーはいつもの真顔を保ちつつも、どこかめんどくさそうな素振りで頷いた。
その日の夜、ルーと一緒に街の端にある湖まで出向き、遺体を沈めた。浮いてくると困るので岸にある石を可能な限り袋に詰めておいた。昔、子供の頃に聞いた話によると、ここの水深はかなりあるらしい。簡単には見つからないはずだ。それからはルーと一緒に借宿に帰り、一つのベッドで仲良く寝た。
明けない夜はない、というのは本当らしい。夢のような1日を過ごした次の日、目を覚ますと隣にルーが居ることに気づいて昨日の一件が幻でないことを確認する。彼女を揺さぶって起こし、今後一緒に生活するならこの娘の着替え等必要だな、などと考えつつ彼女と共に朝の支度をする。ルーは特別私が話しかけない限り、無言でおとなしい。他に気になる特徴として私がモノを渡して軽く説明するだけでそれを使いこなしてしまうということが何度かあった。こういった場面に遭遇する度にやはり、普通ではないという印象を受けるが、共に生活する上でこれまで致命的な間違いは起きていないということが、私にこの先なんとかなるかもしれないという期待を抱かせる。
アカデミーの書斎で仕事をしていると、扉をノックする音がした。どうぞ、という声をかけるまでもなく扉が開く。
「ロバート=ヴィンス先生、ですね」
扉から入ってきたのは気品のある格好をしたご婦人だった。きらびやかな格好とは逆に疲労の色が見える婦人の顔にどこか見覚えがあった。そして、彼女の顔がケイトに似ていることに気づいて内心驚く。
「私は先生の元に通っていたケイトの、母親でございます。娘がお世話になっております」
「ロバート=ヴィンスです。お世話だなんて、そんな。彼女が来るようになってから僕としても研究が捗ってとても喜んでいたところです。ところで、今日はどんな用件で?」
「実はケイトが昨日ここへ向かうと言ったきり帰ってこないのです。最近街で物騒なことばかり起こっていて、気が気でなくて」
「なるほど。昨日のここの状況については私自身あまり詳しくなくてですね、一度彼女宛に手紙を置きに来ただけなんですよ。ほら、お母様が言われた通りここのところ起きた事件で外に出るのも躊躇われるので…」
「そうでしたか…。ところで、ケイトへの手紙というのは?」
「そこの机の上にあります。昨今の状況を省みて研究室に来るのを控えるよう書きました。封が切られてないところを見ると私がそれを残した後もここには寄っていないようですね…」
私の言葉からケイトの足取りを得られないことを悟ったエヴァンス婦人は、来たときよりも一層顔に悲壮感を漂わせながら別れの挨拶を告げて帰っていった。
「生かしたまま帰してよかったの?」
私のデスクの裏で、捕まえたネズミと遊んでいたルーが声をかけてきた。私は扉の向こうに誰もいないことを調べてから答える。
「エヴァンス婦人のあの装いから察するに彼女は交遊関係が広く、知人が多いと思われる。彼女が失踪することで行動を起こす人も少なくないだろう。ケイトのことで嗅ぎ回れるのは面倒だが、ケイトはまだ学生で子供だ。家出くらいに処理されるはずだ」
「ふーん」
自分から聞いておいて興味の無さそうな声をあげるルー。ネズミの尻尾を指で摘まんで、捩って逃げ出そうとするそれを振り子のようにしていた。
「私、お腹すいてきた」
「携帯食料ならそこの棚の一番上段にあるぞ」
「今日の晩ごはんは、ロバートかな…」
「…わかった、調達してこよう」
ルーと例の契約をしてから、人殺しに手を貸すということについてずっと自分なりに考えていた。散々悩んだ今でも抵抗感は拭い切れてはいないが、ルーを研究するという使命は何よりも、自分の命や世界そのものよりも意義深いものだと心の奥底でずっと感じていた。その、自身の信念めいたものに気づいてからは、観念してこれからの事を考えるようになった。
人拐いをするにあたってその人選は重要である。さっきの話にもあったが、知人が多いというのは、殺害後に私の犯行がバレるリスクに大きく直結する。まず、既婚者は避けるべきだ。また、忘れてはならないもう一つのこととして、獲物の味はルーの好みを大きくはずしてはならないということがある。不味い獲物を差し出したそのときには自分の人生が終わってしまう。彼女を満足に研究し終わるその時までは死ぬわけにはいけない。ルーはケイトが美味だと言った。もしかすると、ケイトの若さがそう感じるに至った要因なのだろうか。また、脳を物理的に摂取するという特徴から知性的ななにかに彼女が美味しさを見出だしているのかもしれない。ここまで考えて、自分の所属している環境に目がいく。アカデミーは知性ある人間が多く集まり、その年代も幅広い。それにこだわりが強い我々学者は独り身の者が多い傾向にある。ここは狩り場として適している可能性がある。勿論私がアカデミー関係者のため疑われるリスクも高まるが、日和って不味い飯を出したらそれで終わりなのだ。万全は期すべきだろう。
私は早速条件にあう人間をリストアップした。
出来上がったリストを眺めていると一つの名前に目が止まる。
ロイド=アデール。
彼は同い年の優秀な天文学者で、私の古くからの親友だった。お互い忙しい身分になっために、最近は会っていなかったが彼ならばなんの警戒もなく私の呼び掛けに応じてくれるだろう。彼は孤児院育ちで親がいないことも都合がいい。そうと決まれば、ルーが腹を空かせて我慢できなくなる前に行動を移すべきだ。
私は電話の受話器をとって、ダイヤルを回した。ありもしない事情で手伝いが必要なことを話すと、彼は快く引き受けてくれた。すぐ来るよう伝え、電話を切った。
数刻が過ぎて、ドアのノック音と共にロイドが現れた。
「ロバート、久しぶり。研究の具合はどうだい?」
私は内心感じている緊張を隠しながら、いつものように振る舞う。
「ああ、最近大きな進捗が生まれたんだ。だいぶ調子がいいよ」
私の言葉を聞いて、ロイドは心底喜ばしいとばかりに頷いた。
「それはよかった。ところで、今日僕は何を手伝えばいいんだい?」
「ありがとう、手伝う気満々なようで私も嬉しい。それより久しぶりに会ったんだ、もう少し話そう。ロイドは最近上手くいってるのか?」
他愛ない私の言葉に、ついさっきまで笑顔を浮かべていた彼の顔に陰が差した。
「…孤児院が襲撃されたのは知ってるよね。実は、あそこは僕の育った場所だったんだ。正直なところショックで最近研究どころじゃなくてね…。参っちゃうよ…もう…」
「そうだったな…。嫌なことを思い出させるようなことを聞いて、申し訳ない…」
「いや、大丈夫。事件を知った日、一日中泣いてある程度心の整理をしたから…。一刻も早く犯人が捕まることを祈ってるよ。そういえば彼女は君の隠し子かなにか?結婚はまだだったはずだよね?」
ロイドは扉の近くでぼんやり立っているルーについて触れる。
「ああ、彼女は親戚の子さ。名前はルー。こんなご時世なんでね、独りお留守番をさせるのも怖いじゃないか。今日は彼女のお守りをすることになったんだ。」
「そうなんだ、よろしくね。ルー」
屈んで目を合わせながらロイドは挨拶した。
「…」
顔を通り越して自分の頭の方をじっと見つめるルーにロイドはどこか不気味さを感じ、彼女から目をそらした。
そんな彼の背に私は仕事の始まりを告げる。
「じゃあ、手伝ってもらおうか。実は私は最近新しい生物を飼い始めたんだ。その餌やりがなかなか大変でね。それを頼みたい」
彼は私の方に振り返る。
「オーケー。それにしてもこの部屋には僕達以外いないじゃないか、その生物ってのは別の部屋にいるのかい」
「いや、いるさ。君の後ろに」
グサッという音と共に彼の左胸から槍が生まれる。彼は目を見開き、胸から生えるそれに視線をやる。そして、なにか気がついたかのようにこちらに怒りの目を向ける。
「き、君は、孤児院、も…」
喋る度に口から泡だった血が溢れる。ロイドは必死に槍から逃れようとするが深く突き刺さったそれはびくともしなかった。
少しの格闘の末、ロイドは事切れた。
「…思ったより簡単だったな」
ルーがロイドを食べる姿を端から眺める。
ロイドは本当に良いやつだった。幼い頃から辛い経験が多かったせいか、人が苦しみを抱えていることを察するのが上手で、さりげなく寄り添ってあげることが得意な優しいやつだった。そして、最後は私の研究のために彼は命を散らした。彼は死の間際、私を心底恨んだだろう。なぜ僕が死ななければならないのか、命の灯が消える最後の瞬間ロイドの目がそう語っていた。この疲れ果てた世界に、私なんかよりもよっぽど必要とされていた人物がロイドだった。しかし、彼の犠牲なしにはこの研究は完遂できない。そう、断言できる。私の心は深く沈んでいたが、自然と涙は出てこなかった。
「美味しいか…?」
「うん、おいしい」
「…良かった。そう言ってくれると、俺もロイドも助かるよ」
「実はロバートの片付けを楽にするためにできるだけ周りを汚さないように仕留めた」
「…ありがとう」
一番始めに獲物としてロイドを選んだのは私なりのけじめだった。これから何人殺すかわからないが、その先々で躊躇しないため。彼女に添い遂げるという決意の表れみたいなものだ。
ルーの食事が済み次第、ケイトの時と同じようにすべてをずだ袋に詰めて彼女に預かってもらう。作業をしていて薄々感じていたことがあった。これから毎日このルーチンを行わなければならないことを考えると、今のままでは彼女の食事にとられる時間で手一杯で、研究が一向に進みそうにない。狩りを効率的に行うための工夫が必要だろう。それにこれほど杜撰な殺人だ。いつバレてもおかしくないし、バレた時に街からルーと逃げられるよう準備しておかなければならない。山積みの課題を前にして、ロバートは自分で選んだ選択とはいえ少し気が重くなった。
ロイドを殺してから、10日ほど経った。この10日間でアカデミーにおける学者の失踪が相次ぎ、常識人は皆アカデミーから逃げるように姿を消した。現在アカデミーに残っているのは私含めて研究に人生を捧げる狂人しかいなかった。アカデミーが閑散となる中、ルーに関した研究は順調に進んでいた。
彼女の身体は、一見人間と同様に複数の細胞体によって構成されているように見えるが、彼女から提供された皮膚片を観察したところ、私たちとは全く異なる構造を為していることがわかった。この構造はこれまでに発見されているどの生物にも類さず、その構造を必要以上に分析することは現在あるテクノロジーでは不可能であるという結論がでた。また、彼女の肩に棲む槍(ルーが言うには身体のどこからでも出せるらしい)の性能テストも行ってみた。槍は最大で研究室の端から端まで届く程度の長さを維持することが可能で、厚さ一寸ほどの鉄板を突き破るほどの強度を持っていた。この目で幾度も人を貫く様を見てきたので今さら驚くことではないが、彼女の持ち合わせている再生能力(裂傷程度なら造作もなく治ってしまう)を合わせると、完全に生物兵器とも言える戦闘能力の高さが露になった。知性も人間顔負けのようで、演算について少し教えただけで数学者が人生をかける命題も彼女の手にかかれば一刻もかからずに解かれてしまう。まるで、その小さな躰に複数の脳みそが詰まっているかと思わせる思考力には流石に私も唸らずにはいられなかった。彼女は文字通り化け物だった。
そんな研究の傍らで、私はルーと寝食を共にしていくうちに彼女の無愛想ながらも子供らしい無邪気なしぐさに、いつの間にか愛しさを感じ始めるようになった自分に戸惑いを覚えるようになっていた。人間よりも強大な力と優れた知性を持ち、人を喰らう彼女に対して、研究にしか能のない私が父性のようなものを感じてしまっているという事実に自分のことながら笑ってしまいそうになる。ただ未来を見据える余地もない研究に狂うだけだった過去の私が、ルーの父代わりとしてあろうとする今の姿を見たらどう思うだろうか?今更だが、ルーとの出会いは私の生き様を大きく変えてしまったようだ。
今日の狩りを終えて、食事にありつくルーを見て気づく。
「ルー。お前初めて会ったときに比べてだいぶ背丈が大きくなったんじゃないか」
「…そろそろかもね」
「?」
「ロバートにはお世話になってるから、教える。今の私は成長期にある」
「…それで?」
「あと、一人分。発達を取り込むと私は幼体から成体になる。そうなったら、ロバートとはお別れしないといけない。私がこうしていられるのは幼体の間だけだから」
「そう、なのか…」
ルーとの別れ。いつか、遠くない未来にそれが訪れることは分かっていたが、こんなに唐突なものだとは思ってもみなかった。
「成体になるって、つまり、どういうことなんだ?」
「私自身が一つの世界になるの」
「ルーの中に広がる亜空間そのものが世界になるのか…」
「そう、だから私の自我はなくなる」
「…ルーは、自分が自分じゃなくなることが怖くないのか?それで、いいのか?」
「私はその為にこの地に産み落とされた。それは私の使命。怖いという感情はない。仮に成体になるのを恐れて食事を控えた結果、餓死するのも嫌」
「そうか…。そうだな…」
ルーの話を聞いて自分の今抱える感情はエゴに支配されていることを認識する。口からその感情がこぼれでそうになるのを必死に堪えた。
ルーは私の苦しげな顔を見つめながら、話を続けた。
「ただ、一つだけ…。ロバート、貴方ともうお話できなくなることに、寂しいという感情がある。私には父も母もいない。沼では独りだったから、孤独が私にとっての当たり前だった。でも、貴方とこうして共に過ごした時間が、私と貴方が交わしてきたやり取りが私に、始めて大切にしたいという感情を教えてくれた。ロバート、貴方に会えて良かった」
目頭が徐々に熱くなるのを感じる。彼女が、私と過ごした日々を大切にしたいと感じてくれている。いつもは感情を感じさせない彼女が告げる感謝の言葉に私の心は強く締め付けられ、嗚咽のような声と共に感情が吐き出される。
「私は、もうお前と会えなくなるなんて、本当は嫌なんだ。でも、お前がそれを望むのならば、私は受け入れる覚悟がある」
私の言葉を聞いてルーは、心なしか優しげな表情で頷いた。
癇癪が落ち着くのを待ってから、私はこれまで何度も繰り返した食事の片付けを始めた。
ルーと二人で床を掃除している途中、ふと、いつもと何かが違うことに気づく。少し手を止めて今一度違和感の理由を考える。さほど時間はかからず、その理由に辿り着いた。あまりに静かすぎる。アカデミーには既に人は殆ど残ってはいないものの、日中から一定数の研究者が研究を実施しているはずだ。しかし、今はもう深夜になってしまったのかと疑うような静けさがこのアカデミー中を満たしていた。一体どういうことなのだろうか。
ゆっくりと立ち上がり扉の方へ寄る。取っ手に手をかけた途端、ひとりでに扉が開いた。刹那、発砲音が部屋に響き渡り、火薬の匂いが流れこむ。わけも分からずその場に尻餅を着く。太ももが焼けるように熱い。何事かと熱源に手を伸ばすと手の平にヌメっとした感触が残った。伸ばした掌を反すと手にベットリと血が付いていた。
「あ゛あ゛ああ!」
言葉にならない悲鳴が口から飛び出す。あまりの痛さに身を捩り、足を手で押さえつけながら絶叫する。
「ロバート!」
ルーが私の名前を呼ぶのが聞こえた。その後すぐに、身体が宙に浮く感覚を覚える。加速感を感じながら目の前の景色が急速に変わっていった。私が宙を舞う間、数発の発砲音が聞こえた。急に身体に重力がもどり、目の前にルーが居ることに気づく。どうやらルーが触手で私を部屋の奥に逃がしてくれたらしい。
「ロバート、大丈夫?」
「…大丈夫、じゃないな」
落ち着く間もなく、扉の向こうから威圧的な声が聞こえてきた。
「ロバート=ヴィンス!今すぐ投降しろ。お前がこの街で起きている事件の犯人だという裏はとれている」
「…どういうことだ!私はなにも知らない!!」
私はデスクの裏から声を張り上げて無罪を主張する。
私の言葉を嘲笑うかのような声色で扉の向こうにいる男は話を続けた。
「昨日、湖の漁師が遺体を釣り上げたんだよ。遺体と一緒にあった布切れを調べてみると、どうやらここの備品だということが分かった。隠蔽工作にしてはあまりにもお粗末だな」
「私は知らない!誰かが持ち出したんだ!」
「まあ、落ち着け。お前が容疑者である理由は他にもある。失踪している学者達は皆お前と何らかの交友関係にあった、そうだろう?
そして何より今お前を掴んだ謎の触手のようなそれは、10日前に起きた大虐殺の凶器にふさわしい形状をしていると見える。お前は何を飼い慣らしてるつもりだ」
男はこちらを最早疑っていないようだった。私達の様子を確認しながら、彼の後ろに控えている憲兵達を突撃させるタイミングを窺っている。
私は一つの考えをルーに伝える。
「ルーだけなら、逃げられるかもしれない…」
しかし、ルーは私の提案に首を振る。
「ロバートが殺される。ロバートを置いてはいけない」
「…」
互いを慮るばかりに行動を起こせない中、このままでは埒が明かないと相手が判断したのか何かを部屋の中に投げ込んできた。パリン、という音ともに部屋の室温が一気に上昇する。火炎瓶だ!俺は声を張り上げる。
「きさま!アカデミーを燃やし尽くす気か!」
「悪をここで絶やすためだ。心配しなくてもお前ら以外の人間は既に避難させている」
今になってあの時の静けさの理由を知る。しかし、今はそれどころではない。これは考えられうる中でも非常にまずい状況だ。ルーの体は物理的な損傷には耐えられるが、火には他の生物と同じで耐性がない。このままでは二人して丸焦げだ。火が壁を伝い、棚などが朽ちていくなか必死に最善手を考えるが、何も思い付かない。ルーを守る力もない自分の無力さに絶望を覚える。極限状態のあまり、思考に記憶の破片が混濁する。
思えば、私は子供の頃から何をやっても不器用だった。為すこと全てが人より劣り、運動も勉学も恋愛も上手くいかなかった。ただ、すべてに絶望していた私にも好きなものもあった。自然に棲む生物の生態を観察することだった。社会の枠に囚われずに自由に生きる動物や昆虫達と触れあうことが本当に好きだったから、私は生物学者になった。
生物学者になってから数年経ったある日、私は一つの事実に気づいた。私がどんなに人間以外の生物に対して一方的なコンタクトを取っていたとしても、私が人間である以上どうあがいても人間の社会で生きるしかないという事実に。それからは人間以上の知性を持つ可能性がある存在、別位相生命体に興味を持つようになった。彼らならば、私の所属するこの辛くて苦しい社会を超越した、痛みのない素晴らしい社会を実現しているのではないか。彼らと共に生きることは私にとっての願いであり、希望だった。
そんな私の前にルーはやって来た。人間のスペックを大きく超えた生命体である彼女は私の求めていた、絶対的な存在だった。彼女との出会いによって、人間という弱小種の一個体となった私は以前のように自身の社会的弱者というレッテルに振り回されることはなくなった。社会からの解放と救済をこの身に与えられたことへの感謝を今、ルーに伝えなければならない。
今にも燃え尽きようとする部屋の中負傷した足を抑え、痛みに堪えながらルーに向き直る。
「ルー、私を…食え…」
「…」
「あと、一人食えば成体になるんだろ」
「でも、ロバートは死んじゃう」
「この世界の私は…いなくなるかもしれない。でも、私はお前のなかで生き続ける…お前のつくる世界を…見たいんだ」
ルーは私をじっとみつめてきた。私は小さく頷き、彼女の膝に頭を乗せて、目を閉じる。彼女も覚悟を決めてくれたのか、私の頭を撫でてくれた。ひんやりとした彼女の手はとても気持ちよくて、今すぐにでも眠ってしまいそうになる。
彼女が私を撫でている途中、頭に何かが刺さったかのような違和感を感じた。私の死が始まることを知らされても不思議と緊張はしなかった。彼女が私の脳を優しく吸う度に、私という存在が体から消えていくのを感じる。体を包む暖かさに癒されながら、彼女と出会ってから今日までの1日1日を思い起こす。
膝に乗せた頭を少し起こすようにして、彼女を見上げる。彼女という存在を心からいとおしく感じる。よく、ここまで成長してくれた。まるで、聖母のような優しい顔を浮かべる彼女を見て、彼女の世界について思いを馳せる。彼女のつくる新しい世界にはケイトやロイド達はいるのだろうか。彼らの意思に反して一方的に命を奪った私は犯した罪を償う義務がある、彼女のつくる新しい世界でもそれは変わらない。この、傷みが溢れる世界が優しく素晴らしいものになるのであれば、私が進んで業を背負おう。願わくば、新世界での彼らに永遠の祝福を…
ロバートの祈りを聞き届けたルーは、彼を一滴も残さず飲み干した。同時に彼女の体にも変化が現れる。背丈がまた一つ大きくなり、体つきがより女性らしくなる。おもむろに立ち上がったルーが少女から美女へと成長していく姿を、その場に居合わせた者は皆呆然とみつめ続けた。
成長を終え、自我を無くし、自身の存在そのものが使命となったことをルーは知る。しかし、自我がなくなろうとも彼と過ごした日々を忘れることはなかった。ルーは彼が憂いた世界に微笑みかける。
ロバート達を追い詰めんとしていた男達はその笑みを見て、何故か恐怖心を煽られるのを感じていた。皆無我夢中になって、彼女に向かって銃弾を放つ。最後の薬莢が床を打ち、全員が撃ち尽くした後に静寂が訪れた。
男達は彼女がどうなったのかを確認するため、火の粉舞う向こう側をじっとみつめる。
無数の銃弾を全身に受けた彼女は原型を保たない身体でただ立ちつくしていた。
彼女はゆっくりと屈み、足元にいるロバートを抱き寄せる。
最早顔なのかもわからない場所にある、彼女の口許が小さく動いたように見えた。
それが合図だったのか、唐突に彼女のルーを作っていた器が崩れだす。
ルーに空いた孔という孔から溢れんばかりの泥水が止めどなく吹きだす。
泥水は止めどなく吐き出され、洪水を起こして窓から街へと流れていく。部屋に居た男達は声をあげる間もなく皆洪水に飲まれて姿を消した。
この星に棲む生命体が一匹残らず、ルーだったそれに溺れ、沈んでいくのにそう時間はかからなかった。
ルーの意思は山も海も超え、ついには星を覆った。
世界は沼で満ちた。
ある者が見れば母なる大地として、またある者が見れば母なる海として彼女はそこにあった。
彼女はただ待ち続けるだろう、生命の芽吹きと新たな世界の誕生を。
自身を愛してくれた人が望みつづけた、優しい世界がやってくるのを。