残酷な世界③
それから他愛ない会話をして、片づけを始めようかとした時のことだった。唐突に魔力の流れを感じ、辺りを見渡す。風ではない。薄暗く分かりづらいが、何か自分たちとは違う生き物が近づいて来ている。木々を揺らす音、多くの足音が聞こえる。
おそらく魔物の類であろう。そしてあまり好ましい状況とは言えない。ルイ一人ならいざ知らず、ウィリアムがいる。
時折二人で訓練をするが、ウィリアムはあまり闘い、というものに向いていない。ルイの教えも上手いのかどうか分からない。少なからず老爺より上手いという事はないだろう。老爺自身に教えを請おうにも、最近は寝てばかりで動こうとしない。
それどころか、老爺はウィリアムに対し、ルイのように教えてくれないのだ。一度もあの鬼のような形相になったことがない。
赤ん坊のころから見ているせいか可愛くて仕方が無いのだろう。実際ルイも可愛がっていたから老爺のことを言えないだろうが。
「ウィル、逃げるぞ」
足音と気配の多さから、群れた魔物と判断し、即座にこの場から離れることにした。急ぎ荷物をまとめ、鎧を着た。ウィリアムも早々に荷物をまとめていた。多少音が出てしまう事は目を瞑り、なるべく茂みに隠れながら来た道を戻る。
「離れるなよ、ウィル」
「うん、あんちゃん」
隠れていることもあり、来た時よりも随分とゆっくり進んでいる。近づいてきた気配は今なお大きくなってきている。
一体それらが何なのか、ルイには想像がつかない。少なくとも群れで行動するため、ある程度理性をもった生き物であることだけは誤ってはいないだろう。
(ゴブリンではなさそうだが、だとしたら一体……)
今回は違うが、魔物では無い獣であるのならそこまでの脅威ではない。だが、魔物の群れ、となると単体では脅威ではなく、戦い慣れたゴブリンですらも厄介な存在となる。このあたりで見かける魔物といっても、この森の手前程度ではルイはゴブリンしか見たことが無い。
そしてあの老爺ですらも「手前にはまだゴブリンくらいしか魔物はいねえな」と言っていた。
気配は確実にこちらに向かって来ている。それも無数に感じられる。
「全く、厄介なことになったな」
まだ厄介だと決まったわけではないが、そう呟いた。そしてこの、次の瞬間には何が起きるか分からない、という環境にいることは久しぶりであった。老爺との訓練も――幾度も死を覚悟したが――あくまでも守られたものであるとどこかで判断していた。……いや、流石にあれを上回る脅威は無いだろう。
静かに茂みで待っていると、その気配の一団が近づいてきた。どうやらルイとウィリアムの様子には気づいていないようだ。
だが、急いでこちらに向かって来ている。やけに大きい足音とともに、とうとう姿を現した。
「あんちゃん、あいつら」
「ああ。分かってる」
一言で言ってしまえば巨人がいた。それも一匹二匹では無い。十数匹はいる。背丈はルイの三倍程はあるが、足は短く頭は小さい。そして腕は長く太かった。毛は生えておらず、肌の色は灰色に近いが、所々苔のようなものが生えている。何よりも巨大な身体に目が向かう。
そしてウィリアムが言いたいことは魔物が現れた、ということではないのだろう。それらが、逃げてきていたのだ。何かから。
「一体どういうことだ?」
確かあれらの個体の魔物は「トロル」という名であると老爺から教わった。ウィリアムは始めて見たのだろうが、少なくともゴブリンより弱いということは聞いたことはない。
頭は悪く反応も遅いが純粋な腕力では人間では敵わない。
一体だけで逃げているのならばまだ分かる。だが、十数匹の群れが逃げるほどの脅威はこの森では聞いたことが無い。
このままトロルを森の外へ逃がしてしまえば誰かしら、老爺の待つ貧民街で犠牲が出てしまう可能性がある。無論僅かな可能性がある、というだけだ。だがそれを許せるルイでは無かった。
逃げるのはもう止めたと、あの時に決めたのだから。
「ウィル、お前は先に戻って爺様に知らせて来い」
「あんちゃんは?」
心配そうな顔でルイを見たので頭を強く撫でた。そして、誰かに見られてもいいように、頭にしまっていたフードを被せた。
「俺はあいつらを足止めする。心配すんな。お前のあんちゃんは強いんだからな」
「……分かったよ。急いで爺様を呼んでくるから!」
ウィリアムは子供ながらに複雑な顔をしてそう言うと、上手く茂みに隠れながら町の方へ走って行く。それを横目に見てルイは立ち上がり、先頭のトロルの行く手をふさいだ。
言葉はいらない。ただ立ちはだかるように前に出た。距離にして十五か二十メートルはある。
一瞬先頭のトロルは戸惑ったようだったが、人間だと分かると、近場の木を根元から抜いた。そして後方の仲間たちに「グォフ」だとかいうような声を掛けた。当然ルイは何を言っているか理解できないが剣を構えた。そして、魔力を肉体、鎧へと込めた。それにより強く硬くなるのは幼子だって知っている。
恐らく何かに追われていたことすら、目の前に敵が出てきた瞬間に忘れてしまったのだろう。そう、トロルという魔物は余り頭がよくないのだ。
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先に攻撃のために動いたのはルイであった。大地を蹴り、片手で持った大きな剣を肩に乗せ、およそ人間にできうる速さを上回り、最も手前のトロルの懐へと潜り込んだ。
トロルはまだ動けない。少なくとも普通のトロルが認識できるものでは無かった。ただただ魔物特有の金色の瞳だけが、その驚きを告げていた。
トロル、という魔物が弱いというわけではない。確かに魔物という括りであれば強者の位置には存在しない。人間に後れを取るようなことは本来ならばないのだ。本来ならば。
「遅い!」
勢いそのままにトロルの僅か手前で飛び、その首に一撃を叩き込んだ。
首の皮膚の下からベギッ、という鈍い音を立てそのトロルは倒れていく。首の骨を折られては人型の魔物ではどうしようもない。魔物、と言えども普通の動物と根本的な構造が大きく外れるものは少ない。トロルもその一種である。
倒れ伏すトロル、それを傍観しているルイではない。戦闘中に呆けている暇はないと、あの老爺から嫌というほど聞き、叩き込まれた。
まだトロルの群れに動きは無い。動揺、驚愕、恐怖、という感情が息巻いているのだろう。
一瞬でそれを読み取ったルイは、着地と同時にさらに奥へと跳躍し、左右の二匹にねらいをつける。右のトロルの首に回転しながら剣を叩き込む。恐らくは絶命まで至る一撃。そのままそのトロルの腹を蹴り、左のトロルの脳天を叩いた。
(まだ、甘いか?)
右のトロルは確実に首を折った。だが、左のトロルに関しては、頭の頂を狙ったためか感覚が違っていた。その個体は肉付きが良いことが関係あったのか、トロルという魔物が頭が固いのか、ルイには分からない。
倒さないまま前の個体と挟撃されることを恐れ、着地と同時に左のトロルのみぞおちへと剣を突き刺した。剣先は腹を貫通した。さらに力を入れ剣を抜くと同時に赤黒い血が噴き出た。丁度心臓部であったのか、脳震盪でも起きたのかそのトロルも倒れ伏した。
後ろのトロルたちは現在の状況を理解し、剣をちょうど引き抜いたルイを潰そうと拳を握り、一撃を与えようとしてくる。
巨大な拳を下に振り下ろすという原始的な力任せの一撃。それでも何の強化も施されていない状態の人間ならば肉塊と化すであろう。
「グルルルァァア」
叫びながら、怒りに身を任せたトロルの一撃は、ルイにとっては非常に単純な軌道で遅いものだった。
まるで後ろに目があるかのように、それを横に躱した。
そのまま腕を駆けのぼり、首筋に剣の軌跡を残した。丁度剣先に近かったためか、綺麗に切れた首からは大きく出血し、その体から力が失われて行く。
再び動きを止めたトロルを待つことなく、一体目、二体目と確実に急所を狙い、死体を増やしていく。
直ぐに後ろに行き、残りのトロル達から距離を取った。
「あと、ハァ、ハァ、半分か」
そう時間は経過していないが、ルイの息は上がっていた。それは肉体的な疲労ではなく、魔力を使用し続けていることによる疲労と、集中し続けている精神的疲労の方が大きかった。ここまでの消費の速さは実戦では初めてのことだった。老爺に言ったら笑われてしまうことだろう。
トロルは残り六体。群れのボスとしての役割は初めに殺した一匹目であろう。故に一対一ならばルイに負ける道理はない。
だが、これまでと同様に動くことは出来ない。……というよりもしない方がいいだろう。このままハイペースでトロルを殺したとして、トロルが見ただけで逃げ出すような敵を相手にするほど余裕はないからだ。
(まあ、それでもトロルが厄介なことに変わりはないけどな)
ほとんど不意打ちで六体は倒したようなものだ。おそらく先ほどとは別物と捉えたほうがいいだろう。
出来ればもう少し減らしておきたかったが、一度に動きながら、相手の動きを見て、思考し続けるという行為の負担が想像以上に大きかった。未だ六体以上もトロルがいる、ということと、さらに強い敵がいるという焦燥もあり、それが無意識的に動き続けることにストップをかけたのかもしれない。変に剣の刃が無いことは良かったかもしれない。切れ味の心配をする必要がない。
「出来れば、一匹ずつ相手をしてくれると嬉しいんだけどな」
当然トロルは聞く耳を持たず――というより言葉すら理解していないだろうが――怒りを露わにしながらルイを追いかけだす。どの個体も怯えが見えない。頭が回ればルイに勝てないことは明白であるが、逃げるという選択肢は無かったようだ。
その姿を見てルイは危機感を覚えた。トロルでは無い、まだ見えない敵の姿に。ここまで半数が減ってもトロルは逃げないのだ。恐らく全滅するまで武器を振り続けるだろう。だが、そんな短絡的な思考をするトロルが一目散に逃げたのだ。それはすなわち、確実にルイよりも強いことを意味していた。
頬を汗が伝い、それを左手で拭った。走りながらも息を整え、巨大な木の前まで来ると足を止めた。
近づいて来る最も手前の個体に問いかける。
「お前たちは何から逃げてきたんだ?」
答えない。時間稼ぎにもならない。
トロルはそのまま走りながら、ルイに向かって巨大な右の拳を頭上目掛け一撃。ルイはそれを直接受け止め……ることは無く、跳び、後ろの木を蹴ってトロルの目の前に来た。
「おらあっ!」
頭のド真ん中から真っすぐ下に、頭蓋骨ごと器用に魔力を込めた剣先で切り裂いた。器用に剣先のみであれば、斬れないこともない。一瞬トロルと目が合った。恐らくトロルはもう一撃仕掛けてこようとしたのだろう、空いた左の腕が僅かに動いた。だが僅かにルイの方向に動いただけで止まり、膝から崩れ落ちた。その際血と脳漿が零れたが気にする暇はない。
そのトロルを再び見ることなく、ルイは前を向く。
次の一体。視界の端で捕らえてはいたが、大木を根ごと引き抜いていた個体。一撃を食らわさんと駆け、地面に巨木を叩きつける。それを躱すため股の間に滑り込んだ。起きざまに左足の甲に剣を突き刺した。
「ギャウウウ」
トロルは叫び、両腕で突き刺した部分を押さえようとする。持っていた木を落としたその腕を切り、頭に一撃叩き込もうと、ルイが思案した時のこと、
「グアアアアアアアアア‼」
恐らくトロル達の後方から叫び声がした。恐らく、と言うのはその声があまりにも大きかったため細かい位置の補足をすることが出来なかったためである。
そしてその音の大きさに咄嗟に耳をふさいだ。視界に映るトロル達も動かない……四匹しかいなかった。
遥か奥に、あの生き物がいた。トロルを食っていた。