はじまり②
意外にも直ぐに暗闇以外の場所に辿り着いた。森から抜け出たわけでは無い。生い茂った木々の様子に変わりは無く、むしろ馬車の轍すら無い森の奥まで来ていた。見つけた物は、ここにいるはずの無い人の姿であった。気づいたのは視覚では無く嗅覚の点が大きかった。肉の焼ける匂いに惹かれてきたようなものだ。
「なんだあいつ」
近くの茂みに隠れながら小さくそう呟いた。後ろ姿しか見えないが焚火をして、何かを焼いている。大柄で毛皮を身にまとっている。近くには何か荷物と、大きな杖しかない。武器を携帯していないのか?
「そろそろ、焼けたか」
不意に聞こえたその声音は、年老いてしわがれたものであると少年は判断した。焚火の方へと伸ばした手を見て、その判断は確信に変わった。皺だらけの手の甲だった。故に少年は様子見を止め、この老人から食料を奪うことに決めた。
懐の内にうまく隠しておいたナイフを取り出した。殺すつもりはない。ただ適当に脅して、食い物と金を奪ったら逃げる予定だ。
音と気配を消しながら、死角である背後から忍び寄った。特に察知された様子は無い。ナイフを取り出し、老人の頭の後ろで止めた。近づいてみて気づいた。異様なほどにその体躯は巨大だ。
「あんた、その食い物を俺によこせ」
老人に動きは無い。聞こえていないのかと思い、もう一度言う。
「その食い物を、俺によこせ」
「……」
「聞こえてないのか?」
耳が悪いことを懸念していなかった。
「いや、聞こえておる」
振り向きもしないまま老人は答えた。少年は振り向きもしない、怯えもしない老人に僅かに恐怖を感じた。人間ではない、という可能性を考慮していなかったのだ。
「あんた、何者なんだ? なんでこんなところにいる?」
自身の持つナイフの切っ先をしっかりと老人の頭に留めながら言う。
「ただの、旅人さ。こんなところってのはよく分からねえがな。まあ坊主もそんな殺気だって無いで座れよ」
未だに振り向く様子も無いが、そう言った。少年は有無を言わさぬ迫力、とはいかないが、得体の知れない存在の言うことを聞くことにした。もしくはこの老人の何かに察知して大人しくしようと思ったのか。
「……分かった」
警戒を解かないまま、大回りで老人の反対側の地べたに座った。そこにきてようやく老人の顔を見た。人間ではあったが、驚きを隠せなかった。
「こんな傷がある奴は珍しいか?」
その様子に気づいたのか老人が聞いてきた。目が合ったのでとっさに逸らした。
顔には斜めに、右目から顎の左まで痛々しいほどの傷が残っていた。それは剣によるものか、何か魔法によるものなのか、少年には分からない。それだけではない。見えている体の至る所に傷跡があった。ならばこの老人の肉体は戦士のもので間違いはないだろう。
「俺は、そんな傷があって生きてる奴は知らない。そんなあんたが、ただの旅人であるはずがないと――」
そう言ったところでグウと腹の音が鳴った。
「随分坊主は腹が減ってるみてえだな。ほら、好きなだけ食え。話はそれからだな」
老人から肉串のよそわれた皿を渡されると、少年は一心不乱にそれを食べ始めた。
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「じゃあ坊主は奴隷になる寸前だったって話か?」
腹が満たされた所で会話が再び始められた。
「ああ。それで、命からがら逃げて、よく分かんねえ生き物からも逃げて、あんたを見つけた」
「俺を脅して食い物と金をとった後は?」
どうやら少年の魂胆は露呈していたようだ。だがその後のことなど何も考えていない。
「……その後は直ぐに逃げて……、考えていない」
「なら坊主、俺と一緒に来ないか?」
「一緒に? それは……何かから逃げなくてもいいのか?」
少なからずそれは少年の常識の外にある言葉だった。
そう言うと老人は今日一番の笑いを見せた。
「がっはっはっはっはっは。逃げるなんてことはしない。俺達は生まれてから一度も、逃げたことはない」
「ほんとうか!」
少年は嬉しそうに言う。逃げる、という事に辟易していたのかもしれない。もともと逃げたくて逃げていたわけではない。
「そうだ。お前も少しは闘えるように鍛えてやる。まあ、俺を信頼するにはまだまだ時間が掛かるだろうがな」
確かにこの男が言うことが全て本当かは分からない。だが、少なくとも顔の傷、所々見える体中の傷跡だけは、少年が想像もつかないような死地を潜り抜けた証として存在している。そして気配を消したはずなのに確実に察知していたということもそれを証明している。
ならばこの男は少年よりも遥か高みの存在であり、脅されるようなことはあっても、脅す対象では無かったのだ。
「いや、あんたを信頼してやるよ」
多分一度も人を信じたことの無い少年は、意外にもすんなりとこの老人を信じた。生まれて初めて見返り無く食べ物をくれた、というものもあったが、瞳の奥底がどこか寂しそうにしていた老人をどこか可哀相に思ったのかもしれない。
「それじゃあ坊主、名前は何て言うんだ?」
そう老人が聞くと少年は首を捻りながら、
「あったような気がするが、思い出せない。それに、字も読めない。金の勘定も少ししか分からない。親の顔も知らない。だからあんたの仕事の役には立たないかもしれない」
そう言った。
「そんなものは後から身に付く。だが呼び名は欲しい。なんかないか? ないなら俺が決めてやるが」
少年はただじっと焚火を見ていた。そして答えた。
「ルイ」
小さく呟いた。
「なんだって?」
老人が聞き返す。
「俺の名前はルイだ。そんな風に呼ばれていた気がする」
「……ルイ、ルイか。確か亡国の王子が……まあいい、分かった。儂のことは爺様と呼べ。そうすりゃ鍛えてやるよ」
老人が名乗らないのは違和感があったが、それこそ深い事情があるのかもしれない。それに余計なことを聞いて機嫌を損ねることを恐れた。
「……分かった。爺様だな」
「そうだ。そしてこれから俺達二人は、家族だ」
老人はルイに手を差し出した。ルイはその手を呆けた顔のまま、力無く握った。実感がわかないのだろう。
「よろしく、ルイ」
「ああ、よろしく……爺様」
その矢先、どこか遠くで獣のような叫び声が聞こえた。強い風が吹き、焚火の火が消え、辺りは一瞬で暗くなった。
――コオオオオオオオオオオオオ
幾度も腹の底に響く鳴き声が聞こえてくる。
「今のは? 魔物……なのか?」
ルイが老人に尋ねる。聞いたことの無い鳴き声だった。だから数多の種類が存在する「魔物」という生物のものだと判断したのだ。
先ほど逃げてきた生き物も、もしかしたら魔物なのかもれない。
「こいつが魔物? これはそんな優しい生き物じゃあねえなあ」
老人はその言葉を否定し、ルイから手を放し、杖を持った。そして笑った。
「丁度いい、この鳴き声の主はせ……儂らの敵だ。そして死を求め徘徊する化け物だ。せっかくだ。俺の戦いをよく見ておくがいいさ。ほら、行くぞルイ」
片足が悪いのか老人はルイのことを急かしながらも、自身はゆっくりと歩き出した。
「わ、分かった」
ルイはほんの僅かな月明かりと、老人が歩く度に出す音を頼りにその後をついて行った。片手にナイフを強く握ったまま。