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悪魔憑き

作者: あさな

9/26 少々加筆修正しました。


9/28 誤字脱字修正しました。

ご報告くださった方、ありがとうございました。

 聖ドナテルロ教会に悪魔祓いの依頼をしてきたのは、或る侯爵家だった。

 一家は王都ではなく、そこから少し離れた彼らの領地にある屋敷に滞在していた。

 一年半前に、馬車の事故で死線を彷徨った娘の養生のためである。

 幸い、娘は医者の適切な処置により一命を取りとめ、その後の訓練により肉体の機能も事故前とほとんど同じといえるほど回復した。しかし、一つだけ変わってしまったことが――娘の内面、即ち性格が随分変わったという。

 以前は、大変高慢な性格で、人を見下すところがあり、使用人には恐れられ、学友も――侯爵家ということで取り巻きの娘はいたが、互いに本音を話し合えるような真の友という意味では――いない。それが、嘘のように大人しく礼儀正しい人物になった。食べ物の好みも五月蠅かったのに、出された食事はきちんきちんと文句もなく食べ、それどころか美味しかったと料理人への賛辞をおくる。勉学もまるで関心がなかった国史や、社会情勢にも興味を示すようになった。

 命の危険に遭うと人生観が変わるというのはありえる。娘にもそれが起き、しかもいい風に変わったのだから問題視することはないはずが……人というのは可笑しなもので、どれほど素晴らしい変化であっても受け入れられないこともある。

 特に顕著だったのが母である侯爵夫人だ。夫人は娘の変化を何かが――悪魔が憑りついているのではないかと考えた。

 この考えにいきついたのには少し理由がある。娘が事故に遭う数ヶ月前に異界から「聖女」が召喚されてきたのだ。かつてこの国は悪しき者どもに凌辱の限りを尽くされて滅びの道へと向かっていたが、絶望的な状況に清らかなる光をもたらし救ったとされる聖女である。救世主が再び現れたのだから存在そのものは歓迎されたが、この平和な時世に何故降臨されたのか不思議に思われもした。ひょっとして悪しき者たちの復活を意図するのではないか。事前に防ぐために再び神がこの地に聖女を遣わしたのではないかという噂が流布された。

 その話は夫人の耳にも届き、元より娘に違和感を抱いていたことが噂と結びつき、拭えない不安となり、娘は復活した悪魔に身体を乗っ取られたのではないかと疑うに至ったのである。

 夫人の心配を夫である侯爵は最初考えすぎだと笑い相手にしなかった。高飛車で評判が芳しくない娘が、事故後は優しい態度をとるようになり、周囲からも見直されている。それの何が不満なのかと逆に問い返した。悪魔に乗っ取られているのならもっと酷い態度になるはずだとも指摘した。しかし、夫人はどうにも納得できない様子で、あまりにも繰り返すのでついに叱り飛ばすまでになった。だが、夫人も怯まない。


「貴方が怒る気持ちもわかりますわ。わたくしたちがあの子を甘やかしすぎてしまったせいで我儘になって……その評判をひっくり返すほどになったのですもの。親ならば、あの子の将来を思うならば、不幸な事故のことさえも神の御導きであったのだ、と喜ぶべきなのかもしれないわ。けれども貴方、わたくしはあの子をティーナだとはどうしても思えないのよ。ええ、これは、母であるからこその確信ですの。あの子はティーナではありません。何かよからぬものに憑りつかれているに違いないわ」

 

 侯爵は怒りを通り越して呆れたが、普段は控えめな夫人のこれほどまでの切なる訴えを完全に無視することもできなかった。


「いいだろう。お前の気が済むのなら、悪魔祓いに見てもらおう。ただし、それで何もないと言われたらこの話はおしまいだ。いいね」


 こうして悪魔祓いを屋敷に招くことになった。


 夫人の思い込みにせよ、本当に悪魔に憑りつかれているにせよ、侯爵家には不名誉な事実となる事柄であり、秘密裏での依頼となる。夫妻は聖ドナテルロ教会に託すことにした。

 聖ドナテルロ教会はカトリシア教の本堂であり――カトリシア教とは悪しき者たちとの戦いを終え、復興に至る過程で人々の拠り所として生まれた宗教だ。今や国教となり信徒は国中にあふれている――夫人が熱心に通っている場所であり多額の寄付もしている。

 夫妻の期待した通り、司教は事情を汲み、取り計らってくれた。


 数日後、教会から使者が派遣されてきた。

 黒のローブを羽織り、髪もそれに負けない濡れ羽色で、瞳の色も同じ。金髪に碧い目が多いこの地方では極めて珍しい容姿。それだけではなく身に纏う雰囲気も、背筋がぞくりとするほど冷えている。自然と恐怖を抱いてしまったが、悪魔祓いという特殊な職業に就いているのだからこういう風貌なのかもしれない、と夫妻は多少の躊躇いはあったが招き入れた。

 ティーナには身体の不調はないか、念のために他の医師にも見てもらうことにしたという体で話をすることになり、応接室にて夫妻とティーナ、それから使者が対面することになった。


 侍女に呼ばれて入室してきたティーナは、夫妻と使者を見て優雅に微笑んだ。その微笑みは美しく清らかで、うっとりと見ほれるほどである。一年半前のティーナも、教育を受けてきた人間として優雅さはあったが、このような光は放っていなかった。悪魔どころか、まるで聖女のごとき神々しさ――疑うなどやはり可笑しいのではないかと夫人は後悔したけれど。


「あなたは、悪魔祓いなのでしょう? 隠さなくてもいいわ。お父様とお母様がお話しなさっているのを聞いてしまったのよ」


 ティーナはソファに腰かけると、隣に控えている侯爵夫妻をチラリと見たあとで、使者へ恐れを感じている様子もなく言った。

 夫妻は驚いてティーナの顔を覗き込む。

 一方の使者は冷静だった。


「その通り。君のことを心配するあまりのことだよ」


 淡々とした口調で、ティーナの心意を探ろうとする。

 ティーナはその様子を満足そうに受け入れた。


「ええ、もちろんそれは……わたくしの身を案じてくださっていることは理解しております。ですから、とても気の毒に思っておりましたの」

「気の毒?」

「そうですわ。気の毒で仕方がなかったの。だって、お母様のおっしゃる通り、わたくしはティーナではないのですもの。……もっとも、悪魔でもないですけれど。おそらく」


 あっさりと憑りついていることを認める発言に、室内に衝撃が走った。

 いったいどういうことなのか、ティーナは続ける。


「これから話すことは、すぐに信じてもらうには突飛なものと承知していますが、いつかは打ち明けるべきと思っていたことです」


 




 わたくし……私はこの世界ではない別の世界の人間でした。

 事故が起きた日、どういうわけか気づけば私はティーナの中にいて、ティーナの意識が沈んでいくのを感じました。不思議な感覚でした。ティーナの意識が薄まるのに反比例するみたいに私の意識は濃くなった。でもそれは私が意図したわけではけしてないのです。抗えない力によって波にさらわれるみたいに彼女の意識は遠くへ流され、私の意識がこの肉体の中央に流れ着いた。何もない空間、光も闇もなく、静まり返ったそこで、私は茫然としていました。すると、急に寒々しくなったのです。何か得体のしれないものにどこかへ引きずり込まれそうな予感がしました。ティーナをさらったあの波が再び今度は私をさらっていこうとしているのだと思いました。まるで溺れたときのように、呼吸ができなくて苦しくてたまらなかった。必死にもがきました。……もがくというのも奇妙です。たった今まで肉体なんてものも感じていなかったのですから。けれど、もがくうちに両手足の感覚が生まれました。それだけではなく、肩、胸、背骨……心臓の鼓動、胃の収縮、肺の圧迫まで細密に感じることができたのです。やがて、光が見えました。私は手を伸ばしてそれをつかんだと同時に、息を吐き出せました。

 目覚めたら、私はもう完全にティーナになっていました。

 それでも、すぐには信じられなかった。混乱もしていた。しばらくは様子を見るしかないと思いました。そうしながらも、私は何者なのかを考えました。

 三週間ほどし、ベッドから起き上がれるようになると、正体は明らかになりました。

 新聞の記事がきっかけでした。私が退屈しているだろうと侍女の一人が読み聞かせてくれました。そこには「聖女様」の特集があって、彼女がいたという異世界のことが細やかに書かれていました。私はそれで全部思い出しました。だって、そこに書かれている不可思議な世界が、私には少しも不可思議ではなくて、懐かしくてよく知るものだったのです。――そう、私は聖女様がいた世界で暮らしていました。

 そこからは早かった。私は「瀧紀香」という女性だったこと。年齢は二十八歳で、スポーツ用品を扱う会社に勤めていた。その仕事帰りに事故に遭った……ええ、きっとあの時に私は死んでしまった。そして、魂が飛び出してしまい、次元を超えて、世界を超えて、同じく事故に遭ったティーナの中にどういうわけか入り込んでしまったのだと思います。 

 私は打ちのめされました。

 だって、そうでしょう? 私は本当にティーナの身体を奪う気なんて少しもなかったのです。私が入りこんでしまったせいで、彼女がいなくなってしまったのなら……そんなことを思えば震えが止まりませんでした。でも、こんな話を誰に打ち明けられるというのでしょう。きっと事故の後遺症で頭がおかしくなったのだと思われてしまう。

 私はティーナとして生きるよりありませんでした。

 しかしながら、周囲を騙し欺き過ごす生は幸福とは呼べません。私はいつだって罪悪感、後ろめたさという苦悩と共にあったのです。

 私は解放されたかった。

 死んでしまえばいいのだろうか。そうすれば、再びティーナはこの肉体に戻ってくるかもしれない。妙案のように思えましたが、失敗したら? 死ぬことは恐ろしいですが、それ以上にお父……侯爵夫妻がいかほどに悲しむか考え胸が痛みました。私はこの一年半というけして短くはない時間の中で、ティーナの回復を心から願い看病する夫妻の姿を見てきたのです。一人娘のティーナを失うことがどれほどの悲しみになるのか。それならば、このまま私がこうして生きて、彼女として過ごすことが孝行というものではないか。これも運命と受け入れるべきではないか。

 そんなとき、侯爵夫人の私を見る目の中に不信を感じ取ったのです。

 母というのは偉大ですね。医師は頭を強く打った影響で好みや性格などが変わることもあると私に都合の良いお話をしてくださっていましたし、ティーナがいかような性格だったかわかりませんが、私は努めて立派な人間であるように振舞っておりましたから、それならばたとえ以前と違っていても受け入れられるだろうと浅はかにも思っておりました。ですが夫人は私に疑いを向けました。いい子であるとか、悪い子であるなど関係がない、ティーナか、ティーナでないか、それが重大であるのだといわんばかりに! その愛情の前に私はこのままティーナに成り代わって生きることは無理だろうと悟ったのです。






 ティーナ……瀧紀香は初めこそ固い口調だったが、どんどんと母親が子どもに寓話を読み聞かせるような穏やかなものに変わっていった。秘密の吐露が彼女の気持ちを幾分軽くしたようだった。


「悪魔祓いが来ると知ったときは、私の命運もこれで尽きるのだと思い恐れも感じました。けれど、これはチャンスであると考えを改めました。可能であるなら、ティーナを呼び戻してあげたい。もし、それが無理であるのだとしても、私がティーナではないという事実を打ち明けたかったのです」


 もっと早くにお話しするべきでしたね――最後に彼女はそういうと口を閉ざした。

 途端、はじかれたように夫人は両手で顔を覆った。指の隙間から小さな嗚咽がもれてくる。

 ティーナが何かに憑かれていると言ったのは他ならない夫人だが、心のどこかではそれが誤りであってほしいというのが本音だった。どうにも拭えない疑惑も、信仰する教会の使者が気の迷いだと太鼓判を押してくれたらば縋れるように思えたのだ。しかし、結果は正反対のもので、強い衝撃を受けた。

 侯爵は夫人の肩をそっと撫で支えながら、困惑の表情を浮かべ彼女を見た。

 その視線を受けて彼女はその美しい眉を下げた。


「大変筋道が通っているように感じられるお話です」


 唯一、冷静に事態を受けとめた使者が彼女に告げた。

 物語のよう……つまり作り物なのでは、と。

 悪魔が嘘をつくのは常套手段。騙されてはいけない。油断してはいけない。


「お疑いなのね」

「聖女と同じ世界から……というのがなんとも。貴方も聖女だと?」

「まさか! そのようなことありえません。この国の成り立ちを学ぶ中で、聖女様の存在がどれほど偉大なものか学びました。それに聖女というのは一人なのでしょう。もうすでにいらっしゃるのに、私が聖女であるはずがない」

「そうですね。確かに、聖女はすでにいる。間違いなく彼女は異世界から召喚されてきた。貴方が聖女であるはずはない………」


 ならば、何なのか。

 使者と視線が交差するが、彼女は口を閉ざした。

 わからない。本当に、彼女自身にもわからないのだ。


「……話はわかりました。確かに貴女のお話を信じるなら、貴方は私たち教会の定義する悪魔ではないのでしょう。しかし、ティーナ嬢とは別の人格である以上は、たとえ故意ではなくとも招かれざる者。私は貴方を排除しなければなりません」


 しばらくの沈黙ののち、使者は強い口調で告げた。

 彼女が善か悪かは大した問題ではない、人の身体を乗っ取った以上は、元の持ち主に返すべきなのだ。


「お待ちください!」


 意外にも、夫人が声を張り上げ、縋りつくように隣に座るティーナの肩を抱いた。

 驚いたのは彼女である。自分が偽物だと告げたというのに、抱きしめられるとは思わなかった。


「排除って、そんなこと……わたくしは娘が、ティーナが悪魔に憑りつかれているかもしれないと疑い、そのような恐ろしいことになっているならば救い出してほしいと願って、貴方に来ていただいたのですわ。けれども、悪魔ではないのなら、それを排除するなんて!」


「……奥様。彼女の話をすべて信じるおつもりですか? こう申し上げては何ですが、話が真実であるという保証はどこにもないのですよ。我らを騙すための狂言ということも考えられる。それに、彼女が身体に居座っていてはティーナ嬢はけして戻れない。ティーナ嬢をお見捨てになるつもりか」


「そ、それは……けれども」夫人は言葉を詰まらせながら、それでも震える声で言った。「もし、戻らなければ……ティーナは事故の折に死んでしまっていて、神様が慰めにと彼女の魂を導いてくださったとしたら……彼女を失えばティーナの肉体もまた死んでしまう。わたくしは、そのような事実に耐えられません」


 悪魔に憑りつかれているのであれば取り払ってもらえばいい。そのための使者を招いた。だが、状況はもっと深刻だった。ティーナの魂はひょっとしてもう天に召されてしまったのではないか。もしそうであるならば……もっとも考えたくない事実を口にしたせいか、夫人の表情は真っ青で今にも倒れそうだった。


「妻の言う通り、私たちは二度も娘を失うわけにいかない」

 

 続いて侯爵も、やはり悪魔祓いなどに見せるのではなかった、と言わんばかりに忌々し気に発した。

 侯爵は夫人とは違い、娘の中身が娘ではないと分かった以上、これまでのように愛することは難しいと考えていた。だが、ティーナを失う可能性があるならば、今のままでいることを望むというのは同じだ。というのも、ティーナには王子との婚姻の話が持ち上がっていたのだ。事故のせいで留保となっているが、回復したのならば進められる。ティーナを王家に嫁がせ、代わりに王族の血を引く公爵家の次男を養子にもらい侯爵家を次の世代に繋ぐ――祖先が守り続けてきたものを自分の代で終わらせるわけにいかない。

 二人の親としての思いは乖離していたが、現状を望むという目的は共通した。


「お二人ともそれでよろしいのか。たった一人の娘を取り戻すより、嘘を言っているかもしれない、この得体のしれぬ者の話を受け入れて、娘として愛していくとおっしゃるのか。それではあまりにもティーナ嬢が浮かばれないではありませんか!」


 しかし、使者もまた引き下がらない。

 ティーナではないとわかってしまった以上取り戻すよう動きべき、それが倫理として正しいことだと主張した。

 両者の間に重たい空気が流れる。


「私は、儀式を受けたい」


 それまで裁きを待つ罪人のように沈黙の中にいた彼女が告げた。

 自身を抱きしめる夫人の身体を離して宥めるように背を撫でる。


「彼の言う通り、ティーナが戻ってくる可能性があるならばそれにかけるべきです。だって、この身体はティーナのものです。それに……先程、私は死んで魂が抜け出たと言いましたが、ひょっとして死んではいないのかもしれない。事故に遭ってからの記憶はないので、死んだのだと考えてきましたが、今尚、元の世界で昏睡状態のまま生命維持装置に繋がれて生きている可能性だってある。そうならば、私もまた私の身体に帰りたい。本来あるべき姿に戻りたい」


 静かながら決意をもった口調だった。

 彼女は、ティーナに成り代わってからずっと、どうするべきか考えていたのだ。死ぬのは怖いし、世話になった夫妻を悲しませたくない――そう思う気持ちに嘘はないが、他にどうしようもないという諦念から選べるものを受け入れていたという面もある。しかし、どうしてもこの生は自分のものではないという齟齬が消えなかった。人の人生に、自分の喜びを見出して生きることなどできない。そんな気持ちで生きることは苦しみでしかない。それに、夫妻を見ていると、本当の両親のことも思い出されてたまらない気持ちにもなった。両親もまた夫妻と同様に自分が回復することを信じて、必死に看病してくれているのではないか。ならば、帰らなければ、帰ろうとしなければ――たとえ失敗して消滅してしまうことになろうとも! と彼女は息巻いた。


「……それに、ティーナはきっと戻ってくる気がします。実はここしばらく私の中でうごめくものがあるのです。どくどくと、身体が激しく脈打ち、まるで存在を主張しているかのように。きっと、夫人のティーナを思う気持ちに応えて、ティーナの魂が反応しているのではないかと、そのようにも思うのです」


 本来、入るべきではない身体に入った魂だ。何の拍子に離れてしまうかわからない不安定な状態なのだろう。ならば、きちんとした儀式をしてもらった方が、元に戻れる可能性も上がるのではないか。

 それでも夫人は最初反対した。せめて肉体だけでもティーナであるならば、それでいいとほとんど錯乱に近かったが。


「お母様には、本物のティーナを返してあげたい」


 彼女は夫人に向かい、なんとも神妙な声で告げた。

 身体だけではなく、中身も。本物のティーナでなければ、今はよくても、きっとそのうちティーナを乗っ取った自分に憎悪を向けることが想像できた。それはあまりに、悲しい。


 その言葉が決定打となり、侯爵夫人もついには儀式をすることに同意した。

 やはり我が子を、この手でもう一度抱きたいという願いを捨てきることはできない。


 話がまとまると使者は儀式のため悪魔祓いの陣を作りはじめた。

 使用人たちにテーブルや椅子を運ばせて、広い空間を作り、炭で床に円を描く。幾何学模様といえばいいのか、文字と線を組み合わせた見たこともないもの。

 それを眺めるだけで、彼女はふつふつと落ち着きを失いそうになった。腹の底から湧き上がってくる何か。熱く激しく燃え滾るような衝動をもたらす。


 出来上がると、彼女は円陣の中央に立つよう指示された。

 模様を踏んで消さないように注意を払いながら一歩、一歩、踏み込むと、進むごとに身体にかかる重力が増していくようで、額からは薄っすらと汗が流れた。何もしていないのに息が上がる。それは彼女が、ここしばらく腹の奥底に感じていた、うごめくものが乱舞しているようであった。

 真ん中に辿りつくと指を組み祈る所作をとる。

 

「お父様、お母様、これまで騙していてごめんなさい。

 けれども私は、迷い込んだのがティーナの身体で、貴方がたの子どもとして一時でも過ごせたこと、幸運でした。優しく励まして看病してくださったこと忘れません。どうか、お元気で。

 ティーナが、この身体に戻ってきますように」

 

 願いを込めて祈る姿に、使者の厳粛な声が重なる。 

 カトリシア教の経典の一節――悪魔祓いの呪文。

 やがて、円陣から鈍色の煙が立ち上りはじめ、彼女を飲み込んでいく。


「ああっ!」


 彼女の苦痛の声。火炙りのようにも見えるそれに、「ティーナ!」と夫人の悲鳴が響いたが、駆け寄ろうとするのを侯爵が抱き留めた。

 使者が最後の一節を唱え終え、パタリと経典を閉じると共に、煙幕の中で彼女が崩れ落ちる音がした。








 聖ドナテルロ教会の前に、豪勢な馬車が停まる。

 降りてきたのは或る侯爵家の娘である。


「それではお父様、お母様、行ってまいりますわ」


 華麗に身をひるがえして教会へ向かうティーナを馬車の中から侯爵夫妻が見ている。

 

 あの日――悪魔祓いの儀式を終えて、ティーナの身体を掌握していた者は消えた。

 円陣の中で倒れているところを助け起こすと、ティーナは目を覚まし、心配そうな侯爵夫妻に、にっこりと微笑んだ。それから、自分はずっと身体の中の、何処かわからないが深い部分に存在を囚われてしまっていたのだと説明した。どういう力が働いて、別の魂が入ってしまったのか、その理由は結局わからずじまいだったが、あの魂はけして悪いものではなかったのだろう。こうして身体を明け渡すことにも同意してくれたのだ。

 意識が沈んでいる間、ティーナは自分の振る舞いを顧みて、反省することも多かったという。その言葉の通り、高慢さは健在だが、それでも以前とは少し違う面を見せるようにもなった。あの出来事は、ティーナを大人にしたようだった。


 養生を終え、王都に戻ってからは、以前の生活に戻った。

 王子との婚約話も進められた。

 しかし……ここで問題が起きる。彼女が不在の間、王子は異界からやってきた聖女と親しくなっていたのだ。

 聖女とはその名の通り聖なる乙女。心身を神に捧げ国のために生きるべく召喚された娘が、たとえ王子といえ、否、国の行く末に関わる王子だからこそ、恋をするなど許されない。最も強く反発したのはカトリシア教会である。神のための聖女が汚れたとなれば、いかな災いが降り注ぐか――教会は二人を引き離し、聖女を修道院に送り厳しい監視を付けた。

 残された王子を慰めたのが他でもないティーナだった。

 事故に遭う前、婚約間際の二人だったが、ティーナが生死の境を彷徨い、また一命をとりとめた後も、王子から贈り物はおろか、手紙の一通もなかった。王子はティーナを毛嫌いしていた。それもまた、ティーナの傲慢さが起因するので責められはしない。とはいえ、機能回復訓練は相当の痛みを伴う。懸命になっている間、王子は他の女にうつつを抜かしていたのである。裏切りに烈火のごとく怒りを向けるかと思われたが、意外なことにティーナは静かに微笑んで


「仕方ありませんわ。わたくしは戻らないかもしれなかったのですもの。殿下を不安にさせたわたくしの責任でもあります」と謝罪までした。


 それは王子の耳にも入った。事故後に、ティーナの性格が変わったことも聞かされていたが、信じられないと相手にしなかったのだが、どうやら本当に変わったらしい。これまでの様子とは幾分異なるティーナを訝しがりながらも、そんな風に言われては拒絶もできない。王子は後ろめたさから、また立場を思いティーナと会って話をした。

 その際も、ティーナは王子にこれまでの振る舞いを詫びた。


「殿下。わたくしは事故に遭い、生死の境を彷徨う中で、自身の行いを振り返る時間を持ちました。そして、後悔したのです。わたくしは、人の心を慮ることもなく、貴族の娘に生まれたことを、贅沢な生活をできることを、当然のものとしてまいりました。とても恥ずかしく思っております。殿下に見限られるのも当然ですわ。……ですが、わたくしは変わりましたの。どうぞ、これからのわたくしをご覧になって?」


 自分の口から変わったと告げるのもどうなのか……やはり高慢であると王子は否定的な気持ちになりながらも、しかし、確かに幼く我儘であったこれまでとは違うものを感じた。何より、触れることの許されない高貴な花のごとき雰囲気が心をくすぐる。

 以降、二人は頻繁に会った。

 会うほどにティーナのこれまでになかった様子――宝石や菓子の話ばかりだったのが、王子の話に耳を傾けようとし、国政についても学び、王妃としてふさわしくあるよう努力する姿勢――を見て王子の頑なだった心が溶け出した。否定的な気持ちが消えていけば、ティーナの少々高飛車な物言いも、気高さに感じられるから不思議である。けして折れない高貴な花を手折ってみたい。欲望は膨らんでいき、気づけばティーナに夢中になり、心から愛するようになっていった。

 そして、つい一週間前に盛大な婚約式が行われた。


 順風満帆。ティーナが事故に遭ったときは、絶望し、命を取り留めてからも魂が入れ替わったなどという信じがたい困難に見舞われたが、すべてが元の通り。いや、それ以上の幸せを手に入れた。

 夫人の目にも不安の色はもうどこにもない。

 何もかもが神の御意思による試練だったのではないかと乗り越えた今はそのようにも思われた。

 そして、平穏な日々を取り戻してみれば、思い出すのは、あの件の魂。彼女はどうなったのか。望んだように、自身の世界に帰れたのか。――確かめようはないが、せめてそうであれと祈るため、週に一度、ティーナは教会を訪れている。初めは夫妻も共にすると申し出たが、これは自分の使命だと言い張り、夫妻はその気持ちを受け入れた。


 ティーナの姿が教会の中へ消えてしまうと、夫妻を乗せた馬車がゆっくり動き始める。それを見送るように聖ドナテウロ教会の尖塔に明るい陽の光が降り注いだ。

 


















 教会の祭壇の下に秘密裏に作られた隠し階段を迷うことなく降りていく影。

 しばらく進むと広い空間に出る。そこにはまた祭壇があった。ただし、地上にあったそれとは随分と趣が違った。上の祭壇には神から信託を授かる王の絵と、それを祝福するがごとく天使が舞うステンドグラスが左右に飾られていたが、こちらは空席となっている王座を前にして民たちが祈りを捧げている。その多くがカトリシア教の司祭服を着用しているが……黒色の司祭服――主に埋葬式に使われる色である。これは、王の死を悼む絵なのだろう。


「ご機嫌麗しゅう、ティーナ嬢。いや、未来の王妃陛下とお呼びすべきかな」


 声が響いた。

 司教のものである。


「ふふ、ようやくここまできたわ」


 ティーナは総毛だつような酷薄な笑みを浮かべながら、祭壇の前に用意されたベンチに腰を下ろし、大胆にも足を組む。スカートの裾がひらりと舞い、細い足首が露になった。

 その姿勢のままで祭壇の絵を見上げる。

 屈辱の日を忘れぬために描かれたそれは、もう数百年以上前の出来事。魔王が聖女により消滅させられ、魔王軍は統率を失って敗北を許したことを示している。

 しかし、悪魔たちはそれで諦めたわけではない。ひそかに人間の中に溶け込み、時を待った。

 このカトリシア教は隠れ蓑の一つ――悪魔が神を信仰する真似をするなど誰も思うまい、と人間による残党狩りの目を掻い潜るために作られたものだ。

 故にカトリシア教が真に信仰しているのは神ではなく悪魔である。すべての教会にはここと同じように地下に秘密の祭壇が設置されており、経典にも巧妙に悪魔崇拝を紛れ込ませている。最初は身を隠すためのものだったが、国中に広まっていく中で、次第に悪魔崇拝という祈りが力に変わっていった。悪魔もまた、神と同様に祈りで力が増幅する。そうとも知らず悪魔に祈りを捧げる者たちのおかげで、千年はかかると思われた魔王復活が早まった。

 機は熟した。

 問題は肉体である。魔王の魂の復活はできても、肉体は滅んでしまっているため受け皿となる依り代が必要だ。魔王ほどの強大な力を持つ存在がただの悪魔や人間の身に憑依すればその器ごと壊してしまう。特別の器が必要だった。

 依り代をつくる――人間の魂を食らい悪魔のそれと融合させ肉体に馴染ませ、その特殊な肉体を母体にして、十月十日じっくりと魔力を浴びせ腹の中で育てられた子は最高の器になる。

 白羽の矢が立ったのが王子の婚約者である侯爵家の娘・ティーナである。王妃となる予定の女の子ども、即ちこの国の次期皇太子として生れ落ちれば、あとは時間を待てば労せずに国ごと手に入る。前回は力を駆使して攻め込むだけだったが、今回は国家の中枢から転覆を計る。

 まずティーナの魂を引きずり出すために、馬車の事故を起こした――だがここで最大の誤算が。ティーナの魂を食らうところまではできたが、あろうことか同時に入り込んだ別の魂に肉体の主導権を握られた。これには焦り、どうにか奪い返そうと試みるも、何者なのかその魂は強靭でどうにもならない。内側からだけでは無理ならば、外側からも圧力をかけるよりない。怪しまれないよう、ティーナの母である侯爵夫人に噂を吹き込んだ。夫人はカトリシア教の熱心な信者である。機会はいくらでもあった。ティーナに悪魔が憑いているかもしれないと不安に駆られた夫人から悪魔祓いの依頼が舞い込んだときはほくそ笑んだものだ。

 それでも儀式がうまくいくのかは賭けであった。抵抗にあうかもしれない。そのような心配もあったので、あの魂が聖女と同じ異世界から来たと知らされたときは驚いた。計画に気づかれ、魔王復活を阻止するための何かなのかと怪しみもした。だが、あの魂自ら儀式を受けると申し出た。

 そのおかげか、儀式は思いのほか上手くいった。

 悪魔祓いのためのものと偽って悪魔の力を増幅させる魔法陣に立たせ、あの招かれざる魂を追い出し、ようやく予定の通りティーナの肉体も手に入れた。

 これで次の段階に進める。

 ところが今度は王子が別の女と恋仲になっているという。その相手がよりにもよって憎き聖女。しかし、これはかえって都合が良かった。聖女にあるまじきとカトリシア教会が拘束する理由をもたらしてくれたのだ。おかげで、気がかりだった相手は今ではこちらの掌中にある。

 本来なら忌々しいあの存在をさっさと殺害して葬りたいが、不審がられてもいけないし、死亡したことで別の聖女が召喚されても困るので、厳しい監視の下に置くことにしたのだが……あの娘は本当に聖女なのか。王子と恋仲になったかと思えば、今度は監視についている男に色目を使っているらしい。根っからの男好きのようだが、聖女としては不適格。神もとんでもない女を選んだものだ。

 あの魂といい、清らかさなどない聖女といい、少しばかり予想外のことは起きているが、今回はこちらに軍配が上がる風向きなのだろう。悪魔たちは確信している。


「ああ、待ち遠しいわ。もうすぐね」

「……ええ、ですが、くれぐれも慎重に。ここまできて貴方の正体がばれるようなことがあっては困ります」

「当然よ。けれどそんな心配は無用よ。だって、また別の存在がティーナに成り代わっているとは僅かも考えていないのですもの。あの魂が出て行ったなら元に戻るって信じて疑っていないのよ? 一度起きたなら二度目もあるかもと用心するべきなのに、人間って存外愚かで可愛らしいのね。ふふ、でもおかげで私は楽ができるわ。信じ切っている人間はなんて扱いやすいのでしょう! だから、あの魂が一度憑りついてくれてよかったと思うべきね。アレはわたしたちの救世主だったのかもしれないわ。……ええ、きっとそうよ。だから、はやく憑代を産み落とし、今度こそ我が王に栄光を!」


 考えるだけでぞくぞくする――ティーナは来たるべき日を夢見てうっとりと微笑んだ。

読んでくださりありがとうございました。


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