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小瓶の中の宇宙

作者: ポテイト

 ――その喫茶店には、宇宙があった。


 喫茶店に宇宙がある。そんな噂を聞いた客が想像することは、だいたい似たようなものである。小さなプラネタリウムでも併設されている。高価な望遠鏡が設置されている。はたまた単に標高の高い位置にあって、物理的に宇宙に近いと言えるだけ。

 しかしその喫茶店に宇宙があると言われる、そのわけにはどれもほど遠い。なぜなら正解は、誰もが想像し、共有し得ることではないからだ。事実は小説よりも奇なりとはよく言ったものである。

 その喫茶店が抱える宇宙は赤子にすらそこに存在することが理解できど、どんな天文学者や物理学者でもその現象を理解することが出来ず、未就学児がじっと見つめれば様子を伝えられると思ったとて、どんな文豪でさえそれを表現することは敵わない。

 結論を言ってしまうと、カウンター席から見える棚の中、部屋の端から端まで並べられた小瓶の一つに、イカ墨を焦がしたのではないかと思えるほどに真っ黒の物体が閉じ込められている。それだけである。ただ物体と呼ぶにはあまりに実態が曖昧で、瓶にこれ以上ないほど詰まっているだけに、瓶そのものを黒く塗りつぶしたのではないかと錯覚してしまう。そうでないと言える根拠は挙げるとキリがないが、一つに度々流れ星のような光が黒の中を駆けることがある。そんな様子が、まるで宇宙のようだと噂を広げたのだろう。

 しかしそれだけでは、妄想が噂になるまでの原因としていささか無理があろう。そこでもう一つ、瓶の中の宇宙の存在を支える根拠を。

 その店は、たった一人の店員で切り盛りされていた。紬という名の、喫茶店のマスターと呼ぶにはあまりに儚く若すぎる女性である。その女性、紬が「そこに入った小瓶は宇宙で間違いない」、なんて妄言じみたことを吐くのだ。もちろん年齢から、ボケてしまっているなんてことはない。またその発言以外には、ご近所に挨拶を欠かさず、何より一人で喫茶店を経営してしまっているなんていった、しっかりとした女性である。気が狂っていることも考えにくい。

 だからこそ確信こそないが信憑性があり、客を呼び寄せる大きな要因となっていた。実際に来店した宇宙マニアがその小瓶に失望し、ケチを吐いて帰ってしまうことも少なくなかったのだが。



 ――チリンチリン


 来店を知らせる鈴が鳴る。

 姿を見せたのは初老を迎えたと思われる、少々ラフなスーツに身を包んだ、紳士を鏡に写したような男である。男は店内に入るやいなや、軽く会釈をした。

 応じて紬も軽い会釈と、落ち着いた声で、いらっしゃいませ、と一言。音楽の流れていない店内では、もとより居たお客の静かな話し声しか聞こえない。そのため小さな声でも十分なのである。むしろその雰囲気がこの喫茶店の特徴であり、良さなのだろう。


「キリマンジャロを」


 いわゆる宇宙の小瓶が真正面にくる位置のカウンター席に座った男は、メニューをざっと確認してすぐに注文した。

 かしこまりました、とこれも紬が落ち着いた声で反応すると、すかさず男は咳払いして、口を開く。


「ちょっとお尋ねしたいのですが……」

「はい、なんでしょう」

「私、この喫茶店の噂話に興味をひかれまして伺ったのですが。なんでも宇宙の一部が閉じ込められていると」


 紬が少し黙ると、その間換気扇の回る音がしっかりと聞こえた。日中どこに行ったとて耳にすることの無いような小さな音であるだけに、その空間は睡眠に入る直前のような空気を醸し出す。


「そこの小瓶に興味がおありで?」

「そうです、少し手に取らせていただきたいなと」

「申し訳ないのですが、それは出来ないんです」

「……何故です? 壊したり蓋を開けようとはしませんよ?」


 男が感じたのは紬のケチくささに対した怒りなどではなく、言葉通りの単純な疑問であった。この喫茶店が宇宙の小瓶の存在で多少なりとも有名になっているのなら、それを全面に押し出すことは商売人として普通の考えである。もしそれが嫌なのならば、わざわざ客の目に付くところに瓶を置いておく必要はない。こうして手に取らせてほしいと言う客など、いくらでもいるからだ。

 対して紬は、少し困ったような顔をして、しかし調子を乱されることなく、ゆっくりとコーヒー豆を挽きながら淡白な口調で答えた。


「動かせないんですよ、あの瓶」


 疑問の答えが更なる疑問で帰ってくると考えていなかった。それだけに男は始め、絶句したように言葉が出なかったが、紬はそんな男の様子にはお構いなく話を続けた。


「あの瓶は触ろうにも触れないんです。少しでも衝撃を与えようものなら、ガラスが崩れて中身が膨張し、大変なことになってしまいます。だから私が貴方に手渡すことすら叶わないんです」

「膨張……といいますとどのくらい?」

「中身が宇宙ですので、ご察しいただければ」


 疑問を解決するための疑問。その疑問をさらに解決するための答えは、実にすっとんきょうでにわかに信じ難いものであった。

 見た目、光の反射。上辺だけなら真っ黒といえども、宇宙の小瓶は周りに並んでいる小瓶と全く変わらない。それならやはり問題は中身である。本当に中身が宇宙ならば、その膨張は無限に達する。無限に膨張するだなんて、普通に考えれば妄言も甚だしい。しかし紬はそんなことを吐くような目をしておらず、両の眼でしっかりと男を捉えていた。少なくとも男にはそう見えたのだ。

 紬が嘘をついていないとなると、次に考えるのはその小瓶の中の宇宙、そのものである。無限に膨張するのならばたしかに宇宙であって間違いないのかもしれないが、それなら今も小瓶の中で膨張し続けていると考えるのが普通だ。瓶が触れただけで崩れてしまうような不安定な状態にあるのだから、いつ瓶に亀裂が入ってもおかしくないはずなのだ。それがない、そして紬も気にしている様子がないのならば、


「それは宇宙と言うよりか、ビッグバンの起こる前の状態なのでは?」

「そうともいいますね」


 男はこの短時間、不思議と紬を疑うことなく、思考回路を散々に張り巡らせていた。これだけ無感情で冷たさを感じる言葉しか聞いていなくても、その言葉を信じてしまうのは実に不可解だが、男としては妙に納得してしまっていたのだ。


「キリマンジャロ、お待ち遠様です」


 小さな音をたてて、コーヒーカップと下に敷かれた白い皿が男の目の前に置かれる。ミルクや砂糖はついていない。

 コーヒー一杯でこんなにも注文から届くまで時間がかかるのは、個人経営の喫茶店ならではだろう。しかし男には、宇宙の小瓶に対する興味が深まるのにむしろ短かすぎる時間であったほどだった。


「では、せめて写真を撮らせていただいても?」

「もちろん構いません」


 返事を聞くなり男は革製の黒いトートバッグの中から、一眼レフカメラを取り出した。すぐ近くにある小瓶を撮るにはあまりに大袈裟であるとも思えるが、男にとってその小瓶はそれだけの価値があったのだ。

 あまりに古い型であるため、しぼりから焦点まで、全て自分で合わせなければならない。男は慣れた手つきで小瓶に焦点を合わせて、小瓶の黒を映えさせるために周りとのコントラストを強くした。しかしじっとカメラに目を当てて構えるだけで、シャッターを切ることはない。カメラを揺らさないように息を殺して、流れ星が映るその瞬間を逃さないよう集中していたのだ。

 いつの間に元いた客は会計を済ませ、店内には紬と男の二人だけになっていた。紬は帰った客のコーヒーカップを下げると、男の集中を邪魔してはいけないと思ったのだろう、静かに本を読み始めた。

 コーヒーから立ち上る湯気が天井に着く前に見えなくなって、ほのかな熱を周囲に残す。降り始めた雨が店内にも少しばかり聞こえて、無言を際立たせていた。


 ――ジー、バシッ


 子気味のいい音が響く。デジカメとは違った、機械音ではなく物理的な音である。


「……上手くいきませんね。たしかに光が見えたのですが」


 いわゆる流れ星が光る瞬間は、瞬きほどに短いものである。したがってその光を視認してからシャッターを押すようでは、なかなか狙った写真を撮ることは出来なかった。


「ちょっと貸してみてください」


 読み始めたばかりの本に栞を挟んで閉じた紬が、男にそっと手を伸ばして声をかけた。


「使い方は分かりますか?」

「以前少し齧った経験があるので、ある程度は」


 その言葉を聞いて、男は首から下げるためのカメラストラップを巻き、カウンターを介して紬にカメラを手渡した。今度は紬が息を殺して、宇宙の小瓶をレンズを通して見つめる。またも時間が止まったように、雨の音だけが店内を満たした。屋根から垂れる大粒の雨水が外に放置してある灯油の缶を打ち付けて、コン、コン、コン、と階段を上がるように鳴らしている。男は思い出したようにコーヒーを静かに啜った。


 ――バシッ


 予兆もなく切られたシャッターは、そのまま紬の迷いのなさを表していた。光に合わせてシャッターが切られた、というよりかは、シャッターに合わせて小瓶が発光したように思えるほどそのタイミングは完璧だったのだ。


「撮れましたよ」


 男が写真を確認してみても、確かにそこには、瓶の対角線を描くような一本の光が、周りに小粒の光を撒きながら映っていた。

 その黒をさらに黒くしたような瓶の中との対称性は、さながら宇宙そのものであった。


「……これは凄い。一体どのような方法で?」

「勘ですかね」


 無感動をわざわざ表現するように思えたほどに変化しない紬の表情と声のトーンは、その小瓶と共に長すぎるほど暮らしていたことを示唆していた。そもそもそうでなければ、勘なんかいう不確かなもので宇宙の小瓶のご機嫌を窺えるはずもない。

 男はまだ冷める様子もないコーヒーを喉に流しきると、カメラをトートバッグにしまって席を立った。


「お会計、お願いします」


 ほんの少しだけ移動して、レジの隣へ。目的を果たしたと言えば疑念の余地は残るが、これ以上何をやり残したというわけでもない。男は小瓶に触れられずとも、不思議な写真を撮れたことに十分満足していた。だからこそ、その感動を新鮮なままに帰路に着きたかったのである。


「お代金は必要ないです」

「……え?」


 男は狐につままれたような気分になった。彼自身、お金が無いなどと言っていなければ、事実そんなこともない。また次来るかも知らないのだから、付けておくことなども出来ないはずなのだ。


「何故ですか? 私はたしかにキリマンジャロを頼みましたが」

「はい、知っています。でもお金を受け取る必要はないのです」


 まるで機械のように紬は受け答える。

 どういうわけだか紬が確固として代金を受け取らないようにしているのには、中々理由がつきそうにない。しかしその意思が簡単に揺らぎそうもないことには、男もなんとなく分かったつもりであった。


「最初から最後まで本当に驚かされる喫茶店だ」


 嫌味でもなければ、文句でもない。ただ男の興味は、宇宙の小瓶から紬を含む、この喫茶店全体に広がっていた。

 だからこそだったのだろうか、男は言うつもりもなかったのだが、また来ます、と言いながら入口の戸に手をかけた。


 ――チリンチリン


 ドアを開けた瞬間だけ、雨音が大きく聞こえる。天気は小雨から土砂降りへと変わっていた。下がった気温とこれ以上上がりようのない湿度がスーツ姿の男には、いささか居心地の悪いように感じられる。

 男は傘を持ってこなかったことを後悔しつつ、駅までそう遠くないから雨の中を走り抜けようと、大切なカメラの入ったトートバッグを抱え込むように背中を丸めた。

 その瞬間である。


 「おっと!」


 地震が突如そこらの地域一帯を襲った。それも震度一、二くらいのやわなものではない。立っていられないほどの大きなものである。

 男は地面に手を着いてバランスを取って、緊急事態の緊張感押されつつ、しかし頭は冷静に一瞬ヒヤリとした感覚に襲われた。それは地震そのものに対してではなかった。

 そう考えた矢先、出たばかりの喫茶店のドアを開けて宇宙の瓶を見れば、それはちょうど棚から振り落とされて地面に着く直前であったのだった。

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