第1話:2018年・東京
「見ろイツカ! ボーリックだボーリック!」
俺はヘッドをぐるぐる回してピッチングマシンを威嚇する。両足を大きく開いて腰を引く、極端なクラウチングスタイル。隣のケージのイツカが冷たい視線を送ってくるがいつものことだ、気にしない。
――ガシュン。マシンが作動し、迫りくる白球。
「俺が打つ!」
ボールの軌道を焼きつけるようにくわっと目を見開く。武士が刀を抜くがごとく狙い澄ませた一閃が――
「ああ~」
振り抜いたバットはボールの30センチ上を空振り、勢い余った俺は尻もちをついた。
「くっそ、ならば次はオバンドーで……」
悪態をつきつつ立ち上がる俺の横には、軽快に白球を弾き返す少女の姿が。俺の幼馴染にして現同級生のソフトボール部主将、奈良原イツカである。
「エージ、あんた野球大好きなくせに本当へたねえ」
ライナー性の弾道が、遠く掲げられた的の右横15cmを直撃。あーおしい、とイツカがぼやいた。「HOME RUN」と書かれた的に当たれば景品のうまい棒がもらえるのだが、彼女の足元にはすでに紫色のスナック菓子が山と積まれている。150センチと小柄の体から次々と繰り出される豪打。
「いやー、たまのオフに白球を弾き返すのは楽しいな!」
「何言ってんのよ、私はオンのときにいやっつーほどボールとおっかけっこしてんの。そもそもあんた帰宅部でしょ、オンもオフもありゃしないじゃない」
しかもかすりもしてないのによく楽しめるわね、とイツカが再びバットを構えた。
「ソフト部だって野球部だって、オフの日までボール触りたくないの。警察官だって非番の日に刑事ドラマ見たくないと思うわ――よっと!」
キィン、と鋭い音とともに放たれる大飛球。一直線に飛んだ白球は見事的のど真ん中をとらえ、本日十数度目の「的中」を示すランプが点灯した。
「やったあ!」小さく跳ねたイツカが、うまい棒もらってくる~!とケージから飛び出していった。
「しかしマジでイツカのやつ、バケモンだよな……」うまい棒の在庫が切れちゃうんじゃないか。俺はバッティングセンターの経営を心配し始めた。
いつのまにか、俺たちの後方にはギャラリーができている。
「女の子だぞ、何本目だよ」「すげえな……」「しかし横の男は何してんだ」
動画を撮影しているのだろうか、スマホを掲げているものもいた。
それもそのはず、俺とイツカが陣取っているバッティングゲージに掲げられた球速表示は「時速160キロ」。ここは都内唯一の、100マイル超えピッチングマシンを備えるバッティングセンターなのだから。
俺は青島エージ、高校2年、帰宅部。趣味は野球“観戦”だ。
いや、俺の野球観戦は「趣味」の域を超えている。アマで解説齧ってると言ってもいい。というかもはや観戦の腕前はプロ並だ。何しろ――
「あんた、そんな野球好きなら自分でやればいいのに」見物人の人垣がぱかりと割れる。100マイル打ちのモーゼもとい奈良原イツカが、うまい棒をくわえながら戻ってきた。揺れる栗色のショートボブ。俺はマシンにコインを追加しながら答える。
「それとこれとは別もんだ。オーケストラの指揮者が楽器持ってるか? サッカーの監督がスパイク履いてるか?」
「だからってねえ、あんたウチの高校の硬式野球部、軟式野球部、ソフト部の全部の試合観戦に来るのどうかと思うよ? 『エージくんまた来てる』『ブラスバンドでもないのに』『なんだか気持ち悪い』『スコアブック5冊も持ってた』『気持ち悪い』って評判よ」
「いくらなんでも気持ち悪がられすぎだろ! 確かに夏初めは予選がかぶるから大変なんだよ。こないだなんか公式・軟式・ソフト部と妹のリトルリーグが重なって一日4試合ハシゴしたからな、クワトロヘッダーだよ」
「さすがの私でも引く」
「でもいいだろ、おまえのクセも矯正できたし」
「まあね。気持ち悪いのは変わりないけど」
イツカがニッ、と笑ってまつ毛を揺らした。
俺がイツカをこのバッティングセンターに連れ出したのは2ヵ月前のこと。練習や試合で見ていた打者・奈良原イツカは、速球には強いが変化球にめっぽう弱かった。そんな彼女のフォームをつぶさに観察した俺が、このイカれた速度がウリのバッティングセンターに誘ったのだ。
当初、俺の真っ黒になったスコアブックとフォームを(勝手に)動画撮影したスマホを眼前に突きつけられた彼女は怯えたような表情を見せた。まあ当然か。
「ちょ、ちょっと待ってよ。いろいろと言いたいことは置いとくとして――私がカーブやスライダーに弱いのはわかったけど、なんで豪速球打たなきゃなんないの? 私ストレートには強いんだよ」
しかも160キロ球投げてくる高校生なんているわけないじゃない、と困惑しつつも反論する幼馴染。だからなおさらだ、と俺は続けた。
「イツカ、おまえのバッティングフォームはすばらしい。最短距離でバットが出ているから速球にまったく振り遅れていない。おまえの選球眼のよさはその類まれなるスイングスピードによるものだ。スイングが速いからこそ見極める時間が十分あるし、ボール球にも手を出さないからな。ほら、おまえの出塁率にも表れているだろ」
「詳しすぎて引く」
だから、と俺は半歩後ずさる幼馴染の肩をつかんで力説する。
「おまえが変化球をとらえられないのは、その完璧なフォームゆえ『球を待ちすぎている』からだ。言い換えれば、変化球が最も“変化している”ポイントでインパクトしている」
「ひぃ」
俺はポケットからスマホを取り出し怯えるイツカの眼前に突きつけた。
「よく見てみろ、これがこないだの練習試合のイツカの打席だ。スローモーションで撮影してある。去年の冬と比べてみるか? あっでも安心しろ、このメニューをこなしたからといってからといって速球が打てなくなるわけじゃ――」
「ひいぃ」
――詳細割愛。つまりは、『変化球は“変化したて”をぶったたけ! 豪速球に慣れて初動をワンステージ引き上げよう作戦』と名づけ、探し当てたこのバッティングセンターで彼女のフォーム矯正を敢行したのである。
当初こそ半信半疑だったイツカであるが、結果、練習翌週の試合では5打数4安打2本塁打6打点の大活躍。ソフト部も見事3回戦進出を果たしたのだ。
そこからイツカは野球オタクである俺のことを多少は見直してくれたらしい。相変わらず気持ち悪がられてはいるが。
「だからって、なんであんたまで160キロのケージにいんのよ」
それでもイツカの悪態は尽きない。
「なんでって、俺だってアドバイザーとして実際に球を見ておかないと無責任なことは言えないからな」
俺は18.44メートル先、うなるピッチングマシンを睨みつつ答えた。
「あとおまえの部のみぃちゃん、肩直ってるか? 送球のときの肘、角度がまだ去年よりちょっと低いから気をつけて見てやってくれ。それとりこぴんは変化球捕るときにお尻を引くクセがあるから声かけてやんないとバレバレだぞ。ああそうだショートの――」
「ほんっと一歩間違えれば新手のストーカーよ!? いやもう二、三歩ぐらい踏み外してるかも……」
悲鳴に近い反論が聞こえるが、気にしないことにする。
ドン引きしながらも、「みぃちゃんの古傷と、りこのキャッチングね……」とイツカは復唱した。俺は笑って軽口を叩く。
「しかしイツカ、おまえ最近まで『長打率』すら知らなかったくせに、よくソフト部キャプテンがやれてんな」
「バカにしないでよ、長打率ぐらい知ってるっつーの。バッターが二塁打以上の長打を打つ確率でしょ」
「違ーよ! 長打率っつーのは――」
「わっバカエージ、前見て前!」
しゃべくりながら隣ケージのイツカへと歩み寄った俺は、いつのまにかマシンの真正面に来ていたらしい。と同時、160キロピッチングマシンがアームを振り下ろす音がした。
「エージ!」
「ガシュン」
「ファッ!?」
最期に見えたのは、カメラフレームいっぱいどアップの白球。108あるというその縫い目は確か煩悩と同じ数だったはずだ――。
俺の意識はここで途切れている。――ただし、この世界での意識の話だ。