満州事変
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ありがとうございますm(_ _)m
あと、主人公が登場するまではプロローグのような人物の視点で書くことは無いのでそれまでお付き合いしてくれると嬉しいですm(_ _)m
日本は日露戦争後の旅順に関東都督府を置き、第一次世界大戦後には軍部が独立機関となって抑制がきかなくなり、独走しやすい体制になった。
これが関東軍である。
中国大陸では史実通り中華民国が軍閥によりバラバラになり結果的に国共合作がなされたのだが、反帝国のためではなく反軍閥のためであった。
その後、蒋介石は北部の軍閥を倒して中国を統一するため北伐を開始した。
しかし、上海クーデターが起こり共産主義者に弾圧を開始したため国共は分離し、国共内戦が勃発し国民党内でも混乱があり一時北伐は中断された。
その後、蒋介石が混乱をおさめ第二次北伐が開始された。
一九二六年 六月一日
国民政府から関東軍に対して極秘に使者が送られた。
内容は、我々は共産党との戦いに手が一杯であり大規模な軍事行動を起こしずらいので、北京から本拠地の奉天に逃れるであろう長作霖(中国北部の軍閥有力者)を暗殺した上で満州の軍閥勢力を攻撃しとほしいとの依頼だった。
関東軍はこの依頼を快諾し、この混乱に乗じて満州国を建国しようと企んでいた。
六月四日
奉天近郊の皇姑屯にて関東軍(河本大作大佐が中心)による長作霖爆殺が行われた。
その後、奉天派の軍閥が混乱している隙に一気に満州各地に軍を進撃させて、満州全域を支配下に置いたのだった。
この話を聞いた日本政府は大騒ぎになっていた。
国際社会からの非難は避けられず、どうしようかと考えていた時昭和天皇の耳にこの事件が入り、激怒された。
「関東軍はすぐさま全軍を関東州(旅順)に撤退させよ」
とおおせられ、その勅書はすぐに関東軍司令長官に届けられさすがに大元帥様には逆らえず軍を撤兵させた。
日本政府はこの関東軍による暴走での後始末に躍起になった。
まず、関東軍の司令長官や中心となった河本大作大佐等を軍法会議に掛けて禁固刑とし、国際社会に向けて軍部の暴走であると説明した。
次に国民政府との話し合いであるが、満州地域の軍閥が壊滅した以上その防衛にはもちろん国民政府が請け負うべきであるが、共産党との内戦に手一杯であるからして、その防衛を関東軍に依頼してきたのだ。
日本政府は当初、拒否する意向であったがもしソ連軍が南下してきたら同盟国である韓国が危機的状況に陥る可能性がでてくるので受諾する見通しになった。
だが、長期間も軍を駐留させては国際社会から非難を浴びるだろうし、何よりソ連を刺激させる可能性もあるので中国の主権の下で満州に自治政府を設置してそこに独立守備隊(軍閥の残党が中心)を創設することとした。
さらに、日本も暴走のためとはいえ地理的な特性や資源といった魅力的な土地に少なからず影響力を残したいと考え国民政府を積極的に支援する事を引き換えに満州自治政府の勢力内でのある程度の権益を獲得することに成功した。
しかし、日本には軍と政治が完璧に分離されているという特異な国家体制をどうにかしなければならないという課題が生まれた…
この一連の事件を
『満州事変』
という(もちろんリットン調査団は結成されていない)
満州の事件も片付いてきた時、またしても災難が降り懸かった。
一九二九年 十月二十八日
アメリカのウォール街でのぼりつめていた株価が突然暴落を始め、世界中に大規模な恐慌の嵐が吹き荒れたのだ!
当然日本にもその影響が及んできたが、韓国の企業誘致や密接な経済協力体制を作り、さらに満州での開発等で経済の安定を計りそのおかげで他国ほどの大規模な影響は無かった。
そんな恐慌の中でも軍縮条約に引っ掛からない巡洋艦が世界中で建造されており、軍縮のせいで更に軍拡が広がっている現状がありついに
一九三○年 五月
ワシントン海軍軍縮条約にて日本が主張しようとしたが断念した補助艦保有量を制限するロンドン海軍軍縮会議が開催されることとなった。
きしくも、日本が作った画期的な巡洋艦が原因であった…
作者『難しかったです(汗)
世界恐慌などの経済問題は難しく素人が書くとおかしな点が多々出てくると思い、さらっと流しました
すみませんm(_ _)m
あと、おかしな点や修正した方がいい点などありましたらご指摘よろしくお願いします!』