日露戦争その2
陸軍では八月に、第一軍、第二軍、第四軍が遼陽にほぼ集結した。
第二軍が南側から正面攻撃を仕掛けて、第一軍が東に迂回して攻撃した為、ロシア軍は各戦場に兵力を分散しなければならなくなり、主力戦で日本軍に押されるようになってしまった。
このことで、ロシア軍満州総司令官のアレクセイ・クロパトキンは退路を遮断されては後退戦術を行う事が出来なくなると恐れ、戦略的撤退を行い奉天への撤退を命じた。
日本軍も兵力の消耗や疲弊もあり、追撃戦を行う事が出来なかった。
これにより、遼陽は占領する事が出来たのだが、ロシア軍の撃破には失敗してしまった。
その後の沙河会戦で、ロシア軍は攻勢にでるが、日本軍に返り討ちに遭い失敗に終わる。
そして、沙河で日露両軍が補給を待つ間に旅順から乃木大将が率いる、第三軍が合流した。
第三軍は史実より遥かに短期間で、しかも最小限の被害で旅順を攻略し、まだまだ砲弾に余裕があった。
それに加えて内地から支援物資が続々と到着してきたのである。
これは、旅順攻囲戦の戦訓によるものである。
だが、これがいけなかった……
この時、ロシア軍には欧州よりグリッペンベルグ大将が着任し、日本軍への大攻勢を立案した。
まず最初にミシチェンコ中将が、威力偵察を行った。
この偵察は、これから何らかの軍事行動を行う前兆である、と満州軍総司令部は警戒を促したものの、現地の日本軍はある程度の砲弾と第三軍の合流による
「油断」が生じたのである。
その後、グリッペンベルグ大将が10万もの大軍で攻勢を仕掛けて来た。
日本軍は西側から
秋山支隊(秋山好古少将が率いる、8000人程の騎兵集団)、第二軍、第四軍、第一軍、第三軍は後方でどの陣地にも援軍として駆け付ける準備をして待機
という陣容であり、ロシア軍は一番貧弱な守りである秋山支隊に攻撃を開始した。
秋山支隊は最初、油断しており本格的な攻勢ではないだろうとしていたが、地平線を埋め尽くす程のロシアの屈強な男達がこちら目掛けて突撃してきており、すぐに救援を送らなければたちまち防衛線は突破されるのが目に見えていた。
そんな秋山支隊いや、日本軍を救ったのは第三軍であった。
元々野戦が得意な乃木大将の指揮の元、迅速な対応で第三軍はロシア軍を次々と撃退していった。
これによって、またもクロパトキンは撤退を全軍に命じたのだった…
日本軍の被害
死傷者 約四千名
ロシア軍の被害
死傷者 約二万名
後に言う『黒溝台会戦』
一九○五年 一月二十九日 の事である。
日本は緒戦で勝利し続けたが、国力の限界を迎えつつあり、満州の奥まで進撃してきた事もあって物資の補充が困難になってきており、そろそろ決定打を打って講和に持ち込まなければならなくなっていた。
鴨緑江軍
(一月に編成され、満州軍に編入された)
は二月二十一日
清河城に籠るロシア軍を攻撃を開始した。
この軍は旅順攻囲戦に参加した部隊によって編成されており、史実より強力であり清河城支隊を撃退した。
主導権を握ったと確信した大山巌満州軍総司令官は
「本作戦は、今作戦の関ケ原とならん」
と訓示し、奉天への包囲攻撃を開始した!
まず、カノン砲や二八センチ榴弾砲による砲撃でロシア軍陣地を砲撃したのだが、地面が凍り砲弾が弾かれた事により威力が半減したのだが、史実よりは余裕のある砲弾で丹念に砲撃したのだ。
その後、左翼を乃木大将の第三軍・秋山支隊によりロシア軍右翼を攻撃し、右翼を鴨緑江軍によりロシア軍左翼を攻撃。
両翼を圧迫させ、援軍を出した所を正面から突破しロシア軍を切り崩す事に成功した!
これにより、ロシア軍は敗走し奉天会戦も日本が勝利する事となった。
この会戦で日本の優位が確定し講和条件を有利にする為、新たに四個師団を新設し樺太を占領した。
この時点で講和しなければ、日本は戦争を続けられなくなるのは明らかであり、政府としてもこれ以上の犠牲や負担は出したくないと考え、アメリカを仲介とした日露講和に向けて動き出した。
しかし、
「バルチック艦隊が思い上がった日本に鉄槌を下すであろう」とする声がロシア宮廷内で上がり、日露講和は頓挫した。
だがその後の『日本海海戦』により状況は一変したのだ!
作者『はぁ〜
ホントにやっていけるのでしょうか。
自分は基本的にネガティブなので、自分の文章力の無さに絶望しながら書いています(汗)
ですが必ず、完結してみせます!
皆さん
どうかこのダメ作者に
ご意見ご感想をよろしくお願いしますm(_ _)m』