真夜中のシンデレラ
中学生のころ、憧れていた人がいた。
白い肌に長いまつ毛、男性なのに女の私よりも華奢で細い身体。
彼が踊っている時、この世の中には重力があるなんて嘘なんじゃないかと思ってしまうほどコットンのように軽く舞っていた。
指先まで通ったその美しい演技を初めて見た時の衝撃が今でも忘れられない。
動くたびに癖が何一つない短いサラサラの黒髪が揺れていた。
私は彼のソロダンスが一番好きだった。彼が踊っている間、私は時の流れを忘れてしまいその瞬間は一瞬、本当に一瞬…そして次の瞬間に気づけば彼はレヴェランス(お辞儀)をして幕は閉じる。
その瞬間になって私はようやくすべての演技が終わったことに気づいてハッと我に返るのだ。今みたいに。
「桜、桜。何ボーっとしてるの。もう終わったんだから行くよ。」
美結に言われてゆっくりと立ち上がる。ずっと座っていたせいかお尻が痛い。あと夢見心地で見ていたせいか、足が上手く地上についていないような感覚になる。モコモコの綿の上を歩いているような感覚。
大勢の地元民が歩きながらガヤガヤと同じ出口へと進んでいく。
私も美結もこの大勢の人々の単なる一人に過ぎない。
私は彼のように誰かの前で一人で何かを披露するような特技も度胸も何もない。
それでいい。平凡な顔、平凡なスタイル、平凡な技術、平凡な性格。平凡こそ一番愛すべきことじゃないか。平凡で誰もやらないことをやるわけでもなく、人並みの努力をして、一生大きな出来事がない分、壮絶な悲しみに打ちひしがれることも滅多にない。それでいい。
それでいいのに私は自分と全く異なる人生を歩むであろう彼に憧れていた。
「あーあ、雨ってなんか気持ち沈むよね。」
美結が空を見上げて不満げに呟く。
外に出ると空は朝起きた時と同じ厚い雲で覆われていて雨は変わらず降り止む気配を一切見せないままいつまでも永遠に降っていそうなほど雨粒が冷たいびしょ濡れの地面を落ちていく。
雨の中を傘で守りきれない服の裾を濡らして歩くのが嫌になった私たちは近くのカフェに立ち寄ることにした。
「久々に見たけど相変わらずだったね。信二くん。」
美結がチョコチップスコーンに手をかけながら言った。彼女はキャラメルラテのアイスを頼んだ。
「うん。でも去年より上手くなっていた。きっといっぱい練習したんだと思う。」
私はダイエットをしているからアイスティーの砂糖なしを頼んだ。本当はクッキーが食べたかった。
鮎川君のことになると私は何でも自分の意見を言った後にそう思うを付けなければいけない。だって私は彼の何も知らない。
今の鮎川君の姿を知ることが出来るのは年に一回、毎年市民ホールで行われる彼が通っているバレエ教室の発表会だけ。あとは彼が通っている大学のバレエコースのツイッター、フェイスブック情報、そして一番強いのは鮎川君の隣の家に住んでいる中学の同級生、美結のお母さんのご近所さん情報だけ。
それ以外はたまにふとした瞬間に思い出す、中学時代の彼の姿の記憶のみ。
「明日も大学で授業するの面倒くさいな~。」
美結が背中を反らすほどの大きな伸びをして面倒くさそうに嘆いた。忘れていた。そんな私も大学生だった。まだ何もレポートに手を付けていない。気持ちがそれどころじゃないから。
嗚呼、この感覚。たまに来る。どこからか一瞬懐かしいにおいがする。そのにおいが何なのか分からない。しかしにおいが鼻をかすめると過去の記憶が蘇る。
私の脳裏に焼き付いている中学の時の思い出たち。
中学二年のころ。
「C組の鮎川信二君と夏目美緒さんが先週行われた地元のバレエコンクールで優勝しました。ということで明日の朝礼で表彰を行います。」
担任の先生が言っている間、私のクラスメイト達は特にざわつく様子を見せず、机に突っ伏して寝ていたり興味なさそうに手鏡で大して可愛くない顔とにらめっこしていたりしてほとんどこの話を聞いていないのが分かった。中学生の頭の中にバレエが興味の範囲内に入っている人間なんていないだろう。習ってもいないのに。しかし私はバレエなんてやったこともないのに鮎川君が初めて学校の体育館でバレエを全校生徒の前で披露した時の感動が忘れられなかった。
バレエ特有のピッタリとした衣装でそれを見てクスクスと笑って馬鹿にする男子もいた。でも彼はそんなの気にならないのだろう。鮎川君がそれだけバレエが好きで踊っているのが楽しくてしょうがないのがその短い踊りですべて私に伝わった。
あの時から私は彼を崇拝し、憧れの存在として意識的に目で追っていた。
その日、チャイムがなると私のクラスは一限目の体育のため女子だけが教室に残って体育着に着替え始めた。
「ちょっと飯田!早く出てってよ!」
いつまでも更衣室に行かずに教室でノロノロと残留している男子に女子たちが文句を言って追い出そうとする。その男は女子たちのブーイングに押し出されるように仕方なしに部活の朝練で土がついた体育着を持って出ていく。彼が扉を開けると廊下で数人の友人が彼を迎え入れた。
この子も、この子を待っていた友人の男の子も、その他大勢の男の子たちも何故私は鮎川君のように輝いて見えないのだろう。鮎川君よりも顔が良くて運動神経の良い子はいっぱいいるはずなのに私が特別視できるのは鮎川君ただ一人だった。
体育着に着替え終わって教室を出ると二つ隣のクラス、C組の教室の前で鮎川君が一人廊下に立って呆然と窓の外を眺めていた。遠くからでも彼の真っ白で綺麗な肌と細い身体が他の子たちよりも際立っているのが分かる。
「信二、何ボーっとしてるの。授業始まるよ。」
C組の教室から夏目さんが顔を出して鮎川君に向かって言った。
鮎川君が夏目さんの方を黙って見つめて教室の中へと入っていった。
鮎川君以上に細くて華奢な体、栗色の細くてふわふわした髪の毛が地毛でそれに見合った顔の夏目さんは神に選ばれし者だと思う。みんなあんな風になりたくて必死にダイエットをしたり美容院に行ったりするのに彼女は生まれた時からすでにそれを持っているのだ。それに鮎川君という私の憧れの存在と小さいころから同じバレエ教室に通い、共に同じコンクールで入選して中学は一年の時から同じクラスで親同士仲が良くて、二人が付き合っているという噂は学年中に広まっている。だけどそれが妥当。
容姿、生まれ育った環境、すべてが正反対の私は到底鮎川君と住む世界が違い到底近づけない。
夏目さんは鮎川君と同じ世界の住人だ。バレリーナが同じ異性のバレリーナと結婚する話をたまに聞くとやっぱりみんな同じ世界の住人と結ばれるのだなと思う。芸能人が芸能人同士で結ばれるように私よりも遥かに高い雲の上を住処とする鮎川君には到底私は近づけないのだ。
「それにしても本当にあと少しでいなくなっちゃうんだね。」
美結が飲み終えたキャラメルラテの氷をストローで突っつきながら呟いた。胸がズキッと痛くなる。
鮎川君がこの公演の一週間後の七月にロシアへ留学することを知ったのは一か月前のことだった。美結のお母さんが鮎川君の母から聞いてそれが私の耳へと入った。
鮎川君は現在、実家から一時間かけて都内の大学に通っている。留学は前にもあった。高校一年生の時に休学届を出して一年間、イギリスに留学していた。ただ今回の留学がたった一年のイギリス留学とは訳が違うのは私も分かっていた。もしかしたら彼は永遠に日本に戻ってこないかもしれない。
「告白しちゃえば~?」
美結が頬杖をついて茶化すように言ってきた。私はそれを何も返さず、ただ笑って誤魔化す。
美結だって私がそんなことしないことぐらい分かったうえで言っている。
中学三年間、私が彼と同じクラスになることは一度もなかった。学年でほとんどの人が認識している鮎川君や夏目さんと違って私は認識されるほど目立つようなことなんて一度もしたことがない。
外見も中身もどれも平均的できっと友達以外は中学生の時の私の記憶なんてほとんどない。
私は彼を目で追っていたが彼は私の存在すら知らない。
美結も中学に入ってからは毎日、朝から晩まで練習で忙しい彼とは喋る機会がなくなったと言っていた。
高校も大学も私と違って頭のいい彼は私が到底目指せないところへと行ってしまった。
街中で偶然出会うこともない。もし偶然出会っても意味ない。彼は私のことをそもそも知らないのに話しかけたってポカンとされて終わる。
中学二年の時、放課後、私は美結と帰るため下駄箱近くの廊下を歩いていた。
すると背後から楽しそうに喋る女の子らしい歌声のような声が聞こえた。私はその声だけで後ろにいるのが夏目さんだと分かった。
「それでね、先生が左足前五番からって言ったのに先生がうっかり間違えてて……」
思い出したように笑って喋る夏目さんが通り過ぎる際、私の体にぶつかった。
「ああ!ごめんさい。すみません。」
謝る夏目さんの隣に鮎川君がいて私は思わず咄嗟に彼の顔を見てしまった。一瞬の出来事だったため、鮎川君は私が見た時にはすでに前を向いていて夏目さんも私が何か返す暇もなく前を向いてまた楽しそうに鮎川君に向かって熱心に喋っていた。
私は時折、鮎川君の方へと動く夏目さんの首と前を向いたまま頷くような仕草を見せる彼の遠のいていく背中をただ呆然と眺めていた。
これが私の唯一の彼と関わった記憶。いや、もはやこれは彼と関わったのうちに入らない。
夏目さんと関わった記憶になっている。そもそも夏目さんとのエピソードにも入らないかもしれない。
鮎川君はおろか、夏目さんにすら認識されていないのだから。
夜、私は寝る前に鮎川君のことを考えていた。
ベッドに入る前に窓を開けて外を眺めると、外は雨が止んで数時間たっているのに蒸していて雨の匂いがした。ここから鮎川君の家へのルートを目で追う。
近所ではないが家から二十分ほど歩けば美結と鮎川君の家まで行ける距離。
なのに私は卒業してから一度も街中で鮎川君を見かけたことがない。同じ駅を利用しているはずなのに、歩いて行ける距離に家があるのに、世の中に思わぬ偶然があるようにこれもまた偶然。私たちはどう頑張っても巡り会えない関係なのだ。
ただそれでも近くにいるかもしれない、それだけで嬉しかった。年に一度、鮎川君の演技を見るのが楽しみでその日が近づくとアルバイトも大学の授業も心なしか力が入った。
だけどそれも終わる。彼は私を知らないまま違う国に行き、私はもしかしたらもう一生彼の姿を見れないまま今日という日の記憶を最後の残像として彼が何をしているのか分からないまま、たまにこうしているんじゃないか、ああしているんじゃないかと単純な想像を糧にして生きていく。
でもそれが普通じゃないか。私に相応しい。私と彼は住む世界が違うのだから。
分かっているのに何故だろうか私の頬に涙が伝って濡れる。一瞬の涙なのに感傷に浸っているせいか鼻が熱い。きっと赤くなっているだろう。
「あー。寝よ。」
鼻水を啜って独り言を呟くと私はベッドに入って電気を消して眠りに就いた。
目覚まし時計の針の音しか聞こえない。
深夜、私は何故か突然目が覚めた。いつもならぐっすりと熟睡して朝まで起きないのが普通なのに何故こんな夜中に目が覚めたのだろう。真っ暗な部屋で光って見えるデジタル時計を覗くと時刻は深夜の二時だった。
早く寝よう。明日の授業も朝が早い。
眠りに就こうと態勢を整えて再び目を閉じる。しかしベッドの中で何度、寝返りを打っても眠れない。目がしっかりと開く。私は仕方なしに大きなため息とともに体を起き上がらせた。電気を点けようとベッドから三歩先にある電気のスイッチの方へと歩こうとすると寝ぼけているのか体がよろめいた。壁にぶつかる。そう思って反射的に目を閉じたのに壁に当たらず床に転んだ。
え。違和感を覚えて目を開けると部屋から出た記憶がないのに廊下の上で尻餅をついていた。
どういうこと?
体を起き上がらせる。見た感じ何も異常はない。顔は分からないけどいつも通りのパジャマを着た私だ。
私の部屋と繋がる壁を見つめる。壁だって何もない普通の壁。まさかね。私は恐る恐る近づいて壁に向かって頭と手を突き出して近づいて行った。ぶつかるはずだよね。
しかし私の頭と手はゆっくりとその壁を突き抜けて私の部屋の中へと入っていった。
驚いて後ろを振り返る。壁は何の変哲もないいつもの壁だった。
訳が分からない私はベッドの方を見て恐怖で思わず崩れ落ちそうになった。
おばけかと思った。ベッドの中に人間のようなものが見えたからだ。だけど近づいて見るとそれは紛れもない人間、というよりも私自身であった。
ドッペルゲンガーかと一瞬思ったが今さっきまで私はここに眠っていた。それはないと思った。
幽体離脱?いや、でも金縛りとかなかったし。でももしここに眠っている姿が本当に私自身で今いる私も本当に私本人であるなら幽体離脱というのが一番妥当な考えかもしれない。
不安になった私は試しに自分の頬をつねってみた。痛い。
両親が眠っている部屋に向かうと家族は飼い猫のミケも含めて全員眠っている。普段なら足音一つで目を覚ますミケが全く起きる気配を見せない。
最初は訳が分からなかったがあの部屋で眠っているもう一人の自分の傍にいるのは気味が悪いから外に出ることにした。私自身なのに何故か無意識に眠っている私を起こさないようにそおっとカーディガンをとって羽織るとサンダルを履いてそのまま扉をすり抜けた。
建物はすり抜けられるのに羽織ものや履物は普通に履けるんだ。
真夜中の住宅街を歩く。当然、人通りは一切なく家の明かりはほとんど見えない。聞こえる音も虫の鳴き声だけだった。
何でこんなことになったのか。いろいろ考えてみたが何も考えつく事柄はない。どうしてだろう。私はこの先どうなるのだろうか。幽体離脱したまま元に戻れないのだろうか。死ぬのだろうか。不吉なことが次々と浮かんで急に不安になる。私はこの不安を無性に誰かに会って解消したくなった。
美結に会いに行こう。行くあてもなく歩いていたが私は進む方向を変えて美結の家へと向かった。
でも行ったところで美結は気づかないだろう。ミケですら私の存在に気付かなかったのだ。人間が私の存在に気づくはずがない。
不安ではち切れそうな私の心は涙を堪えるので手一杯だった。泣かないように懸命に涙を我慢して早歩きで進んだ。
突然、背後から誰かが来るのが分かった。陽気な鼻歌。自転車のペダルを漕ぐ音。恐くてしばらく後ろを振り返れない。声をかけられたらどうしよう。
意を決して後ろを振り返ると、もうすでに目の前に自転車に乗った男がいて、私は短い悲鳴と共に咄嗟にその場にしゃがみ込んだ。しかし目を閉じて轢かれるのを覚悟でしゃがみ込んだが体には何の感触もなくて男の鼻歌は止まなかった。ハッとして目を開く。前方を見ると何事もなかったように男が自転車を漕いでいてその姿が遠のいていく。
私は自分の部屋の壁をすり抜けたことを思い出した。そういうことか。
誰も私に気づかないし、触れられないのだ。
私は立ち上がってまた美結の家へと静かに歩いて向かう。
美結の家へと行く時、私はいつも鮎川君の家を横切った。でも今まで私が鮎川君と遭遇したことはないし、彼の家族だって見たことはなかった。
歩いている間、どの家も明かりがほとんど見えない。真夜中に相応しい景色だ。深夜の住宅街は人の声も生活音も、車の音も聞こえない。ひっそりとしていて穏やか。その穏やかさが私の不安を余計に駆りたてる。
美結の家が近づくと私は思わず鮎川君の家の前で足を止めた。
やっぱり夢なのかもしれない。こんな夜中にいるわけがない。
唖然とする私は黙ってその先を見つめた。
街灯一つの唯一の明るさでも分かる白い肌と細い腕。私の目の前に猫と戯れる鮎川君が見える。
猫が私の方を見てにゃあと鳴いた。ミケは気づかなかったのにこの猫は私の存在に気づいている。
「誰?」
鮎川君が私の方を見て尋ねた。え。見えるの?鮎川君って霊能者の力もあるの?
訳が分からず目を泳がす私に鮎川君が不審な目を向ける。
「私が見えるんですか?」
鮎川君に尋ねる。すると彼が立ち上がって猫はそれと同時にどっかへと行ってしまった。
「はい。あれ、もしかして幽霊ですか?でも僕、霊感とか全くないし足があるから人間かと思ったんですけど…」
鮎川君の発言で自分の足元を見つめる。茶色いサンダル。何でもっと可愛いサンダルを履かなかったんだ!しかもパジャマにノーメイクじゃないか!!
「人間です!」半ばやけくそに答えた。
「あ、だよね。でもこんな時間に何しているの?」
何している……幽体離脱が怖くて街中を散策していました。って言えないしな。そもそも私が見えているのに信じてくれるはずないか。
「何でですかね?」
私は思わず鮎川君に聞き返してしまった。
「いや、僕に聞かれても…」鮎川君が困ったように苦笑した。
「まあ、いいや。隣座れますよ?」
そう言って彼は地面に座り込む。え?鮎川君の隣に座っていいの?
私はおずおずと彼の隣にゆっくりと近づいて行って挙動不審に座った。
鮎川君は高校の時と思われるジャージのズボンを穿いていて英語のロゴが入った黒のトップス着ていた。
「こんな夜中にパジャマで街を徘徊している人初めて見ました。でも話通じるし、頭のおかしい人ではなさそう。」
伏し目がちに笑う鮎川君は近くで見ると想像通りまつ毛が長くて綺麗な目をしている。これはやっぱり夢だろうか。夢だとしたら今は目覚めないでほしい。
「何でこんな夜中にここへ?」また鮎川君が尋ねた。私は何とか話を誤魔化したい。
「あー……そっちこそ何でこんな夜中に外にいるんですか?」
質問を質問で返す私。それに対して鮎川君は急にどこか遠くの方を見始めた。
「僕は……なんか不安で眠れなくて。」
驚いた。鮎川君にも不安で眠れない夜があるんだ。
「ロシアに行くのが恐いとか?」
思わず聞くと彼は驚いた顔をして、「知っているんですね?」と言った。
「ちょっとだけ噂で……」 私はまた話を濁す。
彼は何も不審がる様子もなくポツリポツリと話し始め、私は思わずホッと胸をなでおろす。
「海外に行けば僕よりも上手い人が沢山いる。今まで誰よりも努力を重ねていたつもりだったけど中々海外で活躍できる力を見せることが出来なかった。国内で通用しても海外では沢山いる中の一人として消えていく人の方が多い。僕もそんな風にならないように必死に努力しているのに常に不安が付きまとっている。ロシアに行けば家族のサポートもないし本当に一人なんだ。言葉も覚えてみんなが敵視しあう中を潜り抜けて自分が一番であることを証明しなければならない。そんなことが出来るのだろうか。最近そんなことを考えていると夜眠れなくなるんだよ。」
鮎川君が困ったように笑った。なんて返せばいいのか分からない。私が思っていた鮎川君はこんな風に悩んでいなくて自分の道を淡々と突き進んでいるのだと思っていた。
良い言葉を返せないまま私は役立たずの人形のように固まってしまっていた。
共感することもできない。私はこんな立派な不安を一度も持ったことない人生を歩んできた。
「きっと僕は心が弱いのかもしれない。」鮎川君が自らを自嘲するように笑った。
「鮎川君は弱くないです。強くなきゃあんな演技できません。」
心の底から思っていることが自然と口から出た。
鮎川君がまたさっきみたいに驚いた顔をして、「僕の名前知っているんだ。君は誰?」と呟いた。
彼の呟きが何故か私の胸を締め付ける。
「中学生の時、初めて学校で鮎川君の演技を見た時、私はバレエなんて習ったことないし難しさとか何にも分からなかったけど、感動したんです。心の底から。私と鮎川君は一度も同じクラスにならなかったし、一度も何の接点も持たないままここまで来たから鮎川君は私のこと知らないと思うけど私はずっと鮎川君を見ていました。」
早口で話している間、一度も鮎川君の顔を見ることが出来なかった。見て表情を感じ取る勇気がなかった。
気持ち悪がられたらどうしよう。
「……あ、僕たち同い年だったんだね。敬語だから年下だと思ったよ。」
隙を見て彼の表情を盗み見る。俯いて笑みを浮かべていた。思わず私も笑みがこぼれる。
「今日の演技も良かったです。あ、もう昨日の演技か。」
履いているサンダルの皮の部分を指でなぞりながら鮎川君を見た。彼は私と合った視線を逸らして履いている靴を見つめがら嬉しそうに、「ありがとう。」と返してくれた。
鮎川君の隣で私はまた中学生のころを思い出す。
中学三年、七月の放課後。
みんなが帰宅した教室で私は友達と馬鹿騒ぎをしていた。コンビニで買ったお菓子を広げて馬鹿みたいにずっとお喋りしたり歌を歌ったり、時にはドタドタとスカートがめくれるのを気にせずに走り回っていた。
「あっちい~。疲れた。」
友達が椅子に座ってスナック菓子に手を突っ込みながらもう片方の手はパンツが見えるのをお構いなしに私の前でスカートの裾をひらひらさせる。私も走り回ったせいで息が荒い。
私は友達の方を見て笑うと窓際へ座って何気なしに窓の外を眺めた。
放課後の校庭。野球部の飛び交うボール。ジャージ姿で列を乱さず走り込みをする女子テニス部。
そのすぐ側。コンクリートの校門へと続く道に肩を並べて歩く鮎川君と夏目さんの姿があった。
二人とも細くて、だけど後ろから見ると骨格とか身長差が男女の違いを示している。
夏目さんの長い栗色の髪。鮎川君の短い髪の下から覗くうなじ。私はその姿を黙って三階から見つめている。
「桜ー!直美も来たよー!!」
そう言われて振り返る。教室に新たな友達が加わってさらに賑やかになる。
「桜も早く彼氏つくりなよ!」
友達が三日に一度くらいで口にする言葉。その言葉を笑って流しながらもう一度窓の外を覗くとその道にはもう彼の姿はない。球を投げる野球部はいても、鮎川君はいない。鮎川君は夏目さんと一緒に学校という遮断された世界から出て行った。私はまだその世界から出られずに彼が歩いた道を追ってその残像をまだ目で追っている。
「夏目さんは元気ですか?」
彼女の白い肌と綺麗な栗色の髪の毛をまぶたの裏で思い出しながら鮎川君に尋ねた。
「え?美緒?どうしたの急に?」
鮎川君が意外そうな声を出す。
「中学生の時、二人は仲が良くていつも一緒だったから付き合っているのかと……」
男女交際の話。相手によっては嫌がる内容。少し遠慮がちに聞いてみた。
「ああ、そうなんだ。……僕たちは小さいころからずっと同じバレエ教室で習っていて家族ぐるみで付き合っていたから兄弟みたいな関係で、バレエ仲間でもあり、ライバルだったからお互いバレエをしている時はピリついている時もあったね。恋愛感情とかお互い考えたこともないし美緒といた時、僕はバレエだけを見ていたから恋をするっていう感覚を持ったことは一度もなかったな。」
「好きじゃなかったの!?」
私は思わず声を上げた。鮎川君が驚いたような顔を見せる。
「僕も美緒もお互いに恋愛感情を持つことはないよ。美緒はなんていうか……イギリス人の整った顔をした人が好きなんだ。僕によく雑誌を見せてきたよ。結局最後まで名前は覚えられなかったけど。それに僕だって女の子を選ぶ権利はある。美緒は本当に綺麗な踊りを踊るけどその分、信念が強くて……ついでに気も強くて、メンタルも強くて…僕はもうちょっと弱い子が好きかな。」
困ったように話す鮎川君の言葉に私の笑い声が夜空に響き渡る。今の話で夏目さんの性格が何となく分かってしまったからだ。
心が温かい。体育座りしている太ももに顔をうずめた。自分の身体の体温が顔に伝わる。
「私、自分のないものを鮎川君に求めていたんです。」
顔を上げてずっと抱えていた自分の気持ちを口に出す。「どういうこと?」鮎川君が顔を歪める。あ。不快な気持ちにならないで。お願い。
「平凡な性格、平凡な顔、体型、平凡な日常、何もかも平凡。開花させる才能は何もなくて、どんな人生を歩むのか想像がつく。このままどこかに就職してそこで知り合った私と同じくらい特徴のない誰かと結婚して私の子供も私と同じくらい平凡な人生を送る。それを望んでいる人は世の中にいっぱいいるのに私はそれを幸せだと思っていないくて、じゃあ幸せって何?って聞かれたら何も答えられない。だけど鮎川君は私が持っていないものを持っていて私が絶対に歩めない人生を送っている。自分でほしいものを明確にしている。そんな鮎川君に憧れていたんです。」
ずっと思っていたことを言えた。スッキリした私に生温かい風が腕にまとわりつく。その横で鮎川君の呆れたようにため息が聞こえた。
「憧れってさ、実はすごく都合のいい言葉だよね。遠くから見ているだけなら本当のその人の姿を知らないで済むし、好きなように想像して幻滅する必要もない。自分の都合のいいように相手は動いてくれるね。でもそんなの恋じゃないよ。本来のその人はきっと何か違う。あなたの憧れは偶像に夢見ているのに過ぎないと思う。」
彼の私へと向ける言葉と視線が冷たい。
私は気づくのが遅かった。憧れという言葉を盾にして逃げていたことを。
遠くから見て物足りない感情を誤魔化して一度も関われなくたって大丈夫と言い聞かせて、少しでも関わったら生まれてしまう欲望を見つけない様に、その気持ちが終わってしまう時が来ない様に、永遠にその瞬間が来ない様にしていた。私は自分の欠点と向き合わないために鮎川君を利用していた。
「僕はきっと君が思っているような人間じゃないよ。理想と現実は違うんだ。それでも僕を憧れていられるの?本当に憧れているのなら僕のことを知って僕の嫌なところを散々見ればいいと思う。それでも僕のことを知りたいって思うかな。」
鮎川君の鋭い角張った言葉たちにどこか寂しさが混じっているように感じた。今、ここにいる彼は別世界の人ではない、私と同じ人間。
住む世界が違うと思っていた。私と違って常に輝いている人に見えていた。しかし彼もまた私と同じように自信がなくて何か不安を抱えている。
「私はきっと鮎川君のことが知りたくてここまで来たんだと思う。どんな鮎川君でもいいから鮎川君のことを知りたい。」
鮎川君の方を向くと彼の警戒した瞳とすべてを丸裸にされたような私の目が合った。視線を逸らさないようにじっと見つめると彼も視線を逸らさない。真顔で見る彼の瞳、私はそれが少し恐くて途中、視線を外したくなったが負けない様にじっと彼の眼を見た。
「ねえ……名前は?」
しばらくしてようやく彼が表情を変えないまま口を開いた。忘れていた。私が彼を知る前に、彼は私のことを何も知らない。
「藤田です。」
ようやく名前を覚えてもらえる。
「下の名前は?」
さらに聞く鮎川君の言葉でくだらないことを思い出した。そういえば私と鮎川君がいた学年には藤田という苗字の子が三人もいて、三人とも女子だった。
私が答えようとしたその時、ゴーンゴーンと大きな鐘の音が聞こえてきた。私はどこから聞こえているのか辺りをキョロキョロと見回したが音の出どころが分からない。ただ鮎川君には聞こえていないみたいで急に挙動不審になった私を彼が不思議そうに見ている。
私は急に立ち上がって言葉も発せないまま鮎川君に背を向けた。背を向けた時、近くの公園の時計台が見えた。目を凝らして見ると時刻は深夜の三時ピッタリを指している。
「ねえ、どうしたの。急に。」
背中から彼の声が聞こえる。応えたいのに体が言うことを聞かない。声も出ない。
そして私は何も答えられないまま走り出した。
「どこ行くの?帰るの?」
背後から彼の叫び声が聞こえる。応えたいのに何も言えない。私は涙を流しながら息を切らして走る。抵抗しても足が止まる気配がない。
公園を横切った時、履いていたサンダルの片方が脱げた。
あ!と叫んだが私は置き去りにされたサンダルを拾うことも出来ないまま進んだ。
疲れた。息が切れても足は止まらない。おまけに片足のサンダルがないため走りづらく、裸足に砂利が当たって痛い。家にはまだ着かない。私は今更襲ってくる睡魔に遠のいていく意識と闘っていた。しかし体は動いているのに脳みその肝心な部分は動いていないのか、私は走っているのに意識が段々と遠のいて行って気を失うように目を閉じた。
次の記憶は朝だった。鳴り響く携帯のアラーム音で意識が戻ると私はハッとして勢いよく体を起き上がらせた。体のあっちこっちを見て腕の皮膚を引っ張ってみる。ベッドから起き上がって壁の方を見つめながらゆっくりと触れてみた。
触れることが出来る。壁を押してもすり抜けて廊下を出るなんてない。ずっと鳴いているアラーム音を止めると思い出したようにサンダルが落ちて裸足で走った方の足の裏を見てみる。傷だらけで汚れているはずの足はお風呂から上がった後のように綺麗なままだった。
夢か。当たり前なのに起きた出来事が妙にリアルで記憶が鮮明なため、悲しくなる。しかし長い時間、感傷に浸っている時間はなかった。時計を見ると午前八時まであと十五分。急いで準備しないと大学に間に合わない!
近くにあった服を引っ張り出して高速で歯を磨く。粗末な化粧をして慌てて家を出た。鏡を見た時、目が腫れていてクマもひどかったが気にしている暇などなかった。
-数日後。
「それで?夢に鮎川君が出てきてどうしたの?」
未結が携帯をいじりながらどうでもよさそうに尋ねる。
「今まで鮎川君が夢に出てきたことは何回もあったけどあんなにリアルな感じは初めてだったの。」
地元のカフェで未結と数日ぶりに会った。鮎川君がコンクールに出た日、一緒に見に行った時以来の再会。
あの日の夜にあった出来事を軽く話したが未結はあんまり強い関心を示してくれない。確かに鮎川君が夢に出てきたことは今回が初めてではない。だけどどの夢も私が鮎川君を一方的に遠くで見ているだけの夢ばかりだった。
「今回は違う。何か本当にあったんじゃないかって疑っちゃうほど現実的だった。」
「あ、そうだ。」
私の発言に未結が思い出したように声を出した。
「鮎川君の留学、明後日じゃなくて今日だったみたい。ほら、うちのお母さんって大雑把なところあるじゃん。五日後って言っていたのを大体一週間だって判断して私に言ったみたい。お母さんのそういう性格のせいで娘の私は今まで散々苦労したんだから。分かっていないよね、本当に。」
未結の言葉が遠のいていく。嗚呼、そうなんだ。そう言った後に夜の鮎川君の顔が浮かんだ。
あれから私は一体何をやっていたのだろう。夢を見てから数日間、普通に大学に行って、授業を受けて、アルバイトをして、家に帰って、頭に浮かぶ夜の鮎川君を思い出して夢でも幸せだったと彼がいなくなるのを呑気に名残惜しがっていた。
本当に憧れているのなら僕のことを知って僕の嫌なところを散々見ればいいと思う。
鮎川君の言葉が私の脳裏に張り付いている。知りたい。でも結局、真夜中に見た鮎川君の姿もただの夢。ただの私の願望に過ぎなかった。
「鮎川君、多分今頃出発しているだろうね。これが本当に最期だ。」
日曜日にお昼。未結の言葉と共に窓の外を覗く。青空の中に飛行機雲が見えた。
未結は午後一時にアルバイトがあるため、ランチを終えると早々に別れた。この後、何もすることがない私は大人しく家に帰ることにした。
家に帰る途中、私はずっと鮎川君のことを考えていた。夢の中の私はちゃんと気持ちを伝えたのに現実の私は思い出は綺麗なままがいいと勝手に言い聞かせて何も伝えなかった。そして夢の中の鮎川君が嫌がっているように彼を自分とは別物と位置付けて遠ざけていた。遠い存在だったわけじゃない。結局は自分が固定観念と自己険悪で遠ざけていたに過ぎない。
家に着いて、玄関でスニーカーを脱ぐ。我が家の玄関はいつも通り家族の靴があっちこっちに置いてある汚い玄関だ。靴を脱いでリビングに向かうと母が昼寝をしていた。
母の名前を呼んで体を揺らす。母が寝ぼけ眼で私を見た。
「茶色いサンダル知らない?どっか行っちゃったの。」
夢の中で私が履いていたサンダル。片方を落としてしまったサンダル。
お母さんがしばらくぼんやりして思い出したように、「ああ、あのサンダルね。」と呟いた。
「何日か前に捨てたわよ。だってもう必要ないでしょう。ボロいし、片方どっかいっちゃってるんだから。」
私はハッとして家を出た。走っても間に合わないことは分かっていても走る。のどかに犬の散歩をしているおじいちゃんを通り越して、ベビーカーを引いて歩く若いお母さんとすれ違って、家の前で楽しそうに遊んでいる小さい子供たちをも過ぎて、その傍で子供の様子を見張っているお母さんに目で追われながら、私はTシャツにデニムのズボンという走るのに不釣り合いな格好で必死に駆ける。
あの出来事はただの夢。でももし、億が一夢じゃなかったら。嘘のような本当の話だったら。
馬鹿みたいだと笑われても、確かめに行ったっていいんじゃないか。たとえ彼に会えなくても。
息を切らした私が鮎川君の家の前で某立ちしている。今の私は変質者として通報されも文句は言えない。
鮎川君の家の庭に車が見える。しかし静かで誰もいる気配がない。
数分経っても何も変化のない鮎川君の家。当たり前だ。彼はもういないのだから。
私はその場を大人しく離れると近くの公園に向かった。時計台が見える。私が夢の中で鐘の音が聞こえた時に目を凝らして見た時計は今、午後一時半と針がさしていた。
公園内には三人の子供たちが遊びまわり、その近くでお母さんたちがお喋りに夢中になっている。
私の目の前には公園の外壁傍に植えられたツツジの花が咲いている。何気なしに花を見つめる。
たまたま視線を落とすと花の下に何かが落ちているのが見えた。奥の方のあるそれを腕を伸ばして取ってみた。すると土にまみれて汚れた夢の中で履いていた私のサンダルが出てきた。
「そこで何しているの。」
背後から声が聞こえて私は咄嗟に振り返るついでにサンダルを隠すように背中に持った。
振り返った私は止まったまま視線が動かせなくなった。何故ここにいるのか。どうして今ここに?
そこにいるのは紛れもない鮎川君だった。サラサラの黒髪とキリッとした彼の眼が私を見ている。
「ちょっとした手違いで遅くなったけどもうすぐに行かないといけないんだ。」
これも夢だろうか。私は鮎川君にばれない様に太ももをつねってみる。痛い。手を放すと皮膚が静かに戻る。
「あの日の夜の出来事は幻じゃなかったんだね。」
鮎川君が安心したように笑う。私の胸がキュンとなった。しかし上手く言葉が出ない。人ってこういう時、どうやったら上手く話せるのだろうか。
「藤田桜さんでしょ。」
名前を呼ばれた時、私は一瞬、自分が誰だか分からなくなった。藤田桜って誰? ああ、私の名前か。私の名前を鮎川君が呼んでいる。待って、泣きそう。名前呼ばれて涙が出るとか変人だね。でも今ならちょっと芸能人にばったり遭遇して泣く子の気持ちが分かる。あ、鮎川君が笑っている。
「卒アル引っ張り出して捜したら見つけたんだ。実在するって分かった時、すごく嬉しかった。今の藤田さんとあまり外見は変わっていなかったね。卒業文集も読んだよ。」
屈託のない笑顔で話す鮎川君。卒業文集は読まないでい欲しかった。何書いたか覚えてないけど文章力ないから絶対ひどい出来だ。
「夢じゃなかったんだ。あの日の夜、本当に藤田さんはいたんだね。ようかやく分かったよ。」
嬉しそうに言う鮎川君。そう。私もようやく気付いた。今いる鮎川君も数日前に喋った鮎川君も夢じゃない。全部夢じゃない。
お母さんが捨ててしまったサンダルも、今私の手の中にある土まみれのサンダルもありがとう。
私は現実の彼とちゃんと向き合いたい。
高校生の頃に憧れていた人がいました。
その人に恋愛感情があるわけではないのですが、男の子はその人がモデルです。
高校の時、同級生で印象に残っている人は?と聞かれたら、私は仲が良かった友達よりも真っ先に彼が浮かびます笑
その人がやっていたのはバレエではないのですが、バレエに似た柔軟性がないと出来ないスポーツで女の子の数が圧倒的に多い部活でした。その人はその中でただ一人の男子部員でした。
私と違って頭のいいクラスにいたので一度も縁はなかったし、彼は私のことを全く知らないと思いますが私は結構彼に影響されていて、お話を創るときに彼がモデルになった人が何人もいます。
多分、これからもモデルになって出てくると思います。なので外見とか頭の中でとてもイメージしやすかったです。ずっとその人の外見を浮かべていたので。あはは。
以上。つまらない話でした。