大正的女学生友愛事情
百合要素ございます。ご注意ください。
「市毛さま、聞きましてよ」
「いかがなさいました。犬養さま」
つりあがった目をいやに歪めて、見下ろされると、寒気がした。彼女は名家の中の名家の生まれで、私は違う。どうしたって埋められない差を知っていて、彼女は私を見下ろしている。見下している。ささやかな嫉妬が混じる目で。
「あなた、西園寺様のところのご子息に見初められたのですってね。近いうち学校もおやめになるのですわよね。さびしくなるわ」
なぜ、喉が音色を紡がないように、息を飲み。表情を取り繕う。そうしておいて、視線はこのことを知らせていないカノジョをとらえる。カノジョはこちらを見ているわけもなくて。そうだった、学内では、私たちは他人なのだと、安堵する。
「どちらからお耳に入ってしまったのでしょう? わたくしも、少しでも皆さんと長くご一緒したくて、だまっておりましたのに」
「うふふ。 風の噂ですの。 それにしても、こんなに早く中途退学なんて、どれほど名誉なことでしょう。 やはり、市毛さまは素晴らしいかんばせをお持ちだからなのでしょうね。 それに比べて」
弧を描く彼女の目が斜めを振り返る。ああ、いけない。止めなくては。カノジョが狙われた。いつもと同じ、背筋を冷たいものがよぎる。
女狐が標的を私から彼女へと、変えた。
「それに比べて、三橋さまは、うふふ。 卒業顔でいらっしゃるもの。 一緒になってくださる方は出てくるのかしら」
いちいち間延びした声と、周りのクスクスと嘲る音が耳に絡みつく。彼女は、ただじっと椅子に座っていた。私の代わりに、辱められているカノジョ。誰より優しくて、気の弱い彼女は、何を言われても、ただうっすらとほほ笑んでいた。
「あら、なにもおっしゃりませんの。 つまりませんわね。 ほら、何かおっしゃいよ」
カツカツと高いかかとの音をたてて、歩み寄ろうとする彼女を止めなくてはいけない。
「犬養さま。 もうすぐ、先生がいらっしゃいます。先生の足音がもうすぐそこまで…。お座りになっていないと、犬養さまが叱られてしまいます」
上あごに張り付いた舌を何とか引きはがして声をだす。震えていないだろうか、見苦しくないだろうか、だれも、何も気が付きませんように。カノジョをかばっていることに気が付かれたら、さらにカノジョも私も辛いことになってしまうから。
「あら、本当に。 ありがとうぞんじます。市毛さま」
うまく、かわせた。
ふう、と小さく息をつく。
横目にカノジョを見やると、私を見て笑っていた。
何を言われても笑っているカノジョは、この部屋にいる誰よりも美しい。
「ぼたん! もういらっしゃったのね。 ごめんなさい、先生に呼ばれてしまったもので、遅れてしまったわ」
申し訳なさそうな小走り。でもそれは、誰かに見られて言いとがめられることを申し訳なく思うのではなくて、本当に私だけを見ていて、それがどうにも、心地よい。
ここは、国の運営する学校なだけあって、さまざまな設備に資金が投じられている。その一つが、図書館。入場料さえ払えば、一般市民も使える図書館は、学生には無料で開放されている。そのくせ、利用する学生は少ないのだが。私は本を読むのが好きで、毎日のようにこの図書館に通っていた。いつも笑顔で明るくてやさしいカノジョともここで出会った。
「いいの、ウメ。 本を読んでいたから大丈夫。 それに謝るのは私。 さっきは助けが遅くなってごめんなさいね。 もっと早く止めることができたらよかったのだけど…」
「それこそ、いいのよ! 犬養さまのアレはいつものことだわ。 それに、あすこでぼたんが声をかけてくだすったお陰で、何もされなかったのよ」
「それでも。 私、犬養さまが『卒業顔』なんていうのを止められなかったのよ。 力不足でごめんなさい」
「卒業顔は事実だものしかたがないわ。 お父様も、縁談は来ないだろうから自分で探してくるようにとおっしゃられたもの」
くすくすと本当におかしそうに笑う。
「自分で、ということは、ウメのお父様は自由恋愛を推奨なさっているのね」
「ふふ。 でも、あてくし、こんな顔だもの。 いい人を見つけられても、きっと袖にされて終わるのよ。 きっと」
またその笑顔ですべてを済ませてしまう。
「何をおっしゃるの。私、ウメよりも笑顔の素敵で、ユウモアのある女性を見たことないですもの!わかってくれる殿方はあらわれるはずです」
この誰よりも、素敵な笑顔が評価されないのは、男どもに見る目がないからだろう。私が男だったら、この子をさらって閉じ込めてしまうのに。
「それがいつになるかは、わかりはしないけれどね。それよりも、ぼたん。あなた縁談が来ていたなんて。なぜ教えてくだすらなかったの」
「それは…まだ、決まったわけじゃあないから。正式に決まったらお知らせしようと思って」
「まあ、そうだったの!私ったら早とちりをしてしまったわ。責めてしまってごめんなさいね」
なにも疑わない笑顔を向けられながら、正式に決まったら教える、と約束をした。
次の週、いつもの図書館の小さなテーブルに彼女はいた。本当の彼女はとてもまじめだから、この前みたいに遅れてくることなんか滅多になく、今日みたいに先に定位置に座って私を待っていることが多い。今日もいつも通り、本棚に隠された私たちの秘密の場所で私を待っていた。けれど、その秘密の場所にたどり着いたとき、彼女の様子が少しおかしいように感じた。常ならば、隣に座ってしまえば、それまでどんなに読書に入り込んでいようとも、私に気がついて、あの笑顔で挨拶をしてくれるというのに。どうにもうわの空で。ただ、手元においた一枚の、控えめに花柄の刺繍の入ったハンケチを見つめている。
それを見て、どうしたのかしら、と不思議に思えるほど私は初心ではなくて。
私はこの表情を知っている。
一見柔らかくすべてを包み込むような落ち着きを見せながらも、その実、その瞳のずっと奥にはアセリ、カナシミ、イカリ、ヨクボウ、数々が渦巻いている。汚らしくて汚らわしくて、美しい女の顔。これは恋を知ったオンナの顔。
「ウメさん。 そのハンケチ、かわいらしいですね。 初めてお目にかかるけれど、新調なさったのかしら」
声をかけると、やっと私を見てくれた。
「あ…ら。 ご、ごめんなさいね。 いつ頃いらっしゃったの? あたくしったらすっかり気が付かないで」
ひどく慌てて、ハンケチを意味もなく畳んだり広げたりを繰り返している。
「気になさらないで。 私よりもよほど気にかかる何かが、あるのでしょう」
肩にそっと手を乗せて、優しく語り掛ける。そうすると、彼女は少し落ち着いて、せわしなく動かしていた手を止めて、私に向き直った。
「つい、先日のことよ」
あたくし、少しばかり時間が空いたものだから、そこの通りの少し行ったところにある公園によったの…そうそう、そこよ。そちらのベンチに腰掛けて本を読んでいたら、汚い話なのだけど、上を飛んでいた燕にふんを落とされてしまって。慌てて拭き取ろうにも、ちょうどハンケチもちょうどいい紙も手元になくて…途方に暮れていたところに、ある殿方が通りかかられたの。背恰好なんか恰好よくって、今時の小洒落た洋服を着こなしている姿なんか本当に芥川を思い起こされるほどで…。ちょっと、笑わないでちょうだい。芥川の何が悪いというの。彼は本当に恰好いいのよ。とにかく、その殿方が胸元のポケットから、このハンケチを取り出して私に渡して…。「どうぞ、使ってください。 こんなにきれいな黒髪を汚すなんて、あの燕、とっちめてやらなくちゃあな」とおっしゃったの。そのあとは特にお話をすることもなく、去ってしまわれたわ…。
「このハンケチは洗ってのしも当てたから、彼にお返ししたいのだけど…」
「あら、そんなことでしたら、また同じベンチに座って待っていればよろしいのでは。 昨日の今日で通るかはわかりませんけれど、きっと同じところを通るでしょう」
「それはそうなのだけれど…」
言って、ハンケチを広げると、うつむきがちに小さな花の刺繍を指でなぞる。鮮やかな青色のそれは、竜胆なのだろう。横に小さくR.Sと読める茎と葉でできた飾り文字があった。
「花の刺繍ということは、それをくださった女性がいらっしゃるものですわね。 それを気になさっているの」
何も言わないのは肯定の証。彼女は優しくて臆病だから、自分の気持ちに気がついてはいても、行動には移せないのだろう。
「相手がいてもいいじゃない。 お礼を言うだけよ。 先方に決まったお方がいるとしても、ただお礼を言うだけ。 やましいことは何もありませんわ。 そうでしょう」
私たち女は自分で恋をつかみ取ることは許されていない。だから、想い人を作ってはいけない。たとえ想い人ができたとしてもそれは人に悟られてはいけない。決められた方と結婚するときに、そんな気持ちは邪魔なのだから。
「そう、ね。 そうだわ。 あたくし、こんな顔だもの。 そもそも勘違いされることもないわね。 だって、だれもこんな顔のあたくしを相手にしようとなんてしないわ。 そうだわ。 そうよね」
そういう意味ではないのだけど、
「あたくし、あしたまたあの公園に行ってみることにするわ。 ぼたん、ありがとうね」
にっこりと微笑む。その表情はぎこちなくて、ひどく無理をしていた。私はあなたの恋心を否定してしまったのに、それでもあなたは笑う。
また次の週、いつもの図書館ではなく、近くの公園のベンチ――ウメの話したあのベンチだ――で待ち合わせていた。この場所を指定したのは彼女。指定の時間よりもずっと前についてしまったから、まだ彼女の姿は見えない。
ふと、向いのベンチを見やると、一人の男が座っていた。うっすらと暑さのはいよって来るこの時期に、ぶかぶかとした西洋風のジャケットを羽織って、頭には山高帽をひっかけている。手元にはステッキが添えられて、世の流行りのモボを気取っているのね、私は小さく笑った。
男はおもむろに内ポケットから懐中時計を取り出して時間を確認すると、そわそわと落ち着きをなくす。その姿はウメのしぐさにそっくりで、また、私は小さく笑った。そういえば、そろそろ彼女のつく時間だろう。彼女はいつも五分前には待ち合わせ場所にやってくるのだ。
男が左奥を見て目を輝かせた。そして、やおら立ち上がり、大きく手を振り回して叫ぶ。
「ウメさん! 僕はここにいます!」
なんて、落ち着きのない男だと失笑を抑えきれずにいると、耳に入った言葉に驚いた。彼はウメと言ったのだ。この時間にウメと言えば、私の知っている彼女のことだろう。男の向かう方向に目をやると、やはりそこにはウメがいた。ウメは男の声に頬を赤くして足早に歩いてくる。ただ彼だけを見て。
「竜胆さん、お早いのですね。 それに、貞子も」
彼女が今日私を呼んだのは彼に会わせたかったからだろうか。竜胆ということはこの間のハンケチの持ち主なのだろう。いつの間に仲良くなったのか。
「竜胆さん。 こちら、あたくしの一番の友人のぼたんさんです。 それから、ぼたん。この方は竜胆さん。 おとついのハンケチの方よ」
「竜胆です。 さっきまで目の前にきれいな人がいるとおもっていたんだ。 お近づきになれてうれしいよ」
うそばっかり。この男はウメに紹介されるまで私のことなんか目に入ってやしなかった。ウメと同じ。この男も恋するモノの目をしていた。
「ぼたんと、申します。 こちらこそ、まれにみるモボっぷりに、うっとりしていましたの。 そのステッキ、とてもハイカラで」
「ははは。 あなたのような美人に褒められるなんて光栄だ」
美人だなんだというけれど、その実この男はウメばかり気にしている。こちらに目線をよこすものの、たまにちらりとウメを見やる目線は柔らかくて、その奥にあるものは決して見せなかった。
「さあ、立ち話も何ですので、どこか喫茶にでも入りましょう。それとも、少し早いけれど、ランチでも」
普段よりも丁寧な口調を保つウメ。その表情はいつもの無邪気で明るい笑顔に妖美な影を併せ持っていた。私の知らない顔。初めて見る表情に、なぜこちらをみていないのかと、よくわからない感情が心臓を締め付けた。
「お嬢様、旦那様がおよびです」
私の家庭は裕福といえども、大貴族なんかではなく、しがない成金あがりの一つで、よくわからない見栄のために、数人の使用人をやとっていた。そのうちの一人が私室のドアー越しに声をかける。
お父様は成金と言われるのが嫌いで、低俗と思われるのも嫌いだった。だから、女である私を学校にも通わせてくださったし、誰よりも厳格な性格をしている。その分、少しでも遅れると、私だけではなく、私を呼びに来た使用人まで、何かしらの罰が下る。
私は、はしたなく見えないぎりぎりの速さで廊下を歩いた。
コンコンコンコンと、しつけられた通りに、ドアーをノックする。
「ぼたんが参りました。入ってもよろしいでしょうか」
「入れ」
私には出せない、低い声で、許可が出される。今日はいつもよりも声色が柔らかく感じた。
「お前の嫁ぎ先が決まった。 霜月に式を挙げることになっているから、準備を始める。学校はもうやめるように手続きもしてある。いいな」
「はい。 わかりました。 お父様」
お父様の、いいな、は拒否できない。決定を知らせるための言葉だ。だから、私には肯定以外の言葉の発言権はなかった。
「相手は、前にも伝えたが、西園寺家の坊ちゃんだ。 名前は竜胆。 今はどこぞの女の尻を追いかけているようだが、お前が気にすることはない」
ガツンと頭を殴られたような気がした。
西園寺竜胆。
竜胆だ。
でも、あの竜胆さんだとはかぎらない。きっと別人だろう。
そのあと、何を話してどうやって自室の布団に入ったのか、記憶がなかった。けれど、あのハンケチに刺繍されていたR.Sが脳裏を巡っていた。
いつもの、図書館で彼女と会う。それでも、いつものように気分が上がることはなかった。ウメは幸せそうに語る。あの男との話を本当に嬉しそうに。もしかしたら、私の…。いや、そんなことはない。違う人だろう。
本当はわかっているのに、否定を繰り返す。
「――それで、竜胆さんが」
「ねえ、ウメ」
話を、さえぎったことに対する怒りだろうか、ウメのいつもの微笑みが一瞬だけこわばった気がした。
「竜胆さんの名字を教えてちょうだい」
「あら、いってなかったかしら。 西園寺、よ。西園寺竜胆さま」
「さいおんじ、りんどう」
ああ、やっぱり。
「そう。 ありがとう。 それで、竜胆さんがどうなさったの?」
「それで、竜胆さんがね――」
聞かなければよかった。そうしたら、知らなかったことにできたのに。
あなたの、笑顔をずっと見ていることができたのに。
にこにことあの男の話をする、ウメは本当に幸せそうで、その笑顔を壊すことになるのはわかっているのに、それでもこの笑顔を見ていたくて、結局、その日は最後まで言い出せずに別れた。
この笑顔を消すのは、私。
胸の中に落ちた黒いインクが広がって大きな影になる。
ある日、彼女が泣いていた。
『なぜ、言ってくれなかったの。 どうして。 そうやって何も知らない私を見て嘲笑っていたのね』
その日は私の結婚式。流行りにならって挙げる婚儀は誰からも羨ましいと思われた。でも、カノジョは泣いていた。私への、怒り、恨み、そして、あの男と結婚できるという事実に対する羨望。ほかの人の羨望とは違う、真っ黒な羨望。
涙にぬれるカノジョの瞳は本当に汚くて、うれしくなった。
ほかの誰でもない、私がカノジョを穢している。黒く染め上げている。嬉しい。うれしい。ウレシイ!!!
無垢なる白をまとう私はそれを着てはいけないほどに真っ黒く汚らしかった。
布団のなかで目をさますと、体中が汗でぬれていた。
夢を見た。とても、汚い私の欲望に忠実な夢。
真っ黒に染まってしまった私が、大切な友達であるウメを裏切ってしまう最低な夢だった。
今は何時かしら、と布団をめくると、遠くでボオーンボオーンボオーンと三回、玄関に置いてある柱時計がちょうど三時を知らせていた。
いつもの、あの場所。カノジョが笑って出迎えてくれる。
「どうなさったの。 話があるだなんて」
「わたくし、正式に結婚が決まりましたの。ウメには知らせておきたくて」
にっこりと笑みを深めて笑ってくれる。この笑顔に、誠実であらねば。
「おめでとう。 学校はいつ辞めてしまうの」
「今週には。 やめる手続きはしてあるわ」
「そう。 寂しくなるわね」
「ええ。 私も」
「手紙書くわね」
「ありがとう」
「なぁに。 泣いているの」
「泣いているかしら」
「ええ。 泣いているわ」
「そう。 私、きっと悲しいの。弱い自分が悔しいのよ」
気が付くと、私は泣いていた。
そんな私を、新調した小紋が汚れるのもかまわずに抱きしめてくれる。
「私の結婚相手の名前、西園寺竜胆というの」
「そう」
ただ、カノジョは私を抱きしめていた。だから、その時、彼女がどんな顔をしていたのか、見ることはかなわなかった。
いつの間にか、私は眠ってしまっていたようで、肩をゆすられて意識が浮上した。
「ぼたん。 ねえ、ぼたん。 もう、閉館の時間なの。 起きて」
「ウメ…。 ごめんなさい。 私寝てしまったのね」
「もう、遅いわ。 今日は帰りましょう」
次の日も、学校で、ただぼうっとしていた。ウメを見てしまえば、思い出して悲しくなってしまう。だから、ウメに近づくこともなく、ただぼうっと、最後の女学生を過ごした。
そうしていることで、自分を守ることはできたけれど、ウメを傷つけていることは気づかないふりをして。
「市毛さま、聞きましてよ」
つりあがった目をいやに歪めて、見下ろされる。既視感がよぎる。
「あなた、西園寺様のところのご子息と正式にご結婚なさるのですってね。それに、本日が最後の日だとか…。さびしくなるわ」
そんなこと、本当は思っていないのがありありとわかって、息苦しくなる。そうして、息苦しいこの空間が嫌になる。同じことしかしゃべれないキーキーうるさい猿に付き合っていられるほどの余裕などないのに。
「あら、皆様に気を使わせるのも、申し訳ないので黙っていましたの」
「あら、いやだわ。みずくさい。それにしても、こんなに早く中途退学なんて、どれほど名誉なことでしょうね。やはり、市毛さまは素晴らしいかんばせをお持ちだからなのでしょうね。それに比べて」
ああ、この流れはいけない。また。
「それに比べて、八橋さまは、うふふ。 卒業顔でいらっしゃるわね。 一緒になってくださる方は出てくるのかしら」
いまこの話題はしてはいけないことだった。いけないのに。
ウメを覗き見ると、いつもと変わらない笑顔を浮かべていた。
なぜ笑うの。
その痛々しい、笑顔はやめて。ねえ、本当の笑顔を見せて。私が「救ってあげる」から。
「おやめください。 犬養様。 卒業顔なんて、聞き苦しい言葉ですわ」
「え」
小さく戸惑いを見せた女は、それでも、自らの威厳を保とうとすぐに表情を取り繕う。その戸惑いに畳みかけるように言葉を繋ぐ。全てはウメのために。
「この子はいつもあなたに何を言われても笑っていたでしょう。 それなのに、あなたに対する悪口の一つも漏らさないのですよ。 こんなにいい子を殿方が放っておくかしら。 顔も腹の中も心も汚いアナタよりもずっといい男と結婚するにきまっています。それこそ、私などよりも」
「何ですって。 あなた、そんなことを言ってもいいと思っているの。 私を誰だと思っているの!」
これで、私に圧力がかかって、私の家がつぶれれば、想いあっているウメと西園寺様が結ばれる。だから、
「私なんかどうなってもいい、とでも思っているんでしょう。 思い上がるんじゃないわよ」
横から聞こえる冷たく凍えた声はいつもの柔らかく元気のある声とは違う、ウメのものだった。
「どうして?って思っている顔」
ハッと、鼻で笑いまたにっこりと笑う。
これはだれだろう。
「あんたの家が没落したところでアタシが竜胆さまと結婚できるわけじゃないわ。アタシはずいぶん前に竜胆さまに振られたの。あんたのことを紹介したすぐ後にね! わかる? 不細工で卒業顔なアタシよりも、美人で器量もいいあんたを彼は選んだのよ」
どうして。だってあの時の彼の瞳はウメだけを見ていたのに。
「彼は、アタシを妹みたいで可愛いって妹がほしかったって妹なのよ。私は妹。口づけも交わることの対象にもならない妹よ。不細工は女にだって見られないのよ!」
どうして。あなたは笑っていたんじゃないの。
「ウメは美人なのに。笑っているウメは可愛いのに」
また、にっこりと笑う。目許は言っていることと裏腹にきらり、輝いていた。
「美人にアタシの何がわかるの!? 同情はいらない! お願いよ。 これ以上私をみじめにしないで」
そういって涙を流す彼女は笑顔だった。いまならわかる。ウメにとって笑顔とは、自分を守るための鎧だったのだろう。
真っ白な婚礼衣装を身にまとい、夫と妻となるための契りをかわす。
小さな盃に映る瞳と視線があう。
口をつけると、水面が揺れた。
ゆらりゆらり、真っ黒な瞳は紅蓮の炎をともしていて、ともすれば、この神聖な儀式に燃え移り、全てを荒野へと変えてしまうのではないか、と錯覚させるほどに空恐ろしいものだった。
これはなんだろうか、どこかで見たことがある。どこか、そうだ。彼女の、ウメと同じ瞳。人を憎いほどに愛し、ただ想い人だけをうつす。ほかのことになど興味もわかない。そうして、身を亡ぼすのだ。
これほどに強い炎を私は誰に向けているのだろう。私は誰をこんなに汚い眼で見ているの。
ああ、いけない、この炎はとても危ないから疾くけさなくては。
都合のいいことに胸元にはお母様のくださった刀がある。悪いものから花嫁を守るための懐剣を今使わずして、いつ使うというのか。
盃を置くと、それを抜いた。
目をつぶり開けると赤が広がる。ああ、遅かったのね。もう、炎は消えてくれない。燃え盛る炎は、爛欄と輝いて、どろりとあたりを包んだ。