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爪切りの音  作者: toshi
9/13

貞次と絵理

七月十四日(土)二七日


金曜日の夕方、絵理が帰宅し自分の部屋にカバンを置きに行くと机の上にメモが置いてあった。

明日午後四時 若草公園で待つ  貞次

これだけのメモだった。

絵理は貞次とは、ろくに会話もしないのにわざわざ何だろう?と思った。

下に降りて奥の和室でくつろいでいる貞次に

「ただいま」と声を掛けると

「おかえり」と返事が帰ってくるだけで、特に変わった様子はない。

メモを置いた様子など全く感じられないのが、かえって嫌な胸騒ぎをさせた。

その日は夕飯を済ませ、宿題をしてあとはテレビを観て過ごした。もう期末試験は終わり、バスケット部の練習には出ていなかったが退部もせずに中途半端なままにしていた。彩夏に言われてから、千佳たちとも距離を置くようになった。真名自身が学校に来なくなってしまい、いじめる対象自体がいなくなった。彩夏から言われたことが、絵理の心にとても引っかかっていた。

絵理らしくない! 

じゃあ絵理らしいって何?自分にはわからなかった。どんな自分が絵理らしいのか?そんなことを、あれから毎日考えていた。


翌日、貞次は朝から用事があると言って出掛けて行った。絵理は昼近くまで寝ていて、ご飯を食べた後もテレビを観てダラダラ過ごした。

三時半になると、

「ちょっと図書館に行ってくる」と嘘を言って自転車で出掛けた。家から若草公園までは十分ほどで着いた。梅雨も開けて四時という時間は、まだまだとても暑かった。

自転車に乗りながら公園の歩道に沿ってゆっくり進むと、バスケットゴール近くのベンチに貞次が座っていた。絵理は自転車から降りて、そばに止めた。

「お爺ちゃん待った?」

「いや、さっき来たばかりだ」

「ところでどうしたの?」

「まあ、暑いけどこっちに座れ」

絵理は、貞次の横に座った。

「これでも飲みながら話をしよう」

そう言って買い物袋から、冷えたコーラのペットボトルを寄越した。

二人で並んでコーラを飲みながら、

「やはり美味いな」

「へえ~お爺ちゃんコーラ好きなんて知らなかった」

「恥ずかしいから、誰にも言うな。絵理は滅多に会わんから知らんな」

「ごめんね、顔も出さなくて」

「そういう意味で言ったわけじゃない」

「うん、わかっている」

ベンチの周りは大きな木が何本も植えてあって、日陰になっているが、やはりかなり暑い。

「しかし本当に暑いな。絵理は大丈夫か?」

「私は大丈夫だけど、お爺ちゃんの方こそ大丈夫?熱中症になっちゃうんじゃない」

「このくらい大丈夫だ、そうだこれ」

貞次は、自分の足元に置いてあった大きな買い物袋を取り上げる。中からは真新しいバスケットボールが出て来た。

「絵理、私にシュートを見せてみろ」

絵理はボールを受け取って、立ち上がるとドリブルをしてボールの感触を確かめた。

するとその位置から、ゴールに向かってジャンプシュートを放った。ボールは綺麗な弧を描いてゴールのリングに突き刺さった。

「おっ!絵理さすがだな」

貞次は珍しく笑顔を絵理に向けた。

絵理はボールを拾うと汗を拭いながらベンチに戻る。何か気恥ずかしそうに微笑みボールを抱いたまま座った。

「バスケットは楽しいか?」

「うーん」

絵理が困った顔をして黙り込んだ。

「あまり楽しくないか?」

絵理は、首を傾げて返事をしなかった。

「まあ私の独り言だと思って聞け。私は絵理が今どんな悩みを抱えているのかは知らんが、これからもバスケットを続けろ。今まで頑張ってきて、こんなに上手くなったんだから」

「そんなことないよ、もっと上手い子はたくさんいるもん」

絵理が俯いたまま返事をした。

「いや、やっていない奴と比べたら数段上手い。それに絵理はバスケットボール好きだろ?ボールを触っていると楽しそうだ」

絵理が少し微笑んだ。

「私が絵理くらいの頃は、食べることだけで大変だった。それこそスポーツを楽しめるような時代じゃ全くなかった。だから、やれるだけで羨ましい。どんなことがあっても、最後まで続けることだ。終わったときに良かったと必ず思う」

「ふ~ん」

絵理は、満更でもなさそうに顔を向けた。

「そのボール絵理に買ってきたんだ、使ってくれ。しかしやっぱり暑いな。もう少し付き合え、あそこのファミレスで冷たいものでも飲もう」

ベンチからファミレスの屋根が見える。

「うん、ありがとう。ボールもらうね」

絵理はバスケットボールを自転車の籠に入れ、押しながら貞次の後を付いて行った。

ファミレスに入ると、まだ人はまばらだった。ウェイトレスに案内され席に着くと、貞次はアイスコーヒーを絵理はイチゴのかき氷を注文した。

注文したものが運ばれ、絵理は氷の上のイチゴアイスを食べ始めた。

「絵理、もう一つ私から嫌なことを話す」

絵理は何だろう?と少し不安になった。

「このことは、お父さんにもお母さんにも内緒だ。また違っていたら、私は絵理に謝らなきゃならん。とんでもないことを言うことになる」

絵理は返答しようがなかった。ただやはり嫌な予感は当たっていたと思った。

「絵理は今友達とのことで悩んでいるな?学校でいろいろあるみたいだが。私は、もう一度バスケット部に戻って、仲良かった子たちと一緒に頑張った方が絵理のためだと思う。あと、問題を起こした子には、ちゃんと謝らなきゃいかん。相手は、相当参っているはずだ」

絵理は顔色を失った。お爺ちゃんは全てを知っている。言い訳のしようがなかった。

絵理は、俯いたまま何も語らなかった。

「私の最後の言葉だと思って聞け。父さんと母さんが喧嘩ばかりしているのは二人が悪い、お前も春樹も被害者だ。

でもな、お前も母さんと一緒になって、父さんを嫌って馬鹿にしているようだが、そういうことはしちゃいかん。

お前も、結婚して子供が出来て、どう躾けるかを考えなきゃいけない時がくる。その時で良いから、私の言ったことを思い出せ。自分の旦那さんを駄目の人だと教えるのか、お父さんが一生懸命働いているから、お前たちはちゃんと生活が出来る。学校に行って、やりたいことをやっていられるんだと教えるのか。

父さんと母さんがいけないと思うなら絵理の気持ちを、はっきり二人に伝えた方がいい。家族が仲良くて、家の居心地が良い方が、いいに決まってる。そのことを絵理も春樹もはっきり怒らなきゃ、あの二人にはわからん。

絵理は、学校も家庭も、そして自分のことも、毎日大切にして生きて行かなきゃいかん。

私は、中学も高校も、それこそ大学なんてとこも行ったことは無い。だから、つくづく思うが学校に行けることが、どんなに幸せか。十五歳から、工場で油まみれになって働いていた。飯も、白いご飯なんて滅多に食べられなかった。戦争の最中は、目の前で戦闘機から自動操縦で撃たれた人も見た。死体の山も、目の当たりにした。時代が違うって言ったらそれまでだ。絵理の父さんは、そんな苦労は何一つしないで育った、だから、私からしたら甘ちゃんにしか見えん。それでも、父さんは父さんなりに一生懸命仕事して、絵理たちのために頑張っていることは確かだ。そうじゃなきゃ、絵理も春樹も、今の生活なんて無い。今の世の中でも不幸せな子供たちがたくさんいるってことを、絵理はもっと知った方が良い」

絵理は、目に涙をいっぱい溜めて、貞次を見つめていた。

「お爺ちゃん、私どうしたら良いのかわからない。毎日毎日嫌なことばかりで、もう全部嫌になっちゃった」

あとは、ただ泣くばかりで、言葉にはならなかった。

「私が言った事を忘れるな」

絵理は、そのあともずっと泣くばかりで、流石に貞次も狼狽えてしまった。主婦の二人連れが、怪訝な顔でその様子をチラチラと見ている。

ウエートレスも、心配そうにこちらを見ていた。

それから十分程して、絵理はやっと泣き止んだ。少しスッキリした顔をして、

「ごめんね、泣いたら少し落ち着いた」

かき氷は、ほとんど真っ赤な水に変わっていた。

「大丈夫か?少し言い過ぎた」

「ううん、そんなことないよ。お爺ちゃんが、言っていることは正しいよ。私、友達をいじめていたし、お父さんも嫌っていた。このままじゃいけないと思っていたけど、どうしたらいいか?今よくわからない」

「そうか、でも気付いたんだから、必ずやり直せる」

「バスケは、足をケガして休んでいるうちに、次のレギュラーが決まっちゃった。そうしたら、面白くなくなっちゃった。家の中は、パパもママもしょっちゅう喧嘩しているし、もう本当に嫌になっちゃった。そんなことで、むしゃくしゃしていて、ついクラスの子を他の子たちと一緒にいじめ始めて、彼女は、学校に来なくなっちゃった」

「絵理が辛かったことはわかるが、自分の辛さを人にぶつけるのは良くない。その子が、本当に可愛そうだ。絵理が悪いとわかっているなら謝らなきゃいかん」

「でも、どうやって?もう学校にも来てないし」

「彼女の家に行って、直接謝ればいい。私が一緒に行ってやる。このままにして置いちゃいかん」

絵理は考え込んでしまった。

「私が、絵理に言っておきたかったことは、これで全部だ。今すぐじゃなくても良い。自分が出来ると思ったら、いつでも言え」

「うん、何かいろいろこんがらがっちゃって。今日はありがとう、ごちそうさまでした。ママに図書館に行ってくるって、嘘を言って出て来たから、これから行って、何か借りてくる」

絵理は、貞次に頭を下げると、そのまま店を出ていった。貞次は一人残り、絵理が自転車に乗って走り去る後ろ姿を眺めていた。


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