爪切りの音
七月七日(土)初七日
葬儀も終わり、取りあえず一段落した土曜日の夕方、久しぶりに貞男の家族は、近くのファミリーレストランへ外食に出掛けた。
お店は、土曜日とあって混んでいる。受付簿に名前と人数を記入して二十分ほど待った。
若いウェートレスに名前を呼ばれてテーブルに着いた。特に話すでもなく、メニューを見てそれぞれが食べたいものを注文した。
「勉強の方はどうだ?」「将来の進路は考えたか?」いつものことをいつものとおり、貞男が春樹に質問する。
「いつも同じ質問して、他に聞くことないの!」と不機嫌な顔をしてそっぽを向かれた。
直子は、「来週の日曜日は都心でケーキバイキングでも食べに行こうよ」と絵理に話しかけている。
絵理も満更でなく、
「どこでやっているの?おいしいケーキ食べさせてくれるバイキングに行きたいね」
「ネットで探せばすぐ見つかるよ」とまるで友達感覚で娘と楽しそうだ。
でもその会話の中には、貞男も家族も存在しない。
貞次のこともこれからのことも、何も話題としてあがって来ない。四人の会話は成立していない。
そのうち子供達は携帯をいじり出し、直子までもがメールをやり出した。
貞男は、この家族はどうなってるんだ?いつからここまでおかしくなったんだ?そんなことを思いながら、三人の様子を眺めていた。
隣りのテーブルには小学一年くらいの男の子と三歳くらいの女の子を連れた家族が座っていた。お母さんは娘に食事をさせながら、旦那さんと楽しそうに話している。夫の横には、男の子がお子様ランチのおもちゃで一人遊んでいる。
「おもちゃで遊んでないで早くたべちゃいな!食べてから遊べば良いんだから」
そう言っておもちゃを取り上げようとした。
「わかったから取らないで!」そう言って、男の子はおもちゃを両手で包み込んで股の間に隠した。
「とにかく早く食べなさい」
男の子はフォークでエビフライを刺して食べ始めた。
いつかどこかで見た風景。
貞男達の食事がいっきに運ばれテーブルに並べられると、各自もくもくと食べ始めた。直子が携帯をいじりながら、食事をしている。貞男も子供達に止めろと言うことも出来ない。
食事を食べ終わって、会計を済ませると八時を少し回っていた。自動車に乗って十分ほどで自宅に到着した。直子が家の前で先に降りて玄関を開けた。中に入りダイニングの電気を点けて手を洗う。それから雨戸を閉めていると、突然隣りの居間の灯りが点き、「バチン、バチン」と爪を切る音がした。
「誰!」
直子は思わず声が出た。
少し間を置いて、「私だよ」と返事が返ってきた。
「えっ?」
一瞬にして直子の全身に寒気が襲う、びっくりして襖を開けると、祭壇の前に新聞を広げステテコにランニング姿の貞次が、座って爪を切っている。おもむろにこちらを振り向き、直子の顔を見て気まずそうに微笑みを浮かべた。
「きゃあ~」
悲鳴を発すると、直子はその場で腰が抜けて動けない。
貞男達は駐車場に自動車を置いて、玄関に入ったところだった。悲鳴を聞いて、靴を脱ぎ棄て、ダダッと音をたてて居間まで駆けあがると、床にへたり込んだ直子が和室を指差してる。その先の光景を見た貞男も、
「えっ?!」
声を発して、その場にひっくり返った。
そこに春樹と絵理が入ってきた。
両親が床にひっくりかえり、和室には貞次がこちらをびっくりした顔で見ている。
「きゃっ!」
絵理から短い悲鳴がもれた。
春樹は目を見開いてそこにいる老人を見た。
「なっ、なんだ?そんなにびっくりして」
「お爺ちゃんなの?」震える声で聞いた。
その場にいる老人と、祭壇に飾られた貞次の写真を何度も見比べた。そこには写真と同じ顔があった。
「何で?」春樹の上擦った声が洩れた。
「お爺ちゃんは亡くなったんだよね?」
「なに!今こうやっているのにわしを殺すのか」
貞次には足もしっかりあって、そうじゃなきゃ爪なんか切るわけないんだし、直子は怖いし、変だしどうすりゃいいの?って感じでそこにへたり込んで見ていた。
貞男は我に帰り、へたり込んだまま手で身体を引き摺り貞次に近づいた。そして貞次の身体を触って確かめ始めた。
顔を触ってから頭、髪の毛、そして肩、腰からおしり、腿から足の先までひとつひとつ確かめながら触り続けた。
「取り合えずちゃんとした人間の身体だ」そうつぶやくと、
「当たり前だ!何言ってやがる、この馬鹿息子!」と貞次が怒鳴りつけた。
「信じられない!だってもう死んで骨になっちゃったんだよ」
「そんなこと知らん、とにかく私はここにいるんだ!あかの他人を焼いちゃったんじゃないのか?」そう貞次がうそぶいた。
貞次が家で倒れて救急車で運ばれ、病院で息を引取ったのは間違いない。遺体を実家に運んで、葬儀場を手配し葬式もしっかり終えた。火葬したのは、つい三日前のことだ。骨壷も目の前の祭壇に置いてある。
でも、目の前に貞次はいる。みんなが夢を見ているとしか思えなかった。
直子は自分のほっぺたをつねってみたが、とっても痛い。
痛いからって夢じゃないなんて思えないし、夢であって欲しかった。
「あなた、これは夢よね?」
「そうか、夢か?」
「だってお爺ちゃんが生き返るわけないでしょ?ちゃんとみんなで見送ったんだから」
そう言われると、誰もが今の状況を全く信じることは出来なかった。
少しの沈黙がその場を包み込む。そして、
「僕は夢じゃないと思うよ」
と春樹が静かに呟いた。
「夢なら、誰の夢なの?四人が同時に同じ夢見ているはずはないし」
「そんなこと言ったって、あり得ないでしょ?」
「なぜこうなったかはわからないけど、目の前にお爺ちゃんがいるのは確かだ、生きているのか死んでいるのかはわからないけど」
みんな、動揺しながらも、現実を受け入れていくしかなかった。
きょとんとしていた絵理が、
「お爺ちゃん、どうやってここに来たの?」
と声を掛けた。
「良くわからん。気が付いたらここに居た」
「その前の記憶はないの?」
「う~ん、確か家でテレビを観ていて、喉が渇いたから冷蔵庫のむぎ茶を取りに行ったところでふらついたような気がする、そのあとは覚えてない」
貞次もそう言いながら、首をかしげている。
「ただ、ここに来る前に誰かと話をしていたような気もするんだが、それが誰で何の話をしたのか全く思い出せん」
貞次の話を聞いていて、
「とにかくじいちゃんが生きてて良かったじゃん!」
笑顔で春樹にそう言われると、直子以外は恐怖を通り越して笑顔になった。
「とにかく良かった、良かった!ビールでも飲むか?父さん」
貞男が冷蔵庫から缶ビールを取り出して、貞次に渡した。
「直子、お前たちもジュースで乾杯しよう」
何かこの家族がやっていることは変な気はするが、そういうことになってしまった。
「とにかく乾杯!」
貞次の遺影と遺骨が片隅にある居間で、みんなで乾杯をした。
その晩は、取りあえずそこに布団を敷いて貞次に寝てもらうことになった。
家族はそれぞれ眠れない夜を過ごしていた。
春樹は貞次が生きていたことに驚いたし、お爺ちゃんの代わりに誰が火葬されて骨壺に入っているのか疑問に思っていた。こんな事が起こること自体信じられなかった。しかし、目の前に貞次はいた。喋ったし、触って確かめもした。手も足もちゃんとあった。少し興奮もしていた。そんなことを考えていると、美紅とのことを少し忘れることが出来た。
絵理はベッドに仰向けになり、腕枕をして天井を眺めていた。世の中にはこんな事もあるんだな、程度にしか考えてはいなかった。それよりもバスケットのこと、彩夏たちとのこと、真名のことなどを考えていると頭の中が混乱した。自分はどうしたら良いのか?どうしたいのか?がわからなかった。誰かに、「助けて!」と叫びたい気持ちだった。
ダブルベッドで貞男に背を向け寝ながら、直子は考えていた。悪い夢を見ているとしか思えなかった。これでやっと貞男の両親から完全に開放されるとホッとした矢先のことだ。正直、遺産も入って今までの様にお金のことで悩んだり、夫婦喧嘩することも無くなり、多少贅沢も出来るとほくそ笑んでいた。それがこんなとんでも無いことが起こるなんて信じられるわけがない。もしかすると、貞男と貞次が直子を陥れるために画策したことなのかもしれない、とさえ考えた。しかし、いくら何でもここまで手の込んだ事はしないとは思うし。明日からどういうことになってしまうのか?そう思うとどんどん深みにハマって目が覚めて眠ることが出来ないでいた。
何で父さんが生き返ってくるんだ?死亡診断書も貰い、火葬もして、すでに区役所では死亡の届出もしてある。今更どうやって戸籍を復活させることが出来るんだ?
別の人を火葬したなんてあるわけが無い。家族や親族全員で棺に花を添えて送り出したんだ。あの遺体自体別の人間だとしたら、どこで入れ替わったんだ。考えられるとすれば、防腐処理される前に生き返って別の遺体と入れ替わったという事しか。それにしたって本人が意識のないまま、貞男の家に居たなんてこと自体変な話だ。そんな事をあれこれ考え、その晩貞男は布団に入っても眠ることが出来ず、五時過ぎに布団から出た。一階に下り和室の襖をそっと開け、中を覗いた。そこには布団が敷かれ、貞次が寝息を立てて眠っていた。白木の祭壇には、貞次の遺骨と遺影が飾ってある。実に不思議な光景を目の当たりにしていた。
とにかく、何日か様子を伺うしかない、と貞男は考えていた。
貞次は貞次で自分に起きている事が理解出来ないでいた。なぜ貞男の家にいたのか、それもステテコ姿で。それでも今は、貞男の家族を救ってやらなきゃならない。自分のそして美智子の思いをどうしても伝えなければいけない、と強く思っていた。とにかくそれをどう伝えれば良いか?そのことをひたすら考えていた。自分にもわからない何かに突き動かされているような気がする。そして、何故か自分にはもう限られた時間しか無いような気持ちになっていた。