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爪切りの音  作者: toshi
6/13

曲直部家崩壊

六月中旬


梅雨入りもして、ここのところ降ったり止んだりという日が続いている。

春樹は東京都の総体での出来事から、美紅と少し距離を置くようになった。というより、これからどのように美紅と付き合っていけば良いのか悩んでいた。

六月初旬、美紅の母親から学校に連絡があったその週の土日に東京総体が駒沢競技場で開催された。美紅は予選を一二秒二九、八人中二位でゴールし翌日の準決勝進出を決めた。

日曜日には君江と祖母のみよが応援に来ていたし、春樹も当然のように良太を誘ってスタンドで観戦していた。

美紅は同じ学校の選手達と一緒にウォーミングアップをしていた。スタンドに春樹の姿を見つけたが、君江とみよがいたので知らないふりをした。

君江は春樹の顔は興信所から写真を受け取っていたので、スタンドに着いてすぐにいることは確認していた。美紅が走り終わるまでは我慢するつもりでいた。学校に連絡してからも興信所に二人の様子を見させていたが、相変わらず学校の行き帰りは一緒に通っていた。今日は春樹にハッキリ言ってやると思って来ていた。

 美紅は母親とのことがあって気持ちは塞いでいた。しかし、この大会に出ることを目標に今まで練習を頑張って来たのだから、走ることに集中しようと自分に言い聞かせた。決勝まで進出が出来れば、七月に開催される関東大会への出場の可能性も出てくる。ここまで来れば、自分がどこまで出来るのかチャレンジしてみたいと思っていた。

 準決勝三組目に美紅は走る。決勝進出するには、二位以内に入らないとかなり厳しい。美紅は雑念を払い落として、今この時の走りに集中した。名前が呼ばれ、スタート位置に着くと全てを忘れた。スターティングブロックに足を乗せ、スタートラインに両手の親指と人差し指を広げて合わせる。用意の声と同時に腰を上げてピストルの音に耳を研ぎ澄ませる。「パンッ!」という音とともにスタートをするとゴールまであっという間の出来事だった。結果は一二秒三一、八人中三位でゴールをした。二位には入れなかった。あとは、タイムで決勝進出が出来るかだ。

その後は出場選手のタイムに一喜一憂した。最後の組が走り終わると電光掲示板に全神経を集中した。

結果は三位の中で三番目のタイムで決勝には進むことは出来なかった。美紅は、結果が出てすぐに君江とみよのところに向かった。

 「美紅惜しかったね」

 みよに言われると、

 「うん、あともう少しだったのに残念。何とか決勝に進みたかった」

 「ここまで来たら、そうだね。でも良く頑張ったよ」

 そう言われると、美紅は目を潤ませた。

君江は「お疲れ様ね」と一言言っただけで、あとは何か別のことを考えている様子だった。

 「じゃあ、またみんなのところに行かなきゃいけないから。今日はありがとう」

 美紅はそう言うと、不安な気持ちが過ぎったがみんなの所に戻って行った。

 

 君江は、みよに少し用事があるのでここで待っていて下さいと言って、席を立った。

 春樹が、スタンドの後方で良太とじゃれ合っていると、

 「曲直部君よね」

 背中の方から声が聞こえた。春樹は驚いて振り返ると、そこには高級ブランドに身を包んだ、目鼻立ちの整った中年女性が立っていた。

 「私、相沢美紅の母親です。少し話がしたいんだけど」

 春樹は、びっくりして声が出なかった。

 「悪いんだけど、人目のあまり無い所で二人だけで話したいんだけど」

 「はい」

春樹は良太に右手で拝んで

「わりい、ちょっと待ってて」

そう言うと立ち上がり、君江の後に付いてスタンドの裏側へ歩いて行った。

階段を降りると、広い通路にはいくつかベンチがあり、その一つに二人で腰掛けた。

「曲直部君、もう美紅に付き纏うのは止めてくれる」

いきなり君江は言い寄った。

「僕たち付き合っています。一方的に付き纏っているわけじゃありません」

「とにかく交際は認められないのよ、お母様にも言ったはずなんだけど」

「付き合っているのは僕と彼女であって、親は関係ありません」

「何度言ったらわかってもらえるのかしら。美紅と君では釣り合いが取れないの。家柄が全く違うのよ」

「今の時代に家柄なんて関係あるんですか?」

「うちの場合はあるのよ、悪いけど。女の子なんていくらでもいるんだから、他の可愛い子を探して付き合いなさいよ。曲直部君イケメンだから彼女なんてすぐ出来るわよ」

「僕は美紅さんが好きなんです。女の子なら誰でも良いわけじゃありません」

「あなたが相沢家を背負っていくことは出来ないの、どう言ったらわかるのかな」

呆れたように冷たい口調で、君江の口から言葉が吐き出された。

「僕、彼女のために一生懸命頑張ります。何とか交際を認めて下さい」

君江はもういい加減にして、というように露骨に嫌な顔をした。

「もう一度言うわよ、よく聞いてね。相沢家は昔から西八王子の名家として、長い歴史のある家なの。村長や町長、国会議員や都議会議員などをずっと輩出してきた家柄なの。多くの土地や不動産も持っているわ。そういうものも代々引き継いでいかなければならない。そうなると、同じような家柄の男性と美紅は結婚しなければならない。すでにそういう話はいくつか来ているの。そういう状況で、結婚なんて全く不可能な君と付き合わせて何のメリットがあるのよ?それこそ何かトラブルでも起こされたら、美紅自身だけでなく我が家に傷が付くの。私は母親として、そんな事は絶対にさせるわけにはいかないの。あなたがどんなに勉強が出来て優秀でも、美紅との交際は認められることじゃないの」

春樹は美紅からも同じことを聞いてはいたが、君江から直接聞かされ、知ってはいたとはいえショックだった。今の自分には何の能力も無いし、実家には財産も家柄もない。言い返す言葉は出てこなかった。

「もうわかったでしょ、これ以上言ってもまだ付き合うならもっと強硬な手段に出るわよ」

君江は強い怒気の籠った声で言った。春樹はもう何も言えず、ただ頭を下げてその場を離れて行った。その日はそのまま美紅には、声も掛けずに良太と帰った。

夜に美紅からメールが来た。今日はありがとう、決勝には行けなかったけど全力を尽くしました。あのまま帰っちゃったの?

春樹は、何て返事をすれば良いか迷ったが、今日はお疲れ様、頑張ったけど残念だったね。そう返事をした。

ありがとう、の返事がすぐに来た。

春樹は迷ったが、しばらく付き合うことを考えさせてもらいたい、とメールを打った。

その後美紅からは、どうして?絶対に嫌だ!会って理由を教えて、というメールが何通も来たが、一切返信はしなかった。というよりどう返信すれば良いかわからなかった。

月曜日はいつもより早く家を出て、美紅が改札で待つ前に学校に着くようにした。美紅には、一緒には行けないからとメールだけはしておいた。

いつものように良太と話していると、美紅が教室に飛び込んできた。

「春樹、どうして?」

美紅が目の前で、今にも泣きそうな顔で訴えている。

「ごめん」

これ以上の言葉が出ては来なかった。春樹は俯いて美紅と目を合わせることも出来なかった。その姿を見て泣きながら「わかった」とつぶやいて教室を出て行った。

美紅は悲しかった。その日は一日勉強も手につかなかった。もう春樹が嫌いになってしまったのかとも考えた。何を嫌われることをしたのかと何度もここ数日の会話や行動を思い返してもみた。しかし、何も思いつかなかった。ただ競技大会の時に何も言わずに帰った、あそこで春樹に何かがあったと考えると、君江が何か言ったからだと確信した。その日部活が終わって、体育館を覗きに行ったが、バスケット部の練習はすでに終わっていて春樹の姿はもうどこにもなかった。

家に帰り、台所で夕食の支度をしている君江に問い質した。

「お母さん、春樹に何を言ったの?」

「何かあったの?」

「春樹がしばらく付き合うことを、考えさせてもらいたいって言ってきたわ」

「そう」

「そう、じゃないわよ。お母さんがなんか言ったんでしょ?そうに決まっている。そうじゃなきゃ、急に春樹があんなに態度を変えるわけないもの」

「それならそれで良いじゃないの。あの子にもわかったんだから。美紅も、もう目を覚ましなさい」

「ふざけないでよ!お母さんに私の人生を支配する権利なんてないわ」

「いい加減にしなさいよ、いつまでも子供じゃいられないのよ」

いくら反撥しても、彼女の対応は変わらない。


それからも春樹自身が美紅を避けていた、春樹が悩んでしまって、いくらメールを打っても、学校で話かけても頑なに美紅を避けて、どうすることも出来なかった。春樹がどういう結論を出すか?それを美紅は待つしかなかった。しかし、いつまで母親に、そして相沢家に縛られ続けなければならないのか、自分は一生自由に生きられないのか、そう思うと美紅は本当に悲しかった。


 絵理は千佳達とつるんで真名をいじめ続けていた。最近は真名が学校も休みがちになり、担任の吉田も心配をしていた。バトミント部も当然休んでいて、顧問が家の方にも連絡を入れ、母親に確認は取っているが理由は掴めないでいた。しかし、クラスと部活の生徒たちはみんなが理由をわかっていた。

彩夏と環は、絵理の様子を心配して見ていた。いつも三人で一緒にいたのに、絵理が一人距離を置きだしたのだ。

「絵理どうしちゃったのかな?最近は人が変わっちゃったね。真名をいじめてるのも絵理らしくないし。千佳たちと良く一緒にいるけどあれで良いのかな?」

彩香は心底心配していた。

「う~ん、部活のことが影響してるのかな?怪我してから段々様子が変わっちゃったね。でも、私がとやかく言える立場じゃないよ」

環は、絵理とポジション争いをしていた立場だっただけに、彼女の気持ちが何となくわかってはいた。

「なんか私たちのことも避けてるみたいだしね。どうしたら良いんだろう?」

「放っておくしかないんじゃないかな。私たちが言ったってどうにもならないよ」

「本当にそうかな?このままじゃ絵理も紀子みたいに部活辞めちゃうんじゃないかな」

「それじゃ寂しいよね。今まで一緒に頑張って来たんだし」

二人がそんな話をしていることを絵理は知らない。

真名をいじめても、残るものは虚しさしかなかった。しかし、この思いを何にぶつけたら良いのかわからなかった。自分の中にあるどうしようもない衝動をこれ以上真名にぶつけていたら自分自信が駄目になってしまう。

彩夏や環も自分から離れていっている。彼女たちが避けているのではなく、自分が一緒にいるのが辛かった。自分がどこに向かっているのかもわからない。千佳もきっと同じなんだと思った。だから一緒にいるとホッとした。しかし、一人になると今まで以上に虚しくなった。そんな事の繰り返しだった。この虚しさや苛立ちを抑えるために真名にあたり、それ以上に虚しくなって行く。だけどなかなか止めることは出来なかった。

真名が久しぶりに登校した日の昼休み、いつものように真名がお弁当箱を持って教室から出て行った。千佳や絵理はその姿を見てふ~んという顔をして見つめていた。同じバトミントン部の杏奈が急に教室の後の棚に置いてあった太いマジックを取ってきて真名の机に近づいた。ノートを取り出すとキャップを取ってバ~カと書いて笑いながら戻ってきた。千佳も絵理もそれを見て笑い、絵理はそのマジックを受け取ると真名の机に向かった。

キャップを取り書こうとしたその時、腕を後ろから掴まれた。驚いて振り向くと彩夏が立って腕を掴んでいた。絵理はその腕を掴まれたまま、廊下まで引っ張られた。

「どうしたの?絵理はそんなことする人じゃないよね」

「何よ」

絵理がふてくされて言い返すと、

「何があったの?絵理。全く人が変わっちゃったよ。」

彩夏は目を真っ赤にして睨んでいた。その顔を見た時、絵理は顔をそむけた。腕を振り払うとそのまま廊下を駈け出して行った。彩夏はその後姿をただ見送った。

階段を駆け上がって屋上に出た。そこには、バレーボールで遊んでいる生徒やお弁当を広げている生徒が何人かいたが、気にもせず駆け抜けフェンスまで走った。フェンスを掴み大きく息をした。

恥ずかしかったし、悲しかった。私は何をやっているんだろう?

あたり一面薄曇りの空に覆われ、まるで自分の気持ちを写しているようで、胸の奥が苦しくなった。

絵理は、思いっきり泣きたかった。


あれから、直子は毎日悩んでいた。

こんな事をしていて子供達に万一わかったらどうなってしまうんだろう?

やはり、北島専務と一線を越えることを躊躇っていた。しかし、その一方で北島のことがどんどん直子の心の中を支配していた。たった二回のデートだが、本当に胸がときめき楽しくてたまらなかった。手を握られ、キスをされたことも素直に夢のような気持ちだった。自分の人生ではもう二度と無いと思っていたことが、今起こっている。彼とのそういう時間を失うことは耐えられない。だがこれ以上のことがあれば、貞男と子供達との関係がこのままでは済まなくなると考えると流石に恐い。そんな中、北島からは何度もメールで、飲みやドライブの誘いがあった。気持ちが落ち着かず仕事も手が付かない。安田さんにも、

「曲直部さん、最近どうしたんですか?何かぼーっとしていることが良くあるけど」

などと言われる。

そんな思いでいた土曜日の午後、春樹まで巻き込んだ夫婦喧嘩が始まった。

その日もお昼近くまで寝ていた。貞男は居間でテレビを観ながら、ゴロゴロしていた。直子が起きて下に降り、「おはよう」と声をかけた。何か様子が変だ。貞男は聞こえないふりをし、腕枕をしてテレビを観ている。「お昼何にする?」直子が聞いても何の返事も寄越さない。

「何よ、挨拶しても何も言わないし、お昼どうするか聞いてるのに」

直子の苛立った声に、

「隠し事ばかりする奴に、何で返事しなきゃならないんだ」

いきなりの怒声に、直子は動揺した。北島専務とのことがわかってしまったと思い、台所に立ったまま手が震えた。それを必死に隠そうとキッチンに手をぐっと抑えた。

「お前汚いじゃないか、俺から取るだけ取って自分の給料で積立なんてして」

えっ?専務ことじゃない。そうわかるとホッとし、手の震えが止まった。隠れて始めた財形貯蓄が、暴露たかと思うと少し憂鬱になった。

「何でわかったのよ?」

「ここに証拠がある」

会社の給与明細書を開いて差し出してきた。

「人の明細、勝手に見ないでよ」

「お前何開き直っているんだ!人にお金が足りないって言っていたくせに。隠れて月三万も積み立てして。本当にふざけやがって!」

吐き出すように怒鳴り散らした。

「将来の春樹や絵理のために、積み立てして何が悪いのよ。何よ、休みに起きたらいきなり怒鳴り出して」

「春樹と絵理のために毎月郵便局の財形を積立てしているじゃないか。それならそれで何で俺に相談しないんだよ、そんなことで信用出来ると思うか」

 「貴方はいつだって、私のことなんか信用してないじゃない」

 「お前がそういうことをやるからだろ」

そんな怒鳴り合いをしているところに、春樹が二階から降りてきた。

「何休みの昼間から怒鳴り合っているんだよ」

「母さんが隠れて貯金をしてた。父さんには、お金が足りない足りないってしょっちゅう言ってて。俺が苦労してやりくりしてるのに」

「自分だけ苦労しているみたいに言わないでよ」

「お前は休みには買い物行ったりして、好き勝手やっているじゃないか」

「私が働いて稼いだお金を使って、何でそんなこと言われなきゃいけないの」

「俺の稼いだ金は、ほとんど全て家の事で使っているじゃないか。食費だってお前の給料だけじゃ足りないって言うから渡しているのに。そんな言い草があるかよ」

「男なんだから家族を養うのは当たり前でしょ。主婦やりながら働いているんだから、多少買い物でもしてストレス解消しなきゃ、やってられないわよ」

また、夫婦で言い合いになってしまう。

「どうなってるんだよ?喧嘩ばかりしてさ。そんなにお互いが憎いなら別れちゃえば。僕たちだってこんなに揉めている家にいるの、もうたくさんだよ。でも、今回のことは聞いていると母さんが悪いと思うよ。何も言わずに隠れて貯金していたなんてさ」

「何お前にまで言われなきゃいけないのよ。そもそも、あんたの学費が大変で私だって働きだしたんだから。あんたに言われる筋合いはないわよ」

「母さんはそうやって人の話を聞かないから、いつも喧嘩になるんだよ。自分が悪くても謝ることないじゃん」

「何勝手なことばかり言っているのよ。あんたは関係ないんだから、夫婦の喧嘩に口はさまないでよ」

「母さんも少しは謝ることをした方がいいよ。絶対に間違っている」

「うるさい!お前に言われる筋合いはない」

 手に持っていたブラシを投げつけた。

 「何やってるんだ。物に当たるのもいい加減にしろよ」

 貞男に言われ直子は完全に切れていた。

 「貴方も貴方で甲斐性は無いし、息子は偉そうなことばかり言って、ふざけんじゃないわよ。ろくな男どもじゃない」

 「お前が貯金していた分、もう渡さないからな。そんな余裕があるならお前の給料で食費は賄ってもらう」

 「積み立てているのを止めろって言うの?子供達のためにやっているのに」

 「俺だってギリギリでやっているんだ。借金したりしてあっぷあっぷだよ。住宅ローンから水道光熱費、学費など、借金という借金の全ては俺の口座からの引き落としじゃないか。三万円もあれば、借金を少しでも早く返せる」

 「信じられない、そんなこと絶対許さないから。絵理の塾代だって私が払っているじゃない」

 「絵理の塾代と食費以外、お前の給料から出しているものなんてないじゃないか。とにかく五万円出していたんだから、これからは二万円だけ渡すから」

 「本当にみみっちい男、だから出世も出来ないのよ」

 「何と言われようがお前が俺を騙していたんだから、そうさせてもらうから」

 「貰うものはこれからだって貰うから」

 「もう話すことはないよ」

 貞男は言うことを言うと、部屋から出て行ってしまった。春樹も呆れた顔で冷蔵庫からコーラのペットボトルを出して二階に上がった。

 直子は居間に一人残されて、まだ怒りが収まらなかった。貞男のことも春樹のことも許せないと思った。そして北島に無性と会いたかった。あの人に抱きしめて貰いたいと強く思った。もう家族のことなんかどうなったって構わない、自分の心を満たしてくれるのは北島しかいない。いつの間にか携帯で会いたいとメールをしていた。

 

 貞男は、小銭入れを持って玄関に置いてある車のキーを取ると外に出た。駐車場のワンボックスカーに乗り込みエンジンをかけた。あまりにイライラしたので、気分転換にモールでコーヒーでも飲もうと出発した。

 何で仕事も家の中もトラブルばかりなのか、本当に嫌気がさした。仕事の事だけで精神的にも一杯なのに、度重なる直子と怒鳴り合いの喧嘩。頭がどうにかなりそうだった。せめて休みの日くらいは心を落ち着かせて過ごしたい。最近は夜もあまり眠れない日々が続いていた。頭の中にどんよりと闇が広がっていくような、そんな感覚に襲われていた。

 直子に言った言葉を思い出す。

 「お前、今は子供のことで夢中で良いけど、いづれ離れて行くよ。そうしたらこれから何を生きがいにするの?」

 言っていたときは、自分の仕事は順調でそれなりに充実していた。子供たちもまだまだ手が掛かって大変だったが、それなりに幸せな日々を過ごしていた。だからこそ、自分自身を見つめ直す余裕など無かったし、必要ともしていなかった。

しかし、今の自分は直子のことを言っている場合ではなかった。自分自身の将来が不安だった。これだけ仕事でプレッシャーを掛けられ続け、果たして精神的に持つのだろうか?

 新青梅街道から国道十六号に入る。横田基地を横目に見ながら拝島から五日市街道に左折し昭島に向かった。家から約三十分で昭島のモリタウン駐車場に着いた。この時期になるとかなり蒸し暑かった。シネコンに向かう歩道手前にあるエスカレーターで二階に上がり、陸橋を渡るとモールの入口だ。入ってすぐの紳士服売り場を覗き、ポロシャツを何着か手に取ってみたりした。そこから吹き抜けの広い通路を歩き、東館入口すぐのくまざわ書店に立ち寄る。ミステリー小説の新刊何冊かのページを捲って立ち読みをする。そんなことをしてから一階のカフェに向かった。土曜日の午後はかなり店内も込んでいる。通路側長テーブルの席が空いていたので、そこに文庫本を置いて飲み物を買うために並んだ。いつものアイスカフェラテを頼み、受取ると席に着いた。しばらくガラス越しに、目の前の通路を歩く家族連れやカップルの姿を呆然と眺めていた。

 貞男の心の中は虚しさだけで溢れそうになっていた。

先日、貞次にお前は家族のことをちゃんと見ているのか?と言われたが、確かに当たっていた。何も見ていなかった。春樹のことも絵理のことも、学校で何があるのかさっぱりわからなかった。直子の会社のこともほとんど知らなかった。たまに職場の飲み会で帰りが遅いことがあったが、それも付き合いなら仕方ない。彼女がそうやって遅くなってからは、貞男が遅くなっても文句を言わなくなったので、かえって都合が良いとさえ思っていた。それこそ直子が浮気をするわけはないと思っていたし、それほど関心も持っていなかった。

自分の知らないところで子供達や直子にも、それぞれ思いも寄らないことが起こっているのかもしれない。それでも、知ったところで対処する気持ちにはなれなかった。それほど気持ちが萎えていた。

そんな貞男の態度が、直子や子供達にはわかっていたのかもしれない。特に絵理は、貞男を疎ましくさえ見ていた。春樹も高校生特有の反抗期も手伝って、常に反発する態度を取っていた。時には、二人とも貞男を馬鹿にすることもあった。そんな子供達のことを避けるようにさえなっていた。

直子には正社員に登用されるという話が出ていた。それが自信に繋がったのか、増々自己主張が強くなった。貞男の意見を聞くことはほとんど無くなった。やがて子供達が独立し、二人だけになってしまった時に上手くやっていく自信は全く無かった。

遠い昔、付き合い始めた頃は、直子の物事をはっきりと言う性格が貞男にとっては自分にはない魅力に感じた。しかし、結婚して一緒に生活していく中で、あまりに自分の意見を曲げないその性格に辟易としていった。少しは人の意見を聞く耳を持てと言ったが、直子は頑なに自分の考えを曲げることはなかった。

今回のように、お金の事では何度も衝突をした。最後は貞男が借金をして工面をしてきた。二十年近くそのような遣り取りを繰り返しているうちに、お金のことになるとすぐに怒鳴り合いが始まった。

貞男は家の中で居場所が無くなっていた。どうすれば良いのか?いくら考えても納得出来る答えは出ては来なかった。

いつの間にかカフェラテの氷は溶け、飲むとぬるかった。

手元にある文庫本を開き、ページを捲るが文章が頭のなかに入ってはいかない。

月曜日から、また高瀬の叱責が始まると思うと更に憂鬱な気持ちになった。文句ばかりを言われていると、言われることが当たり前で麻痺していく。しかし、それで心が壊れていかないわけはない。確実に少しずつ蝕まれて行く。身体の変調も高瀬が原因なのはわかっていた。

 

 貞次は夢の中にいた。妻の美智子が枕元で泣いていた。

 「美智子、どうした?」

 貞次は起き上がり美智子の肩にそっと手を当て尋ねても、ただ泣いているだけで顔を上げようともしない。

 「どこか痛いのか?」

美智子は泣きながら首を横に振った。

「じゃあ、どうした?貞男か孫達に何かあったのか?」

そう聞いてもただ泣いている。そして夢は続いた。


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