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爪切りの音  作者: toshi
4/13

悩み

 五月中旬


陸上競技大会から半月が経ち、六月初旬には東京都高校総体の決勝が行われる。決勝に向けて練習にも気が張っていた。そんな週末、美紅は学校から帰り、夕食を済ませて自分の部屋に行こうとしたところで、君江に話があると呼び止められた。

ソファに座りテレビを点けるといきなり君江が言った。

「あの子はあなたに相応しくない」

「何言ってるの?」

「だからあなたにあの子は相応しくないって言ってるのよ、曲直部春樹君は」

まさしく晴天の霹靂だった。何でお母さんが春樹のことを知っているのか?すぐに言い返すことが出来なかった。

「美紅、お母さんに隠し事なんてしたって無駄よ。ちゃんとわかってるんだから」

「何言ってるの、彼は普通の友達よ、勘違いしないで」

「私陸上競技大会に行ったのよ。貴方の走るところも見たし、その後の様子も見てたわ。あれがただの友達かどうかくらいわかるわよ」

あそこに、お母さんが来ていたとは思ってもいなかった。

「あの日は、お父さんの後援会の関係で来れないって言ってたじゃない」

「途中抜け出してタクシーであなたが走るところだけはと思って行ったのよ、走り終わってスタンドに上がって来たから声掛けようと思ったら、美紅は真っ先に男の子の所に行ったじゃない。お母さんの方がビックリしたわよ」

そう言われると、誤魔化しようが無かった。

「何で私が男の子と付き合っちゃいけないの?」

美紅はもう開き直っていた。

「だから、何度も言ってきたでしょ!あなたはこの相沢家を継がなければならない人間なの。付き合う人は誰だって良いっていう訳にはいかないの」

「今どき何でそんな古臭いこと言ってるの」

「小さな頃から言ってるでしょ!あなたがお父さんを継ぐか、そういう人と結婚するかしかないの。だからそれなりの人を選んでもらうしかない。曲直部君が良い子とか悪い子だとかそういう問題じゃないの。それなりの家系の人じゃないと困るの」

「それが訳わかんない。私が誰と付き合おうと何の迷惑を掛けるって言うの。彼の何がいけないの?お母さんが曲直部君の何がわかるの?」

「曲直部君のことは知らないわ。でもお父さんは市役所勤めで、お母さんも働いているのよね。彼が美紅と一緒になって政治家を志すなんて考えられないでしょ?そういう家系でも無いし」

「だから何で私や付き合う人が政治家を志さなければならないのよ」

「それは美紅の宿命、男の兄弟でもいたらまた違ってたと思うわ。でも私たちには美紅しか出来なかった。だからこればかりは我慢してもらうしかないの」

「私は曲直部君とは別れないわ。別れる理由なんて無いもの」

「こういうことになるんじゃないかって心配だったから高校受験なんて反対したのよ。女子校ならこんな心配をすることは無かった」

そう言われると美紅は何も言えなかった。

「とにかく曲直部君のお母さんに電話して、お付き合いはさせられないからって言っておいたから」

君江のあまりに非常識な酷い行動に驚いた。

「信じられない、なんてことするのよ!」

そう言ってソファのテーブルを両手で思いっきり叩くと立ち上がり、そのまま居間を出て行った。ビックリして君江は後を追った。玄関からサンダルを突っ掛けて飛び出した。君江にはとても追いつかず、美紅の後ろ姿をただ茫然と見つめていた。

がむしゃらに走って後ろを振り向くと、君江の姿は見えなかった。そのまま近くの川にたどり着くと、足を止めて呼吸を整えた。少し冷静になって考えてもこれからどうすれば良いか見当も付かなかった。とにかく今は春樹に連絡をして謝りたかった。


その晩は春樹の家でも当然ひと騒動があった。

春樹が部屋で宿題をしていると、仕事から帰って来た直子の声がした。

「春樹、降りてきなさい」

うるさいな~と思いながら下に降りて、リビングに行くと、

「あんた、相沢さんて子と付き合ってるの?」

「えっ!?」

直子の質問にびっくりした。

「何で?」

「今日相沢さんのお母さんから会社に電話があったのよ。娘と付き合わせることは出来ないからって」

「そんな電話本当にあったの?」

「嘘言ったってしょうがないじゃない。もうそういう家の子と付き合うの止めなさいよ。かなり面倒な家みたいじゃない。高校生が付き合うくらいでわざわざ母親から会社にまで断りの電話入れてくるなんて。これからだっていろいろ言って来るわよ、あんただって嫌でしょ。うちの家族の事もいろいろ言ってたわよ、お父さんが市役所勤めで私が自動車部品会社の役員秘書、それに中学二年生の妹が一人。どう考えても興信所を使って調べさせたのよ。私も頭来たから、お宅にいろんな事調べられる筋合いは無いと思いますって、はっきり言ってやったわよ。そんなに娘が心配なら外に出さないで家の中で生活させろって」

春樹は、直子の話を聞いて呆然となった。美紅が付き合う前に言っていたことが、初めて納得できた。本当にここまでの事をやるのか、と驚いた。また、春樹の気持ちを一切考える事のない直子の言動も悲しかった。

「俺の問題だから、母さんはもう口を出さないでよ。俺が何とかするから」

「何言ってるのよ、あんたの事だけで済まないから私の会社にまで電話があったんでしょうよ。普通の家庭じゃないんだから、もう諦めて別れなよ。私だって困るわよ、こんなことで会社にまで連絡寄越すんだから。本当に何されるかわかったもんじゃないわよ」

本当にそうかもしれない、春樹は思った。そして美紅のことが心配だった。


絵理は五月の中旬になっても右足首の具合が良くならず部活に顔は出していたが、相変わらず見学するだけだった。その間に環が確実に力を付け、時期レギュラーメンバーの一員として練習に加わっている。そんな姿を見るにつけ絵理はどこか投げやりな気持ちになっていた。

火曜日の朝、二組の教室でバトミントン部の真名と同じ部活の千佳達との間でちょっとしたいざこざがあった。

バトミントンの春の市内大会で真名が個人戦で三位になった。それがきっかけで周りからもチヤホヤされて少し有頂天になっていた。放課後の部活でのことだった。スマッシュの練習が始まり、千佳がスマッシュをすると、真名が、

「千佳のフォームを見てるとスマッシュを打つときの肘が少し伸びすぎだよね。もっと曲げた方が弓のようにしなってシャトルにスピードが出るよ」

千佳の顔色が一瞬変わった。しかし、

「う~ん、そう?」と素っ気なく返事をした。

その時は何事も無く部活が終わり、みんなが部室に戻った。着替えを済ませ真名は塾があるので先に帰ると出て行った。

すると、

「何か真名最近うざくない?市の大会で入賞したくらいで偉そうに人にアドバイスなんてし出してさ」千佳が憎々しげに言うと

「そうだね~かなり調子に乗ってるよ。ちょっと顧問や周りにチヤホヤされたくらいでさ」

「あいつ少しハブるか?」

千佳がそう言うとその場にいたメンバーが頷いた。


翌朝、真名が教室に入っていつものように千佳たちに「おはよう!」と声を掛けた。千佳達は声が聞こえなかったかのように何の反応もしないで話込んでいた。真名はカバンを机に置いて近づいてもう一度声をかけた。すると千佳が振り向き無言で真名を睨み付け露骨に嫌な顔をした。

絵理は自分の机に座ってすぐ目の前でその様子を見ていた。いつも仲良くしている真名と千佳達の様子が明らかにおかしかった。

真名は言葉を失い自分の置かれた立場に愕然とした。何があったのかがわからなかった。ただ自分が千佳達の仲間から外されようとしている事はわかった。これからどうすれば良いのか考える余裕はなかった。ただ、ここで何か言ったところでどうにもならないということだけはわかった。呆然としたまま俯いて自分の机に戻ろうと振り返った時、絵理の机に身体が当たった。その瞬間机にあった筆箱が落ちてシャーペンや消しゴムが散らばった。真名は慌てた。

「絵理ごめん!」

絵理はその言葉を無視して、筆箱やシャーペンを拾った。

「本当にごめんね」

真名はもう一度謝った、絵理は真名に対する怒りというより自分の中に貯まっていた言いようの無いどす黒い怒りを真名に向けて吐き出すように睨みつけた。その場はまるで水を打ったように静まり返った。真名はそれ以上何も出来ずただうなだれ自分の席に戻り座ると机の一点を思い詰めた顔で見つめていた。

絵理は、千佳と目が合った。千佳はニコッと微笑んだ。

何かスーっとした。自分の身体の中に貯まった黒い塊が胸の辺りから頭へ登りつめ、抜け出た感じで日頃の重い気持ちが一瞬晴れた。


あれから直子は、北島専務のことで頭がいっぱいになっていた。意識し過ぎて北島専務のことをまともに見ることも出来なかった。北島専務は今までと変わりなく接してきた。朝会社に来れば、秘書室に顔を出して挨拶を交わし、部屋にコーヒーを届ける。そこでスケジュールなど仕事関係の話をする。特に個人的な会話をしてくることは無かった。直子は落胆していたが、少し安堵する気持ちもあった。あの時のことはお酒の勢いもあってしたことなのだと思うことにした。しかし、今の自分に何があるのかと思うと、このまま何も無かったことにすることは悲しかった。すでに家族のことは、直子の気持ちの中では少し吹っ切れていた。貞男のことも子供たちのことも向こうが私を必要としなくなったのだと自分なりに理由を付けていた。

貞男とは短大一年の時にコンパで知り合った。それから、友達数人とグループ交際を始めた。とても温かみのある鷹揚な性格の男性という印象だった。話をしていても話題が合い楽しかった。どちらかと言えば直子の方が貞男のことを気に入った。お互い社会人になった初めてのバレンタインデーに直子が手作りチョコレートを上げたのがきっかけで、本格的な交際がはじまった。それから二年ほど付き合って、結婚をすることをお互い決心をした。

両方の両親に結婚したいことを伝えて、初めて貞男の両親が挨拶に来た時のことだ。直子は父親が二十一歳、母親が二十歳のときの子供である。貞男の両親と直子の両親とでは十歳以上年が離れていた。そんなこともあり、直子の両親は平身低頭で頭を下げっぱなしでいた。どちらも親で対等なのに何でうちの両親が常に下手に出ていなければいけないのだろうと感じた。

また、直子は結婚当初から貞男の両親にはずっと出来の悪い嫁として見られていると感じていた。両親が若い時の子供のせいか親とは友達感覚で育った。それが突然五十半ばの貞男の両親が親として現れ、どう接すればよいかわからなかった。

 貞男の実家はいつも整理整頓されていた。貞次が厳格な人間のせいか、美智子がこまめに掃除をしているのがわかった。置物や趣味であるパッチワークなども飾ってあり、少し気取った中流家庭の典型のような家だ。

 それに引換え直子の実家は工場が一緒で、両親は真っ黒になって働いている。家の中は足の踏み場も無いような有様だ。そんなことを直子は負い目に感じていた。家に遊びに来られると家の中を美智子がじろじろとチェックしているような気がした。泊まりに来るなんて言い出したら、家中大掃除でテンヤワンヤになっていた。何とか来ることを阻止したかった。向こうの実家に泊まりに行くことも苦痛でたまらなかった。

 貞次は無口ですぐに美智子を怒鳴るような人間だったので、直子には一緒にいるのが苦痛だったし心打ち解けてやってはいけなかった。どこか萎縮するところがあった。私は親と結婚したわけじゃない、貞男さんと結婚したんだと心に強く思った。

 結婚して二年後に春樹が生まれ、それから三年後には絵理が生まれた。

 お宮参りや七五三などのお祝いごとがあるたびに、貞男の両親と衝突した。直子は、着物やお返しの品物などは多少お金がかかっても派手にしたいのだが、貞男の両親は着物はレンタルで十分だとか、お返しの品物はオーソドックスな物が良いと言ってきた。一生に一度のことなのだから、何で派手に祝ってあげたいという気持ちになれないのだろう?直子は、借金してでもやってあげたいといつも思う。だから内緒で買ってしまったり、嘘をつくことも多かった。

 春樹が私立中学を受験する時も貞男の両親に反対をされた。直子は、周りに何と反対されようとも私立中学に入れさせたかった。それだけに春樹が中庸中学に合格した時はまるで自分が受かったような喜びを感じた。合格が決まるとすぐに派遣会社に登録し、自動車部品メーカーの役員秘書としての仕事に付いた。何か自分が一歩上の世界に登ったような喜びに包まれた。また、貞男の両親を見返してやった、という気持ちにもなった。

 子供たちは、中学生にもなると親を段々必要としなくなる。春樹も中学二年には反抗期を迎え一時は貞男だけでなく直子とも口をきかなくなった。高校生になりひと頃の無視することは無くなったが、必要があるとき以外は話をしない。絵理は貞男に対しては敵意があるような厳しい態度を取るが、最近は直子に対しても言葉数が少なくなり学校のこともあまり話さなくなった。

 そんな日々の中で貞男から

 「お前、今は子供のことで夢中で良いけど、いづれ離れて行くよ。そうしたらこれから何を生きがいにするんだ?」

 そう言われ、自分の人生はこのままで良いんだろうか?という思いが頭の中から離れなくなった。

今の仕事に着いて、三年経った頃から自分の生活も人生観も少しずつ変わってきた。直子の仕事振りが役員や取引先からも評価されていることがわかると、辛い事は多いけれど、それ以上に生きがいを感じるようになった。

直子は貞男のことが少しずつ疎ましく思うようになってしまった。結婚してしばらくは周囲の女性を寄せ付けるのも嫌で、知り合いの女性と話しているだけで怒って喧嘩をした。義母美智子でさえ恋敵みたいな気持ちになり、会わせたくもなかった時さえあった。あの頃はいったいどうしてあんなに貞男を束縛したかったのか?

それが北島専務を始め多くの企業で精力的に働くエリート男性を見ているうちに、貞男が男性としてあまり魅力が無いように思えてしまった。当然、貞男の両親との確執も大きな要因ではあるが一度そういう思いが芽生えると、なかなか払拭することが出来ない。そのうち仕草や癖、そして食事の仕方までが気になり、見ているだけでイライラするようになった。最近は絵理が成人し独立したら、熟年離婚しても良いと真剣に考えるようになってしまっていた。

 

貞男は連休開けから、連日春祭りのパレードの後始末に追われていた。

警察署には石井副市長が高瀬部長と出向き、警察署長に謝罪をした。署長はもうすでに起こってしまったことなので仕方ないでしょう、取りあえず何事も無くて良かったと言って受け入れてはくれた。しかし、寺田交通課長は未だ固くなで来年度のパレード開催には難色を示していた。署長も多少擁護する側に回ってはくれたが今後のことは市の担当で交通課と話し合ってもらいたいという返事だった。

その話を受けて、早速貞男が木下係長と今後の対応方法を検討した資料を持って、警察署に出向いた。

秋野警察署一階受付で、名刺を差し出し寺田交通課長にお会いしたい旨を告げると、二階の交通課に行くように言われた。正面階段から上がり、交通課とプレートが掲げられている扉をあけて中に入ると、そこも多くの警察官が忙しそうに働いていた。フロア正面の一番後ろに配置された机で寺田が書類に目を通していた。目の前に座っている警察官に声を掛けると、すぐ課長に声をかけてくれた。寺田は貞男たちに気がつくと課長の机の隣に置かれているソファの方に来るように手招きをした。

いくつもの机が並んでいる脇を通り、寺田のもとに向かった。

「お忙しいところすみません。この度は本当に申し訳ありませんでした。寺田課長には大変ご迷惑をお掛けしました」

「まあまあ、取りあえず座って下さい」

「それでは遠慮無く座らせていただきます」

そう言って、貞男と木下はソファに腰を下ろした。

座るとすぐに若い女性警察官がお茶を持ってきてくれた。

「パレード関連のお話とは思いますが、本日はどのようなご用件ですか?」

「それでは早速ですが、来年のパレードに向けて、こちらで検討した対応方法についてお話させていただきたいと思います」

そう貞男が言うと寺田は、急に難しい顔になった。

「その件については、警察署内で、まだ方針が決まっていませんので、お待ちいただきたい。パレードの実施自体を認めるかどうかさえ決まっていません」

思いの外、厳しい口調で言われた。

「こちらとしましては今回のような不手際は絶対にいたしませんので、何とか今後も継続して実施させていただきたいのですが」

「お気持ちは十分わかります。しかし、今回のことは私としては簡単に了承出来ません。たまたま事故もなく無事終わりましたが、子供達も参加しているパレードで交通事故による人身事故などがあれば、それを認めた秋野警察署としても大きな責任問題に発展するような内容です。特に子供達を危険に晒したことの責任は私が誰よりも一番強く感じています。我々警察がこのことを重大な問題として受け止めなければ交通安全は誰が守るのですか?」

「そう言われると返す言葉もありません。しかし、多くの市民がこの春祭りのパレードを楽しみにしています。そのことも何とか配慮いただき、今後もパレード継続について前向きに検討していただければと思います。何卒よろしくお願い致します」

貞男と木下は、ただただ頭を深く下げてお願いした。

寺田は腕組をして目を瞑っていた。交通課長として、今回のことをかなり重く受け止めていることが十分わかった。しかし、貞男はそれでも今回の一件でパレードが今後出来なくなることは防がなければならなかった。

「取り敢えず、今後の対応方法などは時期尚早です。こちらとしての方針が決まりましたら連絡をしますので」

寺田の話を聞き、今日のところは引き下がるしかなかった。警察関係については来年までまだ時間がある。

警察署を出ると全身汗でびっしょりだった。

「課長大丈夫ですか?ひどい汗ですよ!」

「ああっ、大丈夫。最近暑くなって来たせいかすぐに汗が出るよ」

「それにしてもかきすぎじゃないですか?体調が悪くなければ良いですけど」

「大丈夫、心配かけてすまない。ワイシャツを買ってあとで着替えるから」

そう言いながらも、やはり体調の異常が気になった。こんなに汗をかくほど気温は高くはなかった。

今はもう一方の問題について、早急に手を打たなければならない。

住民ネットワークの木田洋子市議会議員が、今度の議会で市長の責任を追求すると息巻いている。高瀬部長はそのことで貞男にどうするんだ?と詰め寄るばかりで対処方法を一緒に考える様子は無かった。最終的に警察署が来年も開催を許可すること、そして議会で木田に質問を止めさせること、この二つを貞男の責任で対応しろと言い切っていた。

議会は六月から始まるが事前に質問内容が各議員から提出される。質問自体を止めさせるか、今後の対応についての質問程度に留めさせたいと考えていた。しかし、彼女には自分は主婦の代表として議員に選ばれたという思いが強い。

貞男が議員控え室に出向いた際も、

「今回のことを無事に終わったからって簡単に考えないでもらいたい。パレードに参加した子供達のご両親、とりわけ母親の思いを考えたら、万が一交通事故にでもあっていたら、課長はどう責任を取るのですか?市役所を辞めただけじゃ済まされないわよ!」

言い始めると段々興奮して来た。

「当日鼓笛隊に参加している子供達の様子をカメラに収めることを楽しみにしていた親御さん達からも、本来のコースを通らなかったために撮影することが出来なかったというクレームが多く寄せられました。これに変わる発表の場を作って貰いたいって、真剣に相談に来られてるのよ。このことに対しても何らかの対応を求めるつもりよ。そうしなければ、私が市民の皆さんに怒られてしまうわ」

「私共から今回のことは謝罪させていただきます。今後、このような事が無いように事前に十分対応策を図り実施させていただきます。そういうことで、今回の件は丸く収めていただけないでしょうか?また春祭りに変わるパレードと言われても、なかなか実施は困難かと思います。運動会をはじめ学校行事で当然発表の場はあるかと思います。そういうことで、ご理解いただければありがたいのですが」

「そんな通り一遍の対応で、済むわけないじゃない!市長に議会でちゃんと謝罪を求めますから」

「木田議員、市長に謝罪まで求めるのはご勘弁下さい。市長がそういうことで頭を下げていたら、いくつ頭があっても足りませんよ」

「何言っているのよ。そのぐらいするのが当たり前でしょ!今日だって、何で部長が来て謝罪しないの?私を馬鹿にしてるの?あなた達は市に雇われている身分だけど、私は市民の代表として選ばれた人間なのよ。少なくともその担当部署の長が来るべきでしょ」

「部長は本日すでに予定が入っていまして、担当課を代表して私が説明に伺ったのでご理解いただきたいと思います」

「そういう事は、今後もあなたが私の対応をするってこと?」

「そうなると思います」

貞男がそう言うと

「ふざけるな!」と怒鳴り返された。

貞男は、高瀬の顔を浮かべるだけでいっきに汗が噴き出した。

「急にそんなに汗かいてどうしたのよ」

貞男の顔から汗が滴り落ちていた。

「いえ、すみません」

「具合でも悪いの?」

「大丈夫です」

「今日はもう良いから、帰って休みなさいよ。お水でも飲む?」

「結構です、それでは失礼します」

議員室を出て、ロビーのソファに腰掛けタオルで汗を拭きながら、呼吸を整えた。

最近は汗だけでなく、動悸がするようになってしまった。少し休んでから議会事務局に挨拶をして議会棟を後にした。


貞次は、あれからまた一度目眩を起こして、そのまま寝込むことがあった。その時も変な夢を見た。さすがに不安になり、五月中旬、東急池上線の洗足池にある桧原病院の脳神経科を受信することにした。

初診ということで、総合受付で診療申込書に必要事項を記入し保険証と一緒に出すと、診療カードとカルテが作成され、東棟二階の脳神経科の窓口に行くように言われた。中央通路から右に折れ、突き当りまで行くと右側に階段とエレベーターがあった。エレベーターに乗り二階に出ると、正面に外科と脳神経科の受付窓口があり、女子事務員が立っていた。

診療カードとカルテを渡すと、

「この問診票に記入して下さい」と紙と鉛筆を渡された。

いつ頃どのような症状があったか、服用中の薬はあるか、過去に大きな病気手術はしていないか、など必要事項を記入し事務員に手渡した。

「それでは、椅子に腰掛けてお待ちください。お名前をお呼びしますから」

事務員はそう言うと中に入って行った。貞次は言われるまま近くの椅子に座り呼ばれるのを待った。

それから、十五分ほどで声を掛けられた。

「曲直部さん、そちらの左手に診察室がありますのでその前でお待ちください。お名前が呼ばれますので」

貞次は、第一診察室、第二診察室とプレートが出ている前の長椅子に移動した。第一診察室に巻田、第二診察室に渡辺と医師のプレートが出されていた。

そこでまた十分ほど待たされると、

「曲直部さん、第一診察室にお入り下さい」という声がスピーカーから聞こえた。

貞次は、第一診察室のドアをノックして入った。

「おはよう御座います、よろしくお願いします」

「おはよう御座います。荷物をこちらにおいて椅子に腰掛けて下さい」

貞次が腰掛けると

「今日はどうしました?」

と医師からの問診が始まった。

「最近目眩がしたり頭がぼーっとしたりして。何度か起き上がれなくてそのまま寝てしまったこともあって」

「そうですか、今はどうですか?物が二重に見えるとかいうことはないですか」

「何かぼーっとした感じです。いつ目眩が起こるかが心配で」

「そうですか。取りあえずCTを撮りましょうか」

「はい」

「それでは、今撮影のための書類を出しますので。カルテと一緒に受付に行って説明を受けて下さい。終わったらまた戻って来てもらいますからね」

その場でプリンターから出力された書類を渡され、それを持って窓口に行くとレントゲン科受付にカルテと書類を提出し待つように説明を受けた。階段で降り、一階のレントゲン科窓口に書類を出して待った。この病院にはいったいいくつの受付があるんだ?と思いながら五分ほど待つと名前が呼ばれ、CT撮影とプレートのある部屋に案内された。

荷物を置くとCT装置の寝台に仰向けで寝るように言われた。寝ると頭を固定され撮影技師は部屋から出て行った。それからはスピーカーから指示される。寝台は大きな円筒状の穴の中を何度か移動した。その間息を吸えとか深呼吸をしろとか指示をされた。なんだかんだとほんの五分ほどで撮影は終わった。終わるとカルテを受け取り、もう一度、二階の脳神経科に戻り呼ばれるのを待った。脳に何かできていたらどうしよう?と少し不安が過った。それから十五分ほどして名前が呼ばれ、診察室に入って行った。

「お疲れ様でした。結果が出ましたからね」

目の前ディスプレイに映しだされていた頭蓋骨のCT写真を見る。

「これが曲直部さんの頭部写真です。ちょうど首のしたから顔や脳を見ていることになります」

目の玉はすぐにわかった。

先生がマウスを動かすと画像が変化していき、脳を映し出す。

「今見てるのが脳ですが、ずっと白いでしょ。何かあればその箇所が黒かったり、影があるんです。これを見る限り脳には異常は無いですね。わかりますよね」

「はい」

「取りあえず、腫瘍とか脳梗塞とかは心配ないと思いますよ。そうなるとやはり耳かな?目眩は三半規管の可能性が大きいからね」

「少しホッとしました」

「もし良ければこれから耳鼻科の方を受診されますか?」

そう言われたが、今日は少し疲れたのでまた後日受診させてもらうと言って断った。

この歳になるといっぺんにいろんな事をやるとそれだけで疲れてしまう。

「わかりました、それでは今日はこれでね。このままカルテと診察カードを会計窓口に出して下さい。お疲れ様でした」

「ありがとうございました」

診察室から出るとそのまま一階ロビーの総合窓口に向かった。脳に異常はないと言われ、一安心をした。会計窓口にカルテと診療カードを出すと十分ほどで呼ばれ、会計を済ませた。すでに午後の一時を過ぎていて少しお腹が空いた。帰り道に駅前商店街にある蕎麦屋に入り、盛り蕎麦を頼んで食べた。それから家に帰ってソファに横になると何もする気にもなれず、テレビのサスペンスドラマを観てぼんやりと過ごした。


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