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爪切りの音  作者: toshi
3/13

離れていく家族

五 月


五月三日、八王子の上柚木公園陸上競技場の観客席に春樹はいた。今日は東京都高校総体第五支部の予選会だ。美紅は百メートルにエントリーしている。今日の予選大会で八位以内に入らないと総体への出場は出来ない。美紅は百メートルを十二秒中盤で走るのでタイム的にはギリギリだが、総体への出場が可能な実力はある。順調に行けば、今日は予選と決勝の二回走ることになる。

美紅がストレッチをしながら周りを眺めていると、スタンドに春樹の姿を見つけた。嬉しくて手を振ると、春樹も両手を上げて大きく振り返した。

陸上競技の大会があると、美紅の母親や祖母が応援に来るのだが、今日は父親の後援会の関係で、来ることが出来なかった。前の競技会では、春樹も応援に来たが、お互い目を合わせることがあっても、素知らぬふりをしていた。美紅も、来て貰っている事をそっと喜んでいた。それが今日は、何の気兼ね無しに振舞える。それがとても嬉しかった。

開会式が終わると、各学校の選手が自分達の応援席に向かった。選手たちは、応援席の一角を選手用に陣取っている。

美紅は選手席に荷物を置くと、春樹のいる席にすぐ向かった。

「おはよう!応援に来てくれてありがとう」

「おはよう!俺、バスケの練習さぼっちゃった」

「大丈夫?顧問に怒られない?」

「お腹の具合が悪いって嘘ついた、バレルとヤバイ」

そう言って笑った。

「全く!でも春樹が来てくれたから、頑張らなきゃ!絶対良いタイム出すからね」

「うん!期待してる」

春樹の隣に座り、美紅はとても嬉しそうだった。

場内のスピーカーから、種目女子百メートルに出場する選手はスタート位置に集合するようにとの案内が流れた。

「じゃあ行ってくるね」

そう言って立ち上がった。

「美紅、ガンバ!」

「ありがとう」

美紅は微笑むと自分の席に戻って、短距離用のスパイクを持ち、グランドに駆け下りた。一組目の選手が各レーンで名前が呼ばれ、スターターの用意!の声が聞こえると、一呼吸おいてピストルの音が鳴った。各レーンの選手が一斉に飛び出す。中庸高校の応援は、メインスタンドの中央に陣取っていたので、丁度スタートからゴールまでが良く見える。あっという間に、八名の選手が駆け抜けて行った。

美紅は、女子予選三組目に出場した。四レーンに並ぶと、「一五二番、相沢美紅、中庸高校」と呼ばれ、大きく右手をあげてお辞儀をした。「位置に着いて」とスターターの声、スターティングブロックに足を乗せ、両手をスタートラインに合わせる。用意!の声がスピーカーから聞こえ、一瞬の緊張感に包まれる。次の瞬間、「パン!」というピストルの音とともに、美紅が地を這うようなスタートを切った。二番手でスタートし、ドンドンスピードが付いていく。春樹には、美紅の身体がどんどん光に包まれていくように見えた。光の粒が、美紅の身体に当って流されていく。綺麗だな~と思った。光に覆われた美紅が、目の前を通り過ぎていく。残り十メートルのところでトップになり、そのままゴールをした。美紅はフィールドで身体を屈めて、肩で大きく呼吸をしていた。すぐにスタンドの電光掲示板にタイムが表示された。十二秒三二、自己ベストを更新した。美紅はその姿勢のまま、掲示板を振り向くとタイムを確認し、フィールドで飛び上がって喜んだ。予選とは言え、春樹も自分のことのように緊張していたので、その結果を見てとても嬉しかった。思わず両手を掲げ「やった!」と声を張り上げた。

フィールドから、スタンドの春樹に大きく手を振っている。

それから美紅は席まで戻ると、春樹に駆け寄り、両手を上げてハイタッチを交わした。

「やった!あと少しで十二秒三〇を切れる。凄く嬉しい!」そう言うと、何度も春樹にハイタッチを繰り返した。

「美紅、凄い!」

春樹もニコニコして、凄い凄いを繰り返した。

その時、スタンドの後方で手すりに寄りかかり、凄い形相でその光景を見ている女性がいた。

美紅の母親の君江だ。その日、夫の後援会の行事を途中抜け出し、タクシーで駆け付けたのだ。走る直前に何とか間に合ったと思っていると、美紅がレーンに現れ、あっという間に駆け抜けて行った。一位でゴールを過ぎた瞬間は、とても良かったと思った。美紅がグランドからスタンドに戻って来たので、声を掛けようとしたが、急いで応援席に行くのでそのタイミングを失った。すると、美紅が知らない男の子と何度もハイタッチして喜んでいる。どう見ても、仲の良いカップルにしか見えない。段々激しい怒りが湧き上がって来た。あの子は美紅の何?どういうこと?

娘の楽しそうな顔を見て、とても複雑の思いになった。

君江は、また後援会の集まりに戻らなければなかったし、タクシーも競技場の駐車場で待たせてあった。結局、そのまま競技場を後にした。

 その日、美紅は決勝では六位のタイムで総体の出場を決めた。


紀子が、練習試合の翌週から部活に出て来なくなった。二日・三日すると三年生が、どうして紀子は来ないのか、と二年生に聞き出した。学校には来ているし、廊下で会っても特に変わった様子もなかった。

来なくなって一週間が過ぎた頃、絵理と彩夏が休み時間に廊下でしゃべっていると紀子が通り過ぎようとした。

「紀子、最近部活来ないけど、どうしたの?」

彩夏が声を掛けた。紀子が足を止めて、振り向いた。

「うーん?」

そう言ったきり、首を傾げて黙ってしまった。

「何か嫌なことでもあった?」

絵理がそう聞くと、

「何かもう良いかなって。あんまり面白くなくなっちゃった」

「そんなこと言わないで、続けようよ。今まで頑張ってきたんだから」

彩夏がそう言っても、紀子は困った顔をするだけだった。

絵理も彩夏と一緒に部活に来るように話はしていたが、もう一方で、紀子の思いがわかるような気がした。

練習試合に悪化させた右足首の痛みが引かず、あれから練習には顔を出してはいたが、ほとんど見学している状態でいた。環が二年生の次期レギュラーメンバー候補と一緒にフォーメーションを組んで練習している様子を見ていると、自分のポジションはもう無いのかなという気持ちになる。練習出来ない焦りと一緒に、バスケットに対する気持ちも萎えていく。紀子も同じ気持ちでいて、心の糸があの練習試合で切れてしまったんだろうと思った。ミスをしてすぐに交代をさせられた。ベンチに下がって、タオルを顔に被せたまま、しばらく動かなかった。あの姿が脳裏に鮮明に蘇る。あの時の紀子はとても辛そうだった。泣いていたのかもしれない。

そして、この思いは彩夏には決してわからないんだろうな、そう絵理は思った。

 その日から三日後、ゴールデンウィークの前日に紀子が退部届けを出した。


 連休の谷間である二日の出勤日、直子は朝からそわそわしていた。あれから二度ほど、夜秘書室で一人仕事をしていると、北島専務がコーヒーを入れに来た。いつも頑張ってくれているから、一度食事をご馳走してくれるという話になった。それも八王子の高級レストランうしお亭に連れて行ってくれると言うのだ。今日の仕事帰りに、福生駅で落ち合い行くことになっている。

 前日から着る服に悩んで、何とかベージュのワンピースに決めた。髪はその前の休日に美容院に行った。

 家では職場の懇親会があるので遅くなると嘘を言った。子供達にはどこか後ろめたい気持ちはあったが、貞男に対してはそういう気持ちがもう沸かなかった。それよりも胸躍り、華やいだ気持ちで満たされていた。自分の中にまだこんな感情が残されていることに驚いてもいた。期待してはいけないことを期待している自分がそこにはいた。

 職場を六時に出て駅まで歩いて向かった。電車で福生まで行き、駅前のロータリーで待っているとタクシーが近づいて来た。後部座席に北島専務が乗っていた。ドアが開き乗るように手招きをされた。隣に座ると、

「運転手さん、うしお亭まで行って下さい」北島が声を掛けると、車はゆっくりロータリーを回った。

「曲直部さん、待たせちゃったかな?」

「いえ、丁度着いたところです」

「それなら良かった。何か無理に誘ったみたいで大丈夫?」

「そんなこと全然、本当に楽しみにしていました」

「そう、喜んでもらえれば良いんだけど」

「うしお亭に連れて行って貰えるだけで浮き浮きしています」

「たまには、こういうこともなきゃね。僕も女性の人と二人きりで食事に行くなんて、本当に久しぶりで少し緊張しているよ」

「本当ですか?専務モテるから」

「全然そんなことないよ、毎日仕事に追われてて。休みも接待ゴルフや仕事関係でさ。本当に休めれば昼まで寝てるし」

「綺麗な奥様もいて、今だに熱々なんでしょ」

「家内はもう愛想尽かして、友達としょっちゅう出歩いてる。見向きもしないよ」

「そうなんですか?本当なら勿体ないですね」

「そんなこと言ってくれるのは、曲直部さんくらいだよ」

「専務本当に上手いんだから。会社の女性陣にモテモテなの知らないんですか?」

「よく言うな!そんな話全く耳に入って来ないよ」

「今日のことだって、他の職員にばれたら私総スカンに会っちゃいます」

「じゃあ、危険覚悟で来てくれたんだ。ありがとうございます」

そう言って、屈託無く笑った。

 タクシーは横田基地に沿って十六号を走り、拝島橋を越えて八王子に入ると中央道のインター入口の手前を左折し山道を五分ほど走るとうしお亭の門の前に着いた。明治初期に富山の豪商が建てた迎賓館を移築したその建物は、厳かな佇まいをしていた。車から降りると、案内係りがすぐに建物の中に案内をした。北島専務は二言三言言葉を交わしていた。正面に受付があり、その隣りの部屋に通され、少しお待ち下さいと告げられる。格調高い邸宅と新旧の美が調和した室内、壁や美術品のケースに飾られた絵画や彫刻品、ガラス製品などにも直子は目を奪われていた。こんな世界があるんだということに少し戸惑いも覚えた。

「北島様、ようこそいらっしゃいました。いつもの席をご用意させていただいておりますが、よろしいでしょうか?」

「ええ、すみません。今日はまた特別大切なお客様だからよろしくお願いします」

「わかりました、それではご案内致します」

 接客係りが先頭に立ち部屋まで先導する。待合室から通路と階段を何度か渡り歩いた。通路の両脇にいくつかの個室があり、そこにはシェフの料理する空間と銅版の鉄板が備えられたテーブル、その周りに椅子がいくつか配置されていた。和の趣と洋の華が融合した優雅な個室は、それぞれに装飾が施され、素晴らしい空間を演出していた。

 部屋に入るとシェフが出迎えてくれた。接客係が眼を合わせ微笑みながら、どうぞと椅子を引き席に着いた。

 「飲み物はいかが致しますか?」

「曲直部さん、アルコールは大丈夫?」

「はい」

「それではシャンパンをお願いします」

「かしこまりました」

そう言うと、部屋から接客係りが出て行った。

「本日はありがとうございます。調理を担当させていただく、木藤です。よろしくお願いいたします」

名刺を直子に差し出した。

「北島様、お料理はいかがいたしましょう?」

「曲直部さん、お肉や海の幸で苦手なものはありますか?」

「特にはありません、みんな大好きです」

そう返事をすると、

「じゃあ木藤さん、おまかせしますので」

「それでは、お肉も海の幸も美味しいものを用意させていただきます。ちなみに全ておいしいんですがね」

そう言いながら微笑むと、調理の準備を始めた。

接客係りがシャンパンの入ったグラスを二人のテーブルの前に置いた。

「日頃の曲直部さんの仕事に感謝をして乾杯しよう。いつも無理なお願いばかりですみません。社長はじめ役員一同皆本当に助かっています。それでは乾杯!」

シャンパングラスを合わせ、口元に運ぶ。ひと口含むと炭酸の清涼感とフルーティーな香りが口の中に広がり喉に流れて行く。とても美味しかった。

オードブルからタラバガニのクリームスープ、鮑の岩塩蒸しと手際よくシェフが料理を作り目の前に運ばれて来る。シャンパンのあとはワインを飲んだ。仕事の話はほとんどせず、お互いの子供のときのことや音楽や映画、旅行の話などをした。北島のアメリカ生活の話などは、とても面白く楽しかった。直子もお酒の力もあって、かなり饒舌に話をした。男の人とこんなに楽しい時間を過ごすのは、本当に久しぶりのことだった。

北島は五十歳にしては、髪も黒く身体も引き締まっていて、スーツがとても似合っていた。

それでも最近はお腹の周りに脂肪が付いてしまうので、一日休める日はジョギングをしているのだという。一日十キロは走るらしい。普段の日も、余裕があればジム通いもしている。やはり隠れたところでいつも努力しているんだと感心させられてしまった。それに引換え貞男なんか、休みには昼近くまで寝て、一日何するでもなくダラダラテレビを観て過ごしている。そういう姿を見ても尊敬に値しないと思う。

メインディッシュのサーロインステーキを焼き始めた頃には、かなりお酒も入って心地よくなっていた。

「曲直部さんもかなりお酒強いんだね」

「本当に滅多に飲まないんですけど、嫌いではないです」

「飲めないのかと思ってた。今度は飲む方も誘うね」

「ぜひお願いします」

専務はかなりリラックスしてもう敬語で話さなくなっていた。直子はその方が親しみも持てて嬉しかった。

ステーキが食べやすい大きさに切られ、目の前に置かれる。

「最初に塩を少しつけて一つ食べてみてください」

直子はシェフに言われたとおり、岩塩を削り、それを付けて食べた。牛肉本来の味が引き立っていた。

「とても美味しい、柔らかいし、口の中で溶けてしまいそう」

「ありがとうございます。そう言って貰えると本当に嬉しいです」

「一生忘れられない思い出になります」

酔ったせいか直子は思った以上に感情が顕わになっていた。たかが食事、されどこれだけ贅を尽くし、おもてなしをされると感動すらするものなのだと直子は思った。

「今日ご馳走させてもらった甲斐があったよ。食事に誘ってそう言って貰えると僕も嬉しいよ」

北島にとっては、こういう場所で食事をすることは仕事上当たり前になっていた。正直頻繁だと辟易とすることもあった。それでも、自分が初めて食べに来た時のことを思い出し、直子にもご馳走しようと思い付いた。それをこんなに素直に喜んでもらえたことが嬉しかった。

家内を一度連れて来たが、彼女は贅沢にも慣れていて特に喜んでくれることはなかった。北島にはそういうことが一緒にいて悲しかった。日常のちょっとした事に喜びを分かち合える夫婦で居たかった。それが無くなり久しい。

今日直子に純粋に喜んでもらったことに、とても新鮮な喜びを感じた。自分が今まで異性に対して押し殺していた気持ちがあることを改めて気が付いた。まだ、自分を制御できるつもりではいるが、あまり深入りをするとどうにかなってしまうかもしれないという不安な気持ちにもなった。

ステーキを食べ終わると、デザートは別のラウンジに案内された。直子は紅茶と苺のショーフロア、北島はコーヒーと黒蜜とエスプレッソのパフェをオーダーした。そこは二人でゆっくり話せる空間だった。

「北島専務今日は本当にありがとうございました。若い頃のワクワクする気持ちを久しぶりに味わいました」

「僕も本当に楽しかった。今度は飲みに誘うからね」

「ありがとうございます。必ず誘って下さいね」

「必ず誘うよ、どんな所に行きたい?」

「どんな所でもお付き合いします、居酒屋だって立ち食い飲み屋だって」

「さすがに立ち食いは、この年じゃ疲れちゃうよ」

「そうですね、私も嫌でした」

直子が舌を出した。

「じゃあ、鮮魚の美味しいお店に行こうか」

「嬉しい!私お魚も大好きなの」

「それじゃ安くて美味しいお店に連れて行くよ」

はじめに飲み物とエスプレッソのパフェが運ばれてきた。そのあとにパティシエがワゴンを押して来ると目の前で調理を始めた。まずフライパンにバターとグラニュー糖を入れバターが溶けると苺を入れた。苺にバターをからめているとグラニュー糖が色付いてくる、ここで苺のリキュールを入れてフランベする。火が消えたら苺ソースを加えお皿に盛り付けて少しソースをかける。ここにフレッシュミルクのアイスクリームを乗せその上からまたフライパンに残ったソースをかけた。

苺とアイスクリーム、それにソースを一緒に食べると、熱々の苺とミルクのアイスクリームの冷たさがとっても良く合った。それに加えてソースの苺の香りが口の中いっぱいに広がった。

「本当に美味しい!こんなデザート食べたことないわ」

「それは良かった」

「何から何まで夢みたい!」

「曲直部さんがこんな感激屋さんだとは知らなかった」

「本当に恥ずかしいです、知らないことばかりで。専務には普通のことが私にはびっくりする事ばかり」

「恥ずかしいことなんてないよ。僕は素敵な事だと思うよ」

「ただの世間知らずのおばさんです」

「曲直部さんは綺麗だし、おばさんだなんて誰も思ってないよ。本当に旦那さんが羨ましい」

「専務も良く言いますね、まあお世辞でもありがとうございます」

「本当さ、お互い独身なら放って置かなかったけどな」

直子は恥ずかしくなって俯いた。男の人にこういうことを言われるのも久しぶりだった。ずっと家の事や子供達のことばかり考えてきて、女としての喜びは忘れていた。ときめくなんてことはとっくに諦めてもいた。今の仕事だって春樹の授業料を工面するために始めたことだった。それが今は仕事が自分の生きがいの一つになっている。貞男との気持ちのすれ違いもあり、子供たちも思春期になり自分たちの世界を作り出し、直子が入り込む余地も段々無くなって来ている。そんな中で会社が自分を必要としてくれていると感じると、大変ではあるが嬉しい気持ちになる。

デザートも食べ終わり、化粧室に行っている間にすでに会計は済んでいた。

玄関にタクシーが来ており、一緒に乗り込んだ。

「途中まで一緒に乗せてもらうね」

「はい」

運転手に豊田で一人降ろしてから青梅に行って来れと北島専務が告げると出発した。帰りのタクシーの中はほとんど会話が無かったが、直子の左手は北島の右手にずっと包まれていた。


 三日の春祭り当日、例年通りのパレードからイベントが始まる。市長、議長、警察署長や消防署長に市議団と秋野市の名士がほとんど参加する。小学生の鼓笛隊を先頭に総勢百名が市民広場から出発して三キロ程の行程をパレードする。

それは市民広場から一般道に出てまもなくのことだった。Y字路に差しかかると毎年先導する青年会議所の担当者が、カラーコーンとコーンバーで塞いでいた道路のコーンを端に避けて、その道を進行する手順になっていた。何を勘違いしたか、会議所の担当者が塞がってない道路に小学生の鼓笛隊を誘導した。その道路を通りながら、市議の何人かが例年の経路と変わったのかと不思議がりながら歩いていた。警察署長に随行した交通課長も何か変だとは感じたが、みんなが行くのでその時は、わからなかった。道路を五十メートルほど進むと、前方から自動車が反対車線から向かって来て通り過ぎた。先の信号のT字路を自動車が行き来しているのが見える。大通りに出たところで会議所の担当者は慌てた。

「どこで間違えたんだ?」

「さっきのY字路だろ、どうする?」

「ここまで来たら先に進むしかないだろ。信号が変わったらそのまま進もう」

そう言って信号が変わると何人かが道路を塞いで、パレードの列を誘導した。

少し後ろから付いてきていた警察官と交通安全協会の人達が、

「どうして規制していない一般道に進んでるんだ?」と騒ぎだした。

しかし、もう止めたり道を戻ることは出来なかった。

 後方でパレードに参加している警察署の交通課長が顔色を失った。

「署長すみません、前方を見てきます」

「車が走ってる道路じゃないか?どの道をパレードしてるんだ?」

「とにかく先を見てきます」

交通課長は険しい顔で前方に走りだした。

そのうちに市議団の議員たちが騒ぎだした。

「毎年パレードしている道路と違うだろ!どこパレードさせてるんだ?」

交通課長が先頭に着くと、誘導に付いている警官に怒鳴った

「規制してない一般道をパレードさせて、事故になったらどうすんだ!」

警察官は顔色を失った。

「とにかく後方にいるミニパトを先頭に寄こして、十分気をつけて最後まで誘導しろ」

そう言うと、安全協会の人達にも協力して貰い、一般道を進ませた。交通課長はすぐに警察署長のところに戻って報告、

「Y字路のところで行程を間違えたようです。ミニパトを先頭に向かわせこのまま進ませるしかありません」

「こんなことなら、もう来年はパレードなどやらせるわけにはいかないな!まったく困ったもんだ」

憮然とした顔で課長を睨みつけた。

「誠に申し訳ありません、私が先頭を誘導させますので」

そう言うと、交通課長はまた先頭へと向かった。


貞男はパレードが出発すると、木下係長と森田主任と次の式典の準備に追われていた。

舞台にマイクや椅子の設置をして主催者、来賓等の名札を椅子に貼り終えたところに高瀬部長が目を吊り上げ駆け寄ってきて凄い剣幕で怒鳴り出した。

「曲直部、どこで何やってた!パレードがとんでもない事になったぞ!貴様、どう責任取るんだ?市長はじめ警察署長や議員連中が怒ってて!どうする気だ」

貞男には、何があったのかさっぱりわからなかった。

「部長何があったんですか?」

「何も糞もあるか!車が行き交ってる一般道をずっとパレードして通ったんだよ!」

「何故?」

「そんなの知るか!みんなカンカンだ。俺は平身低頭、頭を下げることしか出来なかった。絶対責任を取ってもらうからな。貴様何管理してるんだ」

さすがに、貞男も血の気が引いた。部長に言い返すことが出来なかった。

(どこで間違えたんだ?何年も同じコースを通っているはずなのに)

 その日一日は、生きた心地がしなかった。議員連中の何人かはこのことを議会で質問させてもらうからな、言い寄ってきた。警察署長と交通課長は、式典が終わると怒って帰ってしまった。

 本部には、鼓笛隊に参加している子供たちの父兄から苦情が何件もあった。ビデオ撮影するため待っていたのに通らなかった、どうなってるんだ?責任を取れというものから、一般道を歩かせて交通事故にあったら、どう責任を取るんだ?というもの。言われれば、謝ることしか出来なかった。


五月五日、今日は貞男の家族が遊びに来る。貞次はたいしたことも出来ないけれど、お寿司でも取ってやろうと考えていた。それにお菓子とジュースくらいは用意しなくてはいけない。春樹と絵理にお小遣いもやらなきゃ。そんなことを考えていると少し浮かれた気分になる。やはり嬉しいのだ。孫たちと会うのも正月以来だから、かれこれ四ヶ月は会っていない。

この一年、貞男が二週間に一度は平日の夜に顔を出すようになった。それもどうも直子さんには内緒で来ているようだ。いったいなぜうちに来ることを奥さんに隠さなくてはいけないのか?理解出来ないところもあるが、親を気遣い来てくれていると思うとそれ以上のことは言えなかった。ただ直子が貞次のことをあまり良く思っていないのは何となくわかってはいた。

十二時前にチャイムが鳴ると、絵理の声が聞こえた

「おじいちゃん、来たよ。ドア開けて」

「絵理か。今開けるから待ってろ」

貞次は急いで玄関に向かい、カギを外しドアを開けた。

「お邪魔します。おトイレ借りるね」

絵理がそう言ってするっと中に入り込んで靴を脱ぐと、ドタドタとトイレに駆け込んだ。

「女の子なんだから、恥じらいを持て」

貞次が、絵理を怒ると、

「すみません、後で怒っておきます。とにかく漏らしても困るので」

「全くどういう教育をしてるんだ」

「はい、すみません」

直子は、そう言って頭を下げた。

「お義父さん、なかなか顔を出せなくて申し訳ありません」

「直子さんも仕事を持ってるんだから仕方あるまい」

「お父さん、顔のつやも良いしお元気そう!」

「おべっかなんて使わなくていい」

「そんなつもりじゃありません。とにかくお邪魔します」

直子は、靴を脱いで上がった。

居間に入るとすぐに和室の仏壇に向かい、美智子にお線香を上げた。絵理がトイレから出てくると、

「絵理、おしっこ漏れちゃうなんて女の子が言わないの。お爺ちゃんに怒られちゃったでしょ。とにかくこっちに来ておばあちゃんにお線香上げなさい」と声をかけた。

「うん!」と言いながら絵理も仏壇の前に座り、お線香を上げる。

直子は台所に向かい、

「お父さん、お茶で良いですね」

と言いながら、食器棚から急須と湯のみを取り出し、お茶を入れ始める。

「うん、今日は寿司を取った」

「すみません、ありがとうございます。絵理お寿司だって、良かったね」

「お腹空いちゃった」と言いながら、絵理がテレビのリモコンのスイッチを押した。

貞男が手荷物を持って入ってきた。

「父さん、お菓子買って来たけど。取りあえず仏壇に置くよ」

カバンなどの手荷物を置き、紙袋を持って仏壇の前に座った。

線香を上げ、手を合わせる。しばらく美智子に何か話しかけているようだった。

よいしょっと言って立ち上がり、テーブルの椅子に腰掛ける。

「父さん、元気だった?身体の調子はどう?」

「特にどこが悪いってことはない」

目眩で寝込んだことはあえて口にはしなかった。

「年も年なんだから、何かあったら、ちゃんと医者に行って診てもらいなよ」

「何も無いから大丈夫だ」

「それなら良いけど、とにかくすぐに病院に行きなよ」

「いちいちうるさい!」

貞次はいつものように最後は怒る。奥の和室に行って戻ってくると、チョコレートやおせんべいが入った菓子入れをテーブルに置いた。

「絵理、すぐにお寿司がくるが、お菓子でも食べろ」

頑固親父でも少しは気を使うんだと可笑しかった。今まではいつもブスッとしていて、母親が全てそういう事をやっていたが今は居ない。

絵理が菓子入れに手を伸ばして、チョコレートを食べ始めた。

「そう言えば、お前足首は大丈夫か?」

貞次の突然の質問に、

「えっ!私が足首痛めてるの何で知ってるの?」

絵理が驚いた顔をして貞次を見た。貞次は少し戸惑った顔をしたが、

「お前、少し足引き摺って部屋の中歩いてるから」

と軽く受け流した。

「そうか、何で知ってるのかってびっくりした」

そんな話をしていると玄関のチャイムが鳴った、お寿司の出前が届いたのだ。

直子がお椀に市販のお吸い物を用意してテーブルに並べた。お寿司をみんなで食べながら話をしていると、最初に食べ終わった貞男がソファに寄りかかり、テレビを観始めた。するとすぐにうとうとする。直子が絵理に目配せして、貞男を揺り起こし始めた。

「絵理、お父さんも疲れてるだろうから、少し寝かせておけ」

貞次が言うと、絵理はビクっとして手を止め、直子を見た。直子は一瞬空を睨みつけたが、

「全くパパはどこでもすぐ寝ちゃうんだから、牛になっちゃうよね」絵理に微笑みながら目を向けると、絵理は何も無かったように携帯ゲームを始めた。


四時過ぎに貞男達は家に帰る支度を始めた。車を玄関につけ二人が乗り込む。

「気をつけて帰れ、春樹にもよろしくな。遊びに来るように言ってくれ」

「はい、ごちそうさまでした。お父さんも身体気をつけて下さい」

「絵理、勉強も部活も頑張れ」

「うん、お小遣いありがとう」

「じゃあ気をつけて」

車が動き出した。二人は窓を開けてしばらく手を振っていた。坂を上がり右折すると

「あ~あ、今日もお義父さんに嫌味を言われちゃった」

直子のいつもの文句が始まった。

「何でパパは実家に来るとすぐ寝ちゃうの?私が何か言われるから寝ないでって言ってるでしょ!」

「お前はいつもそう言うけど、あの親父が何嫌味を言うんだよ?」

「何でもっと顔見せないんだとか、春樹がなぜ来ないんだとか」

「そんなこと言うのか?あんな無口な親父が。俺には全然言わないぞ」

「息子が可愛いんだから、あんたに言うわけ無いでしょ。何であんたはそうやって自分の親をかばうのよ?本当にベタベタした親子よね」

「どこがベタベタしてるんだよ?二ヶ月に一回会うか会わないかの親子が」

「そうやって私を責めるんだ。私だって仕事が忙しくて、休みくらいゆっくりさせてもらいたいわよ」

そう言い始めると、直子の怒りはますますエスカレートして、延々と貞次と貞男の文句が続く。終いには亡くなった美智子の文句まで言い出した。

こうなると誰も止められない。怒りが収まるのをただ待つしかない。

貞男は内心それどころでは無かった。三日の春祭りのパレードでのトラブルの後始末のことで頭はいっぱいなっていた。とにかく明日からだ。当日の関係機関、市議など地元の名士への謝罪にしばらくは奔走しなければならない。高瀬部長からの更なるパワハラを考えると憂鬱だ。そんな気持ちの中、妻はいつもの様に自分のストレスをこういう形で発散させている。貞男は直子に対する怒りを通り越して何か化け物でも見る気持ちになっていた。

美智子が生きていた頃から貞男の実家に行くと、帰りの車の中で両親の文句が始まる。原因はいつも両親に文句や嫌味を言われるというのだ。貞男には自分の両親がそんなことを言うこと自体が信じられなかったので、自然と親を擁護する発言をしていた。それが、直子の癇に障り大喧嘩になっていた。

しかし、今はそんな事はどうでも良くなっていた。直子の怒鳴り声は貞男の耳を通り過ぎるだけだった。明日からのことを考え、首都高速を八十キロのスピードで虚ろな目をしながら運転をしていた。


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