小さな変化
四月中旬
四月の中旬にもなるとクラスの雰囲気にも慣れ、普段の学校生活に戻っていた。
春樹はバスケット部の練習が終わり、校庭で美紅が終るのを待っていた。学校での部活動の終了時間は原則六時までと決められている。お互い早く終った方が校庭で待つことにしている。
陸上部の練習も終わり、美紅はミニコーンやスターティングブロックを片付けて部室に入って行った。それから、十分ほどすると制服に着替えて出てきた。
春樹は美紅が向かって来るのに合わせ立ち上がり、歩き出した。
「ごめん、待たせちゃったね」
「大して待ってないよ、練習も見れたし」
「春樹が見てるから少し張り切っちゃった」
「無理するなよ。もうすぐ大会だろ?」
「そうだね、今度は頑張って総体まで行きたい」
「美紅なら行ける、調子も良さそうじゃん」
そんな会話をしながら、駅に向かう。
進路のこと、家族のことなどの悩みを話していくうちに、今は本当にお互いがとても大切な存在になっていた。
去年の秋、体育祭が終った翌週の月曜日に春樹から告白をした。その日は全校部活が休みだったので、放課後プールに呼び出した。
春樹は意外と奥手で今まで女の子とつき合ったことがない。
プール入り口の階段のところでそわそわしながら待っていると、美紅が来た。彼女も雰囲気でどういうことかわかっている様子で、少し緊張した面持ちで近寄ってきた。
「ごめん、待たせちゃった?」
「ううん、こんなところに呼び出しちゃって悪いな」
「そんなことないよ」
そう美紅が返事した後、お互いが緊張していてしばらく沈黙が続いた。
春樹は、心臓がドキドキして声が出なくなってしまった。
(気持ちを伝えなきゃ!)そう思いながらも一歩が踏み出せない。
「どうしたの?」と美紅から声を掛けられた。
春樹は覚悟を決めた。
「わかっていると思うけど、俺、相沢のことが好きなんだ」
単刀直入に自分の気持ちを伝えた。
美紅は戸惑った顔をして俯いた。
「だめか?」
春樹がそう言うと、
「好きって言ってくれて私嬉しいよ。でも、付き合うことは出来ないと思う」
「えっ?」
思わず声が洩れてしまった。
「俺のこと好きじゃないか?」
「う~ん、そうじゃなくて」
「じゃあ何で?」
「家が厳しくて、男の子と付き合うなんて出来ないと思う。私と付き合うと、曲直部君に嫌な思いをさせることになるもん」
そう言って、美紅は顔を歪めた。
「家の事はよくわかんないけど、男の子と付き合うのが駄目なの?」
そういうと、美紅はさらに悲しそうな顔をした。
「ごめん」
「ううん、でも信じられないよね。今時子供の恋愛に口出しする家族なんて。友達関係を監視している家族なんてさ。でも、本当なんだよね。うちのお父さんが都議会議員で、私はそこの一人娘なの。だから、私は相沢家の跡取りとして、りっぱな婿さんを迎えなきゃいけない。その為に私に変な虫が付いちゃいけないって、お母さんにいつも監視されているようなものなの」
「そうなんだ」
「私と付き合ったら、曲直部君私のこと嫌いになっちゃうよ」
「そんなことないよ、でも……」
二人でプール入り口の階段に座りながら、黙ってしまった。
あ~あ、美紅が溜息をついた。
「土日は常にお母さんに監視されている感じで、友達と遊ぶなら家に来てもらうか、どこか行く時はお母さんが集合場所まで付いて来て誰と一緒か確認されるの。地元の西八王子駅に降りたら、知り合いも多いし、男の子と歩いていたりしたら、誰に告げ口されるかわからない、本当に信じられないでしょ!」
「俺なら反抗して家出ちゃうな!」
「お母さんの私に対する干渉は普通じゃないんだ。私のことを全く信用してないと思うくらいに監視されている感じなの」
春樹は複雑な気持ちでその話を聞いていた。
「私、小学校の頃から私立の女子校に通わされていたの。大学までエレベーター式で行けたんだけど、それが嫌でこの学校を無理やり受験した。お母さんは大反対だったけど、あんまり私が言うからお父さんがレベルも高いし受からないと思って受験を許可したの。そうしたら合格しちゃったから、お父さんも頭を抱えてた。でも、中庸大学にストレートに行けそうなので、しぶしぶ入学を承諾してくれたの」
「結構大変だったんだな」
「うん!私この学校大好きなんだよね。みんな伸び伸びしているし、部活動も楽しいし。体育祭や文化祭もみんな一生懸命やっていて、本当にここに来て良かったと思っている」
「俺も楽しいよ。こうやって相沢とも知り合えたし」
「私も曲直部君とこうやって仲良くなれて良かった。だから余計嫌な思いをさせたくないんだよ。私と付き合ったってどこか遊びに行くなんて出来ないし、母親にわかったら、いろいろ大変だと思うの」
そう言われると春樹も簡単に説得する自信は無かった。それでも美紅への思いを変えられるわけじゃない。
「二人で考えれば良いんじゃない」
「そう言われても、今までの母親の行動を考えると簡単にわかったなんて言えないよ。曲直部君に絶対嫌な思いをさせるもん。体育祭の準備から今まで一緒にいろいろやってきて、本当に楽しかった。曲直部君といると嬉しい気持ちでいられた。だから余計この関係を変にしたくないの」
美紅はとても真剣な眼差しで春樹を見つめ、そして俯いた。
春樹はふっと肩の力を抜いて笑顔になった。
「学校の行き帰りだけでも一緒に行かない?」
美紅は一点を見つめ少し考えているようだった。
「相沢のとこもいろいろあるけど、俺んちも結構ガタガタしてる」
「そうなの、どうして?」
「うちの両親仲が悪くてさ、しょっちゅう夫婦喧嘩。妹は母さんに付いて父さんを無視してるし。俺も嫌気がさして最近は両親と口も聞かない。夕飯済ましたら自分の部屋に閉じこもっちゃう。まあ、最近は親と一緒に夕飯を食べることもないけどさ」
「小さな時からそうなの?」
「ここ四~五年かな。きっと俺の中学受験が切っ掛けだな。中庸中学に合格して金が大変になって母さんが働き出した。それからだな。元々うちは母さんが威張っている家庭だったけど、働き出して更に偉くなっちゃってさ。父さんが口を利かなくなった」
「曲直部君はいつも明るく振舞ってるから、そんな悩みがあるなんて全然わからなかった」
「家族のことなんて誰にも言えないし」
美紅は、春樹に悩みを打ち明けられ、より身近な存在に思えた。
「曲直部君、本当に学校の行き帰りと学校の中でしか一緒にいること出来ないけど、それでも良いの?休みに会うなんてほとんど無理だよ」
「う~ん、しょうがないよ」
「メールも出来たり出来なかったりするよ。ロックとか掛けられないんだ、そんなことするなら解約するって言われちゃうし。だから、貰ったメールもすぐ消去するようだし、不自由なことばかりだよ」
「付き合ってくれるなら俺は良いよ」
美紅はその言葉を聞いて、すっと立ち上がった。
「ありがとう、少し考えさせてくれる?必ず返事するから」
そう言って、美紅は頭を下げた。春樹も立ち上がり、
「わかった、待ってるよ」そう言って二人別れた。
それから一週間程して、春樹と美紅は通学の行き帰りを二人で通い始めた。
美紅からは家族のことで迷惑を掛けるかもしれないけど、それでも良ければ付き合いたいという返事だった。
メールだけでも大変、駅で別れてからの電車の行き帰りと夜中に美紅が送ってくるのを待ってやり取りをした。美紅は寝る前には全て消去して眠りにつく。時に嬉しいことをメールして貰って残しておきたくても一切消すことにしている。春樹はそれでも美紅と付き合っていたかった。何でこんなに縛られているんだろうと思うことはあった。
そうしながら、何とかこの半年二人は付き合ってきた。
四月二十一日の土曜日、絵理は朝八時過ぎのバスに乗って河辺駅に向かっている。今日はバスケット部の練習試合だ。レギュラーの試合と一緒に二年生の試合を先生が組んでくれた。絵理も出る機会がある。河辺駅近くの第一中学校が試合会場、一中と四中そして野上中の三校で試合を行う。
春の市の大会と夏の都大会に向けてレギュラー陣はお互いの戦力や実力を確認し合う。
絵理は、都大会後のレギュラーに選ばれるように張り切っていた。
体育館ではそれぞれの中学校がランニング、ストレッチ、それからパス、ドリブル、シュートと練習をこなしていく。新一年生はボール拾いや声出しをしている。絵理も先輩や二年生仲間と練習をこなす。
第一試合は一中と野上中のレギュラーの対戦、彩夏、美樹、弥生そして安奈はスターターの五人には入っていなかったが、交代メンバーとして登録されていた。彩夏は第一ピリオドの途中から試合にも出た。絵理は二年のメンバーが試合に出ている姿を見ると羨ましい気持ちでいっぱいになる。彩夏はポイントガードとして細見の身体だが持久力もあり、とても動きが俊敏でボールを扱うのが上手だ。美樹、弥生、安奈も第二ピリオドから少しずつ試合に出て行った。四人は時には三年の主力メンバーに引けを取らないプレイをした。
そういう姿を見ていると、それに引き換えまだボールが身に付いていなくて、チグハグな動きをすることが多い自分のことが嫌になった。四人に追いつき、環や紀子には負けないようにと懸命に練習はしてきた。しかし、なかなか結果に結びつかない。
第一試合は、野上中が四十五対四十で何とか勝った。第二試合が野上中と四中の二年生。絵理は、第一ピリオドからスターターとしてメンバーに入った。中肉中背ということもあり、ポジションはスモールフォワードをやっている。オールラウンドプレイヤーとして全てを上手くこなさなければならない。しかし、ドリブルにしてもパスにしても、彩夏や美樹のスピードに対応できず、パスミスをすることが何度かあった。テクニカルファールも二度取られ、第二ピリオドの途中で環と交代をさせられた。環は一つファールをしたが、全体的には他の選手とのパス回しなどの連携がスムーズで無難にポジションをこなしていた。試合は三十八対三十六で勝ったが、絵理は他の二年生と同じようには喜べず、自分自身が情けなかった。今まで自分より少し劣っていると思っていた環が、今日の動きを見ていると一歩も二歩も先を行っていた。この一ヵ月の間で急速に力を付けたことに驚いた。
第三試合は一中と四中のレギュラー陣、そして第四試合で野上中と一中の二年生の試合が行われた。今回は紀子がスモールフォワードとして出場した。ドリブルやシュートは三人の中で一番上手かった。彼女に強い気持ちが試合で出れば環も絵理も敵わないと思っていた。しかし第二ピリオドの中盤、相手リングに向かいドリブルで駆け上がった彩夏がシュート動作からフェイントをして紀子にパスを出した。紀子は全くのフリーだったがシュートをせずパスをしようと周りを見まわした。「紀子!シュート」彩夏が声を出した。その一瞬、相手チームの選手がボールを叩くと紀子の手にあったボールが宙に飛んだ。そのボールを別の相手選手が掴むとそのまま速攻でシュートを決めた。あっという間のことだった。監督はすぐに紀子と環の選手交代を告げた。紀子が息を切らしてベンチに戻ってきたところ、絵理は「ドンマイ!」と声をかけたが、「うん」と返事をしたまま椅子に座りタオルで顔を覆った。
最終ピリオドは環から絵理にメンバーが変わった。
今度こそミスなく頑張らなきゃ!
そう気持ちを切り替えて絵理はコートに入った。
双方がそれぞれ三本ずつシュートを決め、最終ピリオドも終盤に差し掛かった。相手チームがパスを回しながらシュートを伺い、スリーポイントシュートを放った。ボールはリングの外側に当たり跳ねた。リバウンドボールを弥生が奪った。彩夏が次の瞬間に飛び出した。それを見ると弥生が彩夏に目がけて力いっぱいボールを投げた。絵理も彩夏を追って相手リングに向かう。彩夏が振り向いた手元にボールが吸い込まれるとそのままドリブル。相手チームが彩夏を追いかけ、スリーポイントライン内に入る所で絵理にパスを出した。絵理は完全にフリーでボールをもらった。絵理は何も考えることなく、落ち着いて足元を確かめスリーポイントシュートを放った。力みのないフォームから放たれたボールは綺麗な弧を描いてリングに吸い込まれていった。絵理は「やった!」と大きく声を出し、飛び上がった。彩夏が「ナイシュー」と言ってハイタッチをしてくれた。
試合は五十二対四十六で負けたが絵理は嬉しい気持ちで試合を終えた。シュートはレイアップシュートをもう一本決めただけだったが、今日のスリーポイントシュートの感触はずっと忘れることはないと思った。バスケットをやっていて、たまにこういうプレイが出来ることが何事にも代えられない喜びだった。こういう事があるからこそ、日頃の練習の苦しさがあっても我慢して続けて来れた。
しかし、試合の最後に相手選手とボールを奪い合い、練習中に一度痛めた右足首をまた捻ってしまった。その時は興奮していてそれほど痛みを感じなかったが、試合が終ってから次第に痛み出し、見るとかなり腫れていた。アイシングをして貰ったが、痛みはなかなか引かなかった。
直子は、今日も遅くまでパソコンで資料作りをしていた。高橋常務から明日の会議の資料を夕方になって頼まれてしまった。安田幸子はそういう事があると決まって、他の部署に用事があると言ってその場を離れてしまう。役員も直子に頼んだ方がミスも無くしっかりしたモノを作ってくれるから、自然と彼女に頼むことが当たり前になっていた。不平不満もあるが、信頼して頼まれることに喜びも感じている。それでも、九時前には家に帰りたいと思っていたので、キーボードを夢中で叩いていて秘書室のドアが開いたのも気が付かなかった。
「曲直部さん、今日も遅くまで頑張ってるね」と声が掛かると
「きゃっ!」と驚いて声を出してしまった。
「ごめん、驚かせちゃった?コーヒーを飲みたいと思って」
いつの間に北島専務が直子の脇に立っていた。
「あっ!びっくりした。すみません、全然気が付かなくて。今入れますよ」
「ううん良いよ、自分で入れるから。曲直部さん忙しそうだから」
「いえいえ、役員さんにそんなこと遣らせるわけにいきません」
「昼間は他の人の目もあるからそうもいかないけど、もうこんな時間だし他に職員がいるわけじゃないから」
そう言ってドリップパックを棚から探し出す。
「本当にすみません、右の扉の中にあります。ミルクは冷蔵庫です」
「忙しいのにごめんね。大丈夫だから仕事続けて」
カップにドリップパックを載せお湯を注ぐ。ミルクと砂糖も加えかき混ぜていた。
「北島専務も毎日遅いですね」
「立場上仕方ないよ。役員がちゃんと仕事してなきゃ職員に示し付かないだろ」
そう言って笑った。
「曲直部さんこそ、家庭もあるのに大丈夫なの?」
「まあ、何とかやっています。働かないと生活も大変ですし」
「そうか、でもほどほどにして帰った方が良いよ」
「ありがとうございます。でも、これ高橋常務の明日の会議資料で午前中には完成させて渡さないと」
「そうなんだ、忙しいのにごめん。じゃあ気分転換にこれ」
ズボンの中からのど飴を取り出して机に置いた。
「ありがとうございます」
「じゃあ頑張ってね!」
そう言ってコーヒーカップを持って部屋から出て行った。少し元気が出てきた。
(やはり北島専務は素敵だな。あと少し、頑張らなきゃ)
直子は飴を口に入れてから、またパソコンに向かった。
貞男は朝一番でデスクに積まれた決裁文書に目を通していると高瀬部長に呼ばれた。
部長のデスクに向かうと、
「曲直部課長さ、今度の春まつりの式典やイベントスケジュールどうなっているの?」
「すみません、今日の午後には資料をお渡し出来ると思います」
「早く頂戴よ!市長や議長にも出席して貰うのでしょ?事前に見せて説明しておかなきゃ不味いでしょ。僕が怒られちゃうよ」
「本当に申し訳ありません」
「全く何やってるのかわからないけど、仕事が遅すぎるよ。こんなモノ下の者にさっさと作らせなよ」
そう言うと椅子から立って農政課長の谷田部の方に歩いて行ってしまった。昨日の定時近くに言ってきたくせにと思ったが、何も言い返すことも出来なかった。
この一年、何かある事に呼び出されて文句を言われるのに辟易としていた。
これも去年の四月の就任早々、部課長会議の席で些細なことで言い合いになってしまったのが原因だ。その日の会議では高瀬部長に、各担当課の事業計画について説明を求められた。貞男が産業振興の計画の中で地域ブランドの認定を市として実施する旨の説明をした時である。
「曲直部課長、それって事業者の応募した商品を地域ブランドとして認定するってことなの?」と質問をされた。
「簡単に言うとそういうことです」
「具体的には誰が審査して決定するの?」
「副市長をはじめ、商工会長や農協の理事長、それに有識者を審査委員にお願いして決定していただこうと思っています」
「当然審査の結果認定されない商品も出てくるわけだよね」
「はい、発表もすればPRもしていくわけですから、全てがそれに値するものが出てくれば別ですが、振るい落とされるモノもあると思います」
「あと気になるんだけど、行政が一事業者の宣伝をしちゃって問題はないの?」
「一事業者の宣伝をするのではなくて、地域で作られた良い品物を発掘してPRするんです」
「でも結局は一事業者の売上げに直結することになるんだよね」
「それは二次的三次的なことで、本来の目的は地域の特産品を使って開発された商品を認定し、PRすることで地域振興に寄与するということなんです」
「大丈夫なのか?何か心配な事業だな、本来商工会とか農協で実施する事業なんじゃないの」
「市などの行政機関が実施することで認知度やPR度が増すんじゃないですか」
「その事業計画はどういう経緯で上げてきたの?」
「商工会や事業者から要望があり、検討してきました。行政としても地域の産業振興の為にやるべき事業だと私は判断しました」
「曲直部課長、もう少し慎重に検討してくれない。実施するにあたっては、市長、副市長を始め議会にだって根回ししなきゃならない。実施後の問題点なども十分検討した内容とは、あまり思えないけどね」
半年前から、商工会や農協の幹部と話し合って検討を重ねて来た。今この地域には、これといって誇れる特産品が無い。せいぜいトウモロコシが街道で販売されていて有名なくらいだ。秋野川は毎年春から秋にかけてバーベキューで日帰りする観光客が多く訪れる。しかし、皆自分達の地元スーパーで食料品を買い込んで、車で訪れバーベキューをしてゴミだけを置いて帰ってしまう。結局地元の商店街や商店などにお金は落ちない現状にある。また、市民が地元のお土産品として持っていくものが無いと言う話を良く耳にする。そんなこともあり、ぜひこの地域で誇れるモノを開発してもらい、PRすることで地域振興に役立てようと貞男が中心となって計画をして来た。それを自分の保身ばかり考えて、潰そうとする高瀬に対して貞男は段々怒りが込み上げて来た。
「高瀬部長はこの半年私たちが、検討してきたこの事業を白紙に戻そうというお考えなんですか?」
「白紙にするとかそういうことじゃ無いよ!内容をしっかり検討して慎重に対応して貰いたいと言ってるんだよ」
「この事業は昨日今日検討してきたものじゃないんです。いろんな人達の意見を参考にして、これならやれるという確証を持って、今年度実施しようとしています。そう簡単に再考しろと言われてわかりましたとは言えません」
「それはどういう意味なの?新任の部長の意見なんか聞けないって言ってるわけ?」
「そういうわけじゃありません。ただ今まで私たちがそれなりに検討してきた事業ですので是非前向きに考えていただきたいということです」
「ああそうか!私が前向きに物事を進めないって言いたいんだ」
「そんなこと言ってませんよ」
「いい、わかった。君がそういう考えなら、私もそれなりの考えで対応するから。次に谷田部課長、説明してくれるかな」
そう言うと、高瀬はそれから会議が終るまで貞男のことを一切見向きもしなかった。
地域ブランド事業は、そういうことがあってから一年間、紆余曲折があったが、ペンディングのまま持ち越しとなり頓挫している。商工会や事業者から進行状況について問い合わせが何度もあったが、貞男は検討中ということで何とかあやふやにしてきた。このこともいつ再燃するかわからないが現部長がいる間はほとんど諦めている。自分が先か部長が先か異動によって少しは展開が変わるとは思っていた。
貞男は、最近高瀬から呼ばれると、全身から汗が噴き出す感覚に囚われる。緊張すると手に汗をかくことはあったが、その何倍も嫌な冷汗を全身に感じる。今までは反発心もあり、何言ってやがると開き直ることも出来たが、最近は高瀬の声を聞くだけで気力が失せる。
貞次は、今日も長い一日を一人過ごしていた。体操に行ったり、貞男が顔を見せることが無ければ、人と会うことも話すこともほとんど無い。夕方にお隣の山本夫婦が気遣ってくれ、おかずを多く作ったからと言って持ってきてくれる。そんな時は、一言二言会話を交わす。
その日の夕方、夕刊を取りに行って、玄関土間から上り框に足を掛けた瞬間よろめいた。どうしたんだ?と不安を感じ居間の椅子に腰掛けると、もう目を開けていられなかった。気持ちが悪くなり、隣の畳の部屋で横になった。天井を見ると、グルグルと回っていた。目が回るって本当にあるんだと一瞬思ったが、更に気持ち悪くなり、目を瞑ってうずくまった。しばらくそのままじっとしているしかなかった。
気が付くと美智子が笑顔で見つめていた、母さん!と声を掛けると、すーっと消えてしまった。それから、いくつか変な夢を見た。目が覚め時計を見ると夜の八時を過ぎていた。立ち上がろうとすると、まだ多少ふらついたが、気持ち悪くて動けないというほどでは無かった。
貞次は体調にかなり不安を覚えたが、そのこと以上に夢の中の出来事が、とても気になった。