表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
爪切りの音  作者: toshi
13/13

四十九日

八月十八日(土)七七日


四十九日の法要を翌々日に控えた木曜日、貞次の声掛けで家族会議を開くことになった。お盆の時期で、貞男も直子も夏休みを取っていたので都合が良かった。

家族全員で話し合いの場を設けるなんて初めてのことだ。

午後の三時過ぎ、居間のダイニングチェアにそれぞれが腰掛けたところで、貞次が口を開いた。

「今日は皆忙しいのに、こうやって集まってもらってすまんな。私も一ヶ月半も厄介になってしまい、直子さんにもいろいろ迷惑をかけてしまった。もう御暇させてもらおうと思っている。出て行く前に、お前たち家族の事が心配でこういう場を設けてもらった」

貞次にそう言われても、貞男以外はあまり乗り気ではなさそうだ。何を話せば良いのか?皆戸惑った様子で話を聞いている。

貞次が、貞男に何か話せと目配せをした。

「え~、まあ、先日、父さんと二人で飲んで、いろいろな話をして、お前の家族は上手くいってるのかと聞かれ、う~ん難しいと言ったところ、こういうことになったわけで」

貞男が辿々しく話すと、

「貴方、何が言いたいわけ?」

直子が強い口調で言い放った。

「だから、家族が上手く行ってないから、話し合おうと思って」

貞男が小さな声で返事をすると、

「何今更言ってるのよ!」

更に強い口調で直子が言い返した。

「まあまあ、初めからそんな喧嘩腰にならなくても良いだろ。夫婦なんだから普通に話しをしろよ」

貞次が割って入ったが、直子はそっぽを向いている。

「直子さんは貞男が言うことになると、冷静に聞けないようだから初めに春樹と絵理がどう思っているのか聞かせて貰おうか」

貞次はそう言いながら、春樹に顔を向けた。

「えっ、俺なの?」

「そうだ、お前はどう思っているんだ」

「うーん、そう言われても。そもそも父さんと母さんがこうなったのは、僕の中学受験が原因だから。とやかく言えないよ」

「お前が悪いわけじゃないよ。父さんと母さんで決めた事なんだから」

貞男は、そう言うと大きくため息を付いて麦茶を一口飲んだ。

「本当に思ってる事を言って良いなら言うけど」

「構わんから言え」

貞次に促されると、春樹は言い始めた。

「本当のことを言えば、父さんも母さんもいい加減にして貰いたい。いつもいつも同じ事を繰り返し文句言い合っててさ。一緒に生活してて、何が楽しいの?俺こんな家居たくないよ。お金や家事の事より、何かあれば二人がいがみ合っているのを見るのが嫌になるよ。俺から見てると、どっちも悪い。母さんは家のことは顧みないし、お金の使い方はわかってないし。少なくても、休みくらいもっと家事をやればいいと思う。父さんだって、母さんに文句ばかり言ってないで、家が片付いて無いと思うんだったら、自分でやればいいんだよ。お互い言いたいことだけ言って、何もやらないじゃん。みんな勝手な事ばかりやってるから、こんな家族になっちゃうんだよ」

春樹の言葉に、貞男も直子もさすがに気まずそうに下を向いてしまった。

「いつもいつも喧嘩ばかりして、どっちも親らしい事なんてやってないじゃない。家に居たって、自分の落ち着く場所なんてどこにもない。他に帰る場所がないから帰って来てるだけ。ママはいつも会社の愚痴やパパの悪口ばかり言ってるし、それを言わせるようなことばかりパパはやってるし、本当にこんな家族最低だよ」

続けざまに絵理から出た言葉に貞男、直子、そして春樹まで驚いた。絵理は絵理なりに両親の事を見ていた。

「夫婦がそんなだったら、居たいと思える家庭なんて作れるわけがないだろ。二人に居たくもないと思わせたまま、いつかこの家から旅立たせるのか?夫婦が仲良く生活していなきゃ、楽しい家庭なんて出来やしない。貞男も直子さんも、もう一度真剣に考え直した方がいい」

貞次に言われると、直子の顔つきが険しくなった。

「お義父さんに、そんなこと言われる筋合いはないわ。何の迷惑もかけてないし」


「直子さんもいい加減にしなよ!私を嫌うのはいい。自分達の家族をしっかり守ってくれていれば、こんなこと言いやしない。お金が無くて苦しかったら、相談すれば良かったろ。夫婦でお互いを罵る前に、どうすればいいか話し合ったのか?責任を擦り合って解決するわけがない。子供達に恥ずかしくないのか?こんなこと続けていたら、家族みんなが不幸になる。夫婦だけじゃない、親子兄弟が思いやる気持ちを常に持たないでどうするんだ。そのくらいの事は、貞男には教えて来たつもりだが。何でそういう気持ちを無くした?」

「無くしちゃいないよ。受け取ろうともしない相手に、どうやって表せって言うんだよ」

「それはお前の気持ちが足りないんだ。相手に伝わるまでやり続けろ」

貞次も話していくうちに、段々感情を抑えることが出来なくなっていた。

「ママだって悪いよ。パパの言うことは、ほとんど聞かないんだから。パパもすぐ怒って怒鳴るからいけないけど」

「絵理は私の味方じゃなかったの?何よ、ママが悪いわけ?」

絵理の言葉に直子は、不貞腐れるように言い返した。

「だから、何回言わせるのよ。パパもママお互い悪いし、私もお兄ちゃんも悪いんだよ」

「そう」

直子は不満そうな顔をした。

「絵理よく言った。子供達の方が余程しっかりしてるじゃないか」

「お義父さんは、結局私だけが悪いと思っているんでしょ。自分の息子は可愛いんだから。でも、こうなったのもこの人の責任だってあるんですから。今更、私のことを良く思って下さいなんて、全く思っていませんけど、私だけのせいにしないで下さいね」

直子は開き直ってしまったのか?誰の話も素直に聞く様子では無かった。

「では、直子さんはどうしたいんだ?家庭を崩壊したいのか?」

貞次にそう言われると、具体的にどうしたいのか?本当のところよくわからなかった。ただ現状には不満があった。家族それぞれの態度も、お金の事も、毎日の生活も。

「とにかく、貞男さんの態度が気に入らない。私がやる事なす事文句ばかり。お金の事じゃ、私がルーズだからいつもピーピーしてるみたいに言うし。子供達だって、もう私のことなんか必要としてないでしょ。春樹は彼女のことで夢中だし、絵理は部活や友達のことで楽しそうだし。今は、会社が私を必要としてくれている。役員の人たちも、私がいないと困る、と言ってくれる。取引先の方にも有難がられる。そのことの方が、私には大事なの。それぞれが、職場や学校で楽しく過ごしてるんだから、それでいいじゃない。みんなそうでしょ?」

「私はこの一ヶ月半一緒にいて思うが、子供達も貞男も、そして直子さんだって、それぞれが問題を抱え、お互いを必要としている。その事をわかっていて、家族以外のところに自分の居場所を求めるのか?」

「母さんは、何もわかってないよ。父さんと母さんの代わりに、お爺ちゃんがどれだけ僕たちの事を助けてくれたのか。お爺ちゃんが、相沢のお祖母さんとお母さんに会ってくれたから、付き合うのを許して貰えるようなったんだ。父さんも母さんも僕のことに関心なんか無かったろ?」

「私だってそう。いろいろ相談したかったけど、ママとパパは喧嘩ばかりでそんな状態じゃ無かった。それをわかってくれたのが、お爺ちゃんだった。いろいろと相談に乗ってくれて、友達の家にも一緒に行って謝ってもらった」

「何で今更そういう事を言ってるの?私が貴方達にいろいろやったって、全く無視してたくせに」

直子にそう言われると春樹も絵理も神妙な顔をして押し黙ってしまった。

「今話を聞いていて直子にも悪いことをした。直子の気持ちが少しわかるような気もする。俺は仕事の事で頭がいっぱいで家族の事にまでは頭が回らなかった」

貞男が直子の言うことを擁護すると、

「二人とも何勘違いしてるんだ。家族以上に大切な人間関係など無い!親なんてもんは、子供たちに疎まれても疎まれても愛情を注ぐもんだ。そんなこと当たり前のことだろ」

貞男が大きな声で怒鳴りつけた。

「親だからって、何でそこまでやらなきゃいけないんですか?」

直子はそれでも反発して言い返した。

「直子さん、自分の両親のことを考えてみなさい。どれだけ貴方に愛情を注いできたことか。その見返りを両親は求めたかい?」

貞次に自分の親のことを言われると、さすがに言い返すことは出来なかった。

「夫婦のことはその夫婦じゃなければわからないことなのかもしれんな。私は美智子を失ってその有難味をつくづく感じている。美智子がいただけで会話が無くても心は潤っていた。人間はいづれ一人で死を迎えることになる。だからせめてその時までは、寄り添える人が側にいることに感謝した方がいい。私は今確かに寂しいが、それでも心の中には美智子がいてくれている。だから、ただ寂しいだけではない。彼女のためにも頑張って生きて来たつもりだ」

貞男は貞次の言葉を聞いて、両親の愛情と二人が本当に幸せな夫婦だったことが胸に迫って来ていた。

「父さん、俺も何とかやり直すよ。直子の気持ちをもっと俺が理解してやらなきゃいけなかった。先日父さんに春樹のことも絵理のことも聞かされ、本当に驚いたよ。俺が一番いけなかった。家族お互いの事、お金の事、家事の事、一つ一つ自分の思いをちゃんと伝えて、どうすれば家族みんなが少しでも助け合えるか話し合うよ」

貞男の言葉に、春樹と絵理は頷いた。直子はそっぽを向いてはいたが、文句を言う雰囲気ではなかった。


「ところでどうして父さんが、春樹と絵理にあったトラブルを知っていたの?一緒に生活している俺も直子も知らなかったのに」

貞男が疑問に思っていることを口に出すと、

「確かに良く考えると、どうしてお爺ちゃんが、僕と相沢のことを知っていたのか?不思議だよな。お爺ちゃんが今ここにいる事も、不思議なことだけど」

「私のことだって、普通は絶対にわからないよ。何で?」

春樹も絵理もやはり同じ様に貞次に問いかける。

「うーん、話すとかなり長いことになる」

「お義父さんのことは、おかしな事ばかりで、私もちゃんと聞かせてもらいたいわ。お義父さんが、このまましばらく何もしないでくれって言うから、何の手続きもしてないけど。本人が生きてるのに明後日に、四十九日の法要するって、訳わからないじゃない」

直子が言う事は至極当然の事だった。

「まあまあ、今日はお前たち家族のためにこういう機会を設けたんだから、その事は追々話をするから。これから後は四人で話し合ってみろ。前から決めていたんだが、私はこれから家に帰って来る」

貞次はそう言うと、和室に戻って出掛ける準備を始めた。

「それじゃあ、出掛けさせてもらう。私もお母さんもずっとお前たち家族の幸せを願っているんだ。その事だけは忘れずにいてもらいたい。貞男も直子さんも仲良くやってくれよ。春樹も絵理もこれから楽しく頑張って生きていきなよ」

小さなショルダーバッグを持って、貞次は玄関に向かおうとする。

まるでこれで最後のような言いぶりに、

「わざわざこれから行かなくたって良いのに。何だかもう会えなくなるような言い方は止めろよ。ちゃんと明日帰って来なきゃ困るよ。」

貞男も何か嫌な予感がして、行くのを止めたかった。

「まあ、仏壇の掃除をして、けじめを付けたいしな。とにかくしっかり話し合えよ」

そういうと、一人玄関の扉を開けて出て行った。それから、深夜まで家族四人で今までの思いやこれからの事を話し合った。


貞次が玄関のカギを開け家の中に入ると、熱気と黴くさい臭いが充満していた。部屋に上がり、雨戸を開けて一階は全て網戸にして空気を入れ替える。少し経つと外の空気は未だ蒸しているので涼しくはならないが、黴臭さは大分無くなった。窓を閉めてエアコンのスイッチを入れ、扇風機を回した。

貞次は首周りの汗をタオルで拭いた。

三十分も経つと、部屋の空気は大分涼しくなった。和室の明かりを点け、仏壇の座布団に正座をする。お線香を上げて、しばらく美智子の遺影を眺める。

目を閉じて手を合わせる。

(美智子、もう私はやれることはやった。あとは本人たちに任せるしかない。ここまでやれば許してもらえるよな?)

そう話し掛けていると、家族との多くの思い出、友人達との出会いや別れ、いろいろな思い出が走馬灯のように蘇った。苦しかった事もたくさんあったが、それ以上に幸せなことが多かった。それら一つ一つが自分の財産だった。そう考えると胸がいっぱいになった。やはりいい人生だった。最後には、残していく家族に自分の思いを伝えるというおまけまで貰った。

貞次は、自分の肉体が少しずつ消えていく感覚に囚われていった。肉体の感覚がなくなって魂だけが残されていく。しかし何かに満たされていた。

 目を開くと目の前に美智子が立っていた。

 「お父さん、本当にお疲れ様でした。貞男も直子さんも少しはわかったんじゃない。それに春樹と絵理二人には本当に良くやってくれました。あとは、こちらの世界で様子を見ていましょう。

これからお父さんには懐かしい人達に会ってもらわなきゃいけないし、貴方の好きなものも作ってあるからね」

そう言うと、貞次に近づきほっぺたに優しいキスをした。

貞次は美智子を引き寄せて強く抱きしめた。

「お父さん、そろそろ行きましょう」

美智子に手を引かれながら貞次の魂は新たな世界に旅立った。


翌日、貞男の家は明日の準備でバタバタしていた。引き出物が届けられたり、親戚から法要の時間の確認や急に体調を崩し出れなくなったなどの連絡があったりして、食事の数の変更するなど、あっという間に夕方になってしまった。

「父さん帰って来ないな。どうしてるんだ?」

貞男が心配になって、何度か携帯電話に連絡をする。携帯はすぐに留守電に切り替わってしまった。貞次の事は、お隣の山本さんに連絡をして確認したいところだが、貞次が生きてることは言って無いので、連絡も出来なかった。


貞次の心配をしながら、祭壇の周りの片付けをしていると骨壷の下に分厚い封筒が置いてあった。封筒には、貞男家族へと貞次の字で書いてある。びっくりして、

「直子!父さんが手紙を」

直子は夕飯の準備をしていて、貞男の言っていることが良くは聞き取れなかった。調理中の鍋の火を止めて部屋に入ってきた。

「何?どうしたって言うの?」

「今祭壇の上を片付けていたら、骨壷の下にこんな封筒が置いてあった」

貞男が右手に持った封筒を直子に差し出す。

二階から春樹が降りてきて、

「何かあったの?」

貞男は、春樹にもその封筒を差し出して見せた。

「こんな分厚い封筒に何が書いてあるんだろう?お爺ちゃんからだよね」

「とにかく開けてみるか、絵理も呼べよ」

そう言うと、春樹が階段の下から絵理に降りてくるように声を掛けた。

封筒の中には、貞次の筆跡で書かれた何十枚という手紙が入っていた。貞男がその手紙を読み始めた。


家族へ

今日まで長いこと居候をして迷惑を掛けた。私が体験したことをこの手紙で伝える事にする。自分に起きている事が本当の事なのか、私自身今も信じられない。しかし、四人の疑問に対する答えだと思って読んでもらいたい。

最初にそう書かれていた。四人ともテーブル・チェアに腰掛け、貞男が先を読み進めた。

初めて起きたのは四月中旬だった。夕方に突然めまいがして和室で横になると、そのまま寝込んでしまった。その時、夢の中に美智子が出て来た。声を掛けると、すーっと居なくなった。問題はそれからだった。

茫然としていると、目の前に学校が現れた。まるで映画撮影用のカメラが、縦横無尽に空中を移動するように風景が流れて行く。体育館が見え、中に入って行くと、女子のバスケットボールの試合が行われていた。良く見ると、絵理がコートの中を一生懸命走り回っている。ボールをパスされ、シュートを放った。ボールがリングに吸い込まれる。とても嬉しそうだ。しばらく熱中して試合を観ていると、相手チームの選手とボールの奪い合いになり挫いて倒れた。絵理、大丈夫か?思わず声を出してしまう。その瞬間目を覚ました。

あまりに鮮明な夢で、しばらく頭の中から離れなかった。

その時の事が気になって、五月に貞男たちが家に来たとき絵理に足の具合をそれとなく聞いてみた。すると、やはり捻挫をしていた。本当にびっくりした。正夢だったのだ、と思った。

それからも、お前たち家族の夢を何度か見るようになった。

六月初旬の夢には、最初春樹が出て来た。学校の応接室で男の先生に何か言われている。

「本人も嫌がってるし、親としても心配なので、厳重に注意してほしいって連絡が校長先生のところに入ったんだよ」

という声が聞こえ、春樹がびっくりした顔をしている。それからも、何か先生と話合っているが良く聞き取れなかったが最後に、

「先生や学校には迷惑かけないようにしますから」という春樹の声がはっきり聞こえた。春樹に何があったんだ?と思った瞬間、情景が切り替わった。

直子さんが居酒屋で、会社員の人達と飲んではしゃいでる姿が目の前にあった。店を出て、かなりふら付いて十字路の横断歩道でうずくまって介抱をされていた。

「何やっているんだ!直子さん」

思わず声を上げると、直子さんはびっくりした顔をして振り返る。そこで目が覚めた。直子さんのその時の様子などを見ていて、益々お前達家族の事が心配になった。

また別の日には、貞男の夢も見た。市役所で上司に呼ばれ、かなり強い口調で叱責をされていた。顔を下げ、ひや汗をかいていた。席に戻ると、職員に一言かけて階段に向かう。息が苦しそうで、階段を上るのも大変そうだった。屋上に出て、コンクリートの地面にひっくり返り、深刻な顔をして空を睨んでいる。その姿に思わず声を掛けていた。

六月の半ばには、また絵理の夢を見た。

最初は美智子が現れて泣いていた。心配になって声を掛けたが、後ろを向いてしまった。とても寂しそうな後姿が目の前にあった。心配になって顔を覗くと、いつの間にかその顔が絵理に変わっていた。とても苦渋な顔をして貞次を見る。

「絵理じゃないか。何かあったのか?」

「関係ないよ、ほっといて」

そっぽを向いたと思ったら、急に立ち上がり闇の中に走り去ってしまった。その後を目でしばらく追いかけていると、闇の中から、絵理のいる教室が浮かび上がった。

絵理とクラスの女の子数人と誰かの机の中を物色している。そこからノートを取り出すと代わる代わる黒のマジックで何か書き始めた。

バーカ、ブス、死ね!などの文字をなぐり書きしている。表紙にまでマジックで書き始めた。絵理はまるで何かに取り憑かれたような嫌な目付きをしていた。数人の女の子達はニヤニヤ笑いながら、そのノートを机の中に戻した。何事もなかったように、その席から離れ、またぺちゃくちゃ喋り出した。絵理は何処か投げやりな不貞腐れた表情をしていた。貞次はそんな絵理を見るのは初めてで、とても驚いた。

「絵理、何をやっているんだ?」

思わず声が漏れた。しかし、その声は絵理には届かない。

絵理に何があったんだ?絵理だけじゃない貞男の家族は一体どうなってるんだ?美智子が泣いていた理由がはっきりわかった。自分が何とかしなければいけない、とにかく貞男に連絡をしなきゃ。そう思い携帯を探しているところで目が覚めた。

四人は夫々貞次の手紙の内容に驚いていた。その時感じたことを思い出していた。誰かに声を掛けられた気がしたり、強い視線を感じたりしたことを。やはり誰かが見ていると感じたその正体は貞次だった。直子は、特に驚いていた。北島と手を握り合ったことも、キスをしたことも貞次は見ていたんだ。そして、その事は打ち明けず全て貞次の胸に仕舞っていることも理解した。

それから、貞次が自分の家で倒れてからのことが綴られていた。

あの日、貞男が家族を連れて遊びに来ると言っていたので、しっかり話し合おうと考えていた。それが当日になって、絵理が熱を出したので行けないとの電話が掛かってきた。ガッカリしたし、イライラもした。折角の良い機会だと思い、勢い込んでいただけに余計ショックでもあった。冷たい麦茶でも飲んで冷静になろうと、冷蔵庫からペットボトルを出してコップに注ぎ飲みながら、段々意識が遠のいて行った。

いつの間にか目の前に妻の美智子が立っていた。歩いてそばに行こうとすると、

「お父さん、何やってるの?まだこっちに来ちゃだめよ。貞男たちにちゃんと話をしてくれなきゃ」

そう言われた。

「そんなことを言われたって、私はどうすれば良いんだ?」

そう言いながら、近づこうとしたところで目が覚めた。

起きた所が畳の上だったので、自宅の和室で寝てしまったと思い立ち上がったが、壁の色は違うし部屋の様子が全く違っていた。  

振り返ると、目の前には祭壇があり、そこには自分の遺影と骨壺が置いてあった。切り花が飾られ、遺影が笑顔でこちらを見ていて、思わず後退りした。

どうなってんだ?死んだのか?夢を見てるのか?

しばらく頭が混乱して、おかしくなりそうだった。

そこは貞男の自宅だった。一階の和室にステテコとランニング姿で、どういう訳か爪切りを右手に持ったまま横になっていたのだ。

夢にしては、部屋が明るい。意識もしっかりしている。和室の中をウロウロしてから、ふすまを開けた。居間の電気を点け周りを見渡した。家の中には貞男の家族は誰もいない。テレビを点けて見た。NHKはニュースをやっているし、チャンネルを替えると民法はバラエティ番組をやっていた。どう考えても夢では無さそうだった。テーブルの上の新聞を取って、居間のテレビと電気も消して、和室に戻った。

 新聞の一面を見ると七月七日(土)の新聞だった。自分が倒れたのは六月三十日(土)、貞男の家族が来るはずだったから、はっきり覚えていた。一週間が過ぎ、その間に死んだことになっている。何かの間違いだと思った。自分の代わりに誰かが死んでお骨になってしまったんだ。そんなことを考えたが、足の爪がのびているのが何故かとても気になった。広げた新聞紙に足を乗せて、爪を切り始めた。左足の親指の爪から切り始め、中指を切ろうとしていると、玄関から物音が聞こえた。いつの間にか、自分の家にいるような気持ちになり、爪を切る事に夢中になっていた。

 そこで、隣の居間から直子さんの声が聞こえたので、何と気なしに返事をした。

 それからのことは、みんなが知っての通りだ。そしてこの土曜日は、自分の四十九日の法要が行われる。準備は、全て滞りなくしてもらって本当に感謝している。もし生きて霊園に行けたならば、その時は皆様にお詫びをして今後の対応はする。しかし時間通りに行かなかったら、予定通り実施して貰いたい。

とにかく、お前たち家族が仲良く幸せに生きて行く事を願っている。

三人は、貞男の話しを静かに聞いていた。

「父さんからの手紙は以上だ。何か狐につままれたような話だが、わざわざ父さんが嘘を付く事は無いと思う。しかし、父さん体調を崩しているから、夢と現実がごちゃ混ぜになってしまっているのかもな」

貞男は手紙をテーブルに置きながらそう言った。直子は、手紙を手に持ってもう一度自分で確かめるように読み直していた。そして春樹も絵理も本当の事とは信じられない、という顔をしていた。


土曜日の九時過ぎ、朝からかんかん照りで、今日も一日夏の暑さは緩んでくれそうにはない。そんな中を貞男家族は礼装で、貞次の遺骨と位牌を持って多摩の霊園に向かった。

外は三十五度の猛暑、車から出るとワイシャツの中は途端に汗が吹き出した。貞男と直子は礼拝堂に行く前に事務所に寄って卒塔婆を受け取った。それから四人は隣にある待合室でペットボトルを買い、喉を潤しながら親戚が来るのを待っていた。貞男は、貞次の携帯に電話をいれてみたが、やはり繋がる事は無かった。

十時二十分には正志叔父さん夫婦が到着した。貞男は、貞次がいつ来るのか気が気ではなかった。直子も子供たちも法要に来て頂いた人達に挨拶をしながらも、どこか上の空でいた。

「父さんは何をやっているんだ?このままじゃ法要を始めないわけにはいかないじゃないか」

イライラしながら、そうつぶやく貞男を見て、

「お前さっきから何ぶつぶつ言ってんだ?親族の代表なんだから、もう少し落ち着けよ」

「うん、そうだね」

叔父さんに生返事しながら、霊園の入り口を見つめていた。

法要の始まる十分前になった。やはり来ないか、そうつぶやくと、

「それでは皆さん、礼拝堂の方に移動してください」

貞男は気持ちを切り替え、法要に出席してくれた方々に対して案内を始めた。

直子も首を傾げ一つ溜息を付いた。春樹は大きく深呼吸すると立ち上がり、骨壺を持って礼拝堂に向かった。絵理も卒塔婆を持って後について行く。

礼拝堂に入ると中はエアコンが効いていてかなり涼しかった。祭壇に位牌と骨壺、それに家から持ってきた果物を供えた。

貞男家族から順番に各自が席に着く。

「もう来ないな」

「そうね」

貞男も直子も気掛かりではあったが、もう覚悟を決めた。

「父さんの手紙に書いてあった通り、法要を始めてもらおう」

「うん、仕方ないね」

そう言うと貞男がお坊さんに、始めて下さい、と声掛けをした。お坊さんは法要を始めるため祭壇に向かった。祭壇を背にして一礼をし、椅子に腰掛けると四十九日供養のお経を唱え始めた。

目を瞑り、手を合わせると、貞男家族の一人一人の目の前には貞次と美智子が仲良く二人で笑っていた。その姿を見て、四人は貞次が美智子の元に旅立ったんだとわかったような気がした。

貞男夫婦がお焼香をすると順番に皆がお焼香をした。二〇分ほどで終わり、最後にお坊さんから法話があった。

法要が終わると、納骨にお墓までぞろぞろと歩いて行った。外は相変わらずのかんかん照りで息が苦しくなるほどの暑さだ。

皆ハンカチで汗を拭きながら、お墓に向かった。

絵理が位牌を持ちながら歩いていると、ポケットの中のスマホが震えた。

立ち止まり、見るとラインにメッセージが来ていた。誰だろう?と開くと真名からだった。

夏休み明けから学校に行きます!

それだけのメッセージだった。


お墓に着いて、貞男と直子が墓石に水を掛けようとすると、墓石の上が太陽の光に反射した。良く見ると、そこには貞次が使っていた“爪切り”があった。

「父さん、さよならのつもりで置いたんだな」

貞男は爪切りを取って直子に渡した。

「お義父さん、私たちの事を心配して現れたのね」

直子がそう言って爪切りを見つめた。

「お爺ちゃん、ありがとね」

絵理はお墓に手を合わせ涙ぐんだ。

そして春樹は、その場に立ち尽し真っ青な眩しい夏空を仰ぎ見ていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ