貞次と直子
七月二十一日(土)三七日
直子は、明日の土曜日に北島とドライブをする約束をした。会いたい、とメールをしてからこんなに月日が経ってしまった。貞次の死去から葬儀、そして生きていた?と次から次へといろいろな事が起きて、目まぐるしく日々が過ぎた。貞次が、今家にいることも、何でこんな事になってしまったのか?納得は出来ていないが、あまりに不思議過ぎて、不平を言うような状況ではなかった。
貞次は、金曜日の午後から一度自宅に帰ってくると言っていた。今日は、向こうに泊まるらしい。
家族には、明日は職場の日帰り旅行があるので帰りが何時になるかわからないと言ってある。直子は、やっと北島とゆっくり会えるという思いと一つの覚悟をしていた。
貞次は午後から自宅に向かった。家に帰って、それなりの格好をして出かける必要があると思っていた。相手の顔と名前は、直子の会社の社内報で確認をしてある。
前日に自動車会社の役員を装って、電話で北島のスケジュールは確認してある。直子が出たらすぐに切ろうと思ったが、タイミングよく別の秘書が出て本人は不在とのことであった。金曜日の午後には帰社し、その日の夜は予定が入っていないというところまで確認は取れた。
貞次は、三週間ぶりに自宅に帰った。貞男から借りたカギで玄関のドアを開けると、懐かしい家の匂いがした。居間に入り、すぐに仏壇の美智子に挨拶をした。
(いろいろあったが、取り敢えず帰って来た。やれるところまではやってみるからな)
ワイシャツと背広のズボンに着替えてすぐに戻らないと、北島が早く帰ってしまったら会えなくなってしまうと焦っていた。二階の洋服ダンスから夏物のスーツと半袖のワイシャツを見つけてすぐに着替えた。着てきた洋服と着替えの下着などを幾つか紙袋に詰め込んで、四時過ぎに自宅を後にした。
羽村駅に六時過ぎに着き、急いで直子の会社に向かう。駅から十分程歩いて会社の正門に着いた。道路の反対側の歩道に立ち、北島本人が出てくるのをひたすら待った。
それから三十分、しゃがみ込んだり、塀に寄り掛かったりしながら待っていると、正門から出て来た。彼だ!とすぐにピンと来た。横断歩道を渡り、貞次の前を通り過ぎた。すぐに後を追い、五十メートル程行って右折するところで声を掛けた。
「すみません、北島さんでしょうか?」
びっくりして北島は振り返った。
「えっ?」
「すみません、曲直部と言います。直子の義理の父親です」
北島はあまりのことで驚いた様子だ。その場に立ち尽くし、目を見開いて貞次を見つめた。
「少しお話がしたいのでお時間を作っていただきたい」
貞次の強い口調に、
「はい」と北島は返事をするしかなかった。
「それでは会社より少し離れた所の方がいいですかね。昭島にでも行きますか」
北島は軽く頷き、二人は少し距離をおきながら羽村駅で上り電車に乗った。
昭島駅南口にある純喫茶純和という昔ながらの喫茶店に入る。窓側の四人掛けの席に座り、コーヒーを注文した。
「今日は忙しいところ時間を作っていただきすみません。日頃は嫁の直子がいろいろとお世話になっております」貞次は深々と頭を下げた。
「こちらこそお世話になっております。曲直部さんには良く働いてもらっています」
北島は、おどおどしながら上擦った声で答えた。
「そうですか、少しでもお役に立っていれば良いのですが」
「本当に助かっています」
北島はそう言って頭を下げた。二人はおもむろにコーヒーを一口飲んだ。それからしばらく沈黙が続いた。
貞次もどう切り出したら良いものかと迷っていた。北島もこの沈黙に耐えられず、今にも逃げ出したい心境だった。
貞次はどこからか「頑張ってね」と言う美智子の声が聞こえたような気がした。
「北島さん、ところでこれからどうなさるつもりですか?」
貞次のあまりに唐突な質問に北島は戸惑った。
「どうなさるつもりとは、何をですか?」
本当はわかってはいた、しかし北島にはそう返事をするしかなかった。
「率直に言わせていただきます。直子との事は今後どうするつもりなのかを聞いています。お互いの家族の事も含めてです」
「そう言われても彼女とはそういう関係では」
北島は下を向き、貞次とは目を合わせることが出来なかった。
「私の勘違いであるのならそれ以上は詮索しませんが。ただ万が一何らかの関係があるのなら、お互いの家族とお互いの社会的な立場を十分考えて、節度ある対応をしていただきたいと思います」
北島はこの人は全てわかっているんだと観念をした。
「わかりました、本当に申し訳ありませんでした。もうこれ以上何もありませんので、許していただけないでしょうか」
「くれぐれも今の言葉を忘れないで下さい。お互いのためです」
貞次はそういうと、伝票をもって席を立った。
北島はその後姿に深く頭を下げていた。
翌朝、夏も真っ盛りで、朝から眩しい日差しが辺り一面を覆っている。七時前に直子は逸る気持ちを抑えて、家を出てバスに乗り込んだ。七時半に拝島駅のロータリーで待ち合わせをしている。河辺駅から七時十分発の立川行きに乗り、二〇分過ぎに拝島駅に着いた。改札を出て北口に向かう。ロータリーにはまだ北島の車が停まっている様子はなかった。取り敢えず駅に到着しました、とメールを打ちロータリーで待つ。それから十分経ってもメールの返事も無ければ車も来ない。直子は、運転中だしメールなんか出来ないんだわと自分で納得し、その場に立って待った。
それから十分二十分と時間は過ぎて行く。さすがに不安になり、北島の携帯に電話を入れる。しかし携帯からは、電源が入っていないか電波の届かないところにいます、とメッセージが返ってくるだけだった。
直子は、不安と苛立ちの混じった気持ちの中で立ち尽くしていた。どういうことなのか?事故にでもあったのではないか?彼が何の連絡も寄越さないなんて考えられなかった。
どうしよう?場所を間違えたのかもしれない、と思った。取り敢えず南口に行ってみようと階段を登ろうとしたところで、
「直子さん」
と後ろから声を掛けられた。一瞬北島だと思い振り返ると階段の下には、貞次が立っていた。
直子は階段の途中でよろけそうになったが、手すりに捕まって何とか転倒することは避けられた。
「すまん、びっくりさせて」
直子は驚きで声も出ずに手すりに身体を預けて、貞次を見つめていた。
「あの人は来んよ」
貞次から発せられたその言葉に、直子は卒倒しそうになる。今にも崩れ落ちそうな身体を手すりに預けて何とか支えていた。
「私の勘違いなら別だが」
さすがに旦那の父親に、別の男性とドライブに行くところだなんて、どんなにバレていても口には出せなかった。
「お父さん、何か勘違いされているようですけど、今日は職場の日帰り旅行でその迎えを待っていたんです。電話したら、駅を間違えたみたいで今からそちらに行こうかと思って」
「そうか、私はてっきり北島専務とドライブに行くのかと思った」
直子は、手の震えを止めることが出来なかった。今にも泣き出して全てをぶちまけてしまいたい衝動にも駆られた。しかしそんなことは出来なかった。
「お義父さんごめんなさい、私急いでいるので」
直子はそう言うと、貞次を振り払う勢いで階段を駆け上っていった。
貞次は、ここまでにしよう、これ以上踏み込んだら直子は逃げ場を無くして身動きが取れなくなってしまう、と自分に言い聞かせた。息子の嫁さんを追い詰めちゃいけない、貞男と家族とこれからも仲良くやっていってもらわなきゃ、とそれだけを強く願った。
直子は、急いで自動改札から青梅線のホームに駆け下り、調度入って来た上り電車に飛び乗った。土曜日の朝ということもあり、車内は空いている。シートに腰掛けると自然に深い吐息が漏れた。
(どうして?義父さんが全てを知っている。だから北島専務から連絡が来ないんだ)
北島への狂しいまでの思いと、全てを知られてしまってこれからどうなるのか?という思いで頭を抱え込み、髪の毛を掻き毟りたいような衝動に駆られた。
後頭部を窓に当てて、目をつぶった。
頭の中をいろいろな事が駆け巡った。すぐに帰って貞次に謝ってしまおうか?それとも夕方までブラブラして、何事もなかったように振る舞うか?
貞次が貞男や子供達に本当のことを伝えたらどうなってしまうんだろう?家を出て行くことになるかもしれない。子供達に嫌われ、許してもらえないかも。
心臓が早鐘のようにドクドクと鳴った。思わず両手で顔を塞いだ。
とにかく、どこかで心を落ち着けたかった。立川でカフェにでも入ろうと決めると、一度大きく深呼吸をし、あとは電車の揺れに身を任せた。
立川駅に着きカフェで一時間ほど過ごしたが、なかなか良い考えは浮かばなかった。
北島とのことは、もう駄目だろう。これ以上関係が続けば貞次が黙っていない、そうなれば北島は社会的な立場も脅かされるし家庭も崩壊する、彼がそこまでのことをするとは考えられない。冷静に考えれば火遊びに過ぎないのかもしれない。それでも、一度燃え上がった炎を直子の心から消すことは出来そうに無かった。
しかし、現実にはそんなことを言っている場合では無かった。貞次に知れてしまったことをどうやって誤魔化せば良いのか?なぜ知ったのか?どこまでのことを知っているのかもわからなかった。だが貞次が北島と会って、話を着けたということは推測がついた。そうでなかったら、今日の待ち合わせ場所に来ないわけがない。北島から一切メールも電話も来ないで、拒否までされるはずがない。次々といろいろなことが浮かんでは消えていった。そして、最後は開き直ってしらを切り通すしかないと思った。現場を押さえられたわけではない。子供たちと別れたくはない。今の生活環境を大きく変えたいとも思ってはいない。貞男とのことはまだまだわだかまりはあるが、何とかやって行くしかない。そう決めると気持ちはある程度固まった。それからは憂鬱な気持ちの中、ウィンドショップをし恋愛ものの映画を一本観て、夕方の六時過ぎに家に帰った。
家に入ると貞男と貞次が居間でテレビを観ていた。子供たちは、それぞれ自分達の部屋にいた。
「夕ご飯どうします?私は食べて来たからいらないけど」
「さっき、ガストのデリバリーを頼んだから大丈夫だよ」
「じゃあ私疲れたから、お風呂入って先に寝かせてもらいます」
「そう」
二人ともテレビから目を離さず、貞次は何事も無かったように何の反応もしなかった。直子は寝室に入り、着替えを持って風呂場に向かった。
湯船に浸かり、またいろいろな事が浮かんできた。あの様子なら貞次はまだ何も言ってない。言ったのであれば、さすがに貞男も普段通りの態度でいられるはずがない、そう思うと少し安堵した。
風呂から出て、髪の毛を乾かすとすぐに布団に入った。疲れがどっと押し寄せ、すぐに深い眠りについた。
夜中にトイレで目が覚めた。トイレから出て喉が渇いたので下に降り、冷蔵庫の中にある麦茶をコップに注ぐ。テーブルの椅子に腰掛け一気に飲んだ。
コップを流しに置くと、奥の和室の引き戸が開き、貞次が出て来た。直子は眠気も吹っ飛び、どぎまぎとする。やはりこのままでは済まない。
「直子さん、少し話をしよう」
「何ですか?こんな夜中に話なんて」
本当はとても怖かった。しかし、そんな態度は見せられない。そう思うと不機嫌な様子を露わにした。
「まあ、こんな時じゃなきゃ二人だけでは話せんだろう」
「私は特にお義父さんと話す事なんか無いですけど」
「そう言わず、一度くらいは年寄りの話に付き合え」
直子は、いかにも仕方ないという顔でテーブル席に座った。
「今朝はあんなところに本当にいるとは思わなかった」
返事をすることに戸惑いはしたが、
「本当にびっくりしましたよ。何であんなところにいらっしゃったのか?良くわからないことも言っていましたし。北島さんがどうだこうだって」
「悪かったな、本当に職場旅行とは思わなかったから」
「どういう意味ですか?前からそう言っていましたよね」
「確かにな。だが、ある方からドライブだって聞いたものだから」
やはり北島と直接会って話をしたんだと確信をした。それでも、しらを切ることしか直子には出来ない。
「今日は箱根の方にバス旅行だったんです。集合場所の牛浜駅を拝島駅と勘違してしまって」
「そうか。私はあの人に拝島で待ち合わせをしたと聞いて行ったのだが」
直子は何と言われようが、嘘を押し通そうと思っていた。
「終わったことを、いつまで言っていても仕方がない。とにかく、これからの事が大事だ」
「何を言っているのか?本当にわからないですけど。これからの事って、今何がいけないって言うのですか?」
直子は、貞次に言われる筋合いはないと思っている。
「直子さんは、何をそんなにイライラしている?」
「私はお義父さんに言われなきゃいけない事って、何があるのかな?と思って」
「私も黙っていたが、それなら言わせてもらう」
「何をですか!」
直子は貞次を睨みつけた。
「このまま家庭を壊すつもりなのか?北島専務さんと会って話してきたよ。あの人は直子さんとのことを認めて私に謝罪した。金輪際関わらないとはっきり言った。直子さんも火遊びはほどほどにした方がいい」
「作り事を言わないで下さい。そんな事どこに証拠があるのですか?」
直子の唇がわなわなと震えていた。
「直子さん、強がるのもいい加減にした方がいい。私は君たち家族がみんな幸せに生きていってもらいたい、ただそれだけだ。だけど今はどうだ?夫婦も子供たちも問題を抱えていて。誰も幸せそうじゃ無いじゃないか」
「お義父さんに何がわかるんですか?」
「直子さん、仕事や自分のことも良いけど、もう少し家庭や子供たちのことを見つめ直した方がいい」
「仕方ないじゃないですか!貞男さんの給料だけじゃ春樹の学校の月謝だって絵理の塾代だって払えないし。大学に行かせるお金だって貯めなきゃならないんですから。忙しくて、そこまで心の余裕なんて無いですよ」
「それはわかっている。でも、子供達に良い大学や将来のために勉強をさせることも大事だが、今家族の時間を大切にすることの方が大事なんじゃないのか」
「それではお金はどうしたらいいんですか?私だって一生懸命やってるんです。貞男さんも子供達も今は自分達の事ばかりで、私を必要となんてしてないですよ。貞男さんが私に自分の将来を少しは考えた方がいいって言ったんですよ」
「それが男の人に向う理由になるのかね?」
確信を突かれ、泣きたくなった。
「子供たちが苦しんでいるのに、それを助けないでどうするんだ。貞男とも仲良くやっていって欲しい、自分たちのためよりも子供たちのために」
「子供たちが何を苦しんでいると言うんですか?」
「それは自分で確かめた方が良い。貞男ともじっくり話し合ってくれ」
「そう言われても、貞男さんが私の気持ちを全く理解してくれないんです。親だったら普通自分の子供を説いて聞かせるんじゃないんですか?私を責めるなんて信じられない」
「それはすまんな。しかし私は今までのように黙っている事は止める。正しい事を正直に言おうと思う。それをやって来なかったから、直子さんと私たち夫婦はずっとわだかまりを持ったままだった。いつどうなるかはわからない身だから、言いたいことは言わせてもらう」
「そういうところが許せないんです。平気で私や私の親を悪く言う人たちでした」
「それは誤解だ。直子さんやご両親の悪口をいつ言った?悪いが君には幻聴みたいなことがあるのか?言ってもいない事を貞男にはよく言われたと言っていたらしいが」
「確かに言われたわ、家が片付いてないとか、もっと質素に生きていかなければいけないとか」
「それは何かの誤解だ。一つ一つ些細な事を気にし過ぎるんじゃないか。そんなことより、今大事なことは子供達のことや家族の事だろう」
「具体的に何があるって言うんですか?春樹の事なら適当にやれば良いんですよ。高校生の交際なんて一時の事なんだから」
「春樹だけじゃない、絵理だって」
「絵理?何があるって言うんですか?」
最近の絵理は、学校の事で相談することも無かった。それでも学校の事や友達との事は話していてくれている思い、気にも留めていなかった。
「それは、絵理から聞いてもらった方が良いかもしれない」
「そうですか、わかりました。絵理のことは私が確認します」
「とにかく、親身になって聞いてやってもらいたい」
「私にはそんな様子全く見せないから、そう言われても何があったのか?私だって会社の人間関係が大変で精一杯なんです」
「だから言っているんだ。そういう時にお互いが助け合うのが家族だろ。外であった事の愚痴を言ってもいいし。家に帰ってストレスを発散しないで、それぞれが一人で抱えているのなら、何のために家族や夫婦でいるのかがわからないじゃないか」
「私は私なりに、家庭のことは一生懸命やってきました。それでも、お義父さんとお義母さんは、一度も認めてなんてくれなかったじゃないですか。今だって、こういう風に説教をしているじゃないですか。だから、私はずっと許せないんです、貴方たちを好きになれないんです」
直子には、貞次の言っていることは良くわかってはいた。それでも、自分の中の女としての意地があった。そうやって、今まで頑張ってきたのに、いきなり素直に従うなんて出来なかった。
「そこまで憎まれているとは、思ってもいなかった。悲しいが仕方がない。悪かった」
貞次は、今日はここまでにしようと思った、そして静かに部屋に戻って行った。
直子は、興奮して眠れず、家では滅多に飲むことのない貞男の日本酒を、コップに注ぎ飲んだ。酔いも手伝い、たがが外れると、涙が止めどもなく流れた。