家族それぞれの生活
四 月
午前七時、玄関で直子がパンプスを履くと絵理が二階から下りて来た。
「おはよう、今日から新学期なんだからしっかり頑張ってよ。帰って来たらクラスのことや担任の先生のこと聞くからね」
「わかった、早く行きなよ。遅刻しちゃうよ」
「帰りは八時過ぎると思うから、冷凍のおかずを解凍して適当に食べていてね」
そう言うと、玄関のドアを開け足早に出て行った。
ドアが開いた瞬間、玄関脇の沈丁花の花の香りが家の中に漂う。
スーツ姿の貞男が、居間の窓を大きく開け、手馴れた様子で洗濯物を干している。
春樹は、ダイニングチェアに腰かけテレビを観ながらクリームパンを頬張り、コップに牛乳を注いでいる。
駐車場からエンジン音が聞こえ、直子の軽自動車が会社に出発した。
貞男は、朝の一仕事を終えると腕時計に目をやりビジネスバックを持って、「行ってきます」と一声発してバス停に向かった。
絵理は、トイレから出ると洗面所で歯磨きを始める。
曲直部家のいつもの一日が始まった。
お天気キャスター長野さんの天気予報が終わると、春樹はスクールバックを掴み、踵をつぶした運動靴をつっかけ玄関を出る。庭に置いてあるオンボロママチャリのサドルに跨り、ペダルを踏み込む。 四月の空気はまだ少し肌寒く感じるが、風が頬に当たり気持ちが良い。公道に出ると緩やかな上り坂を息切らし上り切り、それから平坦の道を十分も走れば河辺駅に到着する。駅前の駐輪場に自転車を置いて、改札を通りホームに下りると河辺駅発東京行きの電車がすでに出発の時刻を迎えていた。飛び乗ると武蔵小金井駅まで約四十分。つり革に捕まってスマホを弄りながら、何となく時間が過ぎて行く。武蔵小金井駅で降り乗降客の流れに任せて改札に向かうと、美紅が手を軽く上げて微笑んだ。北口にあるスーパー長崎屋の脇から路地に入り、商店街を抜けて住宅地をしばらく歩く。駅から十五分で私立中庸大学付属高等学校に到着する。通用口から下駄箱で上履きに履き替え、正面階段をのぼって二階でそれぞれのクラスに手を振って別れた。春樹が二組で美紅が四組。
美紅とは、一年の体育祭の後から付き合い始め半年が過ぎた。同じクラスで体育祭の委員をやったことがきっかけで春樹が告白をした。
相沢美紅は、陸上部で短距離を走っているスポーツ大好き女子だ。身長は百六十二cmでスレンダーなバンビみたいな女の子。ショートヘアが似合う目のクリッとしたなかなかの美人だ。春樹も百七十八cmバスケット部でジャニーズ系の顔立ちなので、周りからはお似合いのカップルだと羨ましがられている。
しかしふたりには二人なりの悩みを抱えている。
春樹が教室に入り窓側の自分の席に着くと、良太が「おはよう」と声をかけて寄って来た。
「昨日の里奈ちゃんのドラマ観た?やっぱ可愛いよな」
「良太いつまでもアイドルなんて追っかけてないで、彼女でも作れよ」
「春樹は美紅ちゃんみたいな可愛い子と付き合っているからそう言うけど、里奈ちゃんみたいな可愛い子この学校にいるかよ?」
「お前は理想が高いからな、まあ気が済むまで追っかけでもしてろ」
「はいはい、そうしますよ」
朝から他愛のない話をしていると、担任の真崎が教室に入ってきた。
絵理は、春樹が出て行った後、トーストを焼いてその上にロースハムを載せる。冷蔵庫からサラダとオレンジジュースを出してテーブルに持って行く。
コップにオレンジジュースを注ぎ、サラダにドレッシングをかける。両手を合わせて、「いただきます」と小さく囁いて食事を始めた。
テレビの芸能情報を観ながら、トーストをかじる。十分もすると食べ終わり、使った食器をキッチンの排水溝に持って行く。残ったものを冷蔵庫に仕舞う。
片付けが終わると、制服に着替え学校に行く準備を始める。家から中学校までは歩いて十分程度。普段なら八時十五分に出れば十分間に合うが、今日は新学期でクラスも変わるので、八時に家を出た。
玄関の鍵をかけて、傘置きの下に鍵を隠してから出かける。
市営住宅を抜け、川沿いを歩き、小さな橋を渡り、坂道を登るとそこはもう青梅市立野上中学校の裏手に出る。そこから二分ほど歩き、正門から中に入り、校舎の正面に向かう。通用口前の掲示板に各学年のクラス担任の名前と生徒名が貼り出されていて、多くの生徒が群がっていた。
環が声を掛けて来た。
「絵理、三組だよ。私と一緒」
「本当?担任は?」
「吉田先生」
「吉田か~、まあ、しょうがない」
そう言いながら、生徒達の中に入り、クラスを確認した。
自分の名前のあとは、バスケット部員の名前を探した。環と彩夏が一緒のクラスになった。環は一年から同じクラス、彩夏は二年で一緒になった。彩夏とはとても気が合うので一緒になれて嬉しいが、美樹と別れてしまったのが少し悲しい。そう思いながらその場を離れ、環と通用口に向かった。二年三組の下駄箱の空いている場所に運動靴を入れ、洗ってきた上履きに履き替えた。廊下から階段を上り、二階の二年三組の教室に向かう。中に入ると黒板に席次表が張り出されていた。窓側の後ろから三番目の席に名前があった。
同じクラスだった子が何人もいるが、さすがにみんな少し馴染めない様子で席に着いている。彩夏が絵理に気が付き近づいてきた。
「おはよう!今度は同じクラスになれたね」
「うん、彩夏と同じになれて嬉しいよ」
「環も一緒だしね」
環の方を向いて彩夏が手を振った。環は席の隣の子と話していたが、気が付き笑顔で手を振り返した。
「部活も夏の大会が終われば、私たちが主力になるし頑張ろうね」
「私もレギュラーになれるように頑張らなきゃ」
「絵理なら大丈夫、なれるよ」
「彩夏みたいに一年から試合出してもらっているなら余裕だろうけど、私はすれすれだから」
「大丈夫だって、とにかくクラスも部活も楽しくやろうね」
「うん」
そう返事をしながら絵理には不安があった。たまに試合に出してもらうこともあったが、彩夏をはじめ四人はほぼレギュラーに決まっている。あと一つのポジションを絵理と環、そして四組の紀子で競っているような状態だ。まだまだこれからが勝負だが、練習中に転んで足首を捻挫しその痛みがまだ残っていた。
彩夏と話していると、担任の吉田先生が教室に入ってきた。
「足立さんが日直ね、号令をかけて」
そう言われると、足立さんが「起立」と号令を掛け、生徒はそれに従った。
「それでは、点呼を取るわね。名前を呼ばれたら、しっかり返事してね」
吉田先生は、名簿を覗いて足立さんから、総勢三十八名の名前を読み上げていった。
その間、絵理は教室の窓から見える春の高い青空を眺めていた。
直子は会社の駐車場に車を停め、そこから五分程歩いて正面玄関から建物脇の通用口に向かう。入退室管理システムにICカードを読込ませドアのロックを解除する。中に入ると階段を上り秘書室のドアを開けた。
秘書室奥のロッカー室で制服に着替え、バックから化粧ポーチとお財布を出して鏡で化粧を確認する。自分のデスクに向かい、引き出しにポーチなどを仕舞う。
キーキャビネットから鍵を取り出し、掃除道具を持って役員室に向かう。鍵を開けて、各部屋の窓を開けると春の風が心地よく室内に入り込む。次に役員のゴミ箱を集めてゴミを一つにまとめ、回収ボックスに捨てに行く。デスクを雑巾で拭くと一連の作業が終わる。窓を閉めて、自分のデスクに戻った。
その頃になると、もう一人の先輩秘書の安田幸子が「おはようございます」
と挨拶しながら秘書室に入ってきた。
「いつもごめんね、掃除先にやってもらって」そう言いながらも、早く来て一緒にやることはない。
「いえいえ、大丈夫ですよ」そう笑顔で返すが、本心は(この馬鹿女!そう思うなら早く来てやれ!)と思う。
給湯室に向かい三つのポットに水を注ぎお湯を沸かす。冷蔵庫を開けて、ミネラルウォーターの数を確認して不足分を入れる。
それが済むとデスクに向かいノートパソコンを広げる。会社のグループウェアに入り、社内メールを確認する。その間安田は、メール便を取りに行き封書を一つずつ確認して役員ごとに仕分けをしたり、封を開ける。
朝からやらなければならない事は山積み。役員のスケジュールをチェックし、会議室の予約も確認しなければならない。
そうこうしていると、北島専務が出社して来て秘書室を覗き声をかける。
「おはよう、今日もよろしくね」
「おはようございます、コーヒーで良いですね?」
「悪いね」
そう言いながら、役員室に向かう。彼は四十代後半で役員に抜擢され去年五十歳で専務取締役に就任した。アメリカにも五年ほど赴任し英語も堪能である。当社のエリートだが、偉ぶった様子もなく直子はとても好感を持っている。
ドリップバッグのコーヒーにミルクと砂糖を入れて部屋まで持って行く。
秘書室に戻り、各役員のスケジュールを確認する。
新藤社長は名古屋工場に出張中、高橋常務はアメリカのデトロイトだ。そうこうしていると上原、渡部、今泉取締役が出社して来た。挨拶と飲み物を頼んでは、自分のデスクに向かう。
安田と直子二人で六人の役員を担当している。社長を始め六人のスケジュールから時にはプライベートの事まで全てを管理する。役員と客先や社内の各部署とのやり取りを切り盛りしなければならない。
仕事が始まってしまうと、家のことも子供達のことも考える余裕は全く無い。朝から晩まで秘書の仕事に追われて時間が過ぎて行く。
(今日も十一時にはトヨタ自動車の役員が専務のところに打ち合わせに来る。とにかく頑張らなきゃ!)
そう思いながら、会議室の準備に向かった。
貞男はバスで河辺駅まで出て、そこから青梅線の拝島駅で武蔵五日市線に乗り換える。拝島から三つ目の秋野駅で下車し、歩いて十分ほどで市役所庁舎に着く。家から四十分もあれば到着するが、五日市線は単線で本数も少なく、帰りなどは意外と時間がかかる。
秋野市市民生活部地域活性課長に就任して、この四月で三年目を迎えた。
正面入り口から職員用の階段で三階まで上がる。お客様用のエレベーターはあるが、職員は四階以上でなければ、徒歩で上り下りすることになっている。これも慣れたので今は大丈夫だが、エレベーターの使用制限が決まった当初はかなり戸惑いもあった。
お客様が一緒であれば乗ることも許されているが、案外不自由なことがある。
建物は中央が吹き抜けになっており、南側の中央に貞男の地域活性課はある。
通路で他の部署の職員と挨拶を交わしながら、課まで着くと、課内の職員はまだ誰も来ていなかった。
自分のデスクにバッグを置くと、給湯室に向かい朝のミルクティーを入れる。ティーパックの紅茶にミルクは多め、カップを持ってデスクに戻り新聞を広げる。勤務時間より四十分早めに出勤し二十分かけて新聞に目を通す。それから仕事の準備を始めることを毎朝の日課としている。
そのうち、木下係長、森下主任など課の職員が出勤してくる。地域活性課は産業振興と観光振興を中心に主な業務を貞男を含め八名の職員で行っている。
課長にもなると仕事柄議員や地元の有力者と関わることが多いし、市民のクレイム対応をすることもあって決して気楽な商売では無い。更に去年の四月に直属の上司である市民生活部長に同じ歳の高瀬徹が就任した。貞男は一浪しており役所では、高瀬の方が一年先輩にあたる。就任した最初の打合せから意見の食い違いで衝突してしまった。それからというもの事あることに部長から、因縁に近いような叱責を受けていて、神経をすり減らす日々を過ごしている。
家庭でも直子や子供達と上手くいってなくて自分の落ち着く場所が無い。たまに平日の帰りに、昭島のモリタウンで映画を観るのが密かな楽しみになっている。それでもどこで誰が見てるかわからないので、周りの目を気にしながらコソコソとシネコンに向かう。
大田区大森三十坪の土地に二階建ての一軒家、六時には布団から出て台所に向かいお湯を沸かす。
貞次は玄関でサンダルを突っ掛け、扉を開ける。ポストから新聞を抜き取ると、大きく腕を広げて深呼吸をする。空を見上げると今日はいい天気だ。それだけで少し晴々とした気持ちになる。家に入るとお湯が沸騰した音が聞こえ、慌ててサンダルを履き捨て台所に急ぐ。先日貞男に言われてガスコンロを熱センサーで火の消えるタイプに変えたばかりで既に消えていた。ホッとしながら、自分のお気に入りの湯呑みを茶箪笥から取り出す。急須にお茶を入れお湯を注ぐ。美智子の湯呑みにもお茶を入れ仏壇に持って行く。線香を上げ、ちーんとリンを鳴らして手を合わせる。
(美智子今日もよろしくな、貞男や孫達を見守ってくれよ)
よいしょ!と声を出し立ち上がる。居間のテーブルチェアに腰掛け、お茶をすする。新聞の一面から目を通す。
「民自党は原発や社会保障問題もはっきりさせないで、いつまでこんなことやってるんだ!」
そうぼやきながら捲って行く。
そうこうしているうちに七時になる。テレビを点けて、台所で朝ごはんの支度を始める。冷凍したご飯をレンジで解凍する。冷蔵庫に入っている納豆や卵に佃煮を出し、テーブルに並べる。味噌汁だけは、朝から作って食べるようにしている。今日は豆腐とわかめにした。作り方は美智子から聞いて、何度か作っていたので味にはそれなりに自信を持ってはいる。
しかし毎日一人分の食事を作るのは面倒くさい。近くのスーパーで惣菜を買って済ませることも多くなった。
亡くなる前に「お父さんは私がいなくなったら、食事はどうするんですか?本当に何もやらないし、外食や買ってきたお惣菜とかも嫌いだし」
「お前が作ってくれるのを食べるから良いんだよ」
「私がいなくなったらの話ですよ」
「お前が先に逝くなんてことは無いから大丈夫だ」
「本当に勝手なことばかり言って、そんなことわからないでしょ」
そんなやり取りをしていたことを思い出す。
(本当にお前がいなくなって、掃除も洗濯も大変だけど食事が一番大変だ。私を置いていくなんて、さすがに考えてくれなきゃ。お前が作ってくれたご飯が食べたいよ)
そんなことを仏壇に向かって話すことが多くなった。
子供や孫たちに迷惑は掛けないで生活していきたい、と貞男からの同居の話も断った。美智子が亡くなって二年が過ぎようとしている。
今日は、午前から近くの公民館で一時間体操があるのでそこで身体を動かす。話し相手も何人か出来て、終わったあと喫茶室でコーヒーを飲みながら過ごす。毎週通うことが楽しみになっている。
なかには同じような独居老人もいて、常日頃どう過ごしているか?などの話しをすることが多い。
七十五にもなると頭を始め、身体のあらゆるところにガタが来ていて、最近は毎日痛むところも変わる。身体を動かしていないと動けなくなってしまうのではないかという不安に襲われる。体操の日は確認作業をしているようなものだ。