第九話 あったかいで
杏子から電話があった。ゆずの目撃情報があったらしい。
河原の近くの〇〇線で、ゆずと思われる犬を目撃したドライバーからの証言だ。明らかに飼い犬で、かなり危なっかしい感じだったようだ。
すぐに僕は現場近くへ向かった。
ゆずはなんとか夜を凌いで無事だったのか。しかし安心は出来ない。ゆずが目撃された場所は車通りが多い。ゆずのドンくささを考えると、余計不安が募った。
目撃された付近に到着した。
当然ゆずの姿はもう見当たらない。だが近くにいるはずだ。
幸いゆずが車に轢かれたような状況も見受けられない。
杏子は人に、僕は犬に聞き込みをし、捜索を続けた。
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大きな犬と別れ、ゆずはひたすら歩き続けた。
帰る道がわからない以上、とにかく歩くしかない。
公園の前を通ると、人や犬の声が聞こえてきた。
どうやら散歩中の犬達が公園で遊んでいるらしい。
優しそうな飼い主達……お兄ちゃんが恋しい。
ゆずの足は自然と、その集団に向いて行った。
一匹の犬が気づいた。
「あれ?犬がいるよ」
他の犬も気づいた。その瞬間、
「ワンッ!ワンッ!」
いきなり吠えられた。
「お前誰だよ!近づくんじゃねえ!」
飼い主が犬をなだめる。
一人の女性がアタシのとこに寄ってきた。屈んでアタシのアタマをなででくれる。何か言いながらなでてくれているが、お兄ちゃん以外の言葉はあまり理解できない。
「助けて…」
ゆずは言葉を出したが、お兄ちゃん以外に通ずるわけもない。
「ワンッ!ワンッ!」
アタシのせいで吠えるのを止めない。
仕方なくアタシは、その公園を去った。
せっかく優しい人に会うことができても、助けを求めることを伝えられない。
自力で家にたどり着く以外、帰る方法はないようだった。
歩いても歩いても、知らない所ばかり。
体の疲れだけでなく、精神的にもかなり参ってきていた。
日が暮れてきた。また寒い夜が始まる。
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気のせいだろうか。いや、気のせいではない。
一匹の犬に声をかけられた。茶色の大きな犬だ。
「やっぱりおめぇは、おれの声が聞こえるんだな」
犬は僕が話せることを知っている。
「誰かを探しているような素振りだったからな。もしやとは、思ったが…」
「やっぱりってもしかして、ゆずのこと知ってる!?」
「ゆず?さぁな。名前は知らねぇが、チビの嬢ちゃんと少し話した。なんでも犬と話すことのできる飼い主とケンカして、家を出てきてしまったらしい」
ゆずだ!間違いない。
「いつ話したの?」
「かれこれ2時間くらい前か。おめぇんとこに帰りたがってたよ」
「ゆず…そうか。どっち行ったか教えてもらえる?」
「橋を渡って行ったよ。あの体だ。そこまで遠くには行っていまい」
「ありがとう!えぇーっと…」
「名前は特にない。嬢ちゃんからは、おじさんと呼ばれたがな」
少し笑うように答えた。
「ありがとう!おじさん!」
すぐに橋を渡り始めた。杏子にも伝えなきゃだ。
電話をかけながら走る。
もうすぐだ。もうすぐ会えるぞ。ゆず。
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気がつくと、人気のない古い建物の多いところにやってきた。心なしか他の場所よりも暗い。
疲れた。体が鉛のように重い。
ゆずはその場で倒れた。少し休もう。
目を閉じたーーー
何かいる。気配を感じた。
なんだろう。嫌な感じのする気配だ。
ゆずは辺りを見回した。しかし、何も見当たらない。
だが明らかに何かに見られている。危険な、不気味な気配。
鉛のように重い体を起こし、ゆずは逃げる体勢をとった。
気配の正体が姿を表す。犬だ。真っ黒な、手足の長い犬。
ゆずにはすぐにわかった。この犬は味方ではない。
狂気が身を包んでいた。
鋭いキバを見せ、よだれが垂れている。
こいつには犬同士の言葉も通じない。
ゆずはすぐにも逃げたかったが、背中を見せてはいけないと直感的にわかった。
背中を見せれば殺される。
懸命に睨みつけたが、その黒い犬は構わずゆっくりとゆずに近づく。
体が震える。逃げ切れるのか…。
目を合わせ続ける。
「…………」
今だっ!ゆずは全速力でその犬の横を走り抜いた。
黒い犬もその後を追う。
ゆずは走りに走った。しかし、圧倒的に相手の犬が速い。リーチが違う。
それに加え、ゆずはもうすでに体力の限界なのだ。
「こんなところで、死んでたまるかっ!」
ゆずは力を振り絞り走った。
と、行き止まりだ。
振り返るとすぐ後ろに、その犬はいた。
ゆずは頭を下げ、目をつぶった。
殺される!
「ガウッ!!」
「………」
ドサッ。ゆずが目を開けると目の前の黒い犬がいない。
違う。右側に二頭の犬が絡み合っていた。
黒い犬と、もう一匹は茶色の犬。おじさんだ!
「逃げろ!嬢ちゃん!」
「で、でも!」
その瞬間、黒い犬の体が宙へと浮かんだ。
人に蹴り上げられたのだ。
「お兄ちゃん!!」
「ゆずに手出してんじゃねぇぞ!!」
杏子もやってきた。手に木の棒を持っている。
黒い犬が体勢を整え直し、こちらに向かい合う。
こちらは、お兄ちゃんに杏子におじさんの犬。対して黒い犬は一匹である。
形勢が悪いと見たか、黒い犬は逃げ出した。
「ふぅ、人間、ありがとよ」
「いや、礼を言うのはおれの方だよ。おじさんが鼻を利かしてくれなきゃ、ゆずはやられてた」
「あいつはこのあたりじゃ有名な野犬よ。おれ一人じゃやられてた」
おじさんの腕から血が滲み出ていた。
「ゆず!大丈夫か!?」
「ゆずー!!!!」
いつものお兄ちゃんと杏子だ。
ゆずは安心するとその場に倒れた。
「ゆず!?」
抱きかかえられる。
「大丈夫…。…ちょっと、いや、かなり疲れた…だけ…」
「ごめんな!ゆず、ごめんな!」
強く抱きしめられた。
温かい。お兄ちゃんの体がこんなに温かかったとは…。
どれくらい眠ったのだろう。
気がつくと、家のクッションの上で寝覚めた。
誰もいない。
「お兄ちゃん…」
ほどなくして、家の鍵の音がする。
「ただいまー」
「あ!ゆず!目覚めてる!」
ゆずは尻尾をバタバタさせた。
体中が痛くて、歓迎しに行けない。
「あはは。ゆず無理しなくていいぞ」
「お兄ちゃん…!」
何か違うニオイがする。お兄ちゃんでも杏子でもない。
「!?」
「よう、嬢ちゃん」
「おじさん!」
腕には包帯が巻かれていたが、元気そうなおじさんがそこにはいた。
「お礼も兼ねて家に呼んだんだよ。ゆずのことも気になるっていうしさ」
「おじさん、ここで住むの!?」
「いや、おれは家での生活はもうゴメンだ。野良の方が性に合ってる」
と、ゆずは思い出した。
「お兄ちゃん!仕事は!?」
「あぁ、仕事な。とりあえず映画の仕事は断ったよ」
「え!?」
「代わりの犬もいたようで、そこまで問題ないってさ。ちょっと怒られたけど…」
「でも、いいの?仕事しないとお金が…」
「いいんだよ、ゆず。もういいんだ。仕事は、おれ、ちゃんとやるよ。ゆずは、働かせたくて飼ったんじゃないんだ。おれはお前にこうして側にいてほしいだけなんだよ」
アタシは映画の仕事がなくなったことは嬉しかった。スケジュールを聞いたがとても体力が保ちそうになかったからだ。
「あ、でもね、お兄ちゃん…」
「ん?」
「アタシ、実は仕事好きなの!色んな人に可愛がられるし、お兄ちゃんと外出られるし」
「へ、そうなの?」
「あの時はコスケの話もしてたから、なんか勢いで言っちゃっただけで…。だからお兄ちゃん……アタシのマネージャーやって!」
「うーん…」
どうやらこの前のアタシの言葉をそのまま受け取ったお兄ちゃんには、予想外のアタシの発言だったらしい。
「よし、わかった、ゆず。おれ、一つ考えてたんだよ」