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 彼は自分のことを「島津」と名乗った。

「島津さんですか」

「そう。島津義久の島津な」

 は? と小夜は首を傾げる。自己紹介にしては、なんだかおかしな言い方ではなかろうか。

「えーと、義久、っていうお名前なんですか」

「はあ? なに言ってんだよ、俺の名前は薫だよ」

 島津は目を剥くようにして小夜を睨みつけた。ただでさえ目つきが悪いのに威嚇するような視線を投げられるのも意味が判らないが、この常識知らずが、という口調であるのも意味が判らない。

「そうじゃなくて、島津は島津義久の島津、ってことだよ。わかるだろ、島津義久。薩摩の戦国大名で、島津の十六代当主だよ。秀吉の九州征伐に降伏して九州統一は果たせなかったけど政治力の高さで徳川政権まで生き延びて……」

 長々と島津義久についての解説は続いたが、小夜はすぐに納得して、うんと頷いた。

「わかりました」

「わかったか」

「つまり、島津さんは歴史オタクなんですね」

 ずばりと指摘すると、島津は身体ごとたじろいだ。

「なんでわかる」

「なんでも何も」

 判らないほうがどうかしている。

「で、本名は、島津薫さん、っていうんですね」

 小夜の確認に、島津はいかにもつまらなさそうな顔をした。渋々、という感じで頷く。

「まーな。せっかく島津なんていう立派な姓を持ってるんだから、親もそこは気を廻して義久とか貴久とか義弘とか、そういう名前をつけりゃいいのによ。そう思わないか?」

「普通一般的に、戦国大名の名前をわざわざ息子につけたいとは思いませんよ。薫、っていい名前じゃないですか。外見に似合わず可愛くて」

「可愛い言うな」

 途端にふてくされ、島津はむっつりと腕を組んだ。なるほど、きっとこれまでの人生で、さんざん名前をからかわれたのだろう。可愛いと言われることに、コンプレックスがあると見た。

「じゃあ、どうしてあんなにも可愛らしいウサギの姿をしているんですか」

 世の中には千差万別の職業が溢れているが、あれほど成人男性が「可愛い」と言われ続ける仕事もそうはあるまい。にょん吉くんは少々性格が特殊だが、それでも、キモ可愛い、という方向ではなく、子供にも女の子にも素直に、わあ可愛い、と言われる外見をしているのだ。

「仕事だよ、仕事。やりたかねえんだよ、俺だって」

 島津が肩を竦め、放り投げるように言う。チッと舌打ちしてそっぽを向く態度の悪さはにょん吉くんの時とまったく同じだが、この姿だと違和感がなさ過ぎて、ただのチンピラにしか見えない。

「でも、自分から応募するとか、申し込むとか、そういうことをしたんでしょ? マスコットキャラの中の人って、どういう風に決めるのかよく知りませんけど。よっぽど時給が良かったんですか」

「時給じゃねえよ、時間外労働だよ。多少の手当てくらいしかつかねえんだよ。余計にやってられっかよ」

「時間外労働?」

 首を傾げて問い返すと、島津は再びスーツのズボンのポケットに手を突っ込んで、周りをキョロキョロと見回した。一瞬、自分の後ろにある資料館のドアをちらっと見たが、すぐにそこから顔を逸らす。

「こんなところじゃ落ち着いて話もできねえ。サ店にでも行こうぜ」

 お茶に誘うにしては乱雑な言い方でそう言って、小夜の返事も待たずにすたすたと歩きだす。ついてくると信じ切っているのか、振り返って確認することもしなかった。

 小夜は少し迷ったものの、結局、歩く島津の後を追って足を踏み出した。どちらにしろ時間を潰そうと思っていたわけだし、このまま中途半端なのも落ち着かない。島津はナリが大きくて、ガラも目つきも悪く、態度はチンピラそのものだが、不思議とまったく警戒心は起きなかった。

 小夜は意外と、にょん吉くんのことが嫌いではなかったらしい。



          ***



 入ったのは、古戦場公園を出て少し歩いたところにある、コーヒー専門店だった。

 構えは小さく、深い色の木の造りも古びていて、軒先から下がった看板がパタパタと風に揺れているのが少々物寂しいような感じがする店だ。今どき流行りのカフェからは程遠く、常連客しか来なさそうな雰囲気が濃密に漂っていて、小夜一人ではとても入ろうとは思わなかっただろう。

 それでも、一歩店内に入ってみれば、静かでゆったりと落ち着いていて、どっしりとした内装や木のテーブルがどこか懐かしさを覚えさせるような、良い店だった。ふんわりとコーヒーの良い香りが鼻腔をくすぐる。カウンター内ではマスターらしき中年男性が穏やかに微笑して客を迎え、その背後には、ひとつひとつ柄も形も異なる綺麗なカップがずらりと並んで出番が来るのを待機していた。

「素敵なところですね」

 椅子に座って正直に感想を述べたら、島津はどういうわけか、むっとしたように眉を寄せた。

「あのな」

「はい?」

「こういう店に女を連れてくる男ってのは、エラソーな顔をしてコーヒーについてのウンチクを語りたがるやつが多いんだ。そうすりゃ女がうっとりしてソンケーしてくれると思い込んでるんだよ。そんな顔してそういうことを言うと、そのテの馬鹿が図に乗るからやめておけ」

 自分で連れてきておいて、なぜそんな忠告をするのか。不条理な性格である。大体、今の島津ほどエラソーに語る男の人を、小夜は見たことがない。

「島津さんはウンチクを語らないんですか」

「俺がウンチクを語るのは、歴史についてだけ」

 それはそれで困ったものではないかという気がする。

「歴史のウンチクで、女の子はうっとりしてソンケーしてくれます?」

「ドン引きされるな、大体」

 でしょうね……。

「だからコーヒーを語るだけで女にモテようなんて浅ましい考えを持つ野郎は嫌いだ。コーヒーの味やらコクやらを知るよりは、日本史を知るほうがずっと為になるのによ」

 そうかな。どっちも、実生活ではあんまり役に立たないという点では、同程度じゃないのかな。むしろ年号を知るよりは、美味しいコーヒーの味を知っているほうが、心が豊かになれそうだ。

「だけどファミレスの泥みたいにくそまずいコーヒーを飲むよりは、どうせなら旨いコーヒーを飲みたいという気持ちは判る。よって俺はコーヒーのウンチクは語らないがこの店に来る。決して女にいい顔をしたいためじゃない。わかるか?」

「はあ、まあ、判りました」

 にょん吉くんが、けっこう面倒くさい人であるということが。

「だから、役場の連中ともよく来るんだよ」

「は?」

 問い返す小夜に、島津はスーツの内ポケットから取り出した名刺を、放るように無造作に差し出した。

 ──島津薫、の名前の横には、町役場の名前と、「広報課 係長」の肩書きがついていた。



 手にした名刺を見て、島津の顔を見る。

「……島津さん、おいくつですか」

「三十二」

「その年齢で係長なんて、すごいですね」

「小さい役場だから、そもそも人手が不足してんだよ。係長なんてのは体のいい雑用係だからな、体力のあることが最優先基準なんだ」

「そんなバカな」

 もう一度名刺に目を落として、ふと思う。

 役場の広報課、町おこし企画、武将隊、そして歴史オタクの係長……

「ひょっとして、あの古戦場を町の観光スポットにして武将隊をつくろう、と考えたのは」

「俺」

「…………」

 なるほど、ものすごく納得した。町のお偉いさんが考えたにしては、武将隊のキャラ設定がいちいちマニアックだなとは思っていたのだ。

「いいアイディアだっただろ」

「……まあ、そうですね……」

 結果として成功しているのだから、それは認めるべきなのかもしれないと思って同意する。ありがちだ、と思ったことは黙っておこう。

「でも、俺の想像以上に武将隊がウケてよ、これはいいなって上司の鼻息が荒くなったんだよ。だったら、もっとあの古戦場についての理解を深めるように資料館を充実させたり、あそこであった戦いについての詳細な説明文を石碑にしたりすりゃいいのに、それじゃ若い子は興味を持たんだろ、って一蹴だよ。もっと年齢層を広げるために、町のマスコットキャラの着ぐるみを作って子供と保護者を取り込もう、ときた。ウサギだぞ? ピンクのウサギ。武将隊はともかく、ウサギはまったく関係ないだろ、戦国時代にはよ。そう思わないか?」

「うーん……まあ、そうですね」

 確かにウサギは関係ないかもしれないが、石碑もあまり町おこしの一環にはならないと思う。それで喜ぶのは一部の歴史オタクだけなんじゃないかな。

「けどまあ、俺がこの企画の責任者だし、上司命令だしな。しょうがねえから、着ぐるみを製作する会社に、発注をかけたんだよ。なんつーか、設計図みたいなもんを送ってさ。形とか、色とか、サイズとか、細かく指定するわけだ」

「はあ……そりゃ、そういうのがないと作れないでしょうからね」

「でもそもそも気乗りのしねえ仕事だったからさ、ちょっと適当だったんだよな。だって別に問題ねえと思うだろ、普通。あんなもん、中に人が入れりゃそれでオッケーなんだから。だからまあ、ろくろく見直しもせずにFAXしてさ」

「適当に、何をしたんです?」

「中に入る人間の参考サイズを書く欄によ」

「はあ」

「うっかり、自分の身長書いた」

「…………」

 小夜は口を噤み、まじまじと向かいの席に座る島津を見る。座っていても、他の人より頭ひとつかふたつは飛び出している身長は、おそらく、百八十センチは間違いなく超えている。下手をすると百九十に届くか、それさえも超えるくらいかもしれない。

 つまりどう贔屓目に見ても、「標準」とは言い難い。

「あっちもよ、ちょっと変だなと思うとか、本当にこれでいいんですかと確認するとかすりゃいいのによ。バカ正直にその寸法通りの着ぐるみを作ってきやがって」

 言いがかりである。あちらは真っ当に注文通りの仕事をしたに過ぎないのだから。ちょっとは変だなと思ったかもしれないが、今どきは、いろんな着ぐるみがあることだしね、と思ったのだろう。多様なニーズに応えてこそ厳しい消費社会を生き残れるというものだ。

「仕上がった着ぐるみが届いてビックリだよ。俺しか入れるやつがいねえんだもん」

 それはそうでしょう。

「はじめは着ぐるみ専用のバイトを雇う予定だったのに、あまりにも入れる人間が限られるっつって、募集も打ち切りになってよ。なんでか、俺がやらされることに」

「なんでも何も」

 それは完全に、自業自得としか言いようがないではないか。

 だからにょん吉くんは、いつもあんなに不機嫌だったわけだ。悪いのは自分、と判っているから、怒りのやり場がないのだろう。でもそれは自業自得なんだけどね?

 島津は、はあーと深いため息をついた。

「そんな次第で、毎週日曜は時間外労働だ。なんで俺がそんなことしなきゃいけねえのか、意味がわからねえ。そう思うだろ?」

「どちらかといえば、意味がわからないのは島津さんですよ」

 きっぱり言い切ったところで、我慢ができずに噴き出してしまった。お腹を押さえて笑い転げる小夜を見て、島津は不満げに唇を曲げていたが、やがてその口元をゆるりと緩め、自分も少しだけ笑った。

 にょん吉くんの無邪気な笑顔とはまったく違うが、それはそれで悪くなかった。



          ***



 そのようなわけで、ちょっとばかり本当の意味での「中味」を知ることになったピンクのウサギは、次の日曜日にはすでに当たり前のようにベンチに座る小夜の隣にどっかりと陣取る存在になっていた。

 そして小夜も、うっかりその状況を容認してしまっていた。やめてくださいよその格好でナンパするのー、と役場の法被を着た男性が困りきった顔で注意をしてきた時は申し訳ないなという気がしたが、考えてみれば小夜が悪いことをしているわけではない。

「うるせえ、今は休憩中だ。楽しくお喋りしてて何が悪い」

 相変わらず、にょん吉くんは理不尽なほどに堂々と居直っている。

「その姿でお喋りするのがダメなんでしょ! 人間の時に好きなだけお喋りしてください」

「人間だとナンパだと思われるだろう」

「ナンパ以外のなんだっつーんです」

「ゴチャゴチャ言うと、頭だけ脱ぐぞ」

「子供の夢を木端微塵にする気ですか! 中がこんなんだと知れたら、もう金輪際誰も近づいてくれなくなりますよ!」

「そりゃいい」

 せせら笑ってから、にょん吉くんはずいっと男性に詰め寄り、凄む声を出した。

「おう阿部、この間、残業を代わってやった恩を忘れたか。お前のミスも俺が尻拭いしてやったんだろうが。ヒラの分際で係長に立てつくたあ、いい度胸だな」

 可愛い顔して、言うことはかなりえげつない。

「こんなところで上下関係持ち出すの、やめてもらえません?! 俺だって、着ぐるみに慣れない素直なバイト学生を指導したいんですよ! ああもう、わかった、わかりました! 休憩中だけは見逃してあげますから、仕事になったらちゃんとやってくださいね!」

「俺はいつでも真面目に仕事してる」

「ウソつけ!」

 どうやら法被の青年は、役場における島津の部下という立場らしいのだが、言うことはわりと遠慮がなかった。そりゃあ、毎回こんな上司に振り回されていれば、礼儀だのなんだの細かいことは言っていられないだろう。気の毒に。

 彼は最後にくるりと小夜のほうを向くと、

「こんな人ですけど、頼みますね。悪い人じゃ……いや悪いところはいっぱいあるんですけど、根っからの悪人ではないですから。すみません、お願いします」

 とぺこぺこ頭を下げて言った。何を頼まれて、何をお願いされているのかよく判らない。

「……なんか、誤解されてません?」

 小走りに去っていく青年の後ろ姿を見ながら小夜がそう言うと、にょん吉くんはどこか明後日の方角に顔を向けて、「そうかあー?」ととぼけた声を出した。

「それより、ストーカーのほうはどうだ」

「だからストーカーじゃないって言ってるのに……相変わらずですよ」

「このまま逃げ廻ってて、それで解決すんのかよ」

「うーん……」

 小夜はあやふやに唸り、顔を上に向けた。

 もうそろそろ諦めてくれないかなあ、と青く澄んだ空を見上げながら思う。

 学生の頃から長いこと付き合ってきた恋人に対して、まるで他人事のようにそんなことしか考えない小夜は、やっぱり冷たい人間なのだろうか。

「……もうすぐ春ですね」

 内心とは関係のないことをぽつりと漏らすと、隣から、「そうだな」と愛想のない相槌が返ってきた。

「早くあったかくなるといいですね」

「お前俺を殺す気か。今でも暑いのに、これ以上気温が上がったら死ぬぞマジで」

「そんなこと言って、真夏になったらどうするんです?」

「トンズラする。やってられっか」

 まさかの逃亡宣言である。にょん吉くんの辞書には勤勉と忍耐の文字はないらしい。

「でも春になると、ここは本当にいいんですよ。あちこちに桜が植えてあるから、殺風景な古戦場でもその時ばかりはピンクに染まった楽園みたいになって」

「そうだな」

「たくさん人も集まってみんなでわいわいお花見して」

「そうだな」

「以前は資料館の隣にひときわ立派な桜があったんですけどね」

「ああ、そうだな、あったな」

「なんで知ってるんです? その桜、数年も前に切り倒されたのに」

「え」

 小夜がまっすぐ顔を向けると、にょん吉くんがしまったというように手を口に当てた。せっかく不動の笑顔の被り物をしているのだから、何もリアクションしなければバレないのに、これでは狼狽しているのが丸わかりだ。

 にょん吉くんは、態度は悪いけれど、嘘をつくのはものすごくヘタだった。

「島津さん」

「俺はウサギだ」

「どっちでもいいです。……島津さんは、この場所のことをよく知ってますよね?」

「そりゃ、まあ、仕事だから」

 ごにょごにょと言って、もぞもぞとピンクの巨体が身じろぎする。ニコニコ顔が何もない虚空に向けられた。きっと、この中では目線がフラフラと泳いでいるのだろう。

「仕事以前に、よく来てたんじゃないですか? 町おこしの目玉にする前、一般人はあまり来なくても、歴史オタクにとってここはけっこう魅力的なところだったでしょう? たとえばあの慎ましい資料館なんかも」

「…………」

 にょん吉くんが黙り込む。小夜は淡々と質問を続けた。


「──私の祖父と、知り合いだったんですね?」


 何かを考えるようなしばらくの沈黙を置いて、にょん吉くんはようやく小夜の方に向き直り、情けない声を出した。

「……なんでバレた?」

「なんでも何も」

 けっこうバレバレでしたよ。



          ***



 いきなり小夜に話しかけてきたこと、資料館のドアの前に立っていたあの様子、そして歴史オタクとくれば、推測される結論として出てくるものは一つしかない。

 島津は、祖父のことも、小夜のことも、はじめから知っていたのだ。

「学生の頃から、俺はあの資料館の常連でよ」

 にょん吉くんはすっかり観念したらしく、訥々と語りはじめた。

 離れた前方では、武将隊が賑やかにチャンチャンバラバラと戦いを繰り広げている。女の子たちが歓声を上げ、子供たちはちらちらと後ろのウサギを気にしているようだが近づいて来ることはしなかった。彼らは彼らなりに遠慮してくれているのかもしれない。

「役場に就職してからも、休みにはよく来てた。ヒマだしな。それで、職員をしてたじいさんとも、けっこう仲良くしてたんだ。あの人も相当なマニアだったからな、いろいろと情報交換をしたり、本の貸し借りをしたりして」

 そうか、にょん吉くんが最初から口にしていた「じいさん」というのは、小夜のお祖父さん、という意味ではなく、彼にとっての呼び名であったのだ。

「それでまあ、話のついでに、じいさんの個人的なこともちょっと聞いてたりしたんだよ。女の孫がいて、昔からよくこの場所に連れてきてた、とか。……その孫の家庭があんまりうまくいってない、とかそんなことも」

 にょん吉くんがもごもごと濁すように言うので、つい、くすっと笑ってしまう。祖父は決して口が軽いほうではなかったし、そもそも自分のことを話すのは得意なほうではなかったから、きっとそれだけ、この相手に心を許していたのだろう。

 それに、「あんまりうまくいってない」とは、かなり本質を薄めた表現だ。あんまりどころか、小夜の家庭環境は年々、悪化して行き詰まっていく一方だった。居場所のなくなった孫娘が、仲の悪い両親の顔を見たくないばかりに、ほとんど祖父の家に居着いてしまうくらいには。

 ──小夜にとって、祖父だけが、唯一の家族だったのだ。

「写真とかも見せてもらったりしてよ。孫は本当にいい子でねえって、じいさん本当に楽しそうに話してたぞ。その時のじいさんがすげえ嬉しそうな顔をしてたから、俺もなんとなく、写真の顔を覚えてた」

 それで、この場所で小夜を見つけて、話しかけてきたのだ。毎週日曜になるとぼんやりベンチに座り、興味のなさそうな顔で武将隊のショーを眺めている、「じいさん」の孫を心配して。

 着ぐるみとしてのルールを破っても。

「…………」

 小夜は、亡くなった祖父が、二十代の島津に自分の写真を見せて、楽しげに口元を綻ばせているところを想像した。ちっとも難しいことではなかった。少なくとも、父と母が笑い合うところを想像するよりは、よっぽど簡単だった。

 喉元に、熱いものが込み上げる。もうその人はこの世にはいないこと、もう二度とあの優しい声で自分の名前を呼んでくれることはないことが、今さらのように身に染みて、喪失感がじわじわと押し寄せてくるようだった。

 祖父が亡くなった時に、涙はもう出し尽くしたと思っていたけれど、枯れるということはなかったらしい。

「……もしかして、この古戦場をこんなに賑やかにしてくれたのは、祖父のためですか」

 祖父は、あの資料館で働いていた頃、よく言っていた。


 もうちょっと、ここに人が来ることになるといいねえ。

 せっかくこんなに楽しい場所なんだから、知らないのはもったいないと思うんだけどねえ。

 ここには歴史のロマンがあって、悠久の時を越えた想いがあって、綿々と紡がれてきた物語があるのに、このまま廃れて消えてしまっては、あまりにも寂しいよ。

 いつかたくさんの人が、この場所を訪れてくれるようになるといいね、小夜。


 小夜の問いを、にょん吉くんはふんと鼻で笑い飛ばした。

「そんなわけあるか。せっかく広報に配属されたから、自分のやりたいことをやろうと思っただけだ。こんなもんを着ることになるとわかってりゃ、何が何でもこんな企画は潰してたのによ、くだらねえ」

 それからぽつりと付け加えた。

「……企画が通って実現するまでに時間がかかりすぎて、結局、じいさんには見せられなかったしな」

 にょん吉くんの顔は、小夜ではなく別のほうを向いている。ここにはいない誰かの面影を追うように。

 武将隊の元気なかけ声がする。女の子たちの甲高い応援の声がする。子供の笑い声がする。たくさんの拍手が響く。本当の戦国時代とはかけ離れていても、そこには楽しく幸せな空気がある。

 祖父がここにいたら、きっと嬉しそうにニコニコと笑って、この様子を眺めていただろう。

「──ありがとう」

 下を向いて、両手で顔を覆った。

「…………」

 にょん吉くんから返ってくるものは何もない。

 しかし少ししてから、言葉の代わりに、ずっしりとした重いもので、頭を叩かれた。

 ぼこん、ぼこん、と反動がくる。

 痛い。

「……あの、にょん吉くん、痛いんですけど」

 下を向きながら訴えたら、「なに?」とにょん吉くんが心外そうな声を出した。

「女はこういうのを喜ぶと聞いたことがあるぞ」

「暴力を振るわれることをですか。その知識は歪んでます」

「どこが暴力だ。泣いてる女の頭を手の平で『ぽんぽん』と撫でてやるのは、壁ドンにも匹敵するほどの萌えシチュエーションだと」

「撫でてないです。叩いてます。『ぼっかんぼっかん』というくらいの衝撃です。重量を考えてください」

「ワガママな女だな」

「それだから女の子にモテないんですよ」

「うるせえ」

 さらに「ぽんぽん」が強まった。痛い痛い! と悲鳴を上げたが、ウサギはお構いなしだ。

 けれど、痛みのせいではなく、瞳から涙がぽとりと零れた。


 ──望んでいたのは、きっと、これだけのことだったのに。


「……にょん吉くん」

「おう、なんだ」

「私、これから裕也と話して、ちゃんと決着をつけます」

 小夜がそう言うと、ウサギはぴたりと手の動きを止めた。




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