後編
猫は箱の中に閉じ込められたままです。誰も出してはくれません。
猫は外の世界へ出たかった。
猫は恨みます―――自分を閉じ込めた者たちを、自分を救わない者たちを。
恨んで恨んで、猫は恨みだけを抱きます。
箱を開けた時猫は外にいる者たちを喰い殺してしまうかもしれません―――生きていても死んでいても。
そのとき猫はもう猫ではないのかもしれません―――憎しみが猫を変えました。
だから箱の中に猫はいないのかもしれません―――いるのは別の何か。
いいえ、元々猫は本当に箱の中にいたのでしょうか。
最初に入れたのは本当に猫だったのでしょうか。
開けて確かめることはできません―――実験はまだ途中なのですから。
開けて確かめることはできません―――確かめるのが恐ろしいから。
箱の中にいるのは、なぁに?
納得はしないが交際は認めざるを得ない、そう決めたのは昨日。今から十数時間前の話だ。
だが、今その決意を覆しても良いだろう。
「駄目だよ」
隣で物騒な顔をする弟を夏音はいさめる。その心中も読んでのことだろう。
さて、この状況を説明するために話は十分ほど前に戻る。
本来約束があったはずの日曜日。突然ボイコットされた一樹は夏音に連れられて買い物に来ていた。誕生日の近い両親の誕生日プレゼントを買いに行こうと誘われた。しかし実際はなんだかんだ言って不機嫌になっている一樹を気遣ってのことだろう。本当に気配りのできるよくできた姉だ。約束を自分から反故にする誰かとは雲泥の差だ。
そんなことを考えながら、姉と二人久々のデートに機嫌を良くしていた一樹。そんな彼の気持ちをあざ笑うかのような悲劇――主に一樹にとって――が起こる。
ショッピングモールを二人で歩き、そろそろ昼食にしようかと話していたそのとき、二人の視界にあり得ない光景が飛び込んできた。
姉の年下の恋人である獅童東――姉の話だと一樹より一つ年上らしい――が、一人の女性と一緒に仲良く歩いていたのだ。
その顔は一樹が今まで見たことがないほどの笑顔。あんな顔ができたのかと。いつもああしていれば少しは印象も良くなるのにと思うほどの。
そういえば、あの顔はよく考えてみれば見たことがある。それは決して一樹に向けられたものであるはずがない。確かあのときも一緒にいる女性に向けられていた。そして今も。隣にいる女性はいつか見た女性。一樹が東と姉の交際を否定する一番の理由。今まですっかり忘れてしまっていたが。
手をつなぎ歩く姿はまさに恋人。他に何と呼べばいい。
相手の女性は明らかに東よりも年上だ。おそらく夏音よりも。二十代の半ばくらいだろうか。大人らしい落ち着いた雰囲気と優しげな瞳が印象的だった。柔らかく長い髪が歩く度に木の枝のように揺れている。常識的な目で見ても美しいと言える女性だ。先日会った一ノ瀬藍奈は卑しげで危ない色気のある誘惑する女といった雰囲気だった。しかしこの女性はまったく違うタイプだ。強いて言うなら聖母。優しく微笑みかければ泣きわめく子供も一瞬で笑ってしまいそうな、包み込むような暖かさ。木漏れ日のような、居心地の良い臭い。
だが、どんな魅力的な女性であっても浮気は許せない。大体今日は元々自分との約束があったはずだ。それを破って何をしているのかと思えば浮気とは。一樹は文句を言おうと一歩足を踏み出し口を開こうとする。
しかし、その足と口は彼の腕をつかんだ姉によって止められた。
何で止めるんだ。許せないはずだろ、と視線だけで訴える一樹。しかし夏音の方は黙って首を横に振る。関わってはいけないと言うように。
だが夏音が止めるまでもなく、二人はこちらへ向かってくる。
よく見ると東の服装もいつもとは違う。いつもは若者らしさを主張したような服と大量のアクセサリー。それも必ず黒い服を着ていた。
しかし今の彼はワイシャツに上からトレーナー、下はジーパンと地味。アクセサリーは耳のピアスだけ。髪もいつものようなセットされた髪ではなく下ろしただけのもの。普段の彼とはまったく違っている。
これは一体誰だ、と疑問に思ってしまうほど。しかし考えてみればあの女性と一緒にいる時の東はいつもあのような格好をしている。だから最初は別人かと思ってしまう。
双子の兄弟でもいたのだろうか。いや、彼には血のつながった家族はいないはずだ。血縁がいたとしてもすでに縁を切っている。
ならばやはりあれは獅童東なのだろうか。
困惑する一樹をよそに、二人は近づいてくる。人が行き交う大通り。間違いなく一樹と夏音の存在に気づいているはずだ。しかし、東は何も言うこともなく、視線すら合わせず、一樹の横をすり抜けていった。
そのまま二人は何事もなかったかのように去っていく。それが十分前の出来事。
今、二人の姿はどこにもない。一樹にも自分の恋人にすら声をかけず、近くにあった駅へと入っていった。
一樹は憤慨し、同時に彼を理解しようとしていた自分を恥じる。結局あの男は姉にふさわしい人間ではなかった。理解する価値もない。
今すぐにでも追いかけてその顔を殴り飛ばしたい。しかし姉がそれを許さない。自分の恋人の浮気現場を見たというのに、彼女の態度は平常と変わらない。落ち着き、興奮する弟を諫めようとしている。
どうしてと、姉に問いただそうとさえする一樹。そんな彼を止めたのは今彼が殴ろうと誓った相手だった。
人混みを分け、こちらに向かってくるのは先程自分たちを無視して去っていった獅童東その人だった。
その姿は先程と変わらない。平常時の彼とはまったく違う服装。そして現れた方向も彼がつい先程消えた方向だ。つまり同一人物であることは完全に確定されたということだ。
東は一樹の心中など知らんと言わんばかりに堂々と二人の正面に立つ。そこに罪悪感など感じはしない。本当に感じていないのだが。
謝るわけでもなく、ただボリボリと頭を掻く。どうやら髪型が気に入らないらしい。
一方の夏音もそれが当然と言わんばかり。
「もう良かったの?」
「ああ、突然出張に行くことになったから見送りに来たんだ」
「それが約束を破った理由? あなたらしいね」
つまり彼の中での優先順位は一樹との約束よりもあの女性の見送りの方が上だということだ。そしてそれは彼としては至極当然のことであると。
以上は一樹が理解したこと。そして怒るべきところでもある。
だがまず彼の怒声第一声が飛び出す前に東が口を開く。
「とりあえずどっか店入らないか? 腹減ってるんだ」
「服はそのままでいいの?」
「良くない。適当に着替える」
正直趣味ではない服装のまま動くことは勘弁したい。思っていた以上に『彼』と自分の趣味は合っていないのだと今の生活を始めてから東は初めて実感しすることになった。
さて、東の弁解は一樹に通じるのだろうか。東自身にその意志がないのかもしれないが。
永遠を求める人間がいる。永遠を受け入れない人間もいる。どちらが不幸なのか。どちらが愚行であるのか。
少なくとも九鬼飛蛹にとって永遠とは終わりなき拷問であり、心を腐らせる毒でしかない。
循環されない命はやがて澱み、やがて来るのは絶望。終着点のない人生には光さえ差さない、果てなき地獄。
命とは有限だからこそ、そこに価値がある。永遠に咲き続ける花を愛でる人間はいないように。失えば取り戻すことはできない。だからこそ大事にする。それは子供でもわかる真理。
だが、彼らはそれが有限であることを知らない。こんな話がある。幼稚園に通う子供に人が死んだらどうすると訊いたところ、子供は大まじめに「リセットすればいい」と答えたそうだ。彼らの中ではリセットすれば人間は生き返るという狂った真実が存在していた。ゲームの世界と現実の違いを理解していない子供はそれを失う恐ろしさ・悲しさを知らない。それどころか自分の命以外は無価値だと言わんばかりに、他者を傷つけ命を奪うことを快楽と感じる大人へと成長する。
飛蛹は永遠を求めない。命の価値を知らない人間にはなりたくないからだ。そして永遠の囚人となることを彼は恐れる。普段、彼を知る者なら恐れるものなどあったのかと驚くだろう。しかし、飛蛹は冷静で無表情な顔の中に様々な感情を隠している。ただ彼はそれを表す意思がない。だからそう見えてしまうのだ。
それに気づく人間は少ない。だが飛蛹自身はそれで満足している。すべての人間に自分を理解してもらおうとは思わない。ただ一部の者たちだけがそれを知ってさえいればいい。
『猫』とは永遠を生きる者だと思われがちだ。だがそれは間違いだと飛蛹は思う。『猫』は生きても死んでもいない。そして意志すらない。彼らは操者である『猫使い』の命に従うのみ。魂がなければ肉体は維持できない。彼らは肉の器に燃え尽きかけた魂を閉じ込め存続しているに過ぎない。
つまり『猫』とは魂を現世につながれた囚人であり、『シュレディンガー』は囚人をつなぎ止める看守であるのだ。
そのため『猫』は人間以外の生き物で作られるのが暗黙のルールとなっている。さらに通常使役する『猫』は一匹だけである。その意味では獅童東はそのルールを破る異端者だ。東自身は「今更僕たちが道徳観を気にしても仕方がないだろ」と言って気にしないが、それでも彼を嫌う同業者は多い。同じ支部にいる同僚は彼の過去を知っていることからも直接批判するようなことをする者はいない。
また、彼の実力が『猫使い』の中でもトップクラスであることは皆が認める事実だ。それに『シュレディンガー』内の規則はほとんどが形になっていないものであり、最低限のことしか決められていない若い組織だ。それもあって東を裁くことはできない。また暗黙であって、それははっきりと規則で定められているわけでもない。
人間も『猫』になり得るからだ。
飛蛹は基本的に『猫』への愛情がない。生者でなくなった時点で彼にとってそれは「物」でしかない。死者も同じだ。彼にとって死んだ後の肉体はただの物体に過ぎない。死者への供養や思いこそ持っても、肉体に対する関心はなくなる。
だから意志を持たない『猫』は彼にとっては動く死体とたいして変わらない。厳密に言えば違うことも重々承知しているが、それでも意志の疎通ができないそれに生前の思いを抱くことはできない。
物だから戦わすこと、壊れることに躊躇はない。だから彼の『猫使い』としての戦闘能力は高い。
同じ『シュレディンガー』でもその思考は人それぞれだ。『猫』をどう扱うかは個人の自由であり、それを束縛する規則は存在しない。
飛蛹は東の決意と過去を数少ない友人として、親友として見守ってきた。だから親友の行動に文句は言わないしその理念を馬鹿にはできない。だが、そんな苦しい生き方を選んだ親友になぜ、と疑問を抱かずにはいられない。
もっと楽に生きる方法はあったはずだ。しかし彼はあえて茨の道を選んだ。この先救いなど見えぬ道だ。しかしなぜ、と尋ねる前に、飛蛹自身その答えを予想できた。
己の罪を刻みつけるために、大切な人の心を守るために。贖罪と庇護のための人生。あの忌まわしい事件が起きてから一年ほどは仕事と「彼の生活」にだけ打ち込み「自分」のための人生を捨てていた。そのうち自分自身すら見失ってしまうのではないかと危惧するほどに。
だからそんな東が恋人を得て、本来の自分を取り戻してくれたことに飛蛹は喜び、彼の恋人に感謝した。未だに「彼の生活」と「自分の生活」の二重生活を続けているが、それでも『自分』を保つ術を覚えた彼にあの頃の危うさは見当たらない。
『猫』になった者に意志はない。それが通俗であった。故に飛蛹もそういうものだとして受け入れてきた。そして『猫』になった者は二度と戻らない。すでに生の資格を失った彼らが生き返ることはありえない。
だからこその悲劇もある。そして『シュレディンガー』が世の中の人々から嫌われる原因の一つでもある。
だがその通説があるからこそ、そういうものだと納得できる。だから任務を恙なく行える。だからこそ、彼の存在は飛蛹にとって忌まわしい存在でしかない。
「そんなに怖い顔をするなよ。久しぶりだってのに」
飛蛹の嫌悪に満ちた視線を揚々と受け止めている男。飛蛹にとっては一ノ瀬藍奈と同じくらい忌まわしく、その存在を許せない。名前を呼ぶことさえ厭うほど。
だから今その人物を目の前にした飛蛹の機嫌は最悪と言っていい。東や飛蛹より数歳年上に見える外見。しかし彼が現世に滞在している時間は倍以上。
生きていないのだから歳をとるはずがない。死んでいないのだから動かないわけがない。しかし自らの意志を持ち動いている異例の『猫』。それが彼、番匠龍間だ。
その名前さえ本名かはだはだ疑問だ。何せ彼がまだ生者であった頃のことを知る者はほとんどいない。
世界でただ一人、意志を持った『猫』だ。なぜ彼だけがそうなったのか、他の『猫』にもその可能性はあるのか。解明はされていない。ただ、多くの支部は事件解決の優先と自分たちの保全のために、彼だけを特例とし、『猫』は元に戻らないという結論を出した。根拠も何もない、経験だけがそれを物語っていた。
そうでなければ、自分たちのしてきたことが否定されてしまう。自分たちは、何を殺してきたのかと。
唯一の特例となった龍間はもう一人の特例・一ノ瀬藍奈と共にこの支部で飼われている。
「昨日群青とこの坊やが来たが、こっちには挨拶も抜きで帰りやがった。他に新入り候補もいたらしいが」
「死体に話しかける馬鹿はいないだろ」
それが死体でなくてもだ。
『猫』は死んでも生きてもいないのだから生き返ることも死ぬこともない。半永久的に存在する。それでも彼らを殺す方法は存在するのだが。もし繰者が先に死んだ場合、残った仲間がその『猫』を『殺す』ことになっている。操り手を失った『猫』が悪用されないようにするため。そして『猫』自身が危険な力を秘めているため、その暴走を食い止めるために。
それでも残された『猫』自身が自ら問題を起こすことはあり得ないとされてきた。なぜなら彼らは意志を持たないから。だからこそ、龍間の存在はそんな常識に不安を与えていた。そしてその不安は現実のものとなる。それはまた別の話。
生死のない『猫』は普通に殺してもまず死なない。たとえどんなに切り刻まれようが、燃やされようが、彼らは死なない。
その性質を利用され、龍間のもっぱらの仕事は藍奈の相手だ。
死んだ恋人を思いセックスにふけることで安心感を得ようとする。しかしそれが終わり相手が恋人でない事実に気づけば否定するように相手を殺してしまう。そんな狂った一人恋愛を彼女は数十年続けている。なぜか恋人を失ったその日から彼女の身体は時間を失ってしまった。『猫』のように死なない訳ではないが、歳をとることをやめてしまった。だから外見こそ二十前後の彼女も、実際は阿部よりも年上だ。その原因はやはり解明されていない。ただ、人の心が肉体にも影響を与えた。そうとしか言いようがない。
飛蛹からすれば愚かとしか言えない行動ではあるが。しかもそれに他人を巻き込むのだから話にならない。
ただ悲劇の主人公を演じて自分を慰めているだけだと東は言っていた。彼は弱者と認めない弱者が、被害者面をして何をしてもいいと思っている人間を激しく嫌う。『シュレディンガー』たちとて元は被害者だ。それでも戦う側についたことで『加害者』にもなった。それを受け入れない人間がするべき仕事ではない。それが東の理論だ。
彼自身が演じている人間だからなのだろうか。それとも彼女が弱かった人間だったからなのだろうか。自分たちがそうである癖にと指摘されることをひどく嫌う。だがどんなに弱くても、大切な人間を見捨てることが東にはできなかった。
彼女の求める『彼がいる世界』を演じることを選んだ。そこに後悔はない。
だからこそ事情を知る人々は彼を心配する。ただ一人道化を演じることを選んだ彼を。人は卑怯だとも弱者だとも呼ばない。どんなに間違っていたとしても、それでしか生きられない人間もいるのだと。
それをあざ笑う人間もいるだろう。だがそれでも彼の決意は変わらない。最後の時まで。
「藍奈の機嫌が良くてね。俺が外に出ても問題がない」
「誰もそんなこと訊いていない」
飛蛹は話をする価値もないと言わんばかりだ。
龍間は藍奈の相手をするため彼女と共に部屋からほとんど出ない。藍奈自身あの部屋から出ることを禁じられている。必要以上の被害を防ぐためだ。
つまり化け物同士なら傷つけ合ってもかまわない。そういうことだ。
一見ゆがんだ摂理だが、これが一番最善だ。人でない者のことまで気にかけていられない。
そんな扱いを受けているにもかかわらず、龍間は現状に不満を持つことはない。いつも飄々とした態度で、またそれが飛蛹の嫌いなタイプに相当するのだ。よって二重に嫌われていることになる。
もちろん嫌われている当人もそのことは知っているだろう。しかし知っていてなお声をかけてくるのはもはや嫌がらせでしかない。実際その通りなのだが。
「そういえば黒猫が現れたそうだな」
「だからどうした」
そう言いながらも飛蛹自身危惧していた。東の世界が再び壊れるのではないかと。
しかし東自身は周りが驚くほど平静だった。ただ淡々と仕事をこなし続けていた。
「坊やがつぶれないか心配しているのだろ?」
クールに見えて実は友達思いだよね。
その言葉と同時に飛蛹が手に持っていた刀を抜き去る。そして次の瞬間にはその切っ先は龍間の首に突きつけられている。
飛蛹のように『猫』に戦いを任せるだけでなく自身も戦う『猫使い』は少なくない。飛蛹の場合、それはこの刀だ。若くして達人の域に入っている。やろうと思えば今この瞬間、龍間の首を寸断することも可能だろう。
切っ先を向けられながらも龍間は飄々とした態度を崩さない。彼にとって死は恐れるものではない。肉体をいくら損傷しても死ぬことはない。痛みは存在するはずだが、長年数え切れないくらい死んだ――厳密には死んでいないのだが――ためか、その感覚すら狂っているようだ。彼にとって死ぬほどの傷は蚊に刺された程度でしかない。
それも彼は望んで役目を遂行している。彼は自らサロメに捧げられるヨハネの代理を引き受けたのだ。
理由は一つ、彼女を愛しているから。他の男を求める女のために自らを捧げる。恐ろしく非生産的で愚かな行為だろう。
しかし、結局は本人が決めること。どんなことであろうとも、本人が決めたことに他人が口出しするべきではない。それが自分に実害が及ばない限り。
飛蛹はその境遇に同情も共感もしない。それはどこか親友の行動にも似ているが、それでも相手が違うだけでこんなにも抱く感情が違う。
結局人はそういうものだ。自分勝手だ。だから簡単に理念が崩れてしまう。だが、それが人だ。自分にとって大切な人間と他人では価値がまったく違う。だから評価も変わる。ただそれだけ。
「自分のことでもないのに他人のために泣き、苦しむ。人間って不思議だな」
自分勝手で傲慢かと思えば他人のために命を賭ける人間もいる。生前は人間だったくせに、すでに人間ではないと言わんばかりだ。
「そう言うおまえもそうじゃないのか」
愛する女のために自分を捧げる。それは他人を想っての行動ではないのか。
すると龍間はおかしそうに、ただあざ笑うかのように否定する。
「違うね。本当に彼女を想うのならこんなことやめるべきだ。結局癒されるのは一時的。それが終わればその分だけまた苦しむ。俺がやってるのは麻薬を与えているだけさ」
彼女を救いたいからやっているわけじゃない。彼女に肉体を捧げる、その行為こそが目的。
彼女とつながるために、幻想であっても彼女はその間だけは自分を愛してくれる。そして最後に本当の自分を見て殺してくれる。
愛する人に愛され、殺される。なんてすてきなことなのだろう。
「狂ってる」
ただその一言で切り捨てた飛蛹。しかし龍間はおもしろくておかしくてたまらない。
過去の残像にすがることでしか生きていけない。そのくせ自分勝手に傷つけ、傷つき、恋人の名前を呼び続ける姿は、なんて愚かで醜いのだろう。なんて愛しいのだろう。
「おまえの語る愛は愛じゃない」
「愛情の伝え方なんて人それぞれさ。別に相手に伝わることを求めているわけじゃない」
愚かしく無様にもがく姿。それこそが愛しい。
「彼女の苦しみもがく姿が好きなんだよ、俺は」
龍間は悪魔のようにほほえむ。いや、こいつは死に損ないではなく本当の悪魔なのかもしれない。人が苦しみもがく姿を見て楽しんでいるだけだ。
こんな悪魔に見初められた藍奈もある意味哀れなのかもしれない。しかし代理をもとめたのは彼女自身だ。同情の余地はない。
怒る気も失せ、飛蛹は刀を鞘に戻す。
「東はおまえらと違う。堕ちはしない」
「そんな確証どこにあるんだ? 俺としてはなってくれた方がおもしろいけどな」
睨みつける飛蛹の視線などそよ風に等しいと言わんばかり。
「俺は東を信じている。それだけだ」
「信じることは自殺行為に等しい。裏切られた時の痛みは計り知れない。あの坊やもそうだったじゃないか」
「それは信じた人間と裏切った人間の責任だ。信じることは自由だ。それで落胆させられても、俺は信じたことを後悔はしない」
「若いねぇ」
それがおもしろくてたまらない。
「化石じじぃはとっとと成仏しろ」
「え? そこまで言うほどじゃないんだけど! まだ百年もやってないよ!」
「十分だろ。おまえが腐り落ちた日には犬の餌にしてやる」
犬が食あたりしそうだが。
「やめて! 本気でやめて! 本当にやりそうだから!」
ちなみに龍間は大の犬嫌いだ。生前嫌な思い出があるそうだが。
初めて龍間の余裕が消え、半泣きになった珍しい光景であった。
場所は変わって街中のパスタ専門店。東・一樹・夏音の三人が昼食の場に選んだ店だ。理由は何がいいと訊かれた東がパスタがいいと言ったため。それだけ。
ちなみにそれぞれが注文したのは東がカルボナーラ、一樹がナポリタン、夏音が和風パスタだ。
すでに東は着替えを済ませている。この店に入る前に近くの洋服店で買い、そのまま着替えた。アクセサリーも同様にシルバーショップで買った。それでも髪型だけはどうしようもなかったので不満げだ。
たかがそれだけのために買うのはもったいないのではないかと一樹は思ったが、支部に勤める人間、特に『シュレディンガー』は給料が良いらしい。そこら辺のサラリーマンの倍は簡単に超すらしい。しかも実戦が多ければその分手当が出る。
わずか十八歳で月給数十万。世の中の人間を馬鹿にしているのかと文句を言いたくなる。
しかしそれでも国直属の機関であること、危険が伴うことを合わせれば仕方のないことでもある。
だがおごってはくれないらしい。高給取りのくせにケチだ。
目の前のパスタを食べきるまで東は何も話してはくれない。さらに食後の珈琲とデザートまで注文する始末だ。
本当に説明する気があるのか怪しくなってきた。それでも腹が減っては戦はできぬ。一樹も黙って食事に専念するしかなかった。
デザートも食べ終わり、満足げに珈琲を飲む東。反省の色はゼロ。慌てるそぶりもなければ余裕満々。弁明する気など見られない。
いや、実際に本人にその気はないのだが。何せ悪いことをしたなどまったく思っていないのだから。
東にとってあれは日常であり、浮気でもない。あのときの自分は自分ではなく『彼』なのだから。
説明しようとしない東はその必要性どころか一樹を怒らせている自覚すらない。だから訊かなければ答えはしない。
「さっきのあれ、何だ?」
「何だ、とは?」
ようやく出せた質問を逆に返されてしまう。からかっているのではなく本気で言っているから質が悪い。
怒鳴りつけたいのを抑え――姉にやるなと言われているしここは店の中だ。さらに一度怒鳴ればそれ以上話にならないことも自覚している――努めて冷静に言う。
「さっき、女の人と歩いてたよな?」
「ああ」
まったく動じない。
「誰なんだ?」
「おまえに関係あるか?」
そう言われてしまえば終わりだ。つまり東にとって説明したくないこと、もしくは一樹に話す価値はないと判断した。東の中での自分の立ち位置の低さに少々落ち込む一樹。どうやら自分で思っていた以上に東のことを気にしていたようだ。だから勝手に落胆している。
東はなぜ一樹が落ち込んでいるかもよくわかっていない。だが、その落ち込みように何か悪いことをした気分になってしまう。それだけならいいのだが、その隣に座る恋人・夏音が視線をこちらに向けている。曰く、「ちゃんと説明しなさい」とのこと。
一樹一人なら放っておく東も、さすがに彼女に言われれば動かざるを得ない。
ため息を一つ吐く。
「…姉だよ」
最初何を言っているのか一樹は気づかなかった。だが、東の視線が面倒くさそうな目をしながらも自分に向いているのに気づき、説明してくれる気になったことを理解した。
「あの人は僕の姉」
「姉って、肉親はいないって」
この間言っていたはずだ。正確には自分に関わろうとする血縁は一人もいないと。
「言った。あの人は姉のような人。僕はずっと姉として慕ってる」
この非社交的を素で通すような人間が、誰かを慕うなど想像もできない。彼女がいることにすら驚くのだから。
だが、きっとこれは一樹が知りたがっていた獅童東という人間。その本質に近づくもの。聞かなければこれ以上先へは進めない。
一樹は口出すことをやめ、神妙に東の話を聞く。
「前に言った僕の後見人であった人。名前は神梛群青。あの支部に所属する『シュレディンガー』で、その実力・人望共に認められた非の打ち所がない人物だった」
東がここまで他人を褒めるのも珍しい話だ。しかし実際東にとって群青は何でもできるヒーローだった。自分を救ってくれた以上に。
「おまえが見た女性は彼の恋人。千歳緑さん。大学卒業後通訳の仕事をしている。『シュレディンガー』云々についてはまったく知らない」
別に珍しい話ではない。むしろ、一族ぐるみでもなければ家族であろうとも秘密にするのが支部の決まりだ。東は唯一夏音にだけは話したが、それは彼女に隠し事をしたくないという気持ちと、彼女なら口外しないだろうという信頼があったからの話だ。
緑は恋人の仕事について何も知らなかった。もしかしたら危ない職業に就いていることを感じ取っていたかもしれないが、口にすることはなかった。
「二人は僕が引き取られた時にはすでに同棲していた。緑さんも僕を引き取ることに反対しなかったらしい。むしろ弟のようにかわいがってくれた」
思えばあの頃が一番幸せだった頃だろう。
何でもできて格好よくて頼りがいがあって、でも時々シェイクスピアの引用をして無駄に格好つけたりした群青。
優しくて慈愛に満ちあふれていた、人を疑うことを知らず善意の塊であるような緑。
二人は東にそれかで彼が持っていなかったすべてを与えてくれた。
東にとって彼女は汚れなき聖母だったのだろう。そして群青は何でもできる救世主だった。彼らは神であった。
だが、どのような世界にも聖人君子など存在はしない。残酷にも。
「世界がきれいなものばかりでできてるわけじゃないって、理解していた」
はずだった。だって生まれたときから僕はそこにいて、そこから救い出されて、だからこれ以上汚いものはないんだって。だからこれ以上傷つくことはないんだって。
『もう大丈夫だから』
『ずっと一緒だよ』
その言葉を信じた。彼らは決して僕を裏切らない。間違いなんてないと。
だけど、
「幸福を知らなければ不幸を嘆くことはない。だが、一度幸福を知ってしまえばそこから突き落とされた時の痛みは知らなかった頃とは比較にならない」
絶望を知った。
「三年前に彼が姿を消し、その一年後にこの世を去った。緑さんはその事実を受け入れられなかった」
信じない、嘘だ、あり得ない。
拒絶と否定の繰り返し。それでも残酷な現実は変わらない。食事も摂らす、夜も眠らない。そんな生活をしばらく続けたある日、当然のごとく倒れた。
「二日ほど意識を取り戻さなくて、僕はまた家族を失うのかと不安になった。幸い三日目に彼女は目を覚ました。だが、」
その瞳に東は映っていなかった。
目を覚ました緑は最初に見た東を亡くした恋人の名前で呼んだのだ。
「言い間違いや見間違いのたぐいではなく、彼女は僕を彼と思いこむようになった」
写真やビデオに映る東は判断できるのに、目の前にいる時は東を東と認識することができない。
一樹は物も言えない。それは何と残酷、絶望的なことなのか。
求めたのは代わりではなく本物。名前を付けられた人形をかわいがるような行為。だけどそれは歪にゆがんだ愛。
「あれから二年経つが何も変わっていない。彼女は未だに恋人の不在を知らない」
そして東はその求めに応じた。
あなたが望むなら『彼』の言葉を、『彼』の姿を、『彼』の癖を、すべて。
「この二年、僕は『獅童東』と『神梛群青』の二重生活を送っている。支部の同僚や夏音はそのことを知っている」
一樹は理解する。夏音のいつもと変わらぬ態度の意味を。自己顕示の理由を。
東と二人の間にあった絆をどれほどのものだったかは想像するしかない。だが神梛群青の消失が二人にどれだけのショックを与えたのかは、他人が想像できる範囲を超えている。
だが同時に不愉快でもあった。自分だけ悲しみから逃げ、東にそれを押しつける緑の存在が。
「あんたはそれでいいのか」
この先彼女は東を見ることはないだろう。それは東にとって二重の絶望だ。大切な人を失い、それに悲しむ暇もなくただ支えるだけの人生。それが幸福だとは思えない。
彼女だけが悪い訳じゃない。だが、間違いを正すことも現実を受け入れることもせず他人にそれを押しつけるのは間違いではないか。
憤りを感じさえする。
「間違ってるだろ、そんなこと」
「間違った形であろうが、あの人が幸せであれるなら僕はそれでいい」
言い切る東に怒りの矛を向けてしまう。
「誰も幸せになれるわけないだろ‼」
怒鳴ってしまえば話は進められない。そうわかっていたはずなのにもう怒りは止められなかった。それは千歳緑と、それを許す東に。
これ以上怒鳴らない内に一樹は立ち上がり二人に何も言わずに店を出て行く。会計のことなど忘れていた。ここが店であることさえ。怒気だけを残滓のように残し、一樹は去っていった。
一方、残された二人は平静だ。
「あいつ、結構いい奴だな」
さすがは夏音の弟だ、と育て方を褒める。しかし夏音は笑わない。
憤りを感じていたのは一樹だけではなかった。
「それでいいわけ、ないよね」
それは今まで聞くことだけに徹していた夏音の言葉だった。
「それでいいのは東だけ。周りの心配なんか無視して、自分だけが悪いみたいな顔をして」
そう、それで満足しているのは東自身だけ。誰も救われていない。むしろ彼を心配する者たちは緑へ憤りを感じている。
それすらも東は一人で背負ってしまう。
「あなたを心配する人はたくさんいる。あなたの親友も支部の仲間も一樹も、そして私も。あなたが緑さんのことを悪く言われることを嫌うことはよく知ってる。でも、それは当然。あなたを好きな人はあなたを傷つける人を嫌いになる。だから私も緑さんは嫌い。あなたの人生を奪う人だから」
誰にでも公平な夏音は誰かを嫌うということをほとんどしない。一樹も家族も知っている限りいないのではないだろうか。
そんな夏音が唯一嫌う人物、それが千歳緑という人だ。
「緑さんを嫌う気持ちを止められるほど私はできた人間じゃない。緑さんだって完璧な人間じゃない。誰かを傷つけてしまうことだってある」
そう、東の絶望は彼が完璧だと思っていた二人がそうではなかったこと。簡単に崩れ落ちてしまうほど弱かったことに落胆し、絶望した。この世界に絶対の救いなど存在しないのだという現実を突きつけられた。
人は弱い。自分の力だけで立ち上がれる人間ばかりではない。それを思い知った。
依存していた大木はもろくも朽ち果て、東は今度は自分の力だけで大木を守らなくてはならなくなった。今まで二人に寄りかかって生きてきた。それが逆転して、何の力もなく倒れようとする一人を支えることになった。
一人で生きていくことの苦しさを知った。支え合うことを教えてくれたのは夏音だった。
出会いはたいしたものではない。『猫』がらみでもない、国からたまに頼まれる面倒ごと、テロリストに発展した新興宗教の鎮圧事件。それに巻き込まれた被害者の一人だった。
その新興宗教団体の幹部に大学の友人がいたらしく、詳しい事情を聞くことと、相手がしつこく夏音を勧誘していたため護衛をしたことがきっかけだ。
最初は『シュレディンガー』という未知の存在に戸惑いながらも、それを理解するほど頭の良い女性だったのが幸いだった。しばらく一緒にいる内に話をする程度には親しくなっていた。
つきあいの中で夏音は東の二重生活を知ることとなる。そのとき彼が一人で生きようとしており、そこに苦痛を感じていることに気づいた。
人は支え合って生きるものだと当たり前のことを彼は知らなかった。それを根気よく教えた。やがて互いに恋愛感情が芽生えたのだが、そのとき気づいたのが、東の中にあったもう一つの苦しみだった。
東は緑にあこがれに似た恋慕の念を抱いていた。それは決して本人にも群青にも明かすことはなかった、おそらく本人すら自覚もないほど小さな想い。自分の中に違う男しか見てくれないもう一つの苦悩を彼は抱えていた。
それが開花しなかったのは東自身恋愛経験がなかったためだろう。初恋とも言える想いは気づく前に朽ち果ててしまった。
もう一度人を信じること、信じてきた過去が不幸ばかりではないことを教えた夏音。それは東の新たな救いであり、今度は支え合うのだという新たな方法を見つけ出すに至った。
「東、今あなたは独り?」
「いや」
かつては答えられなかった問い。今ははっきりと答えられる。
「僕は一人じゃない」
その答えに夏音はようやく満足そうに笑った。
たとえ間違った形であっても、逃げずに進むことを選んだ。たとえいつかそれを後悔する日が来たとしても、この時間がなければと思うことはない。あの人の罪ごと引きずってでも歩こうと決めた。
だから、今はこれでいい。
一樹は一人住宅街を歩いている。店を飛び出してしまった一樹は他に行くあてもなく家に帰るしかなかった。
時間が経てば煮えたぎった頭を冷めてくる。自分の行動を恥じることもある。実際、一樹は言い過ぎた勘があった。
他人のことに口出すことは親切ではなくお節介でしかないこともある。ならあれは東の問題であって一樹が口出しすることではない。
それでも怒るのはのけ者にされた気がするから。おまえは関係ないのだと言われた気がするから。
自分勝手な男だと思っていた。他人を思いやることなどしないのだと思っていた。しかし蓋を開けてみれば、他人のために自分の人生を捨てようとする愚かなほどの愛情の持ち主だった。
これでは自分だけが馬鹿だったようだ。姉が帰ってきたら連絡先を聞いて謝ろう。理由はわからないがとにかく謝らなければなるまい。
とぼとぼと歩く一樹の目の前、自宅まで数百メートルという場所に、一人の少年が立っていた。
いくら考え事をしていたたからといって、これだけ目の前にいて気づかないとは、自分の不注意力に再び落胆する。そのうち電柱にぶつかるのではないだろうか。
少年はそこから歩くわけでもなく、ただ道の真ん中に立ち、じっと一樹を見つめている。
少年は白のブラウスに黒の短パン、それをサスペンダーでつないでいる。頭の上にはおしゃれなシルクハット。ゴシック系とでも言うのだろうか。ファッションに興味がない一樹では判断できないが、第一印象はいいところの坊ちゃんだ。しかし髪の色が異色だ。男としては長い黒髪が尻尾のように一房後ろに垂らされている。それだけならいいのだがその髪の先っぽだけが白い。尻尾の先だけ白い黒猫を思わせる風貌だ。
「こんにちは」
少年は明るく挨拶をする。
「あ、ああこんにちは」
思わず一樹もつられて挨拶する。少年は一樹を待っていたかのようだ。
「えと、もしかして俺に何か用?」
「うん」
少年はほほえみ、首を大きく縦に振る。女性なら愛らしいと叫ぶほどのかわいらしい少年だ。しかしなぜか一樹は彼に嫌な気配を感じてならない。
「何の用?」
「あなたは復讐が認められると思う?」
質問に答えず、逆に質問される。つい数十分前にも同じことがあったが。
「ねえ、答えて」
答えを促す少年に、仕方なく一樹は答える。
「復讐は新たな復讐しか生まない。その意味では認められない」
「模範的な答えだね。では個人的には?」
「するだろうな。相手によるかもしれないが、許せないほどのことをされて黙っていられるほど俺はできた人間じゃない」
たとえ間違っていたとしても。
ああ、そうか。彼はこんな気持ちだったのかもしれない。間違いを抱えて生きる困難を、彼は受け入れたのだろう。
「復讐を止める権利は誰にもない。だが、権利を振り回さず走る覚悟があるのならどうするかわからない」
もし復讐の刃が親しい人に向けられれば、その人にどんなに非があってもかばうだろう。結局人はそういう風にしか生きられない。
黙って一樹の答えを聞いていた少年。その少年が突然歌うように言葉を紡ぐ。
「【ああ、このあまりに固い肉体が融けて、流れて、露となってしまえばいい! さもなければ永遠の神の掟が自殺を禁じてさえいなければ! おお、神よ。神よ! この世の営みのすべてがなんと物憂く、陳腐、平板、無価値なものに思えることか】」
声変わりもしていない少年特有の高い声。青少年合唱団を思わせるような美しい歌声。突然の長台詞に一樹は驚いてしまう。慣れていない者なら当然だ。そして残念なことに一樹にはそれがハムレットの一文であるという知識すらない。
舞台の上では煌々としたすばらしい台詞も、一歩そこを離れ、理解のない者の前では格好つけの戯れ言にしか聞こえない。
一樹はしばし呆然と少年を見下ろす。何を考えているのかさえわからない。
少年は恥じることもなく、台詞を言い切るが、それを理解していない一樹の様子にため息を吐く。何となく一樹も馬鹿にされていることはわかる。
「ハムレットも知らないの、お兄さん。もう少し勉強した方がいいよ」
「悪かったな。演劇やオペラに興味はなくてね」
一樹の言い分に少年はやれやれと首を振る。無知な人間の言い訳だと言わんばかりに。
初対面の人間にこんな態度をされる覚えはもちろんない。一樹は一度収まりかけていた怒りを再び抑えつけながら、努めて平静を装い尋ねる。
「で、君は何しに来たのかな~?」
すでに抑え切れていないようだが。
一方少年は余裕だ。一樹の顔をのぞき込みクスリと笑う。
「お兄さんをすてきなハムレットに招待してあげるよ」
どういう意味か、と訊く暇はなかった。
ずぶり、と一樹の足下が地面に沈み始めたのだ。いや、正確には一樹の真下にある己の影の中へ。
「なっ」
それ以上言葉を発する暇もなく一樹の身体はどんどん影の中へ沈んでいく。何かをつかもうとするがつかむ物が見当たらない。地面をがりがりと爪でひっかき止めようとするがアスファルトの地面に数本の線を刻むことしかできない。
一分も経っていないだろう。一樹の姿はどこにもなく、取り残された影に波紋が広がっていた。そしてその影もやがて消えていった。
「さて、次は招待状を送らないとね」
渚一樹の誘拐が発覚したのは日が暮れた頃だ。支部に一通の手紙が届いた。
休日に呼び出しを食らった東も、今回だけは文句の一つも言わない。部長室には阿部と稲垣、珍しく飛蛹、さらに珍しく龍間がいる。挨拶をする暇もなく東は阿部に差し出された一通の手紙を奪い取るように手に取る。宛先はない。すでに開封済みだ。
手紙にはこう書かれていた。
『親愛なるクローディアスへ
あなたにふさわしい舞台を用意しました。そこにふさわしい役者も。
是非おいでください。栄光ある父の眠る場所にて、お待ちしています ハムレット』
「くだらない」
その一言で切って捨て、手紙もびりびりと破いてしまう。誰もそれをとがめはしない。
「僕はクローディアスほど年は食ってない」
「東、そういう意味ではないと思うけど」
稲垣が一応突っ込むが無視だ。
手紙の内容はつまり、「復讐の舞台を用意しました。人質もいます。絶対に来てください」こういうことだ。
「クローディアスとはぴったりな言葉じゃないか。この場合悪役はこっちになるのかな?」
また空気を読まない、読む気もない男・龍間が茶化す。
クローディアスとは『ハムレット』に登場する敵役だ。兄である王を殺し、王座と王妃を手に入れ、ハムレットの復讐の標的となった男。兄を殺した弟にはぴったりな名前だと言っているのだ。
「番匠、いい加減にしろ。今は遊んでいる暇はない」
珍しく威厳ある態度を見せてくれる阿部。事態はそれだけ深刻だということだ。
基本的に嫌われ者の『機関』はちょっとしたミスを叩かれることが多い。もし『シュレディンガー』がらみに一般人を巻き込んで、最悪死なせてしまえば立場を危うくするだろう。
一樹は事情を知ってはいるがまだ一般人だ。そんな彼を『シュレディンガー』の私怨に巻き込んだと知られれば、どうなるかわからない。
阿部はどちらかというと、一樹自身の身の安全を心配している。だが東は一樹に危険はないと言う。
「人質は無事でなければ意味がない。それにあいつが殺したいのは僕だ。あいつじゃない」
もちろん万が一ということも考えられるが、それでも東はそう思わない。おそらく一樹を攫ったのは理由があってのことだ。生きていなければ意味がない。
「それで、どうするんだい?」
どうすると言われても、することは決まっている。
龍間の決まり切った質問に阿部もはっきりと答える。
「一樹君を救出する」
「場所はわかるの?」
手紙には父の眠る場所と書かれている。なら父とは『彼』のことしかあり得ない。
「『影堕ちの地』他にはないだろ」
あの忌まわしい事件が起きた場所。今は確か立ち入り禁止となっているはずだ。
「とにかく一刻を争う時だ。馨君、すぐに動ける戦闘員に連絡を」
「その必要はない」
指示を始める上司を東が止める。
「僕が一人で行く。相手の要求はそれだろ」
手紙には東を招待することしか書いていない。それ以外に対しては何も記されていない。
相手の望みを考えれば、東だけに来て欲しいのだろう。
しかしわざわざ相手の要求に応える必要はない。
「危険だ。何を仕掛けているかもわからないのに」
「何があってもあいつだけは僕が殺す」
そう誓っていた。殺したいのは相手だけじゃない。僕自身もだ。
「下手に要求を拒めば人質に危害が及ぶ危険もあるんだろ?」
相手を怒らせた場合、どうなるかは想像できない。阿部もそれには反論できないでいる。
「なら僕が一人で行くのが最善だろ。心配しなくても負けるつもりはない」
それだけ言い部屋を出ようとする東の前に、それまで壁にもたれかかっていた飛蛹が立ちふさがる。
「飛蛹、まさかおまえも止める気か?」
親友なら僕の気持ちも理解しているだろう。なのに、止めようとするのか。
だが飛蛹はゆっくりと首を横に振る。
「一つだけ訊きたい。奴を殺そうとするのは過去の罪を打ち消すためか?」
あの罪から生まれた新たな罪。それを消すことでなかったことにするつもりなのか、と。
だが東は当たり前のように答える。
「償いになるわけがない。なかったことにするつもりもない。ただケリをつけに行く。それだけだ」
罪が忘れられてもなかったことにするつもりはないと。
その答えに飛蛹も満足げだ。
「なら俺が止める理由はどこにもない」
最初からその答えをわかっていた。だがそれでも確認したかった。罪だけで動いているわけではないのだと。
東にもそれは伝わっていた。ニッと笑うと右手を挙げる。飛蛹も同様に右手を挙げる。二つの拳は互いを確かめ合うかのように軽くぶつかった。もう言う必要もない。
「やれやれ、若者は青臭いな」
やはりそれは悪魔の声。龍間は東に近づきその首に軽く手を掛ける。東は抵抗もしない。ただ自分より背の高い龍間を見上げている。
「なかったことにしてしまえば楽になれる。彼女だって覚えていないのだし、今持っている『彼』を処分してしまえば何も残らない。罪なんて背負って生きる方が苦しいに決まっている。この際捨ててしまえばいい」
悪魔の誘惑がねっとりと、蛇のように東の首に絡みついてくる。蛇が目で語ってくる。「楽になってしまえ」と。だが、
「なかったことになどできるはずがない」
東はぴしゃりと言い切る。
「この罪はもう僕の身体の一部だ。今更捨てる気はない。どんな悲惨な過去があっても人は生きていける。忘れることの方が最大の罪だ」
「罪は自覚しなければ意味がない。彼女のようにね」
「無知は罪だ。僕だって彼女を未だに聖人君子だなんて信じている訳じゃない。彼女は罪人だ。だがそれを裁く権利は誰にもない」
「裁かれない罪が許されると?」
「現実だ。おまえがよく言う、残酷な現実のな」
かつて罪悪感と喪失感でつぶされそうになっていた少年はどこにもいない。先へ進むことを決めた。たとえ過去の残骸であっても、彼の行く手を拒めるものは何もない。その意志がある限り、彼は歩き続ける。
やれやれ。
龍間は東の首から手を離す。首にはわずかに痕が残っていた。
「からかいがいがなくなっていくな。まあそのもがく様子が楽しいんだけどな」
「もがくだけじゃ何も進まない。沈むことを止めるだけだ。僕はその先へ行く。おまえの遊び道具になるつもりはない」
今度こそ、東は部屋を出て行った。止める者は誰もいない。
ただ、後は祈るばかり。二人が無事に帰ってくることを。そしてその先に明るい未来が待っていることを。
「あの子たちに、幸多からんことを」
目を覚ました一樹の前に広がっていたのは暗闇だった。いや、よく見れば夜の闇であることがわかった。
風と共に海の臭いが流れてくる。ここは海の近くなのか。
当たりを見回して見るとそこが何かの建物の中であることがわかる。木箱や角材が散乱し、壊れた壁には風通しの良い穴が空いている。天井はそこだけ外したかのように遮ることなく夜景を映していた。
ここは何処だ。少なくとも一樹の記憶の中にこのような風景は存在しない。荒れ果てた倉庫。そう言うべきだろう。
天井もなく壁もほとんどが崩れているため、夜風が遠慮なくすり抜けていく。暖かい季節とは言え、夜の空気は冷たい。ぶるりと身体を震わせる。
どうして自分はここにいるのだろうか。一樹は混乱する記憶をさかのぼってみる。するとそこから出された回答は、奇妙な少年と意味のわからない現象。あのとき俺は影に引きずり込まれた。そして意識を失ってしまった。
普通ならあり得ない状況。謎の少年の正体。本来なら考えるべきことは山のようにあり、同時にもっと慌ててもいいはず。なのに、時間が経てばもう落ち着いてしまっている自分に一樹は少し落ち込む。
これくらいではあまり動じなくなっていることに驚き、それは常人と離れてしまっていることに落ち込んでしまう。これくらいならあり得ると納得してしまう。
ああ、俺の平穏は何処へ消えてしまったのか。
がっくりと項垂れている一樹は後ろに立つ人物にまだ気づいていない。不注意を反省したばかりだというのに。
「そんなに落ち込んでどうしたの?」
一人だと思い込んでいた一樹は突然後ろからかけられた声に驚き、相手を確かめる前に後ずさりしてしまう。壁に背をぶつけてようやく止まった一樹は、声をかけたのがおそらく自分をここに連れてきたであろう少年であることに気づいた。
「おまえ…何で俺を連れてきた」
落ち着きを取り戻しながらまず訊くべき質問。すると今度は少年の方が驚いた顔をする。
「あれ? 意外と落ち着いてるね。もっと慌てるのかと思ったのに」
「残念ながらこれくらいのことでは驚けなくなってるんだよ」
本当に残念なことに。
「ああ、そっか。慣れちゃったんだね。でもそれってもう思考が常人から離れてるってことだよね」
おもしろそうなのは少年だけ。一樹は改めて他人に指摘されたことにより再びショックを受けていた。両手を床に付け、項垂れている。少年はその姿すらおもしろいらしい。
「お兄さん。落ち込んでないでいっそのこと割り切っちゃった方が楽だよ?」
「うるさい。そこまで行く勇気はない」
もはや常人ではなく異常者の集団だ。あれの仲間になるのはさすがに勇気がいる。指さされるのが怖いのではなく、あれと同類であると認識されることにまだ抵抗を感じているのだ。それは彼らを見下したり汚い者と見ているのではなく、東を見ていると思考的にやばい人間の集団にも見えてしまうからだ。異常、というよりも変人の印象があるのかも。
ああしかし、東のことを理解したいと思ったのは本当で、だけどあの集団にまともな思考の持ち主がいるのはなはだ疑問であり、あれと同類にくくられるのは…。
一人で勝手に百面相をしてる一樹を少年は飽きないなぁと観察している。しかしこのままでは話が進まない。すでに招待状は出してしまっているのでいつ来てもおかしくない。
舞台を開くのに役者の用意ができていなければ意味がない。
仕方なく話を切り出すことにする。
「ねぇお兄さん、話を続けてもいい?」
そう言われてはっと事態を思い出した一樹。今自分は拉致されて来たのだ。考え込んでいる暇などなかった。
「僕は御影って言うんだ。よろしくね」
誘拐犯にどうよろしくすればいいのかは疑問であるが。
「もっと最初から質問攻めされるかと思ってたんだけどな。おまえは誰だっとか。ここは何処だっとか。おまえ人間じゃないのかっとか」
せっかくいろいろ答えを用意しといたのに。
ブーブーと口をとがらせ文句を言う様は、悪戯を失敗した子供そのもの。こうして目の前にしていても普通の子供にしか見えない。だが、あの気配だけが人でないことを告げている。
そう、これは東たち『シュレディンガー』が箱を開けた時のような。開けてはならない。しかし開けなければならない。その箱の中身。
「おまえ、『猫』か?」
すると少年は今度こそ本当に驚いたと言わんばかりに目を見開く。
「驚いた。まさか気づくとはね。どうして気づいたの?」
「…東たちが操ってた『猫』と同じ気配がする」
「へぇ、なかなか良い感覚してるね」
生者でも死者でもない者を見分けることができる。
「確かに君の言うとおり、僕は『猫』だよ。ただし誰にも縛られていないけどね」
『猫使い』に縛られていない『猫』、独立した意志を持つ『猫』、どちらも一樹が初めて見る存在。そしてそれがどうして存在しているのか、それがどれほど異常なことなのか、誰にも教えられていない。
「でもおまえはちゃんと意志を持ってる。それに『シュレディンガー』に使役されていない」
東たちが操る『猫』はどれも人形のように、ただ繰者の命令を聞いて動くだけだった。なのに、この少年の姿をした『猫』は自らの意志で動いている。
「どうして…」
「確かに意志を持つ『猫』はそうそう現れない。史上でも僕ともう一人だけだ。きっと僕たち二人だけが異例であって、本来とは違う形なんだろ」
『猫』は意志を持ってはならない。そうでなければ摂理が狂う。苦し紛れに研究者たちが出した結論だ。だが、彼らは箱の中の猫が外の世界を恨んでいることに気づいていない。
「きっと何かの間違いで僕たちは意志を持った。箱の中から外への想いを募らせ、自ら箱を食い破り、外へ出た。もしかしたら『猫』の進化した姿なのかもしれない」
生も死もない存在。それが意志を持てば、それは生者と変わらないのだろうか。変わらぬ扱いを受けることができるのだとしたら、皆がそんな存在になってしまったのなら、生と死の境界とは何なのだろうか。
それは永遠の時を生きることと変わらないのではないだろうか。
「お兄さんは知らないかもしれないけど、『猫』は自然に発生することだってあるんだよ」
一樹は初めて知る事実に驚く。少年の話をすべて信じていいものなのか疑問ではあるが、なぜか嘘をついているようには思えない。
ずるずると彼の言葉に吸い寄せられていく。
「『猫』は生と死の狭間にある者。『シュレディンガー』は人工的に『猫』を作り出すけど、本来は自然に発生する」
それはとても低い確率。死に直面した者、どこかに長い間閉じ込められた者、死を受け入れられずあがきあがき、そこからわずかな可能性を手に取った者だけが『猫』となる。生きてはいられないが、死にたくない。そんな欲求が『猫』を生み出した。
その話を聞いていて一樹もあれ? と首をかしげる。『猫』になる条件、それはまるで―――。
「そう、それは『猫使い』の素質でもある。つまり、生き延びられた、死ぬことも『猫』にもならなかった者だけが『シュレディンガー』になれる」
考えてみれば当然のことだ、東も言っていたことだ。『猫』を操るにはそれに対応した経験が必要なのだと。なら今更驚くことではなかったはず。ただ気づくのが遅かった、それだけだ。
「君は『シュレディンガー』の仕事を知ってる?」
そう訊かれてそういえば何も説明されていなかったなと今更気づく。本当に今更だ。
「『シュレディンガー』の仕事は『猫』がらみの事件の解決。警察が手を出せないものだね。君が遭遇したみたいに『機関』に所属していない、はぐれ『シュレディンガー』と呼ばれる者の制圧。あと政府に頼まれて危険な仕事をしたりもする」
つまりこの御影という少年はあの事件の時から一樹に目を付けていたということだ。
「それからこれはあまり知られていないんだけど、繰者を失った『猫』を処分すること」
繰者を失った『猫』は危険しかなく、即刻処分される運命だ。
「ほとんど知られていないし、『機関』の人間でも一部しか知らないことだけど、『猫』を殺す方法ってのがあってね。それを許された者だけが行うことができる任務だ」
ちなみに、
「僕も実は二年くらい前までとある『シュレディンガー』に飼われていた『猫』でね。僕の飼い主はもう死んじゃったから、僕も処分対象なわけ」
明るく語るが、つまりは処刑宣告を受けたに等しい。
そこで一樹の中に疑問が。
意志のない、人形のような『猫』を殺すことにそれほど抵抗はないのかもしれない。しかし、彼のように人の姿をしていて、しかも意志を持っている『猫』を殺すことができるのだろうか。
それは人殺しと変わらないのではないだろうか。
『機関』が抱えてきた闇。それは一樹が思っていた以上に暗く深い。そして話はまだ終わらない。
「自然発生した『猫』はどうなると思う? 殺されちゃうんだよ」
鎖の付いていない『猫』はその力を振り回し暴走することが少なくない。さらなる混乱も招く。だから一般人に気づかれない内に処分される。
そして、『猫』になるのは動物だけではない。
「もちろん人も『猫』になる。死に切れていない人間にとどめを刺してるんだよ」
それは人殺しと何が違う?
もう一樹は口を開けない。自分が思っていた以上に東たちは深い闇の中で生きてきた。彼らはそこでしか生きていくことができなかった。一度闇を除いてしまった人間はもう元の世界には戻れない。
傷を舐め合い、また傷を共有していく。居場所を守るために新たな傷を刻んでいく。そんなことを、彼らは繰り返してきた。
簡単に理解できる世界であるはずがない。
しかし少年は項垂れる一樹をさらに追い詰めていく。
「ねえ、知ってる? 獅童東の罪」
突然変えられた話題に一樹は不思議に思う。しかしその口調が悪意に満ちていることにひどい不安を感じた。
きっと聞かなければよかったと後悔する。そう第六感が告げているのに、少年を止めることも耳を塞ぐこともできない。
好奇心がそれに勝った。
そしてそんな自分を、心の中で激しく罵っていた。
「彼はね、カインなんだ」
「カイン?」
聞いたこともない。誰かの名前だろうか。
「クローディアスでもいい。いや、そっちの方が適切だね。何せ兄の恋人を奪ったんだから」
「何の話をしてるんだ」
「獅童東、彼はね」
「自分を育てた兄を殺したんだよ」
箱の中にいる猫の生死を箱の外から証明してください。
箱の中の猫を生かしてください。
箱の中の猫を殺してください。
箱の外からでは中の猫は見えません。生きてるか死んでるかもわかりません。
外から観測しても無駄なのです。視線だけでは猫を殺せません。猫は生き返りません。
ならどうすればいいのでしょうか。
それは簡単なこと。
箱の外から猫を生き返らせることはできません。
生きていることを証明することもできません。
なら、殺してしまえばいい。
箱にナイフを一本、ぐさりと突き立てる。
箱ごと燃やしてしまってもかまいません。水の中に沈めてもいいです。
ほら、猫は死んでいます。血がだらだらと流れています。
生きているのなら殺してあげなさい。
死んでいるのなら殺し直してあげなさい。
ほら、猫は死んでいる。証明終了。
めでたしめでたし。
過去の真実は現在をむしばむ毒ともなる。
『猫』になるのは人間も同じ。ならば、それは『シュレディンガー』たちも条件は同じ。
「死を恐れれば『猫』になる。すべてではないけどそれは絶対の条件」
夜風が吹き抜ける倉庫の中。二人だけがそこにいた。
一樹の耳には御影の声しか聞こえない。風が吹き抜ける音も、遠くから流れてくる波の音も、何も聞こえない。
ここは告白の場。舞台の裏側。作られたシナリオを読み聞かせる場所。
「それは『シュレディンガー』も同じ。でも、『猫』になることは彼らにとって最大の汚点」
一度死を乗り越え力を手に入れた彼ら。そんな彼らが再び訪れた死を恐れるなど、『猫』になってまで現世にとどまろうとするなど、恥でしかない。
「でも彼は、神梛群青はなってしまった。最も優れた『猫使い』だと言われていた彼が。それは誰にも想像できなかった」
『猫』になることを『猫化』と言う。『猫化』を始めた者は二度と元には戻れない。そのため殺すことでしか食い止めることはできない。
「たとえそれが仲間であったとしても、『猫化』を始めた者は殺さなければならない。それが『機関』の掟だ」
止めなければ被害が出るだけ。
実際に彼が『猫化』を始めた時、彼を殺す戸惑いが被害を増やしてしまった。『猫』の力を手に入れた彼はその力を暴走させ、当時の『シュレディンガー』や一般人に被害を出した。
誰かが止めなければならなかった。
「そのときその役目を負ったのが獅童東だ」
まだ当時十六歳の少年だった。最も群青を慕い、尊敬していた。本当の兄のように思っていた。自分を救ってくれた神に等しい人。
「一度『猫化』を始めた者は初期段階でない限り死んだときに死体を残さない。理由はわからないけどね」
宗教団体は神の意志に背くからだと言うが、ならなぜそんな存在が自然に生まれたのだ。どんな理由も後付けに過ぎない。結果は出ているのだから。
「暴走を始め一年後、彼は殺された。この場所でね」
この場所とは、その朽ち果てた倉庫、その周辺。この倉庫街が悲劇の場所。一樹は思い当たる。彼らの戦いの跡、それがそのまま残されているのだと。
この破損はその戦いがいかに激しい死闘であったかを物語っている。
東は自分が殺したとは言わなかった。言えるはずもないだろう。自ら大切な人を殺したなどと。
しかし一樹の中に沸いたのは軽蔑や嫌悪ではなく、激しい悲しみ。
大切な人を自らの手で殺すことの恐ろしさ、悲しみ。だが、彼はその役目を他の誰かに渡したくなかったのだろう。自分の手で終わらせることが、彼なりの最後の愛情だった。
(馬鹿だよな、おまえ)
恐ろしいほどの馬鹿だ。こんな方法しか選べない不器用な人間。きっと彼はそれを罪として背負うことを選んだ。自分のせいで壊れた人を守ることを誓った。それが償いとなると思って。
もっと汚い人間なら楽になれただろうに。それすらできないほど純粋で美しかった。だから傷は深かった。
なんてこの世界は残酷なのだろう。
項垂れたまま口を開かない一樹の顔を御影は屈んでのぞき込む。
「どう? あの男の罪思い知った?」
ああ、この言葉で確信できる。この少年の姿をした『猫』は東を憎んでいるのだ。だから彼の過去を話した。一樹が彼を軽蔑するように。
しかし、その思惑は外れている。彼にとってそれは許し難い罪であっても、一樹にとっては違う。だから彼は間違えた。言うべきではなかった。
たとえ今の話が真実であっても嘘であっても、一樹が東の敵となることはもはやあり得ない。それが彼の誤算。
下に向けていた顔を、一樹はゆっくりと上げる。その瞳に宿っているのは決意。
「それが本当であったとしても、俺があいつを嫌うことはない」
もう、決めた。
「それを人が罪と読んでも、俺はあいつを許す。あいつを断罪しようとするのならそれを止める。今それを決めた」
同情なのか哀れみなのか、そんなことどうでもいい。理由など必要ない。ただ放っておけない。それだけだ。
ああ、夏音の言うとおりだ。俺はどこまでもお人好しで世話焼きなんだ。
結局人を本気で憎めない。だが、それでもいい。俺がいいのだと決めたんだから、それでいい。
御影はまったく予想していなかったのだろう。そこが彼と一樹の違いだ。自分が憎んでいる人間は皆に嫌われるとでも思っているのだろう。
自分が中心の考え方。やはり子供と同じだ。人はそれぞれ違うのだと気づいていない。だからこんな失敗を犯すんだ。
目玉が転げ落ちそうなほど目を見開き、次の瞬間、それが怒りに変わる。
何が起こったか一樹はわからない。ただ、再び意識が闇に落ちていったのだけわかった。
夜風に攫われ海の臭いが流れてくる。
二年間、近づかなかった場所だ。あの日以来。
別にこの場所である意味はなかった。ただ事件があった時、発見された彼を追って来たがここだった。幸い人家も遠く、人もいないこの場所が戦いに適していた。
あの後この場所は封鎖された。元々寂れてほとんど使われていなかった倉庫街だ。近所の子供が肝試しに来るくらいしか人が入らない。壊れた建物もそのまま。誰も使わないからそのままにされている。
しかし『機関』の関係者はこの場所を『影墜ちの地』と呼んでいる。あの事件は『御影事件』と呼ばれ、『シュレディンガー』たちにとって戒めとなっている。それまで『猫化』した『猫使い』は存在しなかった。だが、あの事件によって『シュレディンガー』は『猫化』しないという根拠なき定説が崩された。
あの事件で多くの仲間を失った。その事件の加害者である群青を憎む者は少なくない。そしてかつての仲間を容赦なく手に掛けた東を軽蔑する者も少なくない。だが、それ以上に彼らを知る者たちは戸惑いと悲しみを抱かずにはいられなかった。
この二年間、東は好奇と軽蔑の視線に晒されてきた。しかしそれを気にする人間ではなかった。顔も名前も知らない誰かにどんな評価をされても、彼にとっては石ころの戯れ言に等しい。
カタリ、と背負っている棺桶が音を立てる。東自身が動かさなければ動かないはずの中身。だから風の悪戯なのだろう。しかし、東はそう思わない。
「大丈夫。今度こそ終わらせるから」
ただ繋がっているだけで何も入っていないはずの箱。それでも、届くと信じて。
夜闇の中にそれまでいなかった人影が現れる。東よりも小さな影が一つ。それと同時に聞こえてくる歌。
【おお、この罪のおぞましさ、その悪臭は天にも届こう。
人類原初、最古の呪い、兄弟殺しの呪いのかかったこの罪。
祈れない。祈りたいと願う心は意志に劣らず強くとも、
意志よりさらに強い罪が意志をくじく。】
兄を殺し王位と王妃を手に入れたクローディアス。しかし彼は甥によってその罪の告白を迫られ、罪悪感にさいなまれていく。
「この場合、僕が言うべき台詞じゃないのか?」
舞台に招待されたクローディアスはつまらなさそうに言う。夜闇から出て姿を現したハムレットは隠しながらも不機嫌を隠し切れていない。
「どうせ言ってはくれないんだろ? 罪悪感も感じていない弟は」
その顔を見て思わず東は笑う。御影の顔はさらに眉間の皺を深くしていく。
「どうせあいつに何か言われたんだろ? 自分中心の考えしかできないガキは駄々をこねるしか能がないんだな」
「僕は間違ってない」
「そうやって間違っている可能性を考慮しない。自分が真実だとでも思っているのか。所詮人間の振りをして二年のガキはそれしかできない」
東は彼の皮の下にある本当の姿を知っている。あの顔が誰に似せて作ったものなのかも。そういうところがまたガキくさいのだが。
「いい加減、ガキの遊びには飽きてきたんだ。そろそろ成仏しろ」
「地獄に落ちるのはそっちの方だ」
それと同時に戦いは始まる。にらみ合っていた両者が走り出す。
御影の足下から黒い影が東を飲み込もうと迫ってくる。
「阿修羅」
鎖がはじき飛ばされ、漆黒の扉が開かれる。箱の中から召喚された歪な天使が主を抱え空へと飛び上がる。羽毛のない翼では飛べないと思われるだろうが、阿修羅の翼は理を外れている。人一人抱えて飛ぶのも問題ない。
影はそれでもなお二人を追いかける。両側に並ぶコンテナを伝い、空に浮く二人を食らおうとする。
「阿修羅」
東が再びその名を呼べば、阿修羅は骨の翼の先端を襲いかかってくる影へと向ける。骨は元の長さの倍以上に伸び、その切っ先で影を縫い止めていく。影はそれでも縫い止められた部分を切り離し、迫り来る。
阿修羅の翼だけでは防ぎきれない。影は黒い獣となって阿修羅の左翼に食らいついた。ケルベロスの牙にも耐えた骨の翼は、しばらくは耐えたがやがて罅を入れ、もろくも崩れ去った。
人形のような阿修羅に苦痛の表情はない。視界すら隠された彼女の表情はまったくわからない。しかしダメージは小さくなかった。
片翼を失った阿修羅はそれでも主を抱えたまま飛ぼうとする。しかし翼が直接の飛行手段ではないとは言え、失えば能力が落ちてしまう。バランスを崩し、二人は影に引きずられ、地面へと落とされる。
それほど高さはなかったので墜ちたときの衝撃は少なかった。しかし阿修羅は手負い。これ以上戦わせれば再起不能になる。
「阿修羅、もういい。休んでいろ」
ここで『猫』を失うのは痛手だ。通常『猫使い』が操る『猫』は一匹。この一匹を失えば戦う手段はなくなる。少なくとも通常の武器で『猫』は倒せない。
それでも東は阿修羅を引かせる。阿修羅は表情のない顔に戸惑いを見せ、しかし主に従い自ら箱の中へと戻っていった。
再び閉じられた箱。普通ならここで敗北が決まっている。しかしそうならないのが獅童東という異端の『猫使い』だ。
「次はどうするんだい? 君が複数の『猫』を使役しているのは知っているけれど、僕に敵うほどの『猫』がいるのかな?」
御影はかつて使役されていた頃、戦闘力・機能性ともにトップクラスに輝くほど優秀な『猫』だった。それは鎖が外れた今も変わらない。
今も自分に敵う『猫』はいないと自負しているのだろう。
東にはいくつか御影を倒す勝算を持っている。最初から阿修羅では敵わないことも理解している。対大勢戦のために作った阿修羅は一対一の戦いに向いていない。それでもそこら辺の『猫』よりはずっと強いのだが。
勝算はある。しかしどれを使うべきなのか。東はそれを迷っていた。
その間にも御影の攻撃は続く。黒い影は黒い槍となって東に襲いかかる。棺桶で防ぎながらも、東は考え続ける。
それでも、最後に出る答えは変わらない。
避けながら移動した東は、いつの間にか海を背にしていた。逃げ場はない。
「もう鬼ごっこは終わり?」
御影は勝利を確信した余裕に満ちた瞳で東をあざ笑う。
「【この酒を飲み乾せ。これで心中か?】」
ハムレットを気取る黒猫。なら、彼は死んだ父(亡霊)に殺されるのが一番だろう。
東は観念したかのように背負っていた棺桶を下ろす。御影は諦めたのかと思った。
「【あとは沈黙】」
ハムレット最期の言葉と共に東を覆い尽くす影。重量がないはずの影は襲いかかる津波のようにうねり、東にすべての重量をかぶせる。
地面が削れるほどの衝撃。そこにいたはずの東の姿は影につぶされ見えなくなってしまった。
「これで、やっと…」
静寂が戻ったそこで、復讐の完遂に喜ぶ御影。しかし現実の神は復讐者に微笑まない。
東を包み込んでいた影に一線の傷が走る。うねっていた影はその動きを止め、そこを中心に黒い障壁がぼろぼろと崩れ落ちていく。
突然の出来事に御影は驚愕し、影の中から出てくる二つの人影に気づく。
一つは東。そしてその後ろに立つもう一人は―――、
「え?」
御影はその姿の存在を認める。しかし次の瞬間には否定する。そんなはずがないと。
「…御倶梛」
御影を指さしその名前を呼ぶと、後ろに立つ二人目の『猫』は俊敏に主の命に従う。
気づいたときにはもう遅い。困惑している間にすべてが終わってしまう。
阿修羅とは比べものにならない速さ。数メートルの距離を一秒で片付けた『猫』は、その手に持つ鎌を御影の上に振り下ろす。
避ける暇など存在しない。思考すらついて行かない。御影が自覚したときにはすでに彼の身体は赤い絨毯の上に横たえられていた。
違う、絨毯などではない。急速に身体が機能を止めていく。体温など元々なかったのだから気にはならない。しかし体中から血が流れていくのが感じられる。
仰向けに倒れる御影を東と漆黒の『猫』が見下ろしている。
改めて『猫』の姿が見えてくる。
やはりそれは人の姿をしている。こちらは男だが。着ているのは黒い拘束着。囚人などに使われるものだ。両手が使えないようにするためだが先程鎌を振り回した時はどうしていたのか、それすら考える暇もない。阿修羅が目を覆い隠していたのに対し、彼は口元を黒い布で隠している。
だが、拘束着の中に見えるその顔は―――、
「…マスター?」
東にとって彼が神であったのなら御影にとって彼は存在そのものだった。彼がいたから自分が存在する。自分を生み出した父であり自分のすべて。
神梛群青。死んだはずの人間がそこにいた。
目の前の現実が示す答え、それは、
「おまえ、マスターを自分の『猫』にしたのか」
それ以外考えられない。自然発生した『猫』を使役した人間など他に存在しない。ただ試したことがなかっただけかもしれない。
「なんで、どうして…」
『シュレディンガー』が『猫』になることは最大の恥辱。それなのにどうして。
「彼がそれを望んだから」
東は静かに答えた。
「彼は死ぬことを望まなかった。死にたくないと。ならそれをどんな形でもかなえようと思った」
殺すことが救いだと思った。だけど、彼は最期まで死を拒んだ。
「最初はあんな人でも死は怖かったのかと落胆した。だが、今は違う。あの人は、僕や緑さんのために死にたくなかったんだと」
自分が死ねば二人が悲しむ。それが嫌だったのだと。
「本当のことはわからない。だが、僕はそう思ってる」
美化しすぎだと一樹は言うかもしれない。他人のために怒ったり泣いたりする奴。最初はどうでも良かったけど、今はそばにいてもかまわないと思える。
御影に今あるのは絶望だろう。かつての自分と同じように。今まで信じてきた信念が覆された。最初から復讐など必要ない。彼は死んでいなかったのだから。
自分はハムレットなどではなかった。ただの愚かな道化に過ぎなかった。
御倶梛と名付けられた彼が、手に持った鎌を御影に向ける。どうやら戦うときだけ拘束着が外れるようだ。
冷たい刃が首に触れる。
命乞いなど無意味だ。たとえ意志がなくても、彼に殺されるのなら幸せなことなのかもしれない。
御影は最期を受け入れ、まぶたを下ろす。まぶたの裏、闇の中に言葉が降り注ぐ。
【今や気高い心が砕ける。
お休みなさい、やさしい殿下。
天使の群が歌をもって永遠の休息に導きたまわんことを!】
最後に、味なまねを。
まあそれでも、気分は悪くない。あの世へたどり着くまでの子守歌にはなる。
「おまえ、俺を忘れてただろ」
一樹がくぐもった声で問い詰める。
「さあ?」
東はシラを切る。
「覚えてたならもっと早くに助けに来ただろ!」
ここは支部の部長室。ソファにふんぞり返っている東に一樹が問い詰めている。
「覚えてたから探してやったんだろ。あの倉庫群の中からおまえ一人をちゃんと見つけてやっただろ」
「それで見つけたのが朝方ってどういうことだよ」
今一樹はマスクを付けている。彼はこの数日風邪をひいてしまい寝込んでいた。今日やっと復帰したのだ。
風邪の原因は朝方まで冷たい倉庫の中に放置されていたこと。
「一体何時間かけて探してたんだよ!」
「こっちだって戦い終わった後で疲れてたんだ。少しはのんびり探してもいいだろ」
「一度帰ってのんびりしてか?」
東はじろりと阿部・稲垣を見る。二人はぱっと視線を明後日の方に飛ばしている。
つまり、一樹の存在を忘れていた東は彼を捜さないまま一度支部に帰宅。そこで指摘され、仕方なくもう一度探しに行ったということだ。
おかげで八時間以上放置されていた一樹は当然のごとく風邪をひくことに。探しに戻っただけでもずいぶんマシであると阿部達は思ったが。
「おまえ、俺のことまったく心配してなかったのか」
「ああ」
「即答するな!」
考える間もなく答える東。その余裕の態度はいっそのことすがすがしい。
「人質を助けに行ったんじゃなかったのか」
「ついでにな」
「俺の命はついでか…」
もう泣きたくなってきた。
「あいつがおまえを殺すことはないと思ってたからな。おまえが俺を罵倒するのが見たかったんだろ」
しかしその目論見は外れたわけだ。
「だいたいおまえ、俺に嘘を言ってなかったか」
「何を?」
「おまえ群青さんは死んだって言ってなかったか」
「言ってないぞ。一度も。この世にはいないと言っただけだ」
『猫』になってないなんて一度も言っていない。嘘もついていない。
はぁー、と大きなため息を吐いた一樹は完全に脱力する。怒る気力すらない。もう勝手にしてくれ、と。
「それにしても君たち仲良くなったね」
阿部は素直にそう見えたから言ったのだが、二人には心外だったらしい。
「どこが⁉」
「目が腐ってるのかオヤジ」
そこまで言わなくても…。
しくしくと一人泣く阿部を放っておき、二人の言い争いは終わらない。まだ何か言い合っている。
「そういえば一樹君、うちに入ってくれることになったのね」
稲垣が泣いている上司を無視して資料を整理しながら言う。一樹もなぜか照れくさそうだ。
「まだ全部わかった訳じゃないですけど、理解する努力は続けるつもりです」
それが何を、とは言わない。彼なりの答えが出たということだ。
「奇人の仲間入りを果たしたか」
「嫌な言い方するな! というかそれ自分が奇人だと認めたってことだぞ」
「だからどうした。常人から外れている自覚ぐらい昔からある」
今更何を言われようが痛くもかゆくもない。
「そうだ、一樹君の指導、東にやってもらうから」
「「何⁉」」
これには二人とも驚く。
「せっかくの機会だしね。それにみんなやってることなんだから、東もそろそろやってもいいでしょ」
「なんで俺が…」
ぶつぶつと文句を言う東。しかしそこに違和感が。
「あれ? 今東、なんて言った?」
確かに今、
「知るかバーカ」
「なんで馬鹿なんだよ。ってそれよりも今『俺』って」
「バーカバーカ」
「ちょっと今のもう一回」
「バーカバーカ」
「それじゃなくてっ」
再び言い争いを始めた二人。そんな子供二人を大人二人は子供を見守る親のように眺めている。
「とりあえずは平和ですか」
「まあとりあえずはね」
願わくば、彼らの未来に幸多からんことを。
そして箱は閉じられたまま。