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中編

 箱は開かれません―――だから猫が生きているか死んでいるかわかりません。

 猫は生きています―――だって死んでいることを証明できないのだから。

 猫は死んでいます―――だって生きていることを証明できないのだから。

 箱は開けてはなりません。まだ結論が出ていないのです。出るまで開けてはなりません。

 可哀想な猫は箱の中でひとりぼっち。外にはたくさん人がいるのに、だれも猫を出してはくれない。

 誰か出してください―――私に外を走り回る自由をください。

 誰か出してください―――私に手向ける花をください。

 私を救ってください。

 私を生き返らせてください。

 私を殺してください。

 でも猫はやはり閉じこめられたまま。

 猫は生きられません。猫は死ねません。


 猫は永遠にひとりぼっち。




 どんな日にも、必ず朝はやって来る。

 太陽が昇り沈む。東から昇り西に沈む。逆はあり得ない。誰か個人に異常が訪れても、世界は何も変わりはしない。

 一人死んでも百人死んでも、世界は変わらない。変わらず流れ続ける。

 時々自分がいる意味がないのではないかと不安になる。きっと自分が死んでも世界は何一つ変わらず回り続けるのだろう。自分は世界のネジにすらなれない。それはきっと王様でも大統領でも、誰が死んでも何も変わらない。

 社会が変わっても、世界は変わらない。人は塵に等しい。

 渚一樹という人間もそんな人間の一人。眼を覚ませば何かが変わっていることを期待した。

 昨日のことはすべて夢だったのだとか、異常に巻き込まれたのは自分だけではなくみんなだったとか。それこそ夢想。あるはずもない。

 世界はそれがどうしたと言って彼を放っておく。誰も見てくれない。

 なぜかそれがひどく孤独に感じられた。

 昨日が日曜だったのだから今日は月曜日。ほとんどの学生が学校に行かなければならない日。それはもちろん一樹もだ。

 昨日怪我をした友人はまだ入院している。怪我自体はそれほどひどいものではなかったが、あばらが折れていたらしく、しばらく入院することになった。

 一樹自身正直休みたいと思っていたが、体調が悪いわけでもないのに休むわけにはいかない。一樹はかなり真面目な学生であるようだ。

 昨日入れなかった分シャワーを浴び、朝食にトーストを焼く。姉の姿は既になかった。先に出たらしい。

 昨日は悩むより疲れが勝りよく眠れた。疲れもほとんどとれている。それでも精神的な疲れと悩みは解消されていない。

 家には彼以外誰の姿もない。だからいってきますの言葉も必要ない。

 玄関扉を開けたとたん、朝の日差しが降り注いでくる。思わずまぶしさに目がくらんでしまうほど明るい朝。

 いつもと何も変わらない朝。なのに違うものに見えてしまうのは、既に自分が普通から離れつつあるのかもしれないと、一樹は誰にも聞かれないため息を吐いた。

 そしてそれは決して間違いではない。




 あり得ない光景が目の前に存在する。

 気分が乗らないながらも辿り着いた学校。そこでは予想通りクラスメイトからの質問のオンパレードが一樹を出迎えた。

 一樹が友人と一緒にコンサートに行っていたことは他のクラスメイトの何人かが知っていた。チケットがとれたことを友人が自慢していたのだから当然だ。だからこの状況はあらかじめ予想できていた。決して気分の良いものではないが。

 あの事件は情報規制が掛かったらしく、詳しい情報は提示されていない。ただ精神異常者がコンサート会場を襲い、死傷者が出たとだけ今朝見たニュースにも報道されていた。その犯人の素性、詳しい状況は一切明かされないまま。

 野次馬根性とでも言うのだろうか。身近で事件が起これば恐れて逃げるよりも好奇心から近づこうとするのが日本人の悪い癖だ。当時そこにいたであろう一樹に質問が殺到するのは当然と言えば当然だ。

 しかし一樹は意識を失っていて何も見ていないと言い切った。

 なぜ嘘までついて隠したのか。ただ昨日見た光景は言ってはならない気がしたからだ。

 『シュレディンガー』という異能力者の存在。それを明るみに晒すことに躊躇した。マスコミにも情報が届かない存在である彼らが、なぜ自分の口を封じなかったのか。姉の言ったとおり何か考えがあるのではないだろうか。

 言っても信じて貰えない。それ以上に言うことは姉の期待を裏切るような気さえした。だから言わなかった。決してあの男を保護するつもりなどないと、自分自身に言い聞かせて。

 そこまでは予想通りの一日だった。そこまでなら。

 だが、今ある状況は予想を遙かに超したものだった。

 授業を無事に終え、帰宅しようとした一樹の前に現れたのは昨日会ったばかりの非日常の人間。獅童東その人であった。

 学校の正門の前に立つ姿はどう見ても一樹を待っていたとしか思えない。そして実際にその通りで、東は自分に視線を向ける生徒――主に女子――には見向きもせず、一樹だけに視線を向けていた。

 今日の彼は昨日の葬儀屋を思わす黒のコートではなく、色こそ同じではあるがジャケットにブルージーンズと今時の若者の姿だ。胸元や手首を飾るアクセサリーの数はかなりのものだが。その中で髪だけがセットこそされてはいるが黒髪のままなのがどこか違和感を感じさせる。

 そして彼を一番印象づけた黒い棺桶は背負っていなかった。

 どう見ても自分を待っていたと言わんばかりのシチュエーションに、まず何をするべきか迷ってしまった。

 だがそんな一樹の困惑など知ったことではないと実際に思っているのだろう。東の態度はまったく遠慮のないものだ。

 だらしなくポケットに片手を突っ込み手ぶらで立つ姿は、どう見てもちょっとそこら辺まで買い物に行く程度の気安さしかない。

「…何の用?」

 しばし悩んだ結果一樹が出した第一声はたいしたものではなかった。しかし一番訊きたいことでもある。

 それに対し東は、

「昨日のことで話がある。ついてこい」

 それだけ言ってさっさと歩き出してしまった。返事すら聞かずに。

 無視してやろうかとさえ思ったが、訊きたいことがあるのは事実で、結局着いていくことにした。

 東は大通りに出てすぐタクシーを拾い、一樹を乗せてすぐ走らせた。

 タクシーは十五分ほど走ってすぐ止まった。料金は千円もかからなかった。これならバスに乗った方が良かったのではないかと一樹は庶民的な思考を紡いでいた。

 タクシーが止まったのはあるビルの前だった。かなり巨大なビルで、十階以上はありそうだ。面積も広そうだ。ビルの入り口には一つだけ名前があった。どうやら一つの企業の所有するビルのようだ。

 名前は『猫内警備会社』。聞いたこともない会社だ。どこかその名前に違和感さえ感じるのはなぜだろうか。

 東はためらいもなくそのビルの中に入っていく。仕方なく一樹もその後を追った。

 ビルの中は熱すぎず寒すぎず、快適な室温が保たれている。受付にはフロント嬢が笑顔で出迎えてくれる。一樹は軽く頭を下げたが、東はその前を見向きもせずに通り過ぎる。フロント係も何も言わない。どうやら彼が来ることは間違っていないようだ。ここで新たな問題が出ても困るだけだが。

 東はエレベーターに乗り込み、一樹が乗ると同時に階数ボタンを押す。押したのは十二階、最上階だ。

 エレベーターは静かな機械音と共に上へと上がり始める。その間、東は何一つ言葉を発しなかった。一樹も何を言えば良いのがわからず、黙っているしかなかった。

 チンという音がしてすぐ案内の音声が目的地に到着したことを告げてくれる。

 扉が開いた先にあったのは広いエレベーターホール。そこから三方に廊下が続いており、東はその内正面にある廊下を進む。

 誰ともすれ違わない、扉一つない廊下が続き、その奥には一つだけ大きな扉がある。扉の上には『社長室』と書かれたプレートが掲げられていた。

 社長室にいるのは社長でしかない。なら自分たちがこれから会うのはこの会社の社長だ。一樹は突然緊張感に襲われる。このビルの大きさを見ても、この会社がそれなりに大きな利益を挙げていることは確かだ。社長=偉い人という単純な公式が一樹の頭の中にできあがっている。

 深呼吸がしたい。

 しかし東はその暇さえ与えない。躊躇せず扉をノックし、答えが返るのも待たず扉を開く。ノックはするが返事を待つほどの礼儀は持ち合わせていないようだ。

 開かれた扉の向こうにはガラス製のテーブルが中央にそれをはさむように置かれたソファ。そして部屋の一番奥、正面には重厚な机とそこに座る男性。その隣にはスーツ姿の女性。

「東、前から何度も言っているが、ノックをしたら返事を聞いてから開けなさい」

「返事が何でも開けるのに変わりはないのだからいいじゃないか」

「そういう問題じゃなくて、いやそもそも返事に関係なくではダメであって…」

 正面の机――おそらく社長机――に座る男性が社長なのだろう。ならば隣にいる女性は秘書だろうか。

 東のまったくの反省の無さに社長と思われる男はうなだれるしかなかった。

 しかしすぐにもするべきことを思い出し、視線を東から一樹へ向ける。

「はじめまして渚一樹君。私はここの支部長・阿部裕次郎だ」

「支部長?」

 ここは会社であり、支部があってもおかしくはない。しかしビルの前に書かれていた名前には支部という言葉はどこにもなく、この部屋の扉にも社長室と書かれていた。なのになぜ支部長なのか。

 一樹の疑問に阿部はすぐに気付いてくれた。いや、最初から予想していたという方が正しいだろう。

「社長というのはあくまで世間への配慮から付けているだけで、厳密に言えばここは会社ではないんだ。さらに言えば警備会社というのも偽りの名前でしかない」

 思った以上に深刻な話に一樹は戸惑うしかない。なぜ一般人である自分がここにいるのかと。日常と何も変わらないはずのこの部屋の空気が、なぜか異界にでも迷い込んだかのような気分にさせた。

 一樹は勧められるままソファに座り、東は何も言われずとも向かい合うソファにずっしりと腰を下ろした。この少年の辞書に遠慮という言葉はあるのだろうか。

 二人が腰を下ろしてすぐ、秘書らしい女性が二人の前に珈琲を出してくれた。

 黒っぽいスーツ、ズボンが女性らしさよりも有能な人間らしさを出している。スラリと長い足と女性にしては高い身長。ショートヘアの黒髪は女性としては派手さも色気もない。しかしその存在だけで、彼女ができる女という印象を与えている。それがそのあたりを歩く露出度の高い女性よりも一樹には遙かに魅力的に見えた。

「あ、ありがとうございます」

「いいえ、どういたしまして。私は秘書の稲垣馨と申します。よろしく」

 笑顔こそなかったが、それでも礼儀正しさが出た挨拶は、彼女をクールビューティーという言葉で表現するのにふさわしかった。

 思わず見とれてしまった自分に気づき、一樹は自分の好みはこういった女性ではないかと自覚する。

 姉のような人を好きになるとは思わない。そもそもそんな人はいないのだと思っていたし、家族愛と恋愛は別物だ。そして今まで初恋すらしたことがない一樹は、自分の好みというものさえ知らなかった。

 だから女性に見とれるのはこれが初めての経験だ。

 むろん、相手が一樹をその対象と見てくれるかは別問題として。一樹だっていきなり一目惚れをしたわけではないが、お近づきになりたいという男なら当然の感情を抱いてもおかしくない。

 もっとも稲垣はあくまで一樹を客としてしか見ていないのか、自己紹介を済ませればさっさと元の位置に戻ってしまった。

「さて、話を続けてもいいかな?」

 阿部の言葉に状況を思い出し、慌てて一樹は姿勢を正す。

「まず君は東の知人だと聞いているのだが?」

「知人と言うほどじゃない。顔を合わせただけだ」

 一樹の方など見向きもせず、わざわざ修正する東。それが一樹にはまったくおもしろくなかった。そんなに言うほどのものかと。

 どうやら恋人の身内だからといって、何か他の人と別の意識をするわけではないらしい。本当におもしろくないし、かわいくない。

「そう? まあとにかく、昨日起こったことは覚えているね?」

 確認されずとも忘れられるはずがない。あの出来事は十数年の人生の中で最も過激で、これから先も一生残りそうな記憶なのだから。

「突然だけど、君は『シュレディンガー』というものを知っているかい?」

 一樹は昨日何度も聞いたその言葉を、半ば予想していた。昨日の事件に『シュレディンガー』が関わっていることはもうわかっている。ならこの話題は一樹自身が訊きたかったことでもある。

「聞いたことくらいは。死人使いとか思ってたけど、姉さんは違うって」

 一樹はそこでようやく向かいに座る東と正面から向き合う。

「夏音はあんたが『シュレディンガー』だと言っていた。本当なのか? そもそも『シュレディンガー』って何なんだ?」

 東はここに来て初めて一樹の顔を見た。その顔には先程までのやる気のなさはなく、真剣とまではいかなくてもやはりまじめな話題に移ろうとする気配があった。それは一樹が初めて見る東の表情でもあった。

「一応訊いておくが、昨日のことを夏音以外の誰かに話したか?」

 一樹は首を横に振る。

「言っても信じてもらえないだろうな。信じたところで、すぐに忘れることになる」

「忘れるって?」

「それについては後で説明する。さっきの質問に答えるなら、答えはイエスだ」

 何の躊躇もなく東は答える。

「夏音はほとんど話してくれなかっただろ?」

 その通りだ。姉はほとんど、というより何も話していないに近い。もしかしたらこの状況を予測してのことだったのかもしれない。

「夏音は頭の良い女だ。余計なことは言わない。一応昨日連絡だけはしといたが、だいたいの状況はわかっているんだろう」

 さすがは恋人。彼女の考えることもわかっているし、信頼もしている。一樹にはそれがまったくおもしろくなかったが。

「まず『シュレディンガー』についてだが、夏音が言ったとおり世間で言われている死人使いではない。僕たちが操るのは『猫』だ」

「その『猫』って、昨日暴れてた化け物だろ? あんたが棺桶から出してた」

「化け物って表現は気に入らないが、その通りだ。ついでに昨日の奴が出してた犬もそれだ」

 『猫』に種族は関係ない。

「『猫』に形は決まってない。この世界に存在する生き物なら何でも良い」

「昨日のはどう見ても架空の生き物に見えたけど?」

「原型さえ問題なければ多少形は変えられる。あんな生き物が現実にあるわけないだろ」

 馬鹿だな。余計な一言さえ聞こえた。この男は他人を見下すのが趣味か?

 一樹は怒りを抑えながら、話を聞く。

「正確に言えば生き物じゃない。でも死体でもない」

 東は重く厚い言葉を紡ぐ。

「『猫』は生と死の狭間にあるもの。生きていないが死んでもいない」

 生きていないが死んでもいない存在。それはいかに?

「そんなのおかしいだろ。だったらあれはロボットか何かだと?」

「機械じゃない。人形でもない。間違いなく肉の身体を持っている」

 なのに生きておらず、しかし死んでもいない? そんな矛盾したものが存在するわけがない。それは何と呼べばいい。生物でも死体でもない。物ですらない。ならばそれは?

「君は『シュレディンガーの猫』というものを知っているかな?」

 それまでの東の説明を引き継ぐように阿部が言う。一樹は素直に知らないと答えた。

「シュレディンガーというのは人の名前でね。オーストリアの物理学者だ。『シュレディンガーの猫』というのはその人が行った実験でね」



 『シュレディンガーの猫』というのはエルヴィン・シュレディンガーが行った思考実験。

 簡単に説明すると、蓋の付いた箱に猫と毒が派生する装置を入れておく。そのまま蓋をしてしばらく放置しておく。毒が発生すれば猫は死んでしまうが、毒が発生しなければ猫は死なない。

 時間をおいてから蓋を開ける前に中の猫が生きているか死んでいるかを問う。もちろん外からは毒が発生したかどうかも、猫が生きているかもわからない状態だ。

 箱の外でどんなに議論しても猫が生きていることを証明できない。しかし死んでいることも証明できない。閉じられた箱の中には猫が生きている可能性と死んでいる可能性の両方が詰まっている。つまり箱を開けるまではこの中には生きている猫も死んでいる猫も存在できるのだ。

 矛盾した状態が重なり合っている状況。これが『シュレディンガーの猫』の結果である。



「『シュレディンガー』や『猫』という単語はここから来ている。科学的な証明は行われていないが、生と死の狭間にあるもの。そしてそれを使役できる者がこの世界には存在する」

 生と死の狭間にある『猫』、それを使役する『シュレディンガー』。

 突拍子もない話だ。信じられるはずがない。が、

「ここで笑い飛ばせればどんなに幸せなことなんだろうな」

「う~ん、気持ちはわかるがね」

 昨日あれだけのものを見せられた一樹にはもうそれができなかった。三つ首のケルベロスに棺桶を振り回す少年、骨の翼を生やした少女。あれだけ見てすべてが夢です。幻想の生き物なんて存在しませんなんて言えない。

 今ならUFOでも神様でも何でも信じられそうな気分だ。

「ちなみに宇宙人や神様が存在するかはわからないから」

 人の心を勝手に読むな。

「誰がどんなに否定しようとも存在するものは存在する。それが現実だ」

「証明されなくても?」

「証明を求めるのは人間の悪い癖だ。否定する要素がなければ否定することはできない。存在しないことを証明することもできない。真実は否定されない限りいかようにも変化できる。それが『シュレディンガーの猫』だ」

「俺は難しい話はわからないですけど、とにかくその『シュレディンガー』や『猫』と呼ばれるものが存在することは認めますよ。でもなんでそんなものが存在するんですか? だいたいあなたたちは一体何をしている人なんですか?」

「なぜ存在するかは我々もわからないな。気づいたらそういうものが存在した。歴史だけはそれなりに長い。ただ公にはされなかっただけで」

 阿部は教壇に立つ教師のように説明する。ただここが教室ではなくて、まじめに聞く生徒は一樹一人だけではあるが。


 異能の力を持つ者たちの人生などほとんど決まっている。敬遠か畏怖のどちらかだ。

 名前こそここ数十年の間に付けられたものだが、その存在は人間が文化を持ち始めた頃から存在するという。

 時には神の御使いと崇められ、時には魔女と弾圧された。時代が流れるにつれ後者が増えていったのは自然な形なのかもしれない。人が神を崇めなくなった頃から。

 そして時には信仰者から激しく非難され、神の教えに反する者と異端者の烙印を押された。ただ力を持つ、ただそれだけの理由だけで。

 それも仕方のないことだと阿部は悲しそうに笑った。人は自分と違う者を受け入れたがらない。普通と違う者を異端と呼ぶ。

 生き物は生まれ、そしてやがては死ぬ。この流れはこの世界で唯一絶対と言っても良い。それを根底から覆す存在はすでに人ではないのかもしれないと。

 『猫』とは生と死の狭間にあるもの。生き返ることもなければ安らかに眠ることもしない。自然の摂理から逸脱した存在。そしてそれを生み出す『シュレディンガー』はやはり異常と呼ばれても仕方がない。

 『シュレディンガー』や『猫』の存在が秘密裏にでも認められ始めたのはここ数十年。第二次世界大戦終盤の頃だという。

 生きていないし死んでもいない『猫』は決して死なない人形のようなものだ。正確に言えば『猫を殺す方法』が存在するらしいが、滅多なことでは死なないらしい。そして人を超えた力。それは破壊に活用すれば優れた兵器となる。大戦中に『シュレディンガー』が戦場に投入されたことは歴史の闇へと葬られた。

 戦後、その力は危険視されたが、それ以上に利用価値があった。戦争を生き残った『シュレディンガー』たちはその利用価値を示し、国の為に働くことを条件に自らの権利や保護を勝ち取った。それが現在の『機関』だ。


「細かい説明は飛ばしたけどだいたいこんな感じかな」

 阿部は一度言葉を切り、珈琲でのどを潤す。すでに珈琲はほとんど冷め、生ぬるい黒の液体と化していたが。それでも文句も言わず一気に飲み干した。冷めたことを理由に残せば秘書ににらまれるからだ。

「でもなんでそうまでして『シュレディンガー』を残すんですか?」

 一樹の疑問に阿部はうーんと考え、

「必要だからかな。『シュレディンガー』は別に強制的になる能力者ではない。先人たちの技術が伝えられてきたから存続している。それでもなる人はなる。やり方を教えられなくてもね。素質さえあれば誰でもできるものなんだよ」

 もちろん素質があれば勝手になる者ばかりではない。やり方を知らなければ一生常人として過ごす者も多いと言う。しかし中にはやり方さえ教えられずにできてしまう者もいる。だがそれを天才と呼んでいいのかはわからない。

「そうなることでしか生きられない者。そうとも考えられるね」

 そう言う阿部はどこか悲しげだった。常人が思う以上に『シュレディンガー』には苦難が付いてゆくものらしい。

 そのとき阿部はちらりと東の方を見たのだが、彼はすでに話に参加する気を失っている。説明を阿部に任せ、稲垣から珈琲のおかわりをもらっていた。

 阿部は視線を一樹に戻す。

「『シュレディンガー』に必要なのは素質と『猫』そして『箱』」

「『箱』?」

 箱とはあの箱だろうか。一樹の頭の中にプレゼントが入ってそうな立方体が浮かぶ。

「『箱』というのは『シュレディンガー』が『猫』を呼び出す際に使う出入り口のようなものかな。君も昨日、東の『箱』を見たはずだよ」

 そう言われて一樹は昨日の出来事を思い出す。

 東が現れた時、はじめに視界に入った黒い棺桶。そこから出てきた少女。

「そう、あの棺桶が東の『箱』だよ」

 阿部は一樹の予想を肯定する。

「『箱』と呼ぶが時に『扉』『門』などとも呼ばれる。『猫』は平常時この世ともあの世とも違う異界と呼ばれる場所にいる。この世とあの世の狭間とも言われているが確証はない。『箱』は異界とこの世をつなぐ出入り口だ。『箱』を開閉することにより二つの世界をつなぎ『猫』は出入りする。そしてこの二つの世界をつなぐことができることから『シュレディンガー』は『開閉者』『門番』とも呼ばれ、もっと簡単に『猫使い』とも呼ばれる」

 そういえば昨日事件を起こした男と東の会話の中に『猫使い』という単語が出たが、あれはそういう意味だったのかと一樹は理解した。

「さらに言えば『箱』はその形状を固定していない。中が空洞で開閉ができれば何でも良い。『シュレディンガー』はそれぞれ自分の『箱』を持ち歩き、それを使って『猫』を呼び出す。

 東のような大きな『箱』を使う人はごく少数だよ。さらに言えばそれを武器にする人なんて東くらいのものだよ」

 そう言ってちらりと東を見る。しかし言われた当人である東はどうでもよさげだ。やはりあのような破天荒な戦い方をするのは彼だけのようだ。

「次に『猫』だけど、これは少し不愉快かもしれないね」

 それまですらすらと説明を続けていた阿部が、初めて難色を示した。

 一樹はその反応を不思議に思いながらも、先を続けるよう促した。

「先程も言ったように、『猫』は生と死の狭間にあるもの。でもその元となっているのはこの世界に生まれた生き物なんだ」

 阿部は説明しづらそうに話す。

「『猫』になれるのはこの世に生まれ、そして死の淵に立たされた生き物。つまり死ぬはずだった生物を『猫』としてこの世にとどめているということだ」

 それは、まさしく自然の摂理に反する行為。神の領域に踏み入れる冒涜。

「許されない行為だと言う人は多い。特に信仰深い人たちは特にね」

 だから『機関』と宗教は相性が悪い。

「まともな道徳観を持っている人なら批判するだろうね。でもそれでも存在するのが私たちだから」

 その存在を消すことはできない。たとえ技術が伝わらなくても、『シュレディンガー』になってしまう者は必ず現れる。そんな者たちの為にも『機関』は必要なのだ。

「理解されなくてもいい。許されなくてもいい。それでも存在する。それだけが真実だ」

 それは懺悔ともとれるような告白だった。多くの人に蔑まれ、それでも生きてきた彼らを、人は理解してこなかった。ただ存在することさえ許されなかった。だから彼らは自分たちの価値を知らしめた。たとえ公の場に出ることは出来なくても、国の影に立つ役目であっても、自分たちの力で居場所を作り上げた。

 それを今すぐ批判するほど、排他的な考えを一樹は持ち合わせていない。だが、恐ろしくないと言えば嘘になる。あんなにも簡単に人の命を奪ってしまえる力。それを平気で振るえる人間の狂気。だが、自分を助けてくれたのはそれと同じ力。そして人間だった。

「今すぐ答えを出してくれなくてもいい。『機関』の人間でもすべてを受けいれているとは限らないのだから。ただ、それを考える猶予を与えるという意味でも、『機関』は必要なんだ」

 一樹の悩みを理解しているのだろう。阿部は本当に生徒の相談を受けるような教師のように、子供を見守る大人のように、一樹の答えを急がせはしなかった。

「それでね、本題に入るのだけれど、今日君に来てもらったのはこの話をするためだけじゃない。あくまで本題に入るための予備知識として知ってもらうために話したんだ」

 阿倍の言葉に一樹もそういえば、と思い当たる。

 元々無関係の一般人で、昨日たまたま巻き込まれただけの一樹にこのような重要な話をするのはおかしいはずだ。『シュレディンガー』についての情報は規制されているという噂だったが、それはきっと偽りではないのだろう。

 このような不自然な存在が世間に広がればパニックになることは間違いない。本当に魔女狩りの再現が起こるかもしれない。

 人は異常をひどく嫌う。差別し、軽蔑する。世間にその存在が広まれば、彼らは生きてはいけないだろう。おそらくどんな差別よりもひどい差別を受けるはずだ。

 おそらくそのためにも彼らの存在は秘匿とされているのだろう。それでもその存在を隠しきれず噂だけが飛び交っているのだろうが。

「ただその本題を話していいものなのか確証がなくてね。その前に君に会ってもらいたい人がいるんだが…」

 歯切れが悪そうな言葉に、阿部の戸惑いが感じられる。

 なぜそんなにも躊躇するのだろうか。一樹が不思議に思っていると、それまで会話にほとんど参加していなかった東が突然立ち上がった。

 驚く一樹を無視し、東は踏み切れない支部長とは対照的に躊躇なく言い切る。

「ぐだぐた言ってないで、さっさと会わせたらいいだろ。話はそれからでも遅くない」

 本当に戸惑いなど感じさせない言いっぷりだ。

「それに本当にそうなのかまだ怪しいところだろ」

「でも東、最初にそれを言ったのはあなたよ?」

 最初の挨拶以外、一言もしゃべらなかった稲垣がそれを指摘する。一樹には意味のわからない会話だったが、彼らにはそれだけでわかるものだったのだろう。

 指摘された東は眉間に皺を寄せ、納得のいかないような顔をする。

「あいつの言ったことをすべて信用してるわけじゃない」

「それなら」

「だけど、あいつは僕を不愉快にさせるためなら嘘をつかないだろ」

 それで会話を断ち切り、東は一樹について来るよう促す。一樹はどうするべきか迷ったが、問うように視線を向けられた阿部がうなずいたので、東について行くことにした。

 東は社長室を出ると何も言わずに歩き続ける。一樹も黙ってその後を追った。

 ここに来た時にも通ったエレベーターホールでエレベーターに乗るのかと思ったが、東は隣にある階段を下り始めた。廊下と違い少し薄暗い階段を二人は下りていく。どちらも口は開かず、ただ階段を下りる足音だけが響いていた。

 一階分下りると東は階段を下りるのを止め、11階のエレベーターホールに降り立つ。その階は一階上とは装いも部屋割りもまったく違っていた。

 最低限の証明しか点けられていないエレベーターホールは薄暗く、ひんやりとした風が流れている。階段を下りてすぐ、エレベーターホールの前には扉が一つあるだけ。廊下さえなく、一つの部屋だけがその階には存在した。

 扉の隣には電子錠が設けられていた。暗証番号を入力する数字のパネルとカードを通す縦の溝だけがあった。

 東はやはり躊躇なく、パネルに暗証番号を入力する。何と入力したのかは一樹からは背が遮って見えなかった。入力し終わると一度電子音が響く。東はすぐに自分のポケットからカードを取り出しそこに通す。再び電子音が、今度は三度鳴り、同時に錠の落ちる音がした。

 東は今度はノックすらせず扉を開く。頑丈で強硬そうな扉はその重量以上の抵抗もせず来訪者を迎え入れた。

 扉の向こうには部屋があった。灯りが点いておらず外からの光もないその部屋は暗くて見えにくかったが、廊下から漏れる灯りでぼんやりと中の様子が伺えた。

 その部屋には窓がなかった。無機質な壁が四方を覆い、あるのは一組のソファとテーブル。それに壁に掛けられた時計だけだ。待合室のような雰囲気の部屋には誰も居らず、東は部屋のさらに奥へと向かう。そこには入り口からは暗くて見えなかった、さらに奥へと進むための扉があった。

 重厚な作りのそれは洋風で、実用的なビルの装いからはかけ離れていて違和感を感じさせる。両開きの扉には鍵がない。しかし一樹にはその扉が牢獄の入り口に見えた。

 そう思えたのは扉に描かれた無数の不可解な文字。アルファベットでもなければ数字でもない。少なくとも一樹が見たことのない文字だ。その文字が扉中に隙間なく埋め尽くされている。

 ホラー特集のバラエティーでこんな扉を見たことがある。幽霊や怪物が封印されているという牢獄。この扉はまさにそれだった。

 それまで躊躇なく進んできた東が、扉の前で立ち止まっている。何故だろうと声を掛けようとした一樹の耳に、何かが聞こえてきた。

 よく耳を澄ましてみると、それは扉の向こう側から聞こえてくる。人の声のようにも聞こえるが、何か違う。

 東は大きなため息を吐く。またか、と。そしてしばらく待つ。

 聞こえてくる僅かな物音、そして声が示す答えは―――、

「……へ?」

 その答えに気付いたとき、一樹の顔は一瞬にして赤く染まる。今まで一度も遭遇したことがない状況。していいはずのない状況。

 聞こえてくるその声は―――人の喘ぎ声だ。

 ならば一緒に聞こえてくる布をこする音。暴れるような音は―――。

 もう想像すら出来ず、一樹は扉から眼を背けてしまう。そんな一樹を東は面白そうに眺めている。

「何だ、もしかしてこういう状況は初めてか? お前、童貞だろ」

 にやにやとうろたえる一樹を眺める東。もしかしたらこれが初めて見る彼の表情なのかもしれないが、残念ながら一樹にはその表情を見る余裕すらない。耳すら塞いでしまう。

 高校生が童貞で何が悪いと、普段の彼なら言い返すだろうが、それすらできない。真面目な高校生活を送っていた彼には、少々刺激が強すぎたようだ。

 まったく動じない東は当然経験があるのだろう。もちろん、ある。それがここでうろたえている少年の姉との関係なのかは言わないでおくが。

 彼らが十分ほどそこで待っていると、聞こえてくる音が変わった。数秒の沈黙があったかと思うと、突然女の悲鳴が扉を越え部屋中に響いた。甲高い、耳を貫くほどの悲鳴。

 驚き何事かと動こうとしたのは一樹一人。東は部屋に入ろうとする一樹の肩を掴み止めた。

 何をする、と一樹が文句を言おうとしたとき、女の悲鳴は止み次に聞こえたのは何かをたたきつぶすような音。


 ゴッ

 グシャッ

 ゴッ

 グシャッ


 規則正しく二つの音が響く。固い物を殴る音ではない。何か固い物で、柔らかい何かを殴る音。

 果物を叩きつぶすような音にも聞こえる。しかし、部屋には二人以上の人間がいたはず。その二人が突然何かを叩きつぶしていると?

 音は止まない。徹底的にその何かを殴り続けている。ただ一緒に聞こえてくる荒い息づかいは必死さを物語っている。

 誰が、何を、潰しているのか。

 東はその答えを知っている。だが何も言わない。ただあきれたような、つまらなさそうな顔でそれが終わるのを待っている。

 扉の向こうから漏れてくるのは音だけではない。臭いもだ。

 先程まで行為を示すような生臭い臭いが漏れ出ていた。しかしそれをかき消すような鉄さびの臭いが流れてくる。もちろん、潰されているものは金属ではない。金属の音ではない。なら、それ以外で柔らかく、しかし鉄の臭いがするものとは…?

 一樹の思考は既にそれ以上の想像を止めていた。想像もしたくない。しかしどんなに耳を塞いでも、どんなに鼻を塞いでも、音は、臭いは、彼に事実を突きつける。

 それが何分続いただろうか。それはおそらく十分にも満たない。しかし何時間も続いたような疲労が一樹の背にのしかかっていた。もはや立つことも出来ず、膝を地面に付け、うなだれている。必死に耳を塞ぎながら、必死に息を止めながら。

 疲れたかのようにペースを落とした音はやがて止んだ。東はようやくその終わりを知り、

「開けるぞ」

 そう言って扉に手を掛けた。それは一樹に言ったのか、扉の向こうにいる人物に言ったのかはわからない。もしくは両方なのか。

 どちらの答えも聞かず、東は扉を押す。重い扉は耳障りな音を立てながら二つの部屋を繋いだ。

 一樹は恐る恐る部屋の中を覗く。部屋の中はやはり暗く、窓すらない。灯りさえないことに、一樹は感謝した。

 すべてが見えなくてよかった、と。

 床を塗らす赤黒い液体。きっと明るければもっと鮮やかな色を見せていただろう。それは天井にまで届く赤の空。遮る物もなくなり外へと解放される空気。人の生の証が二つ、なのに一方には欲望が、もう一方には死の臭いがまとわりついている。

 ああ、あいかわらずのくそったれな光景だ。

 毎回ここに来るたびに見る光景と何も代わり映えしない。スプラッタショーもこれだけ見ればあきてくる。東はそこから先には入らず、中にいる一人を捜す。入らないのはただ単純に、服を汚したくないからだ。

 部屋の境界線を越してあふれ出てくる液体の色など見たくもない。ましてやその海の中に浮かぶ物体の正体など知りたくもない。かわいそうに、この二つの部屋の中で唯一正常な思考をしている一樹が一番気の毒だろう。日常から切り離されたとたん、異常の中でもことさら悪趣味なものを見せられているのだから。

 もっとも東はわざとそうしたとも言える。これから彼に出される選択。それを間違えないように。一度間違えれば二度と這い上がることはできない道。

 それは決して一樹の身を案じた為ではない。すべては彼の最愛の恋人のため。彼女が悲しむようなことは犯したくない。だからこの状況は、東なりの一樹への親切とも言えるだろう。選択さえ間違わなければこの光景さえ忘れてしまえる。

 残念ながら当の本人には嫌がらせにしか映らないのだが。

 さて、部屋の中もようやく落ち着きを取り戻しつつあるようだ。

 荒く息を吐いていた部屋の主も、その呼吸を整え、周囲を見る余裕もできた。

 暗い部屋の真ん中。赤黒い海の中で何かをつぶしていたのは、一人の女だった。

 服一枚身にまとっていない、裸の女性が部屋の中で必死に何かを殴っていた。それはすでに原型を失っているが、少なくともかつて物ではなかったものだということはわかる。

 女は凶器として使用していた道具――暗くて見えないが棒状の何かだ――を手放し、ようやく来訪者へ眼を向けた。

「……誰かと思ったらあんただったの」

 明らかに不機嫌そうな顔を向けている。一方向けられた東は至って気にしていない。

「用があるから来たんだよ。だいたい毎回毎回これか。いい加減にしたらどうだ?」

「あんたには関係のないことよ」

「はいはい、そうやって自分の殻に閉じこもってればいいよラプンツェルは」

「? なんでラプンツェルなの」

「この間あんたのことそう呼んだ奴がいたんだ。なるほどぴったりだなと思って」

 男を誘い込んで殺しては悲観ぶっているヒロインにはお似合いの名前だろ?

 女の殺気が全力で東へと向けられる。しかし殺気だけでは誰も殺せない。結局この女は黙って首を差し出してくれる男しか殺せないのだ。

 血の海で愛する男の首を抱いて笑えばサロメでいられただろうに。それではあきたらず他の男を誘い込む。まるで女郎蜘蛛だ。少なくともその精神は人間のものではないだろう。

 自分の殻に籠もり、悲劇のヒロインを演じる女にハッピーエンドなど用意されてはいない。だが、そういう彼女だからこそ同族の臭いをかぎ分けることができるのかもしれない。

 だから新入りはまず彼女と面接することから始まる。

「今日はこいつを見てもらいに来たんだよ」

 そう言って東は足下に座り込んでいる一樹を指さした。

 一樹は相変わらずこの状況に異常を感じていた。人が普通に生活する空間からほんの数メートルしか離れていない場所で、何かの命がたやすく奪われていること。そしてそれを当たり前だと言わんばかりに受け流しているこの二人も、また異常。

 さらに異常なことは、その当人らがそれを異常だと気づかないこと、もしくはその異常を当たり前のものと受け止めていることだ。

 通常なら女性の裸体を見れば顔を赤く染め、慌てふためくであるだろうに、それすらできない状況がここにあった。すべての普通が異常へと飲み込まれていく。それがこの空間だ。

 女は一樹の存在に今気づいたようだ。比較的汚れていないシーツを身体に巻き付け、二人の方へ歩み寄ってくる。

 明るい場所で見れば、その女性はとても美しいだろう。多くの女性が羨むようなスタイルに、さらさらと流れる黒髪。サクランボのようにふっくらと、そして赤い唇。雪のように白い肌。長いまつげ。

 テレビや雑誌に出れば一発で人気が出るだろうと容易に想像できるほどの美女。なのに、この空間ではそれすらも異常に見えてしまう。

 一樹がようやく落ち着きを取り戻すのを待っていたかのように東が切り出す。

「こいつはこの支部で飼われてる『特別要員』、名前は一ノ瀬藍奈。二十年以上ここで飼われている」

 『特別要員』とは何か、と一樹が尋ねる前に東が答えた。

「こいつは世界中に二人しか存在しない『特別要員』の一人。『猫使い』じゃないが、その素質を見分けることができる」

「素質?」

「オヤジが言ってただろ。『シュレディンガー』に必要なもの。その一つが素質だ。これがなければどうがんばっても『シュレディンガー』にはなれない」

 努力で才能は買えない。だがこれは才能でもない。ただ、どんなに不幸だったのか、それだけだ。

「素質を持ってる奴はそう少なくない。だけど実際にその素質を生かせる奴はほんの一部。こいつは他人の過去を読むことができ、その素質が備わっているかを判断するために飼われている、関東支部の化け物だ」

 本人を前にして平然と化け物と呼ぶ。だが他に表現する言葉を東は持っていない。これを人と呼んだら、それこそ人は皆化け物だ。

 自分を人と呼ぶように互いを化け物と呼ぶ。それがこの世界だ。

 もちろん彼女もそれは十分理解している。反論もしない。どんなに否定しても事実は変えられないのだから。

「ひどい紹介ね。外れてはいないけど、それでも気分は良くないわ」

「よく言う。ここでも特に化け物じみてるくせに」

 彼らは人外の、化け物の会話を行う。それでもあらがう気持ちを捨てきれずにいる者と、完全に受け入れている者。

 すでにその外見以外人から外れているにもかかわらず、それでも被害者であり、人間に執着する女。

 だから東は彼女を人として見たことも異性として見たこともない。つまらない生き方をしている。彼女に魅力を感じたことなどない。必要がなければわざわざ顔だって見たくない。

 人でないからではない。他人を傷つけてるくせに、それでも被害者面をするその精神が嫌いなのだ。

 弱いなら弱いと認めればいい。それすらできないのなら、それは弱者であるだけではなく臆病者だ。

 だからこの時間さえ気分が悪い。誰も好きこのんで来たがりはしない。もちろん東も。

「いいからさっさと見ろ。僕はさっさと帰りたいんだ」

 不機嫌を隠す気もない。きっとそれはお互い様。彼女とて、彼との邂逅を望んだりはしない。

「わかってるわよ。あたしだってさっさと終わらせるつもりよ」

 そう言って藍奈はしゃがみ込み、座り込んだままの一樹の視点に合わせる。それでも彼女は一樹に何一つ言葉をかけはしない。今もまるで品定めをするような視線だ。

 先程東は、彼女は素質を見抜き、過去を読むことができると言った。ならば、今彼女は一樹の了承も得ずに一樹を探っているのだろうか。

 美女と顔を合わせることが男としてうれしくないはずがない。しかしこの場にはそんな甘い余韻も存在しない。正直自分の腹の中をかき混ぜられているような不快感だけがある。

 別に見られて困る人生ではないが、それでも他人の目にさらしたいとは思わない。

 一樹が抗議しようかと悩んでいる間に、それは終わってしまった。ほんの二・三分の出来事だった。

 検証が終わると藍奈はもう一樹の方など見向きもしない。立ち上がり東に、

「当たりよ」

 とだけ告げると、さっさと部屋の中へと戻ってしまう。そして乱暴に扉を閉めた。

 東は誰かに言うわけでもなく、「そうか」と口だけ動かして一人つぶやいた。

 どうやらあの『黒猫』の嫌がらせは効いているようだ。ここからが面倒だ。これ以上関わることを選べば間違いなくあれの標的となるだろう。そうなれば一番迷惑を被るのは彼ではなく自分だ。

 東が気分を害するためなら何でもするだろう。それだけがあれの生き甲斐だ。

(いや、生き甲斐と言うのも変か)

 あれは生きているわけじゃないんだから。

 ならば未練とでも言うべきか。執着とも。

 某作家の小説の主人公ように言いたい。

 やれやれ、と。




 おめでとう、その言葉の意味を知るのに言葉は足りない。

 ご愁傷様、その言葉の意味もまた足りるにはほど遠い。

 東が言ったその言葉の意味を知るための説明。それはただ一つ。

「あんたには素質があるよ」

 言われてすぐは理解できなかった一樹も、時間をかけて考えれば一分後には答えを見つけ出していた。

 素質とは、『猫使い』の素質。なるのに絶対に必要なもの。

「素質を持つ人間はそう珍しくない。あんたは幸か不幸かその素質を持ってたわけだ」

 本当に祝う気持ちも哀れむ気持ちも見せない。見せる気などないのか、それとも最初から持っていないのか、一樹には判断できない。

 ただ、阿部に言われたことは少なくとも一樹の人生を左右する選択だった。

「君に素質があることが確定した以上、話を進めよう。君にうちの支部に入ってもらいたい。どういう意味かと言うと、『シュレディンガー』になってもらいだいんだ」

 一樹にとっての『シュレディンガー』のイメージは、化け物を操り殺し合いをする異常者だ。それの仲間になれと言われれば、まず間違いなく断りたい。

 だが、そんな異常者が少なくとも国、つまり政府に認められている以上、ただの異常者では済まされない存在であるはずだ。

 何より、姉はその存在を受け入れている。受け入れ、恋人として接している。

 選択肢は一樹自身に与えられた。考える時間も与えられた。ただ、別れ際に阿部が言った言葉が心に突き刺さっている。

「君が我々のことを吹聴しても、誰も信じはしない。信じたところですぐ忘れてしまう」

 何でもあの一ノ瀬藍奈という女性は過去を読むだけではなく、特定の記憶を削除することもできるらしい。それも彼女の仕事の一つなのだとか。

「君が断れば今までの話についての記憶は消させてもらう。これは決定事項なんだ」

 有無を言わさず事実が告げられる。

「支部長としての意見で言わせてもらえば君には是非仲間になってもらいたい。だが、私個人としての意見で言えばお勧めしない」

 君のような若者をこちら側に引き入れることは良心が痛む。

 なんだか優しい処刑人に執行されるような気分だった。そんな顔をされたらこちらは堂々と文句も言えやしない。

 話を終え、家に帰ったのは日が暮れ星が出始めた頃だ。

 一樹を送り届けた東は、やはりどうでもよさげな顔をしている。送り届けたのも親切ではなく仕事の内と割り切っているようだ。

 最後に一つ、気になった疑問を東にぶつけてみた。

「素質って、何?」

 素質は才能ではない。しかし生まれ持ったものでもない。それだけ説明されたが、具体的にどういったものなのかの説明はされなかった。

 訊かない方が良かったのに、と東は心の内で一人つぶやいた。だが、黙っている理由もない。これ以上関わるにしろしないにしろ、知っておいた方が良いことだ。

「素質はそいつの経験。『猫』は生と死の狭間にある者。『箱』はその狭間に干渉する出入り口。だから『猫使い』もそれに対応した経験が必要だ。つまり」

「つまり?」

 先を促したことを後で後悔することになる。

「死にかけたことがある奴、もしくは閉所に恐怖心を抱くような経験をした奴が『シュレディンガー』になることができる」

 それは、人のトラウマとも言えるだろう。トラウマが力になるとは皮肉なものだと笑った者さえいた。誰が好きこのんでそんな過去を持ちたがるか。

 支部の中には自分の過去を隠したまま生きる者も多い。別に不幸自慢がしたくてここにいるワケじゃない。傷の舐め合いがしたいわけでもない。ただ、生きられる場所が欲しかっただけ。

「あんたにどんな過去があるのかに興味はない」

 他人の痛みなどに同情している余裕はない。

「どうするかはあんた次第だ」

 選択権はお前にある。

 一樹は姉の言った言葉を思い出した。


『人間だよ。ちょっと普通の人とは違うものを見ちゃっただけの。きっとそういう人はこの世界に少なくない。でもそこから気付く人、囚われる人はさらに少ない。少数派の人は自分で居場所を作らないと生きていけない。それは誰であっても変わらない』


 あれはこのことを言っていたのか。

 なら、今目の前にいる少年も、悲惨な過去の持ち主なのだろうか。

 一瞬でも訊きたいと思ったことを恥じた。自分のトラウマになっているような過去を話したがる人間はいない。自分から吹聴する者もいないだろう。

 そう思った。しかし、

「僕の過去が気になるのか?」

 意外にも、彼は自分から切り出した。まあ普通予想はできることだろう。しかしわざわざ話してくれるとは思わなかった。

「別に良いよ。自慢できる話じゃないけど」

 気になられる方が鬱陶しい。隠すほどの話でもない。

「昔々、あるところにトチ狂った老人がいました」

 まるで昔話を語るかのように彼は言った。



 昔々、あるところにトチ狂った老人がいました。なぜ彼がそうなったのかはわかりません。関係のないことです―――昔はそれなりにまともだったらしいが。

 その老人はオカルトや錬金術にはまり、自宅の地下室に不気味な儀式場まで作らせました。

 普通なら病院に入れられるでしょうが、その老人は何代も続く旧家の人間だったので、誰もそうしませんでした――身内の恥を外に出したくなかったんだね。

 彼の儀式は盛り上がり、ついには人にすら手を出し始めました。最初は身よりのない子供を引き取って、家出した子供や親に放棄された子供を拾って――狂気の沙汰。それでも公にはされなかった。

 老人は最後には不死を望みました。年老いた自分に絶望し、若さと永遠の命を求めたのです。

 どこの本に載っていたのでしょう。他人の肉体と自分の肉体を入れ替える秘術が見つかりました。

 老人はいろいろ研究し、自分の血縁が望ましいと結論を出しました。

 そして彼はまだ年端のいかない孫を自分の器に選びました。

 子供は地下室に閉じこめられ、日の当たらない生活を強いられました。

 ある時は血をたくさん抜かれ、それで魔法陣を描かれました。

 ある時は緑色や赤色の不気味な飲み物を飲まされました――もちろんまずかった。人の口にする物ではなかったね。

 毎日毎日、狂った祖父の笑い声と叫び、不気味な呪文だけが彼の耳に入る人の声でした。

 それから何年経った頃だったでしょうか――子供はすでに日付を数える気力さえ失っていました。

 とうとう老人は儀式の最終段階に入りました。自分が殺されることぐらい、子供もわかっていました。でも、彼にはどうすることもできません。

 老人の儀式が成功する保証などありませんでした。でも子供が生き残る可能性もありませんでした。

 子供には死しか用意されていなかったのです。

 走馬燈を見るほどの思い出すらありませんでした――親の顔すら覚えていません。あるのは自分の名前だけ。

 覚悟も希望もないまま、子供は死を迎えようとしました。

 そのとき、奇跡は起こりました。

 噂を聞きつけたある『機関』によって子供は救い出されたのです。



「そして子供はその『機関』に入りました。めでたしめでたし」

 果たしてそれがめでたしで済まされる話なのか判断はできない。しかし、それはきっと可哀想とか、不幸だとか、同情を集めるにはできすぎていて、そして残酷で狂気じみた物語。

 だが、その子供は悲観しない。悲観しても何の意味もないことを知っているから。これから先は自分の力で切り開かなければならない人生なのだから。

 一樹はしばし呆然と、言葉を失ってしまっていた。何と言えば良いのかすらわからない。ただ、その狂った物語は決して童話のような作り話の類ではなく、現実に存在するということ。それだけが、今信じられることだった。

 なぜ信じたのだろう。ただ、彼らが生きる世界が自分の思っていた以上に悲惨なものであること、救いようのない立場であること。

 ならそんな世界へ踏み入れる理由は何かと聞かれれば、その話はとても納得のいうものであり、それ自体がすでに救いようのない悲劇。

 ここで同情すること、哀れむことを彼は望まないだろう。なぜなら彼はすでに自分の足でこの世界に立ち、生きているのだから。彼は弱い人間ではない。哀れむことは相手を見下すこと。

 そんな失礼な行為は許されない。

 一樹の心情を正確に読み取ったわけではないだろうが、東もその反応を嫌わなかった。善意を振り回して相手を哀れむような人間に比べれば、それはずっと好意の持てるものだ。

 彼女と同じだ。

 痛みを共有して欲しいわけでもない。哀れんで欲しいわけがない。ただ、今の自分を形作る過去を否定はしない。ただそれだけを理解して欲しい。

 そこから動かなければ何も始まらない。被害者でありたいわけじゃない。

 大切なのは、一度救われた命を、自分で抱えて歩くこと。

 ただ黙って話を聞き、何も言わず受けいれてくれた彼女と。

「やっぱり姉弟だな」

 ぽつりと自分でも気付かず言葉がこぼれてしまっていた。

「何か言ったか?」

 一樹が尋ねたが東はすでに耳を貸してはいない。

「近いうちにまた来る」

 仕事だからな。

 それだけ言い残し去ろうとする東に、一樹はもう一つだけ尋ねてみた。

「あんたを助けた『機関』の人は、あんたと同じ『シュレディンガー』だったのか?」

 去ろうとする身体を止め、振り向いた東の表情は読み取ることが出来ない。もしかしたら触れてはいけないことだったのかもしれないと後悔を始めてしまった。

 しかし東はそれを面倒くさがることも断ることもせず、ただ簡潔に答えを述べる。

「そうだよ。そして僕の師匠になってくれた人であり、後見人でもあった人だ」

 救出された時、東を引き取ろうとする身内は一人もいなかった。事件は内容が内容だけに秘匿にされ、公にはされなかった。しかしそれでも噂は広まる。儀式の生贄になろうとしていた無教養の子供を引き取ろうとする善人も他人の中にはいなかった。

 ただ彼一人だけが手を差し伸べてくれた。それが憐れみだったのか、同情であったのか、それとも別の何かだったのか、今は知る術もない。しかし東にとってはそれが一生に一度起きるか起こらないかの奇跡だった。

 その思惑よりも、救ってくれたという恩が何者にも勝った。

 血の繋がらない自分を弟のように可愛がってくれた。それまで何も持っていなかった自分にすべてを与えてくれた。外を見たことがなかった自分に世界を見せてくれた。

 ただそれだけでいい。

 心よりも事実が勝るときだってある。東にとって彼は絶対無二の存在であった。それだけだ。

「あった、ということは、その人は今…」

 聞きづらいなら最初から訊かなければいいのに。そう思っても訊かずにはいられないのが人間なのだろう。

 自分の手が届く範囲外から興味を失った自分と違って。

「もうこの世にはいない」

 一樹は今度こそ後悔する。自分の好奇心と短絡を恥じた。

 だが彼はそれすら責めない。過去を覗かれることに馴れているのか、他人に何を言われても動じないのか、その判断すらできずにいる。

 今度こそ東は背を向け去っていった。一樹もその後ろ姿をしばし見つめた後、自分も家に入ろうと門に手を掛ける。

 そのとき、風に流され言葉が聞こえた。

「?」

 それは空耳かと思うほどの小さな声。東の方から聞こえた気がしたのは気のせいかもしれない。

 ただ、そのはっきりともしない言葉が妙に頭に張り付いていた。


「あの世にもいないけどな」




 夕暮れの空に夜の冷たい風が吹き込み始めていた。

 一樹と別れた後、東はタクシーやバスに乗るわけでもなく、ぶらりぶらりと住宅街を歩いていた。特に目的地があるわけではない。ただ何となく家や支部に帰る気にもなれず、時間をつぶしていただけだ。

 徐々に日が沈む様子が正面に見える。すでに黄昏時を超え、夜と言っても過言ではない。

 一樹に自分の過去を話したのは気まぐれに過ぎない。

 元々引きずっている過去ではないし、吹聴されて痛いものではない。後生大事に傷を抱えるのはマゾヒストだと東は考えている。『ラプンツェル』と呼ばれるあの女と同じだ。

 傷に触れられるのが苦しいくせに、隠しているようで実は晒している。被害者であることに優越感を感じている。

 自分はかわいそうな人間なのだと。だからかまってほしいと。

 本当に傷に触れられるのが嫌な人間は本気で誰にも近づこうとしないものだ。

 後悔すること、傷を負うこと、引きずることが悪い訳じゃない。問題はそれをもう癒すことはできないと決めつけてしまうこと。

 変えるのは自分だけなのに、他人にそれを求めること。

 他人の力を借りることは悪くない。実際東自身がそうであった。彼を失い、彼女を支えることに疲れた。そんなとき東を救ってくれたのが夏音だった。

 奇跡は二度起こることもあるのだと、初めて生きることに希望を持てた。支え合って生きていくことの大切さ、誇りにすら思えるそれを教えてくれた。

 ロミオのように恋人を華美な言葉で飾り立てる趣味はない。

 理想の女性など興味はない。ただ欲しいのは共に歩く人間。自分を信じ、理解しようとしてくれる女性。

 東にとって守るべき女性が一人いる。一緒にいたいと願う女性が一人いる。どちらも東にとってかけがえのない人間だ。

 きっと世界中のすべての人が彼女たちを見捨てても、自分は決して見捨てない。それは理想ではなく決意だ。

 突然、無機質な電子音が鳴り響いた。音の出所は彼のポケットに入る携帯電話だ。

 画面に表示された名前は『千歳緑』。

 東は一呼吸置いた後、ボタンを押した。

「どうした」

 名乗るわけでも相手を確かめるわけでもなく会話を始めるのはあの人の悪い癖だった。それでもその傍若無人ぶりが格好良いと考える女性も少なくはないだろうが。

 電話の相手はやはり彼女だった。

「どうしたじゃないわよ。どこにいるの? 遅くなるならちゃんと連絡くれないと」

 言われて腕時計を見れば、いつもなら帰っていてもおかしくない時間だ。いつの間にか、自分で思っていた以上に時間が過ぎていたらしい。

「ちょっと野暮用だったんだ。すぐ帰るよ」

「それならいいんだけど。夕食はもうできてるのよ」

「じゃあ待っていてくれ」

 普通なら先に食べていてくれというべきなのだろう。しかしそれを言わないのが『彼』だった。彼女のすべてを占有したい。その瞳に入る者は自分だけであって欲しい。本気でそう考える人間だった。

 口は『彼』であるのに、その表情はどこか悲しげであった。

 どんなに『彼』であろうとしても、その心だけは騙せない。『彼』の言葉を口にする度に、『彼』の顔をする度に、心がずきずきと痛んだ。

 幼少期の傷など気にしたことはない。気にするほどの痛みもない。痛みを感じる感性すらなかったのだから。

 だが、もう一つの傷は何年も経った今でも時折ジクジクと痛みを思い出す。自分で決めたことなのに、未だにそれを悲観する自分が確かに存在する。

 一番悲しいのは、彼女に罪悪感どころか、罪の存在すら気づいていないことだ。

 それでも彼女を責めることはできない。自分にそんな権利はない。

「それじゃあ、待ってるわね。遅くならないでね」

「俺が必要以上におまえを待たせたことないだろ」

 それもそうね、と彼女は笑い電源を切った。

 彼の所有物であることを彼女は厭わない。むしろそうであることを望んですらいる。なら、今になって彼らに訊きたい。自分は、あなたたちにとって何だったのか、と。

 切れた電話の向こうから無機質な電子音だけが流れてくる。彼女は決して答えてはくれないだろう。彼女にとって自分は『彼』でしかないのだから。

「…【人生は歩き回る影】」

 マクベスの一文が頭によぎる。


 【人生は歩き回る影、あわれな役者。

 出番の間は舞台に闊歩し、大声で喚いていても、その後はもう何の音も聞こえぬ。

 人生は阿呆の語る物語。

 響きと怒りだけは物すさまじいが、意味するとことは、無だ。】


 本当に人生が舞台の上の出来事なら、あの人の舞台に自分という役が現れることは二度とないだろう。

 忘れられたレアーティーズはハムレットを演じる。どんなに無価値なことであるとわかっていながらも。

 彼女の中に自分は確かにいるのに、彼女の目に自分は決して映らない。それが悲しく、それが自分にふさわしい罰なのだと言い聞かせた。

 自分は舞台の上に立つ亡霊。なら、舞台の終わりには消えるのが上等だろう。

 願わくば、彼女の舞台に自分がいた証が一つでも残っていますように。





「【全世界がひとつの舞台、そして人間はみな役者にほかならぬ】」

 夜景を眺めることができるビルの屋上。少年は一人歌う。誰に聞かせるわけでもない。ただこれからの幕開けを、そしてその先にある幕引きを祝って。

 誰も聞いていない、しかし澄んだ歌声が夜の風に混ざり流されていく。

「【さて、いよいよ、この奇妙にして波乱に満ちた一代記を締めくくる最後の幕は、歯もなく目もなく、味もなく何もない無に帰るのみ】」

 舞台の終わりに言う台詞はもう決めてある。後は役者を待つばかり。最上の舞台を作るための準備は少々手がかかるだろう。しかし、その苦労すら最後に待つ快楽の前には惜しむ必要などない。

「さあ、始めようか」

 開幕のベルはすでに鳴った。役者を舞台の上に引きずり出せ。カインの刻印に消えぬ傷を上から消えないくらい深く刻み込め。

 さて、まずは餌を用意しなければ。






 約束は守るためにあると一樹は思う。それはおそらく常識ある人間にとって当然のことであるはず。だが、あの男にとってはたいした意味はないのかもしれない。

 最初に連絡が来たのが支部に案内された次の日の朝。次の日曜、時間を空けておけとこちらの都合も聞かず、一方的に告げてきた。

 家にかかってきた電話を姉から受け取った時から嫌な予感はしていたが。しかし、文句を言っても無駄だとわかっているので断ることもできない。拒否権すら許してはくれないようだ。

 しかし、そう考えることができる今の自分は、かなり彼という異常に慣れてきてしまっているのかもしれない。それに気づくとかなりショックを受けていた。

 姉はそういう人だからとまったくフォローもしない。実力はあるのかもしれないが社交性が壊滅的に欠落しているらしい。恋人にそんな評価される人間って、大丈夫なのだろうか…。

 とにかく、そんな一方的な約束と言う名の強制が取り交わされたのが火曜日の朝。そしてそれが反故にされたのが土曜日の夜。それも言い出した本人の方から、これまた一方的に。

 電話は十秒足らず。

「急用ができた。明日の予定はなかったことにする」

 以上。思わずふざけるなと叫ぼうとしたが、ふの字が出る前に通話が切れたことを表す電子音が受話器の向こうで鳴っていた。

 もはや、怒る気にすらなれない。いや、これはもう怒った方が負けなんだと、疲れるだけなんだと理解した。同時に激しい脱力感に襲われたが。

「姉さん、よくあんなのとつきあえるね」

 思わずそう聞いてしまうほどに。

 その話を持ち出したとき、姉は一瞬目を見開き驚いたが、すぐにうれしそうな顔を見せた。

「なんでうれしそうなの」

「一樹君が東と仲良くしてくれているから」

 仲良く? そう言われれば断固否定する仲であることは確かだ。

「冗談でもうれしくない」

「そう? 私はうれしいな」

 東は長い間友人もほとんどおらず、支部以外での交流はほとんどないに等しいらしい。決まった人間としか交流しようとせず、それ以外に対しては無関心。あんな性格では友達がいないと言われれば納得してしまう。

「彼、友達少ないから、一樹君が友達になってくれるといいなって、ずっと思ってた」

「俺はあいつが嫌いだったよ」

 いつの間にか過去形となっているそれ。それは一樹自身も気づいていた。

 数日前までの一樹の仲での東の評価は最愛の姉を奪う、嫌な奴だった。なのに、あの事件が起こって、彼の生きる世界を知って、彼の過去を聞いて、その評価が変わり始めている。

「好きじゃないって断言できるのに、でも嫌いじゃなくなってる。あいつが嫌な奴であることに変わりはないのに、今はもうただの他人じゃなくなってる」

「あのね、世の中には二通りの人がいるの」

 いつものように、親や教師が子供に説明するような口調。しかし彼女にとってこれが常でもある。だから余計子供扱いされている気分になるのだが。

「好きでも嫌いでもない人がいてもいい人と、好きか嫌いでしか分けられない人」

「会ったことのない人間なら好きか嫌いかなんて判断できないじゃないか」

「ううん、それは最初から人と認識していないの」

 名前も知らない、すれ違っただけの人間は自分の世界に存在しない。ただの風景でしかない。

「自分の世界には好きな人もいれば嫌いな人もいる。そのどちらでもない人もいる。でもそれは無関心だからじゃなくて、区別が付けられていないだけ」

 二つにしか分けられない世界じゃないから。

「きっと、一樹君も東も前者。そして二人ともまだお互いが好きでも嫌いでもない人に区分されている」

「まだってことは、これから変わることもあるってこと?」

 夏音はコクリとうなずく。

「区別されていない人の中には、相手を理解していないから入れることもあるの。東はすぐに放りだしてそこに入れちゃうけどね」

 確かにあり得そうだ。相手を知らなければ好きか嫌いかなんて決めることはできない。だが東の場合、知ろうとする努力すら面倒くさがるのだろう。そして放り出すのだ。いや、そもそも忘れてしまう可能性だって十分あり得る。

 もし自分に素質がなければ、あの事件がなければ、彼は自分のことを忘れてしまったままだったのだろうか。

 きっと今はまだお互いの世界に踏み入れたばかり。ここで終わらせたくないと、漠然と思った。

 もしあの誘いを断れば自分の記憶は消されてしまう。それでいいのだろうか。記憶を失っても彼は変わらず姉の恋人であるだろう。だが、もう今のようにはなれない。それは嫌だ。

「男のことを知りたいなんて、自分で考えただけでも鳥肌が立つ」

「そんなことないよ。相手のことを知りたいと思うことに性別なんて関係ないよ」

「俺自身、どうしたいのかはっきりとわかってるわけじゃない」

 友達になりたいわけじゃない。ただその他大勢で終わらせたくなかった。ついこの間まで一番嫌いな人間だったのに。

「世の中言葉ですべてを説明できるものばかりじゃない。きっと君が考えたことはこう」

 一樹の胸を指さし、夏音は笑う。

「気になるから。放っておけないから」

 昔からなんだかんだ言って世話焼きだったもんね。

 そう言われてみればそうだったかもしれないと、自分を振り返ってみる。なるほど、確かにそうだった。口では嫌いだと言いながら、困っていると放っておけない。その人間が一人であればあるほど、目が離せなくなる。

 ならば獅童東という人間はそれに十分当てはまると言える。

「余計なお節介になるかも」

「いいのよ。東にはそれぐらいがちょうどいいんだから」

「それでいいの?」

「いいのよ」

 本当にこの人は誰が相手でも保護者のような人だ。暖かく包んで、かと思ったら実は厳しかったりする。きっとあの出来事があっても今までまっとうに生きられたのはこの人のおかげだ。

「共有したかったの」

 突然、前触れもなく夏音は言う。そのため一樹は最初何を言っているのかわからなかった。意味がわかっていない一樹に夏音は言う。

「最初の質問。何で彼と一緒にいるのかって」

 最初に一樹が出した疑問。よくあんなのとつきあえるなと。それに今夏音は答えているのだ。

「私もね、ちょっとだけ君みたいに関わったことがあるの。最初は君みたいにつきあいにくい人だなって思った。でも、その頃の彼は今以上に独りだった」

 すぐそばに他人はいるのに、彼の心の中には誰もいない。罪悪感と喪失感だけが彼を支配していた。そう、最もそばにいる彼女でさえ、彼を見てはいない。

 失いたくないから、誰の一番にもなれないから、心を閉ざした。

「本当に好きな人の一番になれないことは辛い。でもその人の幸せを守る為に一人戦っていた」

 最初は彼らが生きる世界に興味を持ったから。知りたいと思った。だが、彼を少しずつ知る度に、彼自身を知りたいと思うようになっていった。

「孤独で、一人にならないと泣けない。そういう人だった。人を信じることを恐れて閉じこもってしまっていた。一緒にいる内に、支えてあげたいと思った」

 この孤独な魂を。少しでも癒してあげたいと。

「最初は同情だったのかもしれない。でも、今は彼じゃないと駄目なの」

 同じような過去を持つ人間が現れたとしても、夏音は東を選ぶだろう。それは庇護欲とかではなく、愛情があるから。

「彼が生きる世界を知れば彼と同じものを見られるような気がした。少しでも彼と同じ世界を共有したかったから」

 人を好きになるのに理由なんていらないと言った人がいた。きっとその通りだ。きっかけさえあれば、人は人を愛せる。

 その言葉で十分だ。一樹は諦めと同時に寂しさを感じていた。

 姉の世界から彼を取り除くことはもうできない。一時的な恋愛じゃない。これから先永劫も共にあることを望む。そう言ったも同然だ。

 神様の祝福なんて必要ない。彼らの世界はそこで完結している。誰も崩すことは許されない。

 だからこそ一樹は諦め、同時に姉が遠くへ行ってしまったような、寂しさも感じていた。

 いつか嫁に行くことは重々承知していた。それは一樹がどんなに反対してもどうしようもないということも。

 シスコンだと言われるがそれがどうした。そんなこと自分が一番よくわかっている。すべての優先順位のトップにはいつだって夏音がいた。夏音がいたから今の自分がいるのだと断言してもいい。そんな姉の一番になりたかった。いつまでも一緒にいて欲しかった。

 だが、夏音にとって一番は獅童東に決まってしまった。きっと何があろうとも、彼女は彼のそばに有り続けるだろう。

 東とつきあうまで、恋愛をほとんどしたことのない姉の交際はかなりショックだった。いつだってアプローチをかけてくるのは男の方。優秀で聡明な夏音を見逃すはずもない。しかし夏音は誰ともつきあわなかった。異性の友人は多かったが、恋人になる人間は一人もいなかった。

 そんな夏音が初めて作った恋人。それは一生を賭けるに値するほどの想い。姉は一樹の姉である前に、一人の女性であったのだと改めて認識する出来事でもあった。

 納得はできない。だが、もう仕方がない。

 ああ、今なら東の気持ちがよくわかる。自分にとって一番好きな人の一番が自分ではないことの辛さ。でもそれは相手の責ではないから文句も言えない。ただ自分の中で決着をつけるしかない。

「あいつが姉さんを泣かせたら、俺はあいつを殺しに行くよ」

 かなり本気だ。

 しかし夏音の方はというと、

「駄目だよ、殺しちゃ。せめて一発殴るくらいにしなさい」

 そんなことをしたら二人に会えなくなっちゃうから。

 殺すのは駄目でも暴力は良いのか。まったく本当に愛し合ってるのかそうじゃないのか、よくわからないカップルだ。

 そういえば、と。

「あいつ、何で自分のこと『僕』って言うの?」

 最初に会ったときから持っていた疑問。口調・態度・外見に似合わない一人称。ただそこに強い違和感を感じていた。

 夏音は「ああ」と、その疑問に納得し、どこかおもしろそうに言う。

「あれは彼なりの自己顕示なんだよ」

 自己顕示? すでに十分目立っているように見えるが。これ以上何を顕示しようと?

「説明すると長くなるんだけど、彼、必要以上に自分を誇示したがるの」

「どうして?」

「自分は確かにここにいるってことを知らせたいから」

 誰に? それは他人に、そして自分自身に。本当に知らせたい人には決して届かないから。時々自分の存在に不安を感じてしまうから。

「派手なファッションやアクセサリーもその為だよ。髪だけは面倒くさがってやらないけどね」

 一々色を直すのが面倒だからと、髪型を変えるだけにしておいたと昔言っていた。そのままでも十分格好良いよと褒めたら、素直に喜ばず、でも逸らした顔は赤くなっていた。うれしいならうれしいと素直に言えばいいのに。

 そこがかわいくもあったのだが。

「いつか君も知る日が来るよ。彼を理解したいと思い続けるなら」

 そのときどうするかは君次第。ただ、きっと君は東を傷つけたりはしない。私の勘は当たるんだよ。

 この出会いはきっとすてきなもの。いつかやってくる終わりを悔いのないものにするための。

 あなたは嫌うかもしれない。でもね、私はあるのかもしれないと思うんだ。

 それは―――――――。






【】ウィリアム・シェイクスピア著『マクベス』『ハムレット』引用

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