01
幼い頃から繰り返しみる夢がある。
夢の中で私は、いつも決まって言い争いをしている。舞台はどうやら教室らしい。私は彼が好きで、けれど、彼は私の元から去っていこうとする。
「いやだ!いやだ!絶対に離れてなんかやんない!あんな、女、死んじゃえばいいのに!」
彼にみっともなく追いすがりながら、彼を奪う女への罵倒を吐き出す。彼は侮蔑の表情を浮かべて、私の手を振りほどく。
「五夢ちゃん。俺は五夢ちゃんのものじゃないんだよ。誰のものでもない、――そのことをあの子が教えてくれた」
どうしてそんなことを言うのだろう!彼はずっと私のそばにいるべき人なのに!
喉が張り裂けるくらい叫んだって、彼はわかってくれない。
彼が変わったのは、あの女がやってきてからだ。それまではいつだって私と一緒にいてくれていたのに。彼女が悪いのだ。だから。
だから、彼の前から消えるように、彼女がいなくなるように、細工した。私物をめちゃくちゃにしたり、体育倉庫に閉じ込めたり、トイレで上から水をかけたり、私を好きだといってくれる男たちをけしかけたり。何も好きでやったわけじゃない。人のものを奪おうとするからいけないのだ。それを教えてやりたかった。
それなのに。どうしてだろう。どうして、彼はこうして離れて行ってしまうのだろう。
「俺はお前が鳴海にやったことを許さない。俺は、」
「っ、言わないで!」
叫ぶように彼の言葉を遮った。胸が張り裂けそうだ。このまま死んでしまいそうなくらい痛い。
「言わないで、言わないで、言わないで!聞きたくない!」
けれど私の必死の叫びもむなしく、彼は言葉を続ける。
「俺は、鳴海のことが好きなんだ」
その瞬間に眼が覚める。反復する夢に怯え、幼稚園生の私はお父さんとお母さんに泣いて縋っていた。
「大丈夫だよ五夢。怖い夢を見たんだね。もう大丈夫」
そう言って二人は私の頭を優しく撫でてくれていた。小学校にあがる少し前に交通事故で両親を亡くしてからは、祖父がその役割を引き継いだ。そうして、その祖父の家で、私は織部誉と出会った。誉は白い肌に黒々とした瞳と長い睫毛をもった、人形のようにきれいな少年だった。
彼の父は祖父のお抱えの運転手をしていた。両親がいなくなってからというもの、すっかり泣いてばかりになった私の遊び相手に、と祖父が誉を呼び寄せてくれた。
「あのね、いつむちゃん。ぼくもおかあさん、しんじゃった。だけど、おとうさんがおしえてくれたの。ぼくがないたら、ないてるぼくをみておかあさんもかなしくなってないちゃうけど、ぼくがわらうとおかあさんもわらってくれるんだって」
「でも、……っひっく、おかあさんもおとうさんももういつむのそばにいないもん!おとうさんもおかあさんも、いつむのそばにいてくれないんじゃ、……っ、わらっていたってないていたって、いつむ、わからない……」
誉は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった私の顔を洋服のすそで拭った。
「じゃあ、ぼくがいつむちゃんのそばでないたりわらったりするよ。そうしたら、いつむちゃん、ぼくのかおをみればおとうさんとおかあさんのきもち、わかるでしょう?」
私はその言葉と笑顔に、わんわん泣いてしまった。
それからというもの、どこに行くにも誉と一緒になった。誉はどこそこと行くような子ではないから、ほとんどの場合私が誉を引っ張りまわした。片時も離れていたくなかった。
誉はやさしかった。
小学校にあがり、誉と違うクラスになったことでかんしゃくを起こしたときも、私を必死になだめて、学校から家に帰ってからの時間を私に当ててくれることになった。
私は誉を独り占めにすることができてご機嫌だった。そうして、学年が上がるにつれて、それが日常になっていき、私は彼が私のそばにいることが当たり前だと思うようになってしまった。だから、学校で彼が私以外の人と親しく話しているのを見ると、胃がむかむかして仕方がない。プライドが人一倍高かった私は家に帰ってから、誉に当り散らす。
「なんで!なんで、山井さんと楽しそうにしてるの!そんなことしていいと思ってるの!?」
「だめ?」
「だめ!誉は私のものなんだから、私と一緒のときしか楽しんじゃだめなの!笑うなら私の前だけにしてよ!」
その言葉に彼は困ったように笑う。
行き場のない感情に誉を叩いたり抓ったりしたことも一度や二度じゃない。そんなことをしても、誉はあいかわらずそばにいてくれた。
違う。
父親の職業の手前、私を拒絶することができなかったのだろう。
そんなことにうすうす自分でも気付いていたのか、次第に私は誉の顔を見るにつけて、嫌な予感めいたものを感じるようになった。
誉に会ってからみることがなくなっていたあの夢を再びみるようになったのは、小学四年生の夏休みのことだった。お盆になると、誉と彼のお父さんは実家に戻る。彼の不在は退屈だった。そんなある夜のこと。
『俺は、鳴海のことが好きなんだ』
その言葉にはっと眼が覚める。わけのわからない感情で早鐘を打つ心臓をおさえる。全力疾走したわけでもないのに呼吸がひどく荒い。あたりは暗く、まだ夜中だった。
夢の中の彼の顔に、私は見覚えがあった。
誉だ。
嫌な汗が背中を伝う。
今の彼より大人びているけれど、あれは誉の顔の顔だった。きゅっと押しつぶされるように胸が苦しい。気がつくとぼろぼろと涙がこぼれていた。
いやだ!いやだ、いやだ!
不安で仕方がない。だからといって、もう怖い夢をみたと祖父に縋りにいくような年齢でもない。
夢だ。ただの夢だと、必死に気持ちを落ち着けようとする。けれどその夜、もう一度眠りに就くことはできなかった。
次の夜も、その次の夜も、同じ夢をみた。その度に飛び起きる。
誉が戻ってきてからも、夢は続いた。夢のせいか、私はいままでのように誉に接することができなくなった。夢の意味を考えた。これまでの自分を思い返してみた。私は確かに夢の中で誉が言っていたように、彼を自分のものとして扱ってきたのかもしれない。そのことに初めて気付いてしまった。それで、怖くなった。
誉はこんな私のことをどう思っているのだろう。
「五夢ちゃん?」
様子のおかしな私に、誉は心配したそぶりをみせる。けれど、そんな心配も、私の機嫌を損ね、自分の父の立場が悪くなることを恐れたものなのではないかと思えてくる。だって、誉にしたことを私がされたら、どう思うだろう。嫌いになる。そんな相手の心配なんて、私には逆立ちしたってできそうにない。
「誉……」
「うん。どうしたの?顔色が悪いよ」
私は考えた。
どうすれば、誉は私のそばにいてくれるだろう?誉に好かれるためにはどうしたらいい?
今まで好かれる努力をしてこなかったから、私には自分が何をすればいいのかわからなかった。
「誉は、――……」
瞼の裏に、去っていく誉の後姿がちらつく。振り払うようにぎゅっと目を瞑った。
誉は、私のこと、嫌い?
喉奥までせり上がってきた言葉をごくりと飲み込む。その質問だけはどうにも聞けそうにない。
「誉は、私のそばにいてくれるって、言ったよね?私のそばで笑ったり泣いたりしてくれるって」
いつになくおどおどと訊ねる私に、誉は動揺した様子ながらも、うん、と肯定してくれた。