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腹が減るという現象はこの電脳世界においても存在する。というのも、現実の身体からのそういった生命に関する危険信号は無視できないシステムになっている。痛みはともかく、睡眠も同じである。だから生活習慣は比較的変わることはない。中毒になってしまえば話は変わるが。そういうわけで、俺達はレストランの固めのシートに座り、満腹感を促すホルモンを分泌させながら架空の食事を摂っていた。
「で、だ」
「話す前に口に含んだ飯を飲み込んでからにしろ」
「いいじゃねぇか。どうせ架空のもんだ」
「架空どうのこうのじゃなくて、感覚の問題だ。そんな汚いもん見せられて興奮する馬鹿はいない」
「いやいるさ。じゃなきゃ、スナッフビデオなんて世に出回りやしないだろう? こういうジャンクが楽しみな人間もいるのさ」
呆れてもものも言えず、ガラス張りの窓の向こうの景色を見ながら話を聞くことにした。
「さっきの現象、一体何だと思う?」
「知ってたら対処できる。死体が動き出すなんて……」
「おっと、ここは電脳。間違えるなよ? ま、どっちにしろ動き出すなんておかしいんだが。死亡判断がくだされたのが何時か、ってのがミソになってくるな」
「死亡判断が正確に下されなかった……?」
「SOS信号が発信されているのに、明らかに生きていられるような状態じゃなかった。死亡判断プロセスのどこかしらでエラーが起きた可能性が高い」
「だとしても、だ。俺達を襲う理由がどこにある?」
「分からん。意識が混濁していたのか、なんなのか……分からん事ばっかりだ、といいたいところだが」
マイクの声が妙に真剣じみていた。外の景色からマイクへと目を向けると、水で喉を潤しているところだった。コップいっぱいを飲み干したところでマイクが視線を落としながら俺に訊いてきた。
「なぁ、覚えてるか? 消失連続殺人事件」
心臓の音が外に漏れていたなら、大きく脈打った俺のことをマイクは見ただろう。だが、心臓の音が外に漏れ出ることはない。相手に俺へのハッキングがされていない限り、セキュリティにプロテクトされている限りは。俺はできるだけ平静を保って返事を返した。
「あぁ」
「現世じゃありえない犯罪だ。次から次へと殺人を犯し、その痕跡を一つも残さない。まるで煙のような存在だったらしい。ここだけの話、犯人はなかなかのサディストだったらしい。生きたまま連れ去り、殺人現場の森に野放しにしてプレデター真っ青の狩りを楽しんでいたっていう話だ」
消失連続殺人事件。実際は事故で処理されているが、事件と称した方が出回り浸透するのが早いらしく世間ではそう呼ばれているらしい。その事件を起こしたのは誰でもなく、この俺である。本来、こうした事件が世間に広がることはあまりない。こういった事件は一日で何十件も起きているような世界だからだ。だが、この事件がこうして有名になった理由は、もっと別にあるが。
「デタラメなもんだ。でも、この世界自体がデタラメなんだからこれが普通なんだろうさ。で、だ。一説ではこう言われてるんだよ。犯人は瞬間移動できるってな。まるで映画だ。そう、さっきの出来事みたいに」
「人が瞬間的に動いたり、死体が動くなんて」
「ありえない、なんて言い切れるのか? この世界で? 冗談。この世界は何でもありなんだよ。自然的な現象なんてありえない、全てが模造。魔法が本当に使える魔法の世界だ。この世界に常識はありえない。人間の欲と希望の入りまじった、ドブネズミにお似合いの場所」
そう言い切って、水をつぎ足して喉を鳴らして飲み干した。また、つぎ足して飲み干す。そしてまた。四回も繰り返したところでやめて、こんな風にな、と言った。
「現実じゃあこんなに水は飲めやしない。人間の機能でそれが制限されるからだ。でも、どうだ? 俺はまだまだ飲める。暇がありゃずっと飲める。それは、この世界じゃ制限なんてないからだ。人為的な制限はあれど、自然的な制限なんてありゃしない」
そういって、水の入ったピッチャーを振ってみせた。
「水は満タンだ。俺が何回飲んだって、これは変わらない。俺に処理されているはずなのにな。いつの間にかつぎ足されてる。便利なもんだ」
ピッチャーを降ろして、背もたれに背を預けながら彼は言う。この世界は非常識だと。非常識が常識なんだと。
その非常識を利用して、俺は自分のやりたいことをやってきた。自分に力があるんだと勘違いして、欲が駆り立てるままに遊びまわった。そうして、俺は人を殺した。運が悪いとかじゃない、自分が招いた結果なのかもしれない。ありえないことなんてありえない。この世界で人を殺しても、現実の人間が死なないなんていう常識は通じない。
「……この世界のあらゆる現象は、全て人が生み出したもんだ。だから、あの非常識な現象だって誰かが起こしたことなのかもしれない。俺はそう思ってる。お前もそう思ったから、あの時、外に飛び出したんじゃないのか?」
あの時のこととは、神父とシスターが動かなくなってからのことを言っているのだろう。
「いや……あういう演劇じみた殺人を犯す輩は、その光景を目の当たりにする人間を観察するのが楽しみだって聞いたことがあったから。だから、近くに犯人がいたんじゃないかと思ってな」
「……そうか」
演じなければならない。まだ、俺はその事実に近づくわけにはいかない。常識人でいなければならないのだ。俺が許される時まで、俺は誰にも捕まるわけにはいかない。俺の人生をここで終わらせるわけにはいかない。
「とにかく、あの現象はおかしい。ここのサーバーの管理会社に問い合わせても、原因不明ときた。何が何やら、だ。ま、おとなしく謹慎しとけってこの世界の神のお告げかね」
そう言ってマイクは立ち上がり、伝票をもって出口へと向かった。
「今日は俺のおごりだ。ま、また謹慎がとけたら返してくれよ」
ピ、と電子マネーから二人分のコーヒー代が引き落とされた電子音と共に、マイクはこの店を出た。人通りの中にマイクの姿が完全に消えた時、俺は思わず大きく息を吐いていた。
いつまでも隠し通せるとは思っていない。だが、自ら話しだす勇気も到底持ちあわせちゃいない。どうしようもない、人間だ。窓の向こう、ビルに備えられた大型モニターに現実世界そっくりのキャスターが今日起きた殺人事件の件数を読み上げる。もちろん、電脳世界のお話だけれども。
それに見向きもしない人々。この世界では当たり前のようにして起きる事柄で、まるで明日の天気は何なのか程度の気持ちでしか見ることはない。場所が近くても、遠くても、まるで遠い場所での出来事のようにして生きていく。現実の世界なら騒ぐような出来事も、この世界ではちょっとしたアクシデント。俺が起こした事件による騒動も今では収まっていて、あれから人が死ぬようなことはない。事故として処理され、技術者がさらに命の安全のために尽くし、それが人々に理解が広がっていき、誰もがあの死を過去のアクシデントとして終わらせている。
事件とよんでいいのか、微妙なラインでもあるあの出来事はそれでも、俺にとっては立派な殺人だった。人を殺す行為、一種の儀式的な行為をして、人を死に追いやったことは間違いないのだから。
しとしとと雨が降りだした。その雨も結局は幻想でしかなく、それに戸惑う人はいない。即座に防護機能が働いて、体の周りの雨のエフェクトを消す。感触も、冷たさも、匂いも。そんなふうになれたら、どれだけ楽だろう。俺自身を消そうと思えば消せる。自分のキャラクターをID管理企業に消すよう申請すれば、俺はこの電脳から消えてしまえる。けれど、現実からは消えることはできない。こんな俺でも、親には感謝はしていて、産んでこれたことにすごく感謝しているんだ。そう、今では。ちょっと前はそんなこと、思ったことないのに。二十歳の節目の時や、経済的に苦しくなって助けてもらった時にも感じなかったことが、今では何をするにもこんな感情が沸き起こる。
それは、自分の情けなさを正しさで掻き消そうとしているだけだ。そう、考えが及んだ時、俺は俺自身を許せなかった。自分だけがやりたいことをやって、必要なときにだけ親に頼ろうとする自分が。ましてや、殺人を犯したような自分が、他人に、しかも肉親に許されようなんて甘いにも程がある。だから、俺は俺自身が許せるまで、献身的になろうと思った。おかしい話だとも思う。自分が許す時を決めるなんて。けど、こうでしか自分を正せないと思ったのだ。誰からかの許しは自分にとっての本当の救済なのか。きっと、他人から赦しを得た時、俺はこう思う。恥ずかしい、と。
『午後九時になりました。十八歳以下は速やかにログアウト願います。繰り返します。午後九時になりましたーー。』
街中にアナウンスが鳴り響く。いつの間にか日も暮れて、街中は街灯の明かりで昼とはまた違った明るさで覆われていた。
感傷に浸りすぎたな、と苦笑いを抑えきれないまま立ち上がり、レストランを出る。少し肌寒い風が吹き抜けていく。次々にログアウトしていく人、帰るべき場所に帰っていく人、これから遊びに行く人、そんな人々を少し眺めて、俺はその流れと逆方向へと歩く。なんとなくとった行動だったが、それがまるで自分は普通の人とは違うと表現しているような行動に思えた。




