1-1 ハロウィン、渋谷
十月三十一日、午後六時四十分。渋谷駅前一帯は、すでに祝祭の体裁を保ちながら、祝祭そのものの内実を失っていた。人が集まっている、というより、人の流れが飽和していた。スクランブル交差点へ向かう流れ、センター街へ散る流れ、駅へ戻ろうとして戻れない流れ、それらが互いの進路を潰し合いながら、なお全体としては一つの膨張として見えていた。警備員の声は高く、交通整理の案内は正確だったが、その正確さで捌ける量は、とうに越えていた。
舜一は、その渦の外縁を絢美と並んで歩いていた。中央へ寄れば、たちまち他人の速度に巻き込まれる。かといって外へ退きすぎれば、今夜の渋谷が何によって成り立っているのか見えなくなる。都市には、ときに中心より周縁のほうが、全体の癖をよく露わにする瞬間がある。人が押し合いへし合いしているそのさまより、押し合いへし合いするに至る前の、半歩のためらいや、視線のわずかな偏りのほうに、街の意志は出る。
空気はまだ冷え切っていなかった。昼の残熱を吸った舗道、排気ガス、アルコールの甘い匂い、香水、唐揚げめいた油の臭気、人の呼気。そうしたものが地表近くに溜まり、風に解かれず、街路の高さで薄く層を作っていた。渋谷の夜は、冬の入口にあるようでいて、まだ夏の疲労を捨てきらない。季節の切り替わりが遅れるのではない。人が多すぎて、空気が入れ替わる暇を持てないのである。
舜一は立ち止まった拍子に、仮囲いの継ぎ目がわずかに浮いているのを見つけ、考えるより先に指で押し戻していた。癖のようなものだった。子どもの頃から、剥がれかけた紙や、半端にずれた敷物や、噛み合っていない戸の音が妙に気になる。直したところで何が変わるわけでもない。だが、そのままにしておくと落ち着かなかった。
絢美には前に一度、「舜一って、場所より継ぎ目を見てるよね」と笑われたことがある。からかわれたようにも聞こえたが、舜一自身には意味がよくわからなかった。継ぎ目など見ているつもりはない。ただ、ちゃんと閉じていないもの、きれいに噛んでいないものが目に入るだけだった。
大型ビジョンの光が、交差点の頭上で絶えず切り替わっていた。化粧品、動画配信、海外ブランド、短いニュース、音楽アプリ、また広告。どれも洗練され、どれも同じ速さで消えていく。その規則性が上質であればあるほど、見上げた瞬間、考えが一拍遅れる。目だけが先に疲れる。
仮装した若者たちが、その光の下を流れていく。悪魔の角、血糊のついたナース服、マント、粗い着ぐるみ、耳のついたフード、ひどく寒そうな薄着。個々には稚気であり、虚勢であり、単なる遊びにすぎないものが、群れとして見た途端、別の意味を帯びる。彼らは目立とうとしているのではない。むしろ同じ夜に属そうとしている。匿名のまま、ただ今夜だけの共通項に身を預ける。その欲求が、仮装という軽い形式を借りて街路へあふれていた。
舜一は隣の絢美を見た。彼女は周囲の騒がしさに気圧される様子がなかった。手にはいつものノートがある。文庫本ほどの大きさで、角が潰れ、表紙に何度も雨を吸った痕が残っている。歩きながら何かを見るたび、短くメモを取る。その視線は雑踏に向いているようでいて、雑踏そのものを見てはいない。人の多さではなく、その流れがどちらへ向いているかを見ていた。
絢美は昔から、ものを地点として見ない癖があった。神社そのものより、そこへ至る坂を見る。碑文そのものより、誰がどの角度から読むかを見る。舜一はそれを知っていたし、厄介な癖だとも思っていた。
ただ、その癖に救われたことが一度だけある。二年前、再開発案件のプレゼン帰り、舜一は図面の上では立派に見えるものが、現場に立つと急に薄っぺらく感じられる理由を言葉にできずにいた。半ば意地になって絢美を現地へ連れていったが、彼女は着くなり首を振った。
「ここじゃない。見たいなら、こっちから来ないと駄目」
正面の搬入口ではなく、脇の坂を遠回りする。舜一は苛立ったが、上りきって振り返った瞬間、言葉を失った。昼に会議室で見た完成予想図が、その位置からだけ、現場の向こうのビル壁面とぴたり重なって見えたのである。そこに建つはずのものが、どの高さで空を切り、どの角度で人の視界を塞ぎ、どこで足を止めさせるのか。正面から見ただけではわからないことだった。
あのとき舜一は、自分が土地しか見ていなかったことを知った。絢美は土地ではなく、そこを通る人間が何を見せられるかを見ていた。話が一度で済まないから厄介だ。だが、その癖がなければ見えないものがあることも、舜一は知っていた。
しかも絢美は、景色だけでなく、舜一が見ないふりをしたものにも妙に気づく。前に駅の階段で、舜一が段の端のわずかな沈みを無意識に避けたときも、絢美は平然と「今また気にしたでしょ」と言った。少し腹立たしかったが、絢美だけはそういう違和感を、考えすぎだとも疲れだとも言わなかった。そのことを、舜一は思っている以上に覚えていた。
「今年も多いな」
舜一がそう言うと、絢美は顔を上げずに「毎年そう言ってる」と答えた。声は静かだったが、注意は別のところへ向いている。舜一は苦笑して、何を書いているのか横目で見ようとして、やめた。見せろと言えば見せるだろう。だが今ノートにあるのは、まだ結論ではなく、言葉になる手前の感触のはずだった。
駅前広場の手前で、若い男二人がスマートフォンをかざしていた。インカメラで互いの顔を映し、笑いながら何度も角度を変えている。画面の中では、顔立ちの骨格がほんのわずかに整い、目元の陰影が深くなり、背後の雑踏まで妙に湿度を帯びて見えた。ただの美顔補正ではない。人物だけでなく、空間全体の質感に手が入っている。
「やっぱこれ、背景まで変わるのがえぐい」
「M-KADO、今日やばいだろ。絶対さらに伸びるって」
舜一はその単語を聞きとめた。M-KADO。数日前からSNSでやけに見かける名前だった。顔が整う、光が映画っぽくなる、夜景が盛れる、街の空気まで加工できる。加工アプリなら珍しくもない。だが、その評判の立ち方には、単なる流行より一段速い勢いがあった。
絢美がその画面を短く見た。眉がほんのわずかに寄る。彼女が露骨に警戒を示すことは少ない。だが気に入らないもの、あるいは理屈より先に身体が拒むものを見たときだけ、あの小さな皺が眉間に出る。
「例のアプリか」
舜一が言うと、絢美は小さくうなずいた。
「うん。今日ここで大きいの流すみたい」
「広告?」
「たぶん。正式には体験映像とか言うんじゃない」
「そんなにダウンロードされてるのか」
「昨日の時点でもかなり入ってた」
それだけ言って、絢美は視線を上げた。巨大ビジョンにはまだ本編映像は流れていない。開始告知だけが数十秒おきに差し込まれている。新機能解禁、今夜公開、M-KADO。文字列は簡潔で、色彩は洗練されていた。たしかに良い告知だった。だからこそ、絢美の顔にわずかな棘が混じっているのが意外だった。
「そんなに嫌か」
舜一が訊くと、絢美はすぐには答えなかった。ビジョンではなく、その手前を横切る人の流れを見ている。
「嫌っていうか、まだうまく言えない」
「何が」
「見せ方が、ちょっと強い」
静かな言い方だったが、その声には珍しく固いものがあった。舜一はそれ以上追わなかった。こういう調子のときは、絢美自身もまだ輪郭を掴みきれていない。半端な問いで割り込んでも、本当に知りたいところには届かない。
スクランブル交差点の信号が赤に変わり、人の流れがいったん止められる。群衆は静止したように見えて、実際には止まっていなかった。肩が触れる。足が半歩ずれる。スマホが持ち上がる。笑い声が苛立ちに変わる。今夜の交差点は、見上げる方向まで一つに寄せられつつあった。
絢美がふいに言った。
「真正面から見るの、よくないかも」
舜一は顔を向けた。
「何が」
「たぶん、見る位置がある」
彼女はビジョンそのものではなく、その手前を横切る人の流れを見ていた。どこで人が立ち止まるか。どこで顔を上げるか。信号が変わるまでの数十秒に、視線がどう一方向へ揃っていくか。映像の内容より、それがどう受け取られるかの条件を測っているようだった。
「広告に位置があるのか」
「広告だけじゃない」
絢美はそう言って、ノートに二、三語を書きつけた。舜一はその筆圧が少し強いのを見た。何かを掴みかけているときの線だった。
舜一は見上げた。巨大ビジョンの背後にはビルの輪郭があり、そのさらに向こうには見えない坂と社叢がある。昼の渋谷なら意識もしない方角だ。だが今夜は、光の向きや人の滞留が、なぜか一つの面を作っているように感じられた。
「今なら、まだ帰れるぞ」
舜一は半ば本気で言った。
絢美はそこでようやく彼を見た。
「帰ったら、たぶん後悔する」
「見たら後悔しないみたいな言い方だな」
「するよ」
絢美は短く答え、それからごく小さく付け足した。
「でも、見ないで済ませたほうの後悔って、長く残るから」
舜一は少しだけ言い返せなくなった。絢美はときどきこういうことを平気で言う。こちらが見ないで済ませてきたものの輪郭を、先に知っているみたいに。
カウントダウンの表示が出た。十、九、八。群衆のざわめきが、ほんのわずかに沈む。七、六、五。先ほどまで散っていた視線が、いっせいに上へ寄る。四、三、二。絢美の指が、舜一の袖を掴んだ。彼女はビジョンを見ていなかった。その手前を横切る人波と、さらにその奥の見えない線を見ていた。
光が切り替わった。




