第二十一章「真の火点」
「あんたも、救えなかったんだな」
俺がそう言うと、蒲生の顔が、初めて崩れた。
水浸しの地下で、なおも火が、うなっていた。水の道の大河をもってしても、消えない火。その根は蒲生の胸の奥に、あった。俺はそれを、確かめるように、一歩近づいた。
「前の世界で、あんたは、司令だった」俺は、言った。「いつも、正しかった。梁の音を聞け、あと三十秒だ、切り捨てろ。あんたの判断は、いつも、正しかった。正しくて俺は、あの窓の一人を、燃やした」
「……正しかった」蒲生は、絞り出すように、言った。「三階は、落ちた。時間の、とおりに。俺の判断の、とおりに」
「なら、なんであんたの中で、火が燃えてる」
蒲生は、答えなかった。
火がまた、一つ、噴き上がった。その赤い光が、蒲生のこけた頬を、照らした。
「俺にも、あった」蒲生は、ようやく、口を開いた。低い、かすれた声だった。「お前のあの窓の右端と、同じものが。ずっと、昔に。俺が、まだ、若い隊員だった頃だ」
俺は黙って聞いた。
「大きな火事だった。逃げ遅れが、大勢、いた。俺は、全員を、助けようとした。一人も、切り捨てたくなかった。次々に、火の中へ、飛び込んだ。だが、俺の体は一つだ。一人掬うたびに、掬えなかった者が、増えた。俺が、あっちを助けている間に、こっちが焼けた。こっちを助けている間に、あっちが」
蒲生の手が、震えていた。
「最後に、俺は、選べなくなった。目の前に、二人」
蒲生の声が、そこで、詰まった。水浸しの地下に、火の爆ぜる音だけが、響いた。
「片方しか、掬えない。右へ行けば、左が焼ける。左へ行けば、右が焼ける。俺は、その真ん中で、動けなくなった。掌を右へ伸ばし、左へ伸ばし、また右へ。どっちも、選べなかった。あのお前と、同じように。凍りついた」
「そして、迷っている間に、二人とも焼けた。俺の目の前で。手を、伸ばしたまま。どちらの手も、届かせられずに」
蒲生は、その両手を、見下ろした。皺だらけの老いた手を。何十年も、あの夜の二人へ、伸ばし続けてきた手を。
「あの二人の伸ばした手を、俺は今でも覚えている」蒲生は、言った。「お前のあの窓の右端と、同じだ。消えない。何年、経っても。何万人、選別しても。消えないんだ、桧山。あの二つの手だけは」
俺は息を呑んだ。
あの窓の右端で、動けなかった俺。掌を伸ばしかけて、蒲生の声に、止められた俺。その俺と、同じ場所に蒲生も、立ったことがあったのだ。ずっと、昔に。彼のほうが先に、あの地獄を、くぐっていた。
だから、あの夜あいつは俺に、切り捨てろと言った。あれは意地悪でも、冷たさでも、なかったのかもしれない。俺があの二人の前の若い自分と同じ目を、していたから。凍りつく前に、止めようとした。俺を自分と、同じ地獄に、落とさないために。
半分だけ、正しい言葉。あのいつも半分だけ正しくて、俺を刺してきた言葉の正体がやっと分かった。あれは蒲生自身が、割れないために、握りしめてきた杖だったのだ。
「そのとき、俺は決めた」蒲生の目に、暗い火が、宿った。「全員を、掬おうとするから、こうなる。掬えない者を掬おうとするから、迷い動けなくなり、結局みんな死なせる。なら、初めから掬う者を、選べばいい。強い者だけを掬うと、決めておけば、迷わない。迷わなければ、凍りつかない。凍りつかなければ、掬える。切り捨てることは、救うことだ。俺は、そう、信じることにした」
強くなれない奴は、現場に立つな。切り捨てろ。救えないものを救おうとする奴が、現場を殺す。
前の世界で、蒲生が俺に、言い続けた言葉。その全部が、いま、繋がった。あれは、俺への説教じゃ、なかった。蒲生自身があの二人を焼いた夜から、自分に言い聞かせ続けてきた、呪いだったのだ。
「この世界に、落ちて」蒲生は、続けた。「俺はその考えを、突き詰められると、知った。灰王として。焼くべきを焼き、強き者だけを、残す。選別すれば、もう誰も、迷わない。誰もあの夜の俺のように、二人を前にして、凍りつかずに済む。……それが俺のたどり着いた、救いだった」
「それは救いじゃない」俺は、言った。「あんたは迷わないために、初めから掬うのを、やめただけだ。凍りつかないために、心を、乾かしただけだ」
「同じことだ」
「違う」
俺は木の椀を掲げた。水の道のいちばん澄んだ水を、湛えた椀。
「あんたは一人で、二人を掬おうとして、割れた。だから、掬うのをやめた。だが、答えは掬うのを、やめることじゃなかった。掬う手を、増やすことだった。あの夜あんたの隣に、もう一人、掬う手があれば。二人を、一人ずつ、掬えたかもしれない」
蒲生が俺を見た。その目が、揺れた。
「あんたは、ずっと、一人だったんだな」俺は、言った。
その言葉に、蒲生の動きが、止まった。
「掬うのも、迷うのも、割れるのも全部一人で。強き者だけを残すと、決めたその日からあんたは誰も、隣に置かなかった。隣に置けば、また、掬いたくなる。掬えばまた迷う。迷えばまた割れる。だから、あんたは、一人でいることを選んだ。強さとは一人で、切り捨てられることだと、信じて」
「だから、誰にも、掬われなかった。あんたの中のあの火は、ずっと一人で、燃え続けてきたんだ。誰にも、水を、渡されずに。何十年も」
俺は自分の言葉が、そのまま少し前の俺自身に、返ってくるのを感じた。
俺も、同じだった。一人で、全部を掬おうとして。一人で、燃え尽きようとして。ガランにネルに何度も、一人で抱えるなと、言われるまで。俺と、蒲生の違いは、紙一重だった。俺には、水を渡してくれる手が、あった。蒲生には、なかった。ただ、それだけの違いだったのかもしれない。
火が大きく揺れた。蒲生の胸の真の火点が。
「黙れ」蒲生の声が、震えた。「俺を、憐れむな。俺は、灰王だ。この世界を、統べる者だ。お前のその甘い掬い方が、いかに愚かか、これから大陸ぜんぶを焼いて証明してやる」
「証明なんか、いらない」
俺は椀の水を、両手で、包んだ。水の道のいちばん澄んだ水。いくつもの手を渡って、ここまで来た、一杯。
火は、斬れない。この男の胸の火も、斬れない。大河の水でも、消せない。だが、掬うことなら。この一杯を、この男に、手渡すことなら。誰にも水を渡されなかったこの男に、初めての一杯を、渡すことなら。
俺は椀の水を、こぼさぬように、蒲生へ一歩近づいた。
「あんたも掬われていいんだ」
蒲生の顔が、凍りついた。
その言葉をこの男は、生まれて初めて、聞いたのかもしれなかった。掬われて、いい。切り捨てられる側にいつか自分も、回るかもしれないと、怯えながら強き者を演じ続けてきた男。誰にも、水を、渡されなかった男。
「俺は……」蒲生の声が、揺れた。「俺は、もう、後戻りできん。この手で、いくつもの町を、乾かした。いくつもの村を、焼いた。今さら、掬われる資格など」
「資格なんて、いらない」俺は、言った。「渇いてる奴は、水を飲んでいい。それだけだ。あんたの手がどれだけ汚れてても、あんたの喉が渇いてることに、変わりはない」
火が、揺れた。蒲生の胸のいちばん深い火が、初めて細くなった。
だが、まだ、消えなかった。まだこの男は、俺の一杯を、受け取っていなかった。受け取ることが、この男にはいちばん、難しいことだった。
その胸のいちばん深い火に、俺の一杯の水はまだ、届いていなかった。
だが、あと、一歩だった。
上の階段から、まだ水が、繋がってくる。手渡しの列は、途切れていなかった。ネルたちが、火より速く掬う心を、繋ぎ続けていた。俺の背後には、いくつもの手が、あった。もう一人じゃなかった。
俺は蒲生の乾いた目を、まっすぐ見た。
この最後の火を、掬う。斬るんじゃない。逃がすんでも、ない。掬って、この男に、手渡すんだ。




