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転生消防士と、世界を焼く選別の王  作者: もしものべりすと


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第十七章「恥の地図」

からからに乾いた木の椀を、俺は灰の底で、握っていた。


火が、うなっていた。地の底から、じわじわと、熱が這い上がってくる。ネルが、俺の腕を引く。だが、俺は、動けなかった。ガランの動かない体が、そこにあった。俺の掬う手が、この老人を、ここへ連れてきた。俺の掬う手が、殺した。


掬うのを、やめろ。蒲生の声が、耳の奥で、繰り返された。強き者だけを、選んで救え。それが、誰も死なせない唯一の道だ。


そうかもしれない、と俺は、思いかけた。


俺が井戸を数えなければ。俺が水を開けて回らなければ。ネルも隠れ里の者たちも、火のそばへ、来ることはなかった。俺の台帳は人を、火の場所へ、呼び寄せる地図だ。掬う手は掬う先を、増やすほど、燃やす先も増やす。


俺はふところから、台帳を、抜き出した。


火明かりに、それを、開いた。焼き捨てて、しまおうと思った。これが、全部の始まりだった。井戸を数える、無駄な癖。前の世界でもこの世界でも俺を、変人と嗤わせ、ガランを死なせたこの一冊を。


だが、開いたその頁を俺は、燃やせなかった。


そこにはこの数か月、歩いてきた土地の水利がびっしりと、書き込まれていた。北の泉。南の井戸。東の川。谷の集落の湧き水。隠れ里の水がめ。塞がれて、開けた、井戸の一つ一つ。俺が乾いて倒れながら、ネルと二人で、書き溜めた水の在りか。


そして、その頁を地図のように、頭の中で並べたとき。


俺は、気づいた。


すべての水が、一つの方角へ、向かっていた。


大陸の中央。あのまっ黒な空白。俺の目にだけ、視えない、いちばん大きな水。水の道。今俺が封印の前に、立っている、この場所だ。


俺は、笑われてきた。井戸なんぞ数えて、どうする、と。灰禍の前じゃ、水なんぞ屁でもない、と。だが、俺が一つずつ律儀に数えた、その水の筋が全部ここへ繋がっていた。


俺の台帳は、無駄じゃ、なかった。


手が、震えた。乾きのせいじゃなかった。


前の世界のあの声が、よみがえった。まだ井戸なんか数えてんのか。お前が救えるのは、地図に載ってる範囲だけだ。載ってないものを救おうとして、お前はいつか死ぬぞ。蒲生のあの半分だけ正しい言葉。


だが、蒲生は、間違っていた。俺が数えた、地図に載っている水は、こんなにも多かった。載っている範囲は、俺が思っていたより、ずっと広かった。一つずつ律儀にこぼさず数えたから、その範囲は大陸ぜんぶに、及んでいた。


地味な仕事だと、思っていた。誰も褒めない無駄な癖だと。神社の裏の埋もれた水槽を、落ち葉をどけて確かめた、あの日。礼を言ってくれたのは、後にも先にも、一人の老婆だけだった。それでも、俺は数えるのを、やめなかった。


この一冊はこの世界のすべての水が、どこにありどこへ流れ、どこへ集まるかを示す地図だった。世界で、たった一枚の水の地図。笑われ続けた井戸数えのその積み重ねだけが、この地の底の大きな水へ、たどり着く道を指し示していた。


恥だと、思っていた。


前の世界で、まだ井戸なんか数えてんのか、と言われるたびに俺はうつむいた。地図に載ってる範囲しか救えない、と蒲生に言われて、言い返せなかった。そのうつむいてきた恥が、いま地図になっていた。


俺は、封印の扉を、見た。


さっき俺は、一人でこの扉を、開けようとした。掌をかざし、水を呼び力ずくで、こじ開けようとした。だが、扉は俺の水をはじき返し、俺の体から水を吸い取った。一人で、大きく掬おうとすればするほど、俺は乾いて割れる。


一人で、燃え尽きるな。


ガランの最後の言葉が、よみがえった。掬った者に、次を、掬わせろ。それが、水の道の開け方だ。きっと。


俺ははっとした。


さっき扉が俺の水を、はじいたときのことを、思い出した。あのとき扉の火の紋は、俺の力に反発するように、燃え上がった。まるで、一人の力に、逆らうように。強く押せば押すほど、強く、はじき返された。


一人で、大きく掬おうとする力を、この扉は拒む。


そうだ。この扉は、一人の水を、はじく。一人で、こじ開けようとする、その力を吸い取る。だが、もし一人じゃ、なかったら。もしこの台帳を頼りに、大勢の手がそれぞれの井戸から、水を汲み一杯ずつこの地の底へ手渡していったら。


一人の器では、割れる。だが、掬った者が次の者に、渡していけば。こぼした分を、次の手が、拾っていけば。誰も燃え尽きずに、大きな水をこの扉に、届けられる。


掬うとは一人で全部を、抱えることじゃ、なかった。


掬った水を、次の手へ、手渡すことだった。


俺は、ずっと、間違えていた。あの窓の右端を、一人で、償おうとして。一人で、燃え尽きることでしか、救えないと思い込んで。だから、掬った者を俺のそばの火のそばへ連れてきてしまった。


違う。掬った者は、そばに、置くんじゃない。掬った者に、次を、掬わせるんだ。手を、増やすんだ。


俺はガランの木の椀を、握りしめた。からからに、乾いた椀。だが、この椀こそが、答えだった。


思えばガランは、最初からそれを、教えていた。この椀を、俺にくれたとき、こう言った。親父は逃がした者の数だけ、この椀で、水を飲ませてやった。一人で、大河を運んだわけじゃない。一杯ずつ、手渡した。こぼした分は、次の者が、拾った。


火番なんぞ、それしか、できん。ガランは、そう言って自分を、役立たずと呼んだ。だが、その一杯ずつ手渡すやり方こそが、この地の底の大きな水を開けるたった一つの鍵だった。


役立たずなど、では、なかった。ガランは最後の最後に、この世界を救う方法を、俺の手に握らせて逝ったのだ。


一人で、大河を、運ぶんじゃない。一杯ずつ、手渡す。それが火番の親父の、やり方だった。それが、水の道の開け方だった。


俺はガランの体を、そっと床に、横たえた。焦げた匂いの中で、その顔はまだ、安らいでいた。


「ガラン。あんたの最後の言葉、やっと分かった」


俺は膝に力を込めた。乾ききった体が、悲鳴を、上げた。それでも、俺は、立ち上がった。折れたはずの芯が、ガランの言葉で、もう一度繋ぎ直された。


「ネル」俺は、隣の少女を、見た。「立てるか」


「……うん」ネルは涙を、袖で拭って、うなずいた。「ヒヤマあんた、目の色が、変わった」


「ああ。やっと、分かったんだ。掬い方を」


俺は、燃え始めた地の底を、見渡した。それから、封印の扉を、見た。一人では、開かない扉。だが、大勢の手が、あれば。


火は、斬れない。


俺はそれを、この世界の誰よりも、知っていた。斬ろうとして、こじ開けようとして、俺は何度も乾いて割れかけた。


だが、火は逃がせる。掬って手渡して次の手へ。


「火は、斬れねえ」俺は、つぶやいた。「逃がすんだ。一人じゃ、ない。皆で」


俺は台帳を、胸に、抱いた。恥の一冊はいま世界を、掬うための地図だった。


「ネル。地上へ、戻るぞ。皆に、この地図を、配る。掬い方を、教える。一人じゃ、開かない扉を、皆の手で開ける」


「でも、皆水は消せないって、信じてる」ネルが、言った。「焔の教えが、そう教えてきた。逃げるしかないって。あたしだって、あんたに会うまで、そう思ってた」


「だから、地図を配るんだ」俺は台帳を掲げた。「口で言っても、信じない。だが、この地図があれば皆自分の町の水の在りかが分かる。自分の手で、井戸を開けて、火を止められる。一度自分の手で、火を止めた者はもう、逃げるしかないとは思わない。掬い方は、人から人へ、燃え移る。火より、速く」


ネルは、俺の掲げた台帳を、見た。それから、自分の火傷の痕のある腕を見た。もう、隠していない、その腕を。


「あたしが、配る」ネルが、言った。「焼け残りのあたしが。あたしみたいなのが、ほかにも、いる。あの旅の一団みたいに。あたしが、束ねる。あたしが掬い方を教える」


俺は、うなずいた。


ネルの目が、火明かりの中で、光った。それは、涙じゃなかった。もっと、強い何かだった。


掬われた者が、掬う者に、なろうとしていた。

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