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第9章:傾城傾国

 崩壊する地下図書館の最深部、瓦礫の山に埋もれたマザーの視界は、どろりとした紫色の闇に覆われ始めていた。砕け散った魔導書の破片が、雪のように彼女の体に降り注ぐ。かつて地上を統べた独裁者の威厳はどこにもなく、そこにいるのは、傷つき、追い詰められた単なる壮年の女だった。

(……まだよ。まだ、終わらせるわけには……)

 マザーは血に濡れた指先を動かし、虚空をかこうとした。

 彼女の脳裏には、執念だけが渦巻いている。人々から意志を奪い、欲望を去勢し、自分と同じ価値観という名の「檻」に閉じ込める。そうすれば、この世から争いは消え、誰も愛する者を奪われずに済むはずだった。あと一歩……あの子をあと数年、いや数か月調律できれば……

 薄れゆく意識の淵で、彼女の記憶が逆流を始めた。それは、彼女が「マザー」という怪物を形作るに至った、呪われた半生の記録だった。

 

 かつて、彼女はとある小国の王妃候補として、祝福の中に生まれた。

 国は裕福とは言えなかったが、豊かな緑、穏やかな民、そして優しい両親。十歳までの彼女は、光そのものだった。しかし、隣国の野心という名の嵐が、すべてを薙ぎ払った。

 侵略軍の手によって、彼女は家畜のように引きずり回され、捕虜として拉致されたのである。

 若すぎる彼女に与えられたのは、戦闘員としての地獄のような訓練だった。

 サイズの合わぬ、囚人の灰色の服を着せられ、ある日は飲まず食わずで魔法を詠唱させられた。別の日には三日三晩で写本をさせられた。右手が痛くなったら左手を使えと言われ、それも厳しくなったら足や口も使う羽目になった。

 悲鳴を上げ、「我がまま」を言い続ける彼女に、容赦ない平手や折檻が飛んだ。

 それでも王妃として育った彼女の誇りは高く、中々「良い子」にならなかった。

 そこで、敵国の魔導師たちは、しばしば自慢にしていた美しい水色の長い髪を剃り落とした。さらに、金色に輝く彼女の瞳には禁忌の呪いをかけ、底知れぬ漆黒へと変えた。口には魔法で枷が嵌められ、良いと言われた時しか声を出せなくなった。

「お前の色など、この世にいらない」

「泣きたければ泣いて見せろ!誰も聞いていないだろうがな」

 そう嘲笑われたあの日から、彼女からすべての色が褪せていった。「我がまま」を言わなくなり、もくもくと訓練に取り組む彼女は、「良い子」としてもてはやされるようにさえなっていた。炎の魔法を得意としていた彼女は、戦場で敵兵を何の躊躇もなく始末できる、優秀な兵器として期待され、実際に数多くの「実績」を残した。

 ところが、20歳の誕生日、奇跡が起きた。彼女を虐げていた野心的な国家が、内政の崩壊によって滅びたのだ。彼女は救い出され、かつての祖国へと戻った。そこで待っていたのは、彼女を愛し続けていた若き王だった。

 彼女は王妃となり、夫との間に子供を授かった。奪われた十年間を取り戻すかのように、彼女は懸命に愛を与えた。水色の髪も少しずつ伸び、呪われた瞳も夫の愛によって穏やかさを取り戻したように見えた。家族で過ごす、国花であり彼女も愛していたラベンダーが咲く庭園、子供たちの笑い声、夫と語り合った「争いのない平和な世界」への夢。慈しむべき民からの声援。

 あの数年間だけは、間違いなく彼女の人生における「純粋な光」だった。

 

 しかし、彼女に再び試練が訪れる。まず、最愛の夫が、若くして病に倒れたのだ。

 一国の運営を背負わされた彼女は権力のトップに立ったが、絶望的な孤独に追い込まれた。権力を奪わんとする、国内からの政敵に振り回され、人を信じることができなくなり、政治の荒波に飲み込まれていった。国は乱れ、新たな侵略者の影が忍び寄る。

 激務と憔悴で自身も病に倒れた時、彼女は止めを刺された。 宮殿の奥深くまで侵入した兵士たちが、自分の子供たちの幼い命を奪う瞬間を、目の当たりにしたのだった。

「あああああああああああッ!!」

 その瞬間、彼女は怪物となった。絶望と怒りが、彼女の魔力を暴走させた。凄まじい業火が宮殿を包み込み、侵略者も、子供たちの亡骸も、そして彼女自身の肉体も、すべてを等しく焼き尽くした。

 肉体は灰となったが、彼女の魂は死ななかった。しかし怨念は悪霊となって現世に留まり、数多の魔力を結集して「マザー」という名の幽鬼を作り上げた。

(意志があるから、人は争う。欲望があるから、人は奪う。ならば、すべてを私と同じにすればいい。私が管理する『静虚』の中にこそ、救いがあるのだ……)

 そうして彼女は、狂気の独裁者として地上に再臨したのである。

 

「……ぐ、はっ……」

 激しい吐血と共に、回想が途切れた。生き延びる方法は、もうない。魂の形を保つことすら限界だった。

 その時、瓦礫の山から動く影があった。マザーの肩に乗り、寝床をともにしたあの黒猫だった。

 この雄の黒猫は、2年ほど前に図書館に迷い込んだ雌猫が産み落としたものだった。マザーが雄猫と初めて会った時、母猫は出産で力尽きており、同時に産まれたきょうだい猫が何匹かいたが、息をしているのはこの猫だけだったのである。

 マザーはこの猫を「黙らせる」ことが出来ず、ここまで一緒の時を過ごしてきた。食事として「人形」が「調達」してくる新鮮なネズミや魚を毎日与えられた彼は、幼い頃の衰弱が嘘のように凛々しい雰囲気を纏うようになった。

「にゃおーん……」

 灰色の日々をわずかに彩っていたその声を聞いた瞬間、彼女の消えかかっていた意識は俄かに覚醒し、自らが再臨した理由を思い出した。救いを求めるかのように、魔法の糸を伸ばし、自分が作り上げた「人形」たちがどうなったか観ることにした。彼女たちが消滅し、無に帰ったのなら、自分の計画はまだ「失敗」ではない。意志を失ったまま消えることこそが、彼女の提示した救済だったからだ。

 しかし、魔法の視界に映し出されたのは、彼女の予想とは正反対の光景だった。

 そこには、泣きながら互いを抱きしめ合う少女たちがいた。

「美味しい」と言って、崩れた配給食を分け合う少女たちがいた。

 そして、夕陽のような温かい光の中で、自分の「名前」を呼び合い、未来を語る、輝くような笑顔があった。

「……あ……」

 マザーの唇が震えた。

 彼女たちが流しているのは、苦しみの涙ではない。生きている実感を噛み締める、浄化の涙だった。彼女たちが上げているのは、悲鳴ではない。自由を謳歌する、明るい産声だった。

 その光景を見た瞬間、マザーの凍てついた心の芯が、音を立てて崩れ去った。

(私が……守りたかったものは……?)

 彼女は思い出した。自分が独裁者として君臨した数百年の間、ずっと忘れようとしていた記憶。あの子たちと同じように笑い、あの子たちと同じように泣いていた、あの数年間の幼き日々を。

 親たちと引き離され、異国の慣れぬ食事と服装を強いられ、誰もが魅了されたあの水色の髪と金色の目を否定され、抵抗するための声さえ奪われ……そんな彼女を生かしていたのは「憎しみ」ではなかった。温かい家庭で育ち、両親の愛と兄弟からの期待を一身に受けた、短くも眩しい思い出だったのだ。記憶の破片は消えない炎として彼女の心を燃やす原動力となったのである。

 解放されてからも輝かしい日々があった。

 夫を愛し、我が子を愛し、国民を愛し、また彼女も愛されていた日々は確かに宝玉だった。

 その思い出があったからこそ、時代の荒波に翻弄されながらも、国内の政敵から攻撃を受けようとも、王妃として国を支えようとした。

 短かったけれど愛おしいあの日々を過ごすために生まれてきたのだ。

 彼女がかつて守りたかったものは、あの生命の息吹ではなかったのか。

「……ああ……ああああ……っ!」

 マザーは声を上げて泣いた。

 独裁者としての仮面が剥がれ落ち、そこにはただの、子供を失った哀れな母親がいた。自分の過ちの深さに、そして、失った幸福のあまりの眩しさに、魂が千切れるほどの慟哭を上げた。

「ごめんなさい……ごめんなさい……子供たち……!」

 彼女が号泣を止めると、崩落した天井の隙間から、一筋の日の光が差し込んできた。

 魔力によって繋ぎ止めていた彼女の魂が、光に溶けるように、端から消え始めていく。彼女には分かっていた。自分が行く先は、天国ではなく、数多の魂を弄んだ罪を贖う地獄である。

 だが、今の彼女に迷いはなかった。

 彼女は、最後に一度だけ、遠い空の下で笑うヘレーネたちの姿を慈しむように見つめた。

「……さようなら。……あなたたちは、素晴らしい子供たちです」

 この時期にしては暖かな風が吹き抜け、「哀しき王妃」は跡形もなく消え去った。

 

 黒猫は彼女の傍を離れなかった。狂気の女王が、孤独な王妃に変わり、さらに塵となるのを認めると、何度か鳴き、なにかを悟った。そして夜明けの光が眩しい、東の森の方へ駆け出していった。

 

 後に残ったのは、埃を被った古い石畳と、そこへ降り注ぐ柔らかな陽光だけだった。

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