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第5章:以心伝心

 壊れた馬車の代わりに、一行は古びた荷車を自らの足で引きながら、森を強行突破していた。しかし、その歩みは突如として止まる。

「ヘレーネ……? おい、しっかりしろ!」

 ディビーの叫びが木霊した。荷車の上で、ヘレーネが糸の切れた人形のように崩れ落ちていた。その体は、数日前よりもさらに痛々しく痩せ細っている。

 ディビーたちは必死だった。手持ちの水を与え、野草を煮出したスープを口に運ぼうとする。だが、ヘレーネの唇は固く結ばれたままだ。

「……だめだ、受け付けねえ。何でだよ、食わなきゃ死んじまうぞ!」

 ヘレーネが意識を失ってから、あれだけ堅く口を覆っていたマスクは、まるで意志を失ったかのように、剥がれ落ちた。すでに、彼女の消化器官は「人間」としての機能を拒絶していた。組織で施された「暗い儀式」――魔力による強制的な栄養注入に慣らされた肉体は、温かい食事を異物としてしか認識できない。彼女の生命維持リソースは、今や枯渇寸前だった。

 

 一方、地下図書館の最深部。冷え切った自室で、マザーは無言で床に膝をついていた。

 その傍らには、一匹の黒猫がいる。マザーが差し出した新鮮な魚を、猫は無造作に平らげると、事もあろうに彼女の真っ白なベッドの上に糞尿を撒き散らした。

 マザーは無表情だった。彼女は今、マスクを外していた。露わになったその横顔は、どこか空虚で、時が止まったままの女性の顔だった。

 彼女は無心に汚れを拭き取り、掃除を終えると、部屋の隅で丸まって眠る猫をただ見つめていた。

 だが、広間の扉を開け、集会所へ足を踏み入れた瞬間、彼女は再び「怪物」へと戻る。

「……失敗したのね。期待を裏切るなんて、本当に『悪い子』たち」 

 壇上には、先日の強襲に失敗し、ヘレーネの「感情」に当てられた人形たちが並んでいた。彼女たちは一様に涙を流し、肩を震わせている。

「調律」を試みるマザーの指先が、怒りに震えた。いくら魔力を流し込んでも、彼女たちは以前のように無機質な兵器に戻る気配がない。

「もういいわ。……壊れてしまったものは、捨てるしかないもの」

 冷徹な一言と共に、紫の魔力が爆発した。泣き叫ぶ少女たちの意識が、物理的な衝撃と共に「消去」されていく。かつての『家』であったはずの場所は、今や不純物を排除するための屠殺場と化していた。

 マザーは自らの爪を噛み、苛立ちを隠せない。彼女は意識を飛ばし、先行させていた「2体の姉」の視界をジャックした。彼女たちは、ディビーたちの野営地のすぐ近くに潜伏していた。調律は不完全で、マザーの命令に対する反応も鈍い。だが、ヘレーネを「回収」あるいは「破壊」するという目的だけは、まだ生きていた。

 マザーは姉の瞳越しに、地面に横たわる痩せこけたヘレーネの姿を見た。その瞬間、マザーの脳裏を、ある風景がかすめる。

 飢え、髪を刈られ、泥を啜っていたあの頃。

 世界が回り出す。強いめまいが彼女を襲ったのだ。

 マザーはよろめくも、すぐに体勢を立て直す。そして冷酷に命じた。

「やりなさい。その個体を――『壊しなさい』」

 

 野営地に、紫色の閃光が走った。

「来たかッ!」

 ディビーが剣を抜き、仲間たちが円陣を組む。しかし、襲いかかってきた2体の「姉」の動きは、先日の追手とは次元が違った。

 一瞬で距離を詰め、ディビーの剣筋を見切る。重厚な魔力の圧力に、レジスタンスたちは次々と地面に叩きつけられた。

「ヘレーネに……触らせるか……!」

 立ち向かうディビー。だが、姉の一人が放った衝撃波が彼の胸を直撃し、ディビーは無惨に吹き飛ばされた。

 姉たちが、動かないヘレーネの傍らに立つ。一人がヘレーネの細い体を抱え込んだ。マザーの命令は「破壊」。このまま魔力を流し込めば、ヘレーネの心臓は止まる。

「やめろぉぉぉぉッ!!」

 ディビーの絶叫が、森に響き渡る。

 その時だった。

 ヘレーネを抱きかかえる姉の手から、紫の闇ではなく、淡く、柔らかな「黄金色の光」が溢れ出した。

『……え?』

 意識の淵にいたヘレーネは、その温かさに目を開けた。脳裏を巡るのは、ディビーが飛ばした下品な冗談、仲間たちが差し出してくれた冷たい水、そして「顔が良いから助けた」というディビーの、不器用で必死な声。それらが、姉の手から流れ込む魔力と混ざり合い、ヘレーネの枯れ果てた回路を潤していく。

 抱きしめている姉のマスクの下から、一粒の涙がヘレーネの頬に落ちた。彼女たちは、マザーの「壊せ」という命令を、その瞬間に書き換えたのだ。

「……お姉ちゃん……?」

 ヘレーネが微かに唇を動かす。

 姉たちは無言だった。表情も見えない。しかし、彼女たちはマザーの精神ネットワークという鎖を、自らの「意志」で噛み切っていた。マザーから与えられた魔力を、ヘレーネを殺すためではなく、ヘレーネを生かすための「糧」として流し込んだのだ。

 ヘレーネはゆっくりと、しかし確かな足取りで立ち上がった。

「……馬鹿な。あり得ないわ。私の命令を……拒絶したというの!?」

 遠く離れた玉座で、マザーは椅子から転げ落ちんばかりに驚愕していた。そこには信じがたい光景が映っていた。

 抱き合う青年と、三人の少女。憎しみ合うはずの「兵器」と「レジスタンス」が、夜明けの光の中で一つに重なっている。

 マザーの絶対的な支配に、取り返しのつかない「愛」という名の綻びが生じた瞬間だった。

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