第3章:処女脱兎
異変が起きたのは、ある日の深夜だった。
宿舎に横たわり、死のような眠りについていた一体の「人形」。その個体は人間年齢で10歳の時に図書館へと「調達」され、マザーから魔力の特殊性を見定められて、入念な「調律」を施されていた。まもなく開始から5年が経ち、今晩が初任務となろうとしているところだった。
「任務開始よ。起きなさい」
その人形は2体の「姉」と共に、「調達」に駆り出された。狙いは、とある町の幼い一人娘だった。両親と標的が寝静まる瞬間を見定め、マザーが転送魔法により現場に「人形」たちを送り込んで作戦開始となる。「妹」たる、初任務の人形が娘の「調達」を実行し、両親や周囲の人間が暴れれば2体の「姉」が「狩る」よう、マザーは3体の人形に命令していた。
マザーが世界のすべての場所の風景を見通せる魔法の糸を使い、標的たちが眠りについたのを確認すると、3体の人形はその穏やかな家に土足を踏み入れた。
代々魔力を持っているとマザーの分析で判明したこの一族。今回の標的は特殊な体質を有しており、サンプルとして必要な個体だった。
標的は共に夢を見ている両親に挟まれて眠っていた。そこで「姉」が両親に向けて「夢食い」を実行した。これは対象者の夢を奪い、何年にも渡って眠りという名の牢獄に監禁する術である。これにより両親の魂は奈落の底に叩き落された。
「姉」が感情のこもらない目で「妹」に指示を出す。「調達」を実行せよ、と。「妹」は目が合うと、何の躊躇もなく、標的を乱暴に抱え込んだ。
「いやだ、いやだ!」
想定通りに激しく泣き喚いたが、すでに「狩り」が実行されている。任務を継続するには問題ないはずだった。
「こわいよう!たすけて、お母さん、お父さん!!」
その時。その個体の思考に、激しい「ノイズ」が走った。それは、本来なら任務前の「調律」によって消去されるはずの、魂の残り滓だった。
「……っ!」
声にならない悲鳴が、マスクの下で漏れる。暗闇の中、金の瞳が大きく見開かれた。
(痛い……。頭が、割れるように……)
標的の泣き声をきっかけとして、「妹」の思考に、強烈なイメージが奔流となって流れ込む。それは、ラベンダー色のローブでも、石造りの冷たい壁でもなかった。
夕焼けに染まる黄金色の小麦畑。
風に揺れて香るラベンダー。
そして――自分を抱きしめ、声を限りに泣いている一人の女性。
「ごめんね、ヘレーネ……。ごめんね……」
(……ヘレーネ?)
聞き慣れない響き。だが、その言葉が胸を打つたびに、氷のように固まっていた「妹」の心が、激しく脈打った。ドクン、ドクンと、自分だけの心拍が、ネットワークの一定なリズムを乱していく。
(あの人は、だれ? あたたかくて、悲しい、あの目は……)
視界が歪む。標的をベッドに落とす。目から温かい液体が溢れ、マスクの布を湿らせた。それが「涙」であることに、「妹」はまだ気づいていない。
「応答しなさい」
突然、マザーが「妹」の視界に映りこんだ。魔術でその個体の目を奪ったのである。マザーの妖しい金色の瞳が、暗闇の中で怪物のように光っている。肩には黒い猫が座っており、のんきにあくびをしていた。
「同調に、致命的な乱れがあるわ。……不純なノイズが混じっている」
マザーの手から、すべてを「無」に帰すための紫色の魔力が漏れ出していた。
「修正が必要ね。……あなたは、私に従う『人形』。それ以外であってはならないの」
「妹」―いや、「不良品」の頭痛は激しさを増した。これは「良い子」にすればすぐに収まる、一過性の嵐のようなものだった。だが今の「不良品」の心には、先ほどの女性の泣き顔、そして「標的」の鳴き声が頭に焼き付いて離れない。
(私は……私は、人形じゃない。私は、たぶん……)
修正の魔力が魂を焼こうとしたその瞬間、「不良品」の瞳に、意志という名の光が宿った。
「……い、や……」
かすかな、掠れた声。それは5年ぶりに放たれた「個人の意志」だった。
マザーの眉が、わずかに動く。
「……そう。……『わがまま』ね」
マザーは冷酷に微笑み、「姉」たちに命じた。
「この個体を拘束して、図書館へ連行しなさい」
マザーは肩の黒猫をなでながら告げ、「妹」の視界は再び元の現場に戻った。そして、暗闇の中から、「姉」たちが、音もなく迫ってくる。
「不良品」は絶望に包まれながらも、久しぶりに感じた「恐怖」という名の感情を噛み締めていた。
第2の異変が「姉」達にも訪れた。
「不良品」と目が合った瞬間、二体とも頭を押さえ込み、うずくまった。それはまるで、「不良品」が感じている痛みが伝わったかのようだった。
事実、二体のその鈍く光る金の瞳からは涙があふれ、何年も乾いていた顔をびしょびしょに濡らしていたのである。任務中に「故障」が出るのは、若い個体でよく見られたが、10年以上「狩り」を続けている、成熟した個体がそうなるのは異常事態だった。
呆然とする「不良品」。そして、マザーは一部始終を興味深く眺めていた。あの個体の「伝播」が、これほど強いとは……。
その時、家の扉が激しい轟音と共に蹴破られた。
「――今だ! 突入せよ!」
飛び出してきたのは、紫のローブではない、土に汚れた茶色のマントを羽織った男たちだった。レジスタンス。国に抗う者たちの奇襲だ。
「くそっ、やはり出たのか!」
先頭を走る青年が剣を振るう。「姉」たちは久方ぶりの激しいノイズで動きが乱れていたが、危機を察知するやいなや、機械的な回避行動を取り、体制を立て直した。
「待って……!」
「不良品」は叫んだ。しかし、出たのは弱弱しいうめき声だった。
青年の鋭い視線が「不良品」を射抜く。彼は迷わず剣を振り上げた。
「くらえ、『紫の影』め!」
振り下ろされる刃。「不良品」は反射的に杖を突き出した。だが、放ったのは攻撃の呪文ではなかった。
『……お願い、助けて!』
杖の先から放たれたのは、歪で、しかし温かい「光」の奔流だった。それは組織の効率的な魔術とは対極にある、制御不能な「感情」の輝き。
青年は目を見開き、直撃の寸前で剣を止めた。
「……なんだ? この光は?まさか、お前……」
周囲ではレジスタンスと人形たちの乱戦が続いていた。だが、この一角だけが、奇妙な静寂に包まれる。
「不良品」はマスク越しに、必死に青年を見つめた。潤んだ瞳、震える肩。それを見た青年は、毒気を抜かれたように剣を引いた。
「おい、お前……。意思があるのか?」
返事をする余裕はなかった。奥から「姉」たちの魔力の波動が迫ってくる。青年は「不良品」の腕を強引に掴んだ。
「……お前には生きていないと困る。来い!」
死を覚悟した強行突破だった。初めて自分の足で踏み鳴らす、外の世界。夜の帳が降りた森の中、「不良品」は息を切らして走った。
肺が焼けるように熱い。足の裏が石に削れて痛い。だがその痛みは、確かに自身の生を営む、という行為そのものだった。「マザーの命令により実行される、意思なき人形の運動連鎖」ではない……
すべてが新鮮で、恐ろしかった。
「ここまで来れば大丈夫だ。あいつらは森の深部までは追ってこない」
青年は岩場に腰を下ろし、激しく肩を上下させた。彼に従う数人の仲間たちは、警戒を解かずに「不良品」を遠巻きに見つめている。
「驚いただろう。俺たちの情報網と風の便りは、お前らがやってるインチキな手品よりよっぽど足が速いんだ。あそこの家が狙われてるって話だったから、何日も前から見張りを立てていたのさ。ちなみに、あの子と親たちは俺の仲間が助け出してて、もう安全だからな。さて……」
青年が「不良品」に向き直った。
「その面を外せ。お前が何者か、確かめさせてもらう」
「不良品」の震える指先がマスクの紐に掛かる。
だが、外すことは叶わなかった。重く顔に張り付くというより、肌に埋め込まれたかのように付いているそれは、マザーの鋼の意志を裏付けるように、「不良品」の顔に食いついている。
だが、両目からは再び涙があふれ初め、マスク越しに唇は小さく震えているのがわかった。
「取れないのか?まったく、ひでえことをしやがる……」
青年が呆然と呟き、懐から古びた銀のペンダントを取り出した。それは、彼が以前の偵察で組織の廃棄物の中から拾い上げたものだった。
「これを見てみろ。もしかしたら、お前に関係あるものかもしれん」
差し出されたペンダントの裏側には、繊細な文字で名前が刻まれていた。
『ヘレーネ』
その名前を目にした瞬間、「不良品」の心の中にあった最後の壁が崩壊した。断片的だった記憶が、濁流となって一本の線に繋がる。
『お母さん……私を抱きしめて、『ヘレーネ』って……何度も……』
「不良品」―いや、ヘレーネはうめき声をあげつつ、その場に泣き崩れた。
人形として過ごした空白の5年。名前を奪われ、心を殺され、ただの「器」として利用されてきた日々。そのすべてに対する怒りと、自分を取り戻した喜びが、涙となって溢れ出した。
青年は涙の意味を察したか、そっと彼女の隣に座った。
「お前の名前なのか?」
ヘレーネは泣きじゃくりながらうなずいた。
「そうか……お前はもう、人形じゃない。ヘレーネだ。一人の人間だ」
ヘレーネは顔を上げ、涙を拭った。金色の瞳は、もはやマザーに操られた冷たい光ではない。自らの意志で燃える、深い知性の色を宿していた。
ヘレーネは持っていた杖を使って地面に文字を書いた。
『……教えて。どうすれば、あの子たちを……私の『姉と妹』たちを、助けられるの?』
青年は苦い笑みを浮かべた。
「簡単じゃない。あいつらはまだマザーの精神ネットワークに囚われている。お前のように『綻び』を生むには、組織の核――あの魔導書を叩き壊すしかない」
ヘレーネは自分の細い杖を見つめた。非力な自分に何ができるのか。だが、胸の奥には、消えることのない温かな火が灯っていた。
『私、やるわ。私が、あの子たちの『声』を取り戻す』
ヘレーネの小さな自我は、この夜、世界を覆う「静寂」に立ち向かうための、最初で最強の「反逆の炎」へと変わったのだ。




