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外伝:教学相長

 3月○○日 


 彼女からは「魂の叫び」そのものが殺されていたようだった。


 あの組織から救出された少女と初めて面会した。

 少女は「調律」とやらの精神を潰す拷問により、記憶の大半を失っており、故郷や家族のことも全く記憶がない。

 1点、「アリス」という名を、その力のこもらない眼差しで私たちに告げると、後は只管、寝台に仰向けで、虚空を見つめているにすぎぬ。

 少女の体重は、標準の3分の2ほどしかなかった。それもそのはずで、彼女は「食事」の意欲を、全然欠如していたのである。

 看護人が匙でスープを差し出しても、それが何か認識できない。多少手荒な方法で―医療上仕方のないことだったが―押し込むと、反射で吐き戻そうとするが、苦痛に顔をゆがめることも、その後に抵抗することも全くなかった。

 睡眠にも補助が必要であった。保護されてからしばらくして判明したことだが、この少女は、臥せていて全く寝返りも打たない状態ながら、重度の不眠であることがわかり、一時期は生命の危機にも瀕したと担当医から報告を受けた。

 現在は、催眠を誘う魔法を使用して、1日に数時間ほどは眠れているようだが、ゆくゆくは自身の力・意欲で就寝しなければならない、との見解だった。

 面会中は、常に娘のことが頭をよぎっていた。娘は、間一髪、あの組織に拉致されかけたのだ。それを食い止めたのは、左耳にバラのピアスを付けた、一見軽率そうだが、海のように深い誠実さを持ったあの青年。彼が娘を守りきれなければ、果たして―。安堵と罪悪感が私を包み、暗い霧に取り囲まれたような感覚になった。これでは専門家として失格だ。


 看護人から興味深いものを、1枚手渡された。それは色鉛筆でえがかれた絵だった。ちりぢりになった無数の点や丸を、不揃いな大きさで無造作に打ち込んだ後に、紫色の、乱れた渦のような大きな模様が、紙全体を覆っていた不気味な絵だ。やはり揃わない大きさの字で、かろうじて解読したものだが、こんな文も添えられていた。

「むらさきがこわい りょうかい ちょうせい」

 嫌な予感がしながら、あえて、少女を見舞いに来た幼児か誰かが、退屈まぎれに記したものなのか、と彼に尋ねると、あの少女がリハビリの一環で書いたのだといった。

 そうか。声が震えていたのが伝わったかもしれない。私は冷たい手で彼にそれを返した。


 私が部屋を後にしようとしたとき、アリスよりも少し幼い少女が入ってきた。彼女の髪と眼も同じく水色と金色であり、もと「人形」であることが察せられた。

 少女は私と目が合うと、背筋を伸ばして会釈し、小さい体ながらも、確実な歩みで部屋に入っていった。

「あの女の子と面会した後だけ、アリスさんは静かに涙を流すのです。声をあげることも、表情を変えることも一切ないのですが……」

 興味が出た私は、直接その少女と話をした。

「アリスは私の姉なんです。姉がいなければ、私はとっくに『壊れて』いたかもしれない……」

 姉妹がいたのか、と尋ねると少女は首を横に振った。

「血のつながった姉ではありません。でも、私たちは心で会話ができる。声を届けられる。そういう意味では姉妹も同然だと思っています」

 少女は穏やかに、でも金色の瞳に強い意志を光らせて私に語った。意味は完全には解せなかったが、アリスに辛うじて残存する心の琴線に、少女は触れることが出来るのかもしれないということは分かった。医学のセオリーからは無理筋であったが、あえて、この日記に残しておく。


 5月○○日


 生命の息吹を見せつけられた瞬間だった。


 アリスの容体は少しずつ回復基調にあった。

 まず、食事や睡眠を自分で取るようになり、動きは緩慢ながら、時折寝返りや姿勢を変えるようにもなってきている。

 今月の絵日記を見せてもらった。今回は「人」だと分かる何人かが、寝台に臥せる1人を取り囲むような絵だった。

 今回の文章はこうだった。文字のゆがみも幾分改善されている。

「ご飯はおいしくないけど、食べるとみんなが頭をなでてくれる。毎日色々な人と会うのはすこし疲れる。明日は散歩をする予定」

 描かれた「人」の多くは、いわゆる棒人間……表情や個性が示されたものではなかったが、文章を見ても、自身の状況を客観的に確認してこの絵を記したことは確かなようで、彼女の「生命」を感じることが出来た。

「人」の一人に、小柄ながら笑顔で寝台の人間と手を結んでいる者がいた。

 これがあの少女を表現しているならば……と意味もない期待をしてしまう。


 一方で、彼女の記憶は未だに欠落していた。

 毎日家族が訪れては様々な会話を交わしているが、その幼少期の記憶は一切甦ることがない。泣き崩れる母親。沈痛な表情で、温かさが戻りつつある手を取る父親。おどける、哀れな弟。そんな感情が交錯する現場に相対しても、アリスの表情は一切変わることがない。それは不気味なまでの、暴風の中の凪だった。心の芯が凍てつき、変質してしまったかのようであった。

 連日、肩を落として部屋を去る家族の表情を、私は覗うことが出来ない。

 いや、あえて避けているのだ。この卑怯者め。


 アリスに散歩が許された、というので、看護人の許可を取り、私も同行した。彼に手を取られるままに、施設の庭を彷徨するアリス。手を引かれるままに、ふらついた足を動かす姿には、意志が感じられなかった。

 突然、アリスの顔の横に何かが横切り、驚きのあまり転倒した。尻もちをつき、苦痛に顔をゆがめるアリス。その顔を見て大いに安堵したが、我に返り、私は看護人と共に彼女の救護を行った。

 幸い、大きなけがはしていなかった。

「あれは……なに……?」

 立ち上がったアリスは、呆然と呟いた。私も横目で見ていたが、おそらく鳥の類だろうと思っていた。

「燕ですよ。毎日ああやって、エサをひな鳥のために運ぶんです」

「つばめ……?」

「ええ。あそこに巣が見えるでしょう?あれを夫婦で作って、その中で子育てをしていますよ」

 なるほど、看護人が指をさした先、施設の軒下の一角には燕の巣が見えている。日当たりが良く屋根も大きいこの施設では、しばしばみられる光景だという。

「毎日……?どうして……?」

「親が子供を守るためです。大切なもののためには、ああやって生きているものは力を出せるんですよ」

「大切な……もの……」

 そこで、アリスから一筋の涙がこぼれた。

 私は思わず、アリスに駆け寄ろうとしたが、看護人とのやりとりをさらに慎重に見つめることにした。

「アリスさん……!どうして!?」

「わからない……でも……」

 アリスは、やっと厚みが増してきた手で顔を覆い、うずくまった。その後、肩を抱かれながら部屋に戻っていった。


 遅れてアリスの部屋に戻った。落ち着いた表情で眠っていた。

「久しぶりの外出で、ちょっと疲れてしまったようですね。さっきの涙も、時々精神状態が不安定になるのでそのせいだと思います」

 若い看護人が屈託のない表情でそう言うと、私はどこか不愉快な気持ちを隠しつつ、あの少女のことを聞いた。

「はい、毎日面会には来ていますね。いつも、この時間にはやってくるのですが」

 彼の言葉通り、しばらくして彼女がやってきた。

 新たな客人の気配を感じ、アリスは目覚めた。その少女を認めるや否や、信じがたい光景が広がった。

 アリスが顔をくしゃくしゃに崩すと、寝台から勢いよく飛び降り、面会に来たあの少女をひしと抱きしめたのだ。

「大切なもの……大切なもの……」

 アリスは震える声で、そう繰り返した。少女は驚いた顔をした。しばらくすると、穏やかな表情でその抱擁を受け入れた。


 一連の現象をどう説明するか、私には適切な用語が見当たらなかった。それでも、不思議と私を納得させたのは事実である。


7月○○日


 幾度となく、彼らの姿はあの青年と重なった。


 アリスの部屋に訪れると、彼女は寝台から降りて、初夏の陽気で眩しい外を窓から眺めているところだった。

 そばには食事のトレーが置いてあった。シチューのようだが、肉が食べ残してあった。

「ちょっと、お肉が口に合わなくなっちゃったんです。叱られますけど」

 彼女は、いたずらっぽく笑った。

 好き嫌いはなるべくしないように。そう指摘した声に、明らかな興奮が籠っていたことを、今でも憶えている。


 アリスの家族と面会した。

 結局、アリスの記憶は戻ることはなかった。けれどアリスの態度が、ここ2,3週間明らかに変わっているという。

「今でも、全てを受け入れてくれたわけではないようですが……『私は受け入れます。皆さんは親鳥で、私はひな鳥だってことを』って言葉があって、あの子は泣きだしたんです。それを見ていると私たちもなんだか嬉しくなって、皆で大泣きしてましたよ」

 母親はそう笑いながら告白した。途中の声は涙で滲んでいたが、その顔は絶望どころか、希望に満ちたものだった。

 私は、その時の彼女を想像する。慟哭するアリスを受け止めた、あの少女の姿が見えた。


 3人との面会から帰ってくると、アリスは絵日記を書いていた。

「何だか、子供っぽい課題だと思ってますけど……。でも私も心がスッキリするから、やっていて楽しくもありますね」

 今回の絵は、穏やかな表情の女性が、泣いている少女を包み込んでいる、という絵だった。2人は、水色の髪と金色の瞳をしていた。そして以下の文章が丁寧な文字で記されている。

「お姉さんが、あなたを守り続けるからね」

 訊くのは野暮だろう、と自身に言いながらも、私は、この絵が誰を指しているのか尋ねた。

「あの子と私です。あの子は、私の妹だから……」


 部屋を出て行くと、あの燕の巣から、若鳥が飛びたっていくのを認めた。その刹那、私の娘の恩人である、あの青年とのやり取りが脳裏を駆け抜けた。

「俺の彼女が、組織を抜けてから様子がおかしくなったんです。手がガタガタになるまで書き物をして、メシも寝るのも忘れて……。止めろと言って、ペンを取り上げようとも思ったけど、そうじゃないってことを、親父さんは教えてくれましたよね。あいつにとっては生きがい以上の何かであるみたいなんで、結局俺は、彼女の進む道を応援することに決めました。……さすがにやりすぎなんで、何とかしたいですけど」

 私はある道具のことを彼に教えた。非常に高価なものだったので、彼は驚いた表情を浮かべたが、少しだけ悩んだ後に、

「わかりました」

と何かの決意をにじませていた。そうだ、その顔を待っていた。私は心の中でつぶやいた。

それから、店の経営は、左手だけでは大変ではないかね、と私は聞いた。

「はい、楽じゃないっすね……。でも、俺の剣の道は、彼女を守り、マザーを倒すためにあったのかもしれないですよね。そうだとしたら、それで良いんです。この身になって居酒屋を始めたことで、俺は今まで以上に仲間の明るい声を引き出せましたから」

 そう明るく、しかし力強く語る彼の笑顔は、一生忘れられない。


 傷を負った彼に、かつて届けた声がある。それを、アリス、両親、青年、青年の愛し人から、命がけで返してくれた思いがした。

 腐らずに、自分の道を往け。

 傷ついても良い、生きるのを諦めるな。

 かつて卑怯者だった私は、胸を張り、次の現場へ踏み出した。

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