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第11章: 虚往実帰

 ある黒猫のつがいが、子猫を連れながら寂れた村の集会所の近くに現れた。

 それは大きな建物ではなかったが、若い男女が人々に囲まれて、どうやら何かを祝っているらしい。

 父親の猫は、人間の言葉で「花嫁」の位置にいる若い女性を見て、何かを思い出す。

 水色の髪と、金色の瞳。

 しばらく眺めていたが、先を行く母猫の鳴き声を聞いて、慌ててついていった。


 あの真夏の誕生日から、4年後の秋。ヘレーネの村で、ささやかながら、にぎやかな結婚式が行われた。

 新婦はヘレーネ。彼女の側には、あの日、暗闇から自分を連れ出してくれた青年、ディビーがいた。

 参加者には、各々の両親、ディビーの仲間たち、2人の「姉」であるアリスとリリィがいた。2人の髪を纏った、あの忌まわしき水色の輝きと、瞳から放たれる黄金の呪いは、すでに失われていた。共に幼少期の面影をそのまま映し出していた。アリスは男の子を抱き、リリィは大きなお腹を支えながら、2人を祝福する。

 そして壮年の夫婦とその娘がいた。ディビーが薬屋の娘から救い出し、彼自身も救われたあの家族である。

「お前の髪も目も、あの時のままだな……でも俺は、今のままのお前が一番美しいと思う」

 ディビーは衰えた右手で、優しく彼女の髪を撫でた。

 組織での凄惨な「訓練」と魔力注入の後遺症により、最期まで、ヘレーネの髪と瞳の色が元に戻ることはなかった。激しい肉体の摩耗により、自分の子供を授かることはできないと医者に告げられていた。

「ありがとう。とても嬉しい。……私には、自分の子供を抱くことはできないけれど。でも、私にしか救えない子供たちが、まだ世界中にいるの」

「そうだな……。お前はきっと、特殊な運命を背負って生まれたのだろう。俺には想像もつかないけれど。でもどんな選択をしても、俺はお前の永遠の味方だ。英雄になろうが、無名の民で終わろうが。一緒に人生を歩んでいこう」

 ディビーは古傷の残る左手を差し出した。ヘレーネの目が滲んだ。そのまま両手を差し出し、笑顔でその厚く力強い手を握りしめた。

 

 ヘレーネは悲しみに沈むのではなく、その運命を受け入れた。

 彼女はディビーの支えを受けながら、かつての自分と同じようにマザーの呪縛から逃れられず、感情を失ったまま彷徨う子供たちのために、その生涯を捧げる決意をしたのだ。

 ヘレーネは「光の魔導師」として活動を開始した。

 彼女が使う魔法は、敵を倒すためのものではない。凍りついた心を溶かし、奪われた「名前」を思い出させるための、慈愛の光だった。

 組織の残党や、各地で多発する洗脳魔術の被害者たち。ヘレーネは彼ら一人ひとりと向き合い、自らも「人形」であった過去を語り、寄り添った。彼女の活動は次第に国全体に知れ渡り、国王からも直々に支援の要請が届くようになった。

 その名声は国境を越え、彼女の書いた『心の守護』に関する魔導書は、全土の魔導師たちの教科書となった。かつて「静寂」の象徴だったラベンダー色のローブは、今や「心の再生」を象徴する聖なる装束へとその意味を変えていた。

 

 だがヘレーネの働きは、負荷という点でも尋常なものではなかった。ほとんど飲まず食わずで動くことが出来る強靭な精神力を持ってはいたが、体は決して強い方ではなく、しばしば病に臥せっていた。

「お願いだから、仕事をさせてちょうだい」

 過労の高熱の中で、泣きながら訴えるヘレーネの姿。ある者は心を打たれ、ある者は呆れ、ある者は悲しんだという。

 ヘレーネの活動は、伴侶のディビーを流行り病で亡くしてから、一層精力的になった。いやむしろ、魂を自ら燃やし尽くしているかのようになった。常に微笑みを絶やさず、肉が落ち、骨と皮で働き続ける彼女の姿は、生者ではなく、意志を失った人形を思わせた。

 研ぎ澄まされた感覚は、もはや、寝ても覚めても、常に世界中にいる人々の泣き声や悲しみを感じ取っていた。「自分」が入り込む隙間は、すでになかった。心が押しつぶされる。呼吸をしているだけで、その声は反響し、さらに共鳴し、残響し……自身の魂が削り取られていく。

「私が思い考え、感じること。それは果たして『私』なのか……?」

 現実をつなぎとめるものがなくなり、行く当てもなく彷徨っている感覚を訴え始めていた。

 

 ヘレーネが45歳の春、隣国との国境付近で激しい紛争が勃発した。

 戦火に追われ、多くの子供たちが心に深い傷を負っているという報せを聞き、ヘレーネは動き出した。周囲からは猛烈に反対にあった。

 親友であり「姉」だったアリスは、彼女を心配していた一人だった。初孫が生まれ、幸せな家庭を営んでいた彼女は、言うことを聞かない「妹」に、平手打ちをしてしまった。

 ヘレーネは怒るでもなく、悲しむでもなく、ただ茫然とした後、赤くなった左の頬を抑えていた。するとすぐに穏やかな表情を浮かべた。

 その表情の意味が、アリスにはわからなかった。

(大丈夫。ちゃんと「痛い」。私の心は、まだ壊れていない……)

 部屋を去るヘレーネの後姿を、呆然と眺めるアリス。右手に、鈍い痛みが残る。そのまま、彼女は机に座ると、ゆっくりと、顔を腕の中へうずめた。

 ヘレーネはその足で戦地に向かった。紛争地域で、彼女は連日、子供たちのケアに奔走した。

 

 悲劇は突然やってきた。

 撤退を余儀なくされた略奪兵の一団が、ヘレーネたちの居る支援施設を襲撃したのだ。

 ヘレーネは子供たちを背後に隠し、杖を掲げた。

「この子たちには、指一本触れさせません」

 かつてマザーに立ち向かった時と同じ、強く、澄んだ声。彼女は光の壁で応戦したが、多勢に無勢、そして長年の激務で衰えた体力は限界を迎えていた。抵抗虚しく、兵士たちの無慈悲な刃が、彼女の細い体を貫いた。

 ヘレーネは、駆け寄る子供たちの泣き顔を見つめながら、穏やかに微笑んだ。

(……大丈夫。あなたたちは、強い子供たち。どうか最後まで、声を届け続けて……)

「微笑みの戦士」と呼ばれた彼女の視界は、霞み始めた。


 光るものが見える。

 それはローブのポケットから転げ落ちていた。彼が亡くなったあの日から使えなくなった、魔法のペンだった。

 役に立つものではなかったが、片時も手放すことはなかった。

 お前はもう、人形じゃない。

 メシは食っておけよ。

 俺はお前の永遠の味方だ。

 あの良く通る声を思い出すと、ヘレーネの目に、何十年振りかわからない、久方ぶりの涙が溢れ出していた。

「ペンを……。取らせてちょうだい」

 子供たちは、一瞬どきりとした。それはまだ仕事を続けようとする執念を感じたのと、常に微笑みを絶やさなかった彼女が、自分たちと同じように泣き晴らす姿など、見たことがなかったためだ。

 それでも、子供の1人は恐る恐る、ヘレーネにペンを手に取らせた。ヘレーネは最期の力を振り絞り、そのペンを左手で握りしめ、そのまま胸元に手繰り寄せた。そして、どこか幼なげな表情を残しながら、永遠に乾かぬ瞼を、ゆっくりと閉じていった。


 ヘレーネを迎えに、誰かがやってきた。

「バカやろう、お前……。メシも食うのを忘れやがって。やっぱり『ガキ』だな」

「あ……」

「ほら、立てるか?背負ってやる。……なあ、どこに行きたいんだ?」

「おうちに……。帰りたい……」

「わかった。今は帰り道だ。……先に行っちまって、悪かったな。実は、手を出したくてうずうずしていたんだ。お前なら大丈夫かなって思ってもいたけど。見ていてしんどかったが、あの生き様は……中々カッコよかったぜ」

「それは……良かった……」

「いつもは笑え笑えってうるさかったと思うが、今日はしっかり泣くんだ。良いな」

「うん。……ありがとう」

 2人は、どこかに向かっていった。


 この紛争は泥沼化し、3年ほどの鍔迫り合いの結果、消耗した両国を、大国が乗っ取る形で終結したという。

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