第10章:乾坤一擲
地下図書館の冷たい石畳ではなく、柔らかい土の匂いと、風に揺れる麦の音。ヘレーネが数年ぶりに帰った故郷の村は、あの日と変わらず穏やかだった。
「……お母さん、お父さん。ただいま」
玄関先で立ち尽くす水色の髪の少女を見て、両親は最初、それが誰だか分からなかった。かつて、短めの茶色の髪を振りかざしていた幼い面影は、過酷な「人形」としての歳月によって削ぎ落とされ、茶色だったはずの瞳には異質な金色の魔力が宿っていたからだ。
だが、ヘレーネが震える声でその名を呼んだ瞬間、母親は持っていた籠を落とし、なりふり構わず娘を抱きしめた。
「ああ、ヘレーネ……私のヘレーネ。生きて、生きていてくれたのね……!」
ヘレーネは失われた時間を取り戻すように、両親とともに静かな幸せを享受した。
朝、鳥のさえずりで目覚め、昼間は温かな日を浴びてささやかな農作業に勤しみ、夕暮れには家族で団欒する。組織では決して許されなかった「当たり前の日常」が、彼女の傷ついた心をゆっくりと癒していった。
村に帰ったヘレーネを待っていたのは、かつて夢にまで見た「温かな食卓」だった。 窓から差し込む柔らかな昼下がり。テーブルには、幼い頃に彼女が何よりも大好きだった、真っ赤なさくらんぼのケーキが並んでいる。
「ほら、ヘレーネ。あんたの好物よ。たくさんお食べ」
母親が目を細めてケーキを差し出し、父親も「旨いな」と声を弾ませて口に運ぶ。 ヘレーネもまた、震える手でフォークを握り、一切れを口に含んだ。
(……甘い……はずなのに……)
舌の上で踊るはずの果実の酸味も、クリームのまろやかさも、今の彼女には、砂を噛むような無機質な感触でしかなかった。
一瞬、ヘレーネの表情が曇る。両親が怪訝そうに顔を覗き込んだ。
「ヘレーネ? どうしたんだい、お口に合わないかい?」
「……ううん。とっても、美味しいよ。お母さん」
ヘレーネは最高の笑顔を作ってみせた。その心臓は、満たされない悲しみで張り裂けそうだったが、両親の喜びを壊したくない一心で、味のしないケーキを最後まで飲み込んだ。
ヘレーネは思い出す。
これを一口食べるだけで、どんな辛いことだって魔法のように吹き飛んだ、あの幼き日々を。さくらんぼの甘みがいま一つで、へそを曲げたら、母が悲しい顔をしてこちらを眺めていた6歳の誕生日を。
異変はそれだけではなかった。
日常を取り戻したはずのヘレーネを突き動かしていたのは「写本」だった。何もしていない時、彼女の指先は勝手に震え出し、書き写さずにはいられなくなる。飲食さえ忘れ、部屋に籠もって徹夜で文字を綴り続けるヘレーネ。
「ヘレーネ、もうお休み。そんなに根を詰めて……」
心配する両親の声も、今の彼女には遠い霧の向こうだった。 家にある僅かな蔵書をすべて書き写し終えると、彼女は村の小さな図書館に籠り、そこにある古びた記録や物語を貪るように羊皮紙へ写し取っていった。
倒れるまでペンを握り続ける娘の姿に、両親は涙を流した。
だが、その狂気にも似た執念の裏側で、ヘレーネは「世界の声」を聞いていたのだ。
(……聞こえる。まだ暗闇で震えている、名もなき『姉妹』たちの声が……)
戦いを経て極限まで高まった彼女の「伝播」の能力は、今や国境を超え、未だ解放されぬ少女たちの絶望を拾い上げていた。 彼女が文字の書き取りに没頭していたのは、かつての苦役のためではない。 世界中に散らばる「姉妹」たちの心に届くための、より確かな「言葉」と「言語」を手に入れるため。彼女たちの声を代弁する「語り部」としての能力を研ぎ澄ますための、彼女なりの孤独な戦いだったのだ。
ヘレーネの瞳は、もはや村の景色だけを見てはいなかった。 彼女は、自らの欠落した感覚と引き換えに、数千の命を繋ぐための「声」という聖域を築き上げようとしていた。
朝から良く晴れた日だった。
村の小さな図書館の隅、薄暗い部屋の中で、ヘレーネは今日もペンを走らせる。彼女は眼鏡をかけるようになり、指先はインクで汚れ、軋む節々を守るように、包帯が痛々しく巻かれていた。
その背後から、二つの柔らかな気配が近づいた。
「ヘレーネ、いつもいつも、あなたって子は……。今日は何の日か忘れたの?」
振り返ると、そこにはアリスとリリィが立っていた。かつて戦場で致命傷を負い、ヘレーネの「伝播」によって魂を繋ぎ止められた二人の「姉」だ。解放された彼女たちの髪と瞳には、少しずつだがかつての鮮やかな色彩が戻りつつある。 だが、ヘレーネの髪は未だに水色の波を打ち、何かの力を宿したかの如く、瞳は金色のままだった。
「ああ、2人とも……。あれ、なんの日だっけ?」
「お誕生日でしょう、もう!」
二人は小さな包みを差し出した。
アリスからはより取り見取りの花々がデザインされたスカーフ、リリィからは薄く色のついたレンズの眼鏡を送られた。
「これ……街で見つけたの。頭を覆うと、可愛いだろうな、って」
アリスはにっこりと、だが何処か申し訳なさそうだった。
「……この眼鏡も、スカーフと合わせるとおしゃれよ」
リリィも困ったような表情をにじませつつ、微笑みながらそういった。
それを受け取ったヘレーネの胸には、言葉にできない「もやもや」が広がる。
「ありがとう」
ヘレーネがそう遠慮がちに言うと、重い空気があたりを立ち込めた。
沈黙を破るように、二人はヘレーネの包帯だらけの手を掴んだ。
「今日はもうおしまい! 誕生日くらい、ペンを置きなさい。私たちの言うことが聞けないの?」
二人の「姉」らしい強引な圧に押され、ヘレーネは渋々、書きかけの羊皮紙を閉じた。
夕暮れ時、二人に連れられて図書館を出ようとした時、聞き慣れた足音が響いた。 ディビーだ。
あれから、ディビーはレジスタンスとしての剣を置いた。
ヘレーネに魔力と想いを注ぎ込んだあの瞬間、右手には強い負荷がかかり、その後も自由に動かせなくなったのが理由だった。
現在は村の酒場を経営する実業家となった。
決して賑わった場所に開かれた店ではなかったが、ディビーの人柄と友人たちの協力もあって、遠くから駆けつけるものも多く、朝から晩まで、明るい声が響き渡っている。
彼はヘレーネと目が合うと、ひどく決まり悪そうに視線を逸らし、左手で無造作な包みを突き出した。
「……ほら、これ。……ま、誕生日だって聞いたからな」
「ディビーさん、これは?」
「開けるのは後にしろ。俺は忙しいんだよ、酒場の仕込みがあるからな。じゃあな!」
照れ隠しを隠そうともせず、彼は背中を向けて足早に去っていった。その耳が少し赤いのを、ヘレーネは見逃さなかった。
その夜。 静まり返った自室で、ヘレーネは再びペンを握ろうとしたが、指の節々が悲鳴を上げた。ふと思い出し、ディビーから貰った包みを開く。
中に入っていたのは、見たこともないほど緻密な銀細工が施された一本のペンだった。 添えられた、最近やっと読めるようになってきた拙い字のメモには、こうあった。
『本の虫のお前のことだ。これが何なのかはわかるだろう。あんまりきれいな手を汚してほしくないから、使ってくれ。くれぐれもメシだけは食べるんだ。約束な』
それは、魔導具の中でも極めて希少な「思念同調の筆」。所有者の意思と同調し、文字を思いのままに書くことが出来るという精密機器である。酒場の稼ぎの丸一年分を注ぎ込まなければ手に入らない、最高級の品だ。
「……バカだよ、ディビーさん」
ヘレーネは包帯だらけの手で、その冷たい銀の筆を抱きしめた。すると、堪えていた涙が溢れ出し、ヘレーネは声を上げて泣いた。
同じ頃。 当のディビーは、酒場で仲間たちと泥酔し、カウンターで盛大にいびきをかいて爆睡していた。明日からの一年、また極貧生活が始まることなど、今はまだ夢の中である。
涙が落ち着くと、ヘレーネは早速そのペンを使って書き物を始めた。
いつもと違って、中々筆が進まなかった。
1週間ほどして、ディビーの店に、こんな内容の手紙が届いた。
ディビーさんへ
この前はお誕生日のプレゼントをありがとう。
正直、最近の私は書き物に夢中すぎて、この大切な日を忘れていたことをちょっとだけ悲しく思っていました。でも、私にはやらなきゃいけないことなの。その気持ちの揺れ動きは、これからもずっと続きそうです。
あの日、お父さんとお母さんからはケーキを贈ってくれました。今回のケーキもさくらんぼを使ったのだったけれど、実をブランデーで漬けたのが違うポイント。まだまだ味はしないけれど、これなら不思議と喉を通ってくれることに気づいたんだ。そんな様子を見て、お母さんは喜んでくれたけれど、少し寂しそうな顔をしていた。お父さんはしみじみとだけど嬉しそうだった。
アリスとリリィからもプレゼントをもらったよ。スカーフと眼鏡。スカーフの花は中々可愛かったし、眼鏡も綺麗だった。
これで、普通の女の子みたいにおしゃれを楽しんでね。
気持ちはわかる。心配してくれて、そこはとても嬉しい。私のやっていることが、距離を置かれるのは悟っている。でも、見た目が変わろうとも、好きなことが何であろうと「私」は「私」なんだよね。そこはあまり譲りたくはない。
その点、ディビーさんはありのままの私を、本当に良く見てくれている。贈りものがどうこうじゃなくて、それ自体が何よりありがたかったよ。
あのペンのおかげで、私の学びはもっと早く、そして手の負担もだいぶ少なくなってくれました。手が自由になったから、昨日、久しぶりにお父さんとお母さんに料理を作りました。ご飯を作るって、とても楽しいなって改めて思いました。味見は2人に任せて、私はそんなに食べてないけど……。自分が作ったものを食べてもらうと、何だかすごく満たされた気分になる。ディビーさんは毎日こんな思いをしてるんだね。
あなたの誕生日は、当分先だけれど、お礼に何を贈ろうか、今から考えておきます。
まだまだ暑い日が続きますが、お体には気をつけてね。
お店の前を通ると、あなたはいつも大きな声で笑っていて、お客さんから愛されているのがよくわかる。
でも私と2人の時に、ふと見せる疲れた顔が心配になります。困ったことがあったら、私は『ガキ』で良くわからないことも多いけれど、ぜひお話ししてね!
あと、お酒はほどほどにしてね!
追伸
このお手紙を書くのに、5時間もかかりました。
この文章の長さなら、いつもだったら5分もかからないのに。
不思議ね。
ヘレーネ




