溺れるなら君に
深夜1時。東雲一穂は人気のない道を歩いていた。車の音もまばらにしか聞こえてこず、家を出てから誰ともすれ違わない。そんな道だ。
ただ街灯が交流電灯であることを証明するように青白くチカチカと光っているだけだった。
高校生の時から使っているワイヤレスイヤホンを耳にねじ込む。ランダム再生で流れてきたのは流行りのバンドの曲だった。テレビで見たことはあるがバンド名だけは思い出せない。
言わば深夜徘徊が最近の俺の習慣になっていた。
ある日コンビニの前に着くと、誰かが座り込んでいるようだった。この時間帯に人がいるのは珍しい。
その人は長めの髪を後ろで一つにまとめていて、おそらく背が高くて、どこか見慣れた顔で......
「って望月先輩じゃないですか」
「ん、おお。東雲くんか。結構家近いんだね」
俺を「東雲くん」と呼ぶのは望月小夜。大学の一つ上の先輩で、バイト先が同じなのでそれなりにお世話になっている。いわゆる女子校の王子様、という人だ。
ふと、先輩の横に置かれているビニール袋が目に入った。
「ストロング系のチューハイばっかじゃないですか。しかも何本も。このままだと死にますよ?」
「いやいや、大丈夫よー。酒は百薬の長って言うしね」
そう言う先輩からはアルコールのきつい匂いがした。お酒が好きだとは噂程度に聞いていたがここまでだとは思っていなかった。
俺はアルコールのきつい匂いに少し眉をひそめながら自動ドアを通って店内に入った。
ひとまずお目当てのスナック菓子とエナジードリンクを買って、店員のやる気のない声を背で受け止めながら店を出た。
すると先輩は座ったまま、うつらうつらと舟を漕いでいるようだった。
「望月先輩、起きてください。ここで寝ないで」
先輩は目を数回擦った後、よっこらせ、とおじさんくさい掛け声で立ち上がった。
しかしかなり酔っているのか、千鳥足になって今にも転びそうになっている。
言わんこっちゃない、とぼやきながら俺は先輩の肩を支えた。
「用水路に落ちたりしそうで怖いので送っていきますよ。家どこら辺ですか」
「まずはー、このまま真っ直ぐー」
酔っている先輩の声はいつもよりぽやぽやしているというか、どこかゆるい。
言われた通りに歩いているとふと疑問が湧いてくる。見知った相手とはいえ家を知られるのは嫌ではないかと。
送っていく提案をしたのは少し軽率だったと反省する。
「というか、俺に家の位置知られてもいいんですか?」
「んー問題なーし」
問題はあるだろう、という言葉は飲み込んで歩いた。
先輩の家はコンビニから5分ほど歩いたところにあるアパートの一室だった。先ほど言っていた部屋番号の前についたところで声をかける。
「先輩、家に着きましたよ」
「ありがとね東雲くん。次は一緒に飲もーよ」
「まだ18歳なので飲めません」
えー、と言いながら、近くに居るのをいいことに肩を掴んで揺らしてくる。
「一人酒は寂しいからね」
そう呟いて先輩はおぼつかない手つきで鍵を開けて部屋に入っていった。
鍵の閉まる音だけがいやに耳に残るように反響していた。
「おーい、東雲くん」
次の日、バイト先で休憩していると先輩が話しかけてきた。どこか恥ずかしそうに見えるのは気のせいだろうか。
「昨日......もう今日になるのかな。家まで送ってくれてありがと」
「いえ、お元気そうで何よりです」
「ん?それは皮肉かな」
今までは落ち着いたハスキーな声で同性からモテるタイプの女性だと思っていたが、イメージを刷新する必要があるようだ。
やはり酒というのは恐ろしいものである。
「まぁ次からは気をつけてくださいね」
「じゃ、次からは君がストッパーになってよ」
俺は思わずえぇ、とため息を漏らしてしまう。母親が酒癖の悪い人だったので酔っている人の扱いには慣れているが、それでも面倒なのは面倒だ。
「一緒に飲んだりする友達もいるでしょうに」
「いや、居るには居るんだけどね。みんな酒癖が悪くてさ......」
「望月先輩が言えたことではないですよ」
「だからさ、私のヤケ酒に付き合ってよ」
「ヤケ酒って......痴話喧嘩でもしたんですか?」
冗談交じりにそう言うと、先輩は少し顔に恥じらいをにじませながら頬をかいて言った。
「近からず遠からず、ってところかな」
「まじか」
驚いて思わず素の言葉が出てしまったが、その姿はどこかいじらしさを感じさせるもので、誰もが卒倒してしまいそうだった。
とはいえ、東雲自身は巻き込まれたことはないが、ある友達が「痴情のもつれは怖いぞ」と言い聞かせるように言っていたことは記憶に新しい。
「お願い!頼める人が東雲くんしかいないの」
俺としては正直断りたかったが、人からの頼み事をあまり断れない質だった。
さらに、あの先輩からの頼み事を断っただなんて大学の友人達に知られたら末代まで呪われるだろう。
軽くため息を吐きながら返答する。
「まぁいいですけど、場所はどうするんです?居酒屋、俺ほとんど入れないですよ」
「あ、そっか。愚痴も聞いてほしいし、じゃあ東雲くんの家で」
「......は?」
(何が『じゃあ東雲くんの家で』だ。こっちとしては、何故そんな結論になったのか教えてほしいくらいだ)
居酒屋が無理となると残るのはお互いの家くらいだ。異性が家に入るというのは女性としてあまり好ましくはないのだろう。とはいえ自分が異性の家に行く提案をするのはどうかと思うが。
「確かに消去法で考えるとそうなるかもしれないですけど。もし、俺が望月先輩のこと襲ったりしたらどうするんですか」
「郷に行っては郷に従えの精神で粛々と受け入れる」
「おい」
こう見えて先輩は茶目っ気のある性格をしている。こういった冗談をたまに仕掛けてくるので東雲としては少し扱いにくい。
「流石にしませんけど......本当にいいんですね?」
「いいよ。君がオッケーならね」
「1人で食べるより2人で食べたほうが楽しいですから。いいですよ」
「じゃ、今週の夜、どこが空いてる?」
脳内にスケジュール帳を呼び起こしながら答える。
「あー、明日と明後日ですね」
「了解。なら明日で」
はいはーい、と返しながら休憩室を出る。どうしてこんなことになってしまったのか。正直言って、頭を抱えたいほどだ。
結局、一度約束したことは仕方ないと腹を括ることにした。
次の日の夜、先輩は大きなコンビニの袋を引っ提げて家にやってきた。
「お邪魔します。ちゃんとお酒、買ってきたよ」
「まぁ俺は買えないですからね。ツマミの準備はある程度できてますよ」
「養ってください」
先輩が唐突に真顔になってそう言う。声音が本気だったので、苦笑いを返すことしかできなかった。
「まぁ適当にくつろいでください」
「はーい」
自分の家に先輩か居るというシチュエーションにドギマギしながらも、平静を装って黙々とフライパンに向かう。
後ろではガサガサとビニール袋が擦れる音が鳴った後、プシュッと缶が開く音がした。
「もう飲み始めるんですか」
まーね、と呟きながら先輩は缶を傾ける。
「なんか、懐かしくてね。料理してる後ろ姿眺めるの」
その声はどこか悲しげな響きを帯びているようだった。続いて恥ずかしさを隠すかのように、グシャと缶を潰す音がした。
「このままのペースだと酔い潰れますよ」
「まだビールしか開けてないから大丈夫ー」
そう言いながら2本目を開けていた。
まだ酒を飲める年齢ではないので、本当に大丈夫なのかはわからないのだが。
「はい。ツマミできましたよー」
「ありがと......まず、結婚してください」
「もう酔ってるんですか」
先輩が座っている座卓にツマミを置きにきたところ、そう言われた。
こんな調子の先輩に少し呆れてしまう。意図せず敬語が外れてしまったのも仕方がないと割り切っておく。
「あ、東雲くん。煙草吸っても大丈夫?」
「あー、一応吸う時はベランダでお願いします」
「りょ」
そう言って先輩は2本目の缶を開ける。今度はビールではなくレモンチューハイだった。
「ねぇねぇ東雲くん聞いてよー」
すでに酔ってきているようで、少し上擦った声になっていたり、机に突っ伏しかけていたりしていた。
大学での神格化されている姿はどこに行ってしまったのか、と思ってしまう。
「はいはい、何ですか」
「最近彼氏と別れたんだけどね、もうそいつが最低だったの」
はぁ、と呟いてツマミを一口食べる。自画自賛だが、我ながらとても美味しいと思う。
軽く相槌を打ちながら先輩の愚痴に耳を傾ける。きっと長くなるだろう。ドロドロとした話をツマミが中和してくれることを願うしかない。
「それでさー。予定すっぽかすわ、連絡はしないわでさ。彼氏として以前に人として、もーだめよ」
「そーっすね」
「結局体しか求められてなかったのかもねー」
そう言って先輩は後ろに倒れ込む。
何とも返答しづらい投げかけなので少し言葉に詰まってしまう。
そんな俺の様子を見て、先輩は少し困ったように眉を下げた。
「あー、ごめんね。返答しずらかったらスルーしてくれていいから。酔ってて適当なことばっか言うし」
確かに、母親も酔ってる時は因果関係がめちゃくちゃな発言ばかりしていた。その時の母親は何を言っても取りあってくれなかった。
「そーいえばさ、東雲くんって彼女とかいるの?」
「あー、今はいないっすね。高校の時は一応」
「えーっ!」
その驚きは彼女が今はいないことに対してなのか、高校の時はいたことに対してなのかが気になるところである。
どちらにしても少し不服なところはあるのだが。
「東雲くん、モテそうな感じなのに」
「そうっすか......」
高校時代の恋愛には少し苦い思い出がある。それを思い出して少し苦虫を嚙み潰したような顔になってしまう。
そんな様子の俺を見てか、またもや先輩は少し眉を下げる。
「気にしなくていいですよ。デートしてる様子を他の女子に撮られて、それがクラスに出回っただけですから」
「うわー」
ひゃー怖いねー、と言いながら先輩は次の缶を開ける。昨日と同じストロング缶がいい音を立てていた。
「私ならそんな思いさせないのに......なんてね」
先輩は少し身を乗り出して、艶かしい声でそう囁いてくる。そして耳を赤く染めて声を漏らす東雲を見て、からからと笑う。
不意にスマホの着信音が鳴る。先輩がレザーの手帳型カバーのスマホを取り出すと、小さく振動しているようだった。画面を見て少し眉をひそめながら言った。
「ベランダで電話に出てくるね。ついでに煙草、吸ってこようかな」
「あ、はい」
ベランダで話している先輩を横目で見ながら黙々とつまみを食べる。
しばらくすると、先輩は整った顔を眺めている東雲でもわかるほど露骨に歪めると、荒い手つきで通話を切った。
そして内ポケットからピースを取り出すと口にくわえてライターを取り出していた。どうやら一回では火がつかなかったのか、何度もヤスリを回す。
遠くを見つめながら煙草をふかしている姿は、普段の大学での様子からは想像がつかないようなものだった。
しかし憂いを帯びたような姿はとても様になっていて目が離せなかった。
そんな俺の視線に気づいたのか先輩はちょいちょいと手招きをする。おいで、ということらしい。
ベランダに出るとまだ秋だというのに、頬に当たる風はひんやりとしていた。
「今は吸うのやめたほうがいいかい?」
「気にしないですけど......うちの母親も家で煙草吸ってたんで。慣れてます」
「そっか」
ちらりと横を見ると先輩は静かに紫煙をくゆらせていた。それは煙が消えていく様を静かに見守っているようにも見えた。
「望月先輩って、よく煙草吸うんですか?」
「ん、たまにね。確かに大学ではあまり吸ってないかな。イメージと違った?」
軽く笑いながら問いかけてくる。
確かにイメージと違ったが、人は見かけによらないものだ、ということは身にしみて感じている。
「まあ......ちょっとだけ」
「いやーなことがあった時に吸うだけだったんだけどね。最近はちょっとハマってきちゃって」
「完全に依存してますね」
「アルコールにも溺れてる時点で今更って感じ」
賭け事にハマってないのが救いかな、と言うと、満足したのか携帯灰皿に押し付けて火を消していた。
「結局さ、人は何かに溺れてなきゃ生きていけないの。酒でも煙草でも愛でも。何でもいいからさ」
自分は何に溺れてるのだろうか、と俺は思う。まだ未成年で制限されてることも多いし、特に愛する人もいない。
「話は変わるけど、私ってさ、女子校の王子様みたいって言われてるじゃん」
「そうですね」
「一応女子校出身なんだ。だけど王子様じゃなくてお嬢様だっ......いや、お嬢様であることを強要されていた、が正しいかな」
即座に言葉を噛み砕けなかった俺を横目に先輩は続ける。
「実はそれなりにいいとこの家でさ、母親がかなり厳しくて。ずっと真面目ちゃんやってたんだよね。ずっと反発しながら」
まぁ昔から勉強させられてたおかげでこの大学入れたんだけどね、と小さく笑いかけてくる。
「大学で一人暮らし始めてこんな感じになっちゃってさ。それでずっと文句言われてるの。さっきの電話もそれ」
そう言って先輩は静かに手すりに寄りかかる。しばらくそのまま横で待っていたが、もう話したいことはないようだ。
「体冷やさないうちに戻ってきてくださいね」
そう言って部屋に入ろうする。すると、背中に何か当たったかと思うと、首に優しく手が回されていた。
驚きで固まる俺の首筋にアルコールとタバコの匂いの混じった息がかかる。それは実家とどこか似た匂いで少し落ち着くようなものだった。
「いかないで」
そうこぼされた声音は酔いのせいか上擦っていて、どこか子供らしさが滲んでいるようだった。
「......一旦戻りましょうか」
「うん」
解かれた手を軽く持ちながら部屋に戻る。先輩のスラリと細くて白い手は少しヒンヤリとしていた。
観察するのは気持ち悪いと思われるかもしれないが、爪も丁寧に手入れされている綺麗な手だった。
「私、東雲くんにだったら溺れてもいいかも」
「ご自由に」
先輩はこそこそ話をするように「言質はとったよ」と囁くと、座卓の前に座り直していた。
「そういえばさー。東雲くんっていつもフラットっていうか淡白というか、あっさりしてるよね」
「あー、たしかによく友人にも言われますね」
自分がそうなった理由について、少し昔のことを思い出そうとする。しかし気づいた時には淡々と過ごすようになっていたように思えてくる。
記憶の糸を少しずつ手繰り寄せるようにして話す。
「えーっと、うちの母親がほんと酒癖もタバコ癖も悪くて......まぁギャンブルはしてなかったですけど。父親はちょっと古い時代の考え方の人で、家庭のことに全然関与してなかったんですよ」
先輩はこちらをじっと見つめながら缶を傾けている。しかしその目は何か迷うように小さく揺れているようだった。
やはり先輩は優しい人だなと感じる。酔っている姿からは想像できないが、普段は周りから慕われているのも納得がいく。
「あ、いやそんな重い話じゃないですよ。ただ、それで昔から大人びていたというか、大人にならざるを得なかったというか......まぁ落ち着いてるとはよく言われますね」
「あーたしかに」
「今の先輩の姿ってうちの母親とそっくりなんですよ。酔い方とかその他諸々。だからなんだか実家みたいな安心感がありますね。」
そう慌てたように言うと、先輩は口をつぐんだまま所在なさげに缶をぶらぶらと揺らした後、小さくクイッと傾けた。
アルコールの影響か、その頬は赤らんでいた。
こんな様子の先輩は今まで見たことがない。そんなにまずい発言でもしてしまっただろうか。
「東雲くーん。なかなかやるねぇ」
「何がですか」
「何でもだよ」
その後もしばらく話していると皿の中身は空っぽになっていた。
先輩の方をちらりと見ると、横に置かれている空き缶の数は2桁に届きそうだった。
「それじゃ、皿洗ってきます」
「あーい」
そう言う先輩の顔は茹でダコみたいに真っ赤で、トロンとした目は今にも閉じてしまいそうだった。
水の冷たさに眉をひそめながら皿を洗っていると、斜め後ろから人が近づいてくる気配がした。
「先輩どっ」
またもや首に手を回してきながら、先輩はしなだれかかってきた。しかし先ほどよりもしっかりと手が回されていた。
「新婚さんみたいだねぇ」
「全く違いますね」
何を言い出すのかと思ったが、やはり意味がわからない。酔いどれなんてそんなものか、と思考を断ち切る。
先ほどもそうだったが、いろいろと密着しすぎていたり、香水のような匂いもしたりしていて非常にいたたまれない。
「そういえば先輩っていつぐらいに帰るんですか?」
「んー?泊まってくけど」
えっ、と内心では驚きの声をあげながらも、平静を装って拭き終わった皿を並べていく。
「何冗談言ってるんですか。うちはホテルじゃないですよ」
「マジ、ってルビ振るタイプの本気だよ」
「微妙なところですね」
相変わらず不思議な発言が多いようだ。
一度離れた先輩は床に横になると、こちらに赤らんだ顔を向けて言ってくる。
「だ、め?」
だめですよ、と呟いて、胡乱な目を向けながらも先輩の横に座る。
「まぁ確かにこんなに酔ってたら帰るのキツそうですね」
「そうだよぉ見捨てないで」
そう言って、またもや先輩は腕に抱きついてくる。
それに対してあからさまにため息をつきながら言葉を返す。
「そこまで言うんだったらいいですけど......」
「いぇーい。許可とったりー!」
あまりの豹変ぶりには目を見張るものがある。
しかし、泊まるとなると色々問題があるのではないかと思ってしまう。
「着替えとかどうするんですか」
「貸、し、て」
「あ、はい」
こうなってしまったからにはもう諦めるしかない。人事を尽くして天命を待つ、とでも言ったところだろうか。違うかもしれないが。
「風呂とかってどうします?」
「あー、酔ってるから流石に無理かも。この前酔った状態で入浴したら、ふつーに倒れかけた」
「何やってるんですか。着替えは用意しとくんで、おれが風呂入ってる時とかに着替えといてください」
りょーかい、と言いながらまた先輩は床に寝転ぶ。
女性が、と前置きするのは今の時代あまりよくないかもしれないが、女性が異性の家でこんなにも無防備でいいのだろうか。
いつもと同じ40度のシャワーを浴びても、いつも通りのシャンプーを使っても、先輩が自分の家にいるという事実が心を揺さぶり続ける。
いくら考えても現実とは思えない。昨日の自分にこのことを伝えたらきっと夢だと感じるだろう。現に、自分自身そう思っている。冷水を顔にかけても目が覚めるようなことはなかった。
首にかけたタオルで髪の水気を取りつつ部屋に戻ると、俺が風呂に入る前と同じ姿勢の先輩がいる。胸の辺りが規則的に上下させながら、すうすうと小さく寝息を立てているようだ。
後ろで一つに結ばれていた髪は既に解かれ、服も着替え終えていた。
とはいえ床で寝ることは推奨できない。きっと、朝起きた時には体が悲鳴を上げてしまうだろう。
しかし気持ちよさそうに寝ているので、起こすのもなんだか忍びない。できるだけ物音を立てないようにしながら、先輩の横に座りなおす。
大学でのクールな顔とも、タバコを吸っている時の悲しげな顔とも違う、穏やかな寝顔だった。
少し前までの先輩との落差が激しすぎることがなんだか可笑しい。
「それにしても......顔、綺麗すぎないか」
非常に整った目鼻立ちに、覗き込んでも毛穴すら見えないほどきめ細かい肌。化粧も激しいものではなく、素材の美しさを際立たせるもの。その上、服装のセンスもいいのだからモテるのも当然だろう。
じっと見てると、引き込まれてしまいそうな......
突然彼女の濡れ羽色の瞳があらわになったと思うと、首筋に小さな痛みが走った。それと同時に背中に手が回されたようで、なすすべもなく先輩の上に倒れ込んでしまう。
「ちょっ、なんでっ」
「わんひーっと」
ギリギリ手をつくことができたが、危うく先輩を押し潰してしまうところだった。とはいえ覆い被さるような体勢になっているので、いろいろ当たっている。
抗議の意味も込めて先輩の顔を見ると、イタズラが成功した子供のように笑っていた。
「遺言なら聞いてあげますよ」
きゃーこわーい、と棒読みで言う先輩だったが、背中に回された手は離してくれなかった。
どうやら服を掴まれているようで、先輩の腕の中から抜け出すことができない。
「あのー、そろそろ離してくれませんかね」
「やーだ」
そう言って、ギュッとまた強く俺の服を握ってくる。どこか子供が縋るように握られた身としては無理に引きはがすこともできない。
そして、心なしか吐息多めな声で囁いてくる。
「ねぇ東雲くん」
「どうしました?」
「溺れてもいい、って。言質とってるよね」
「あー確かに、『ご自由に』って言った気がします」
先ほどそんな会話の応酬があったはず。ただ、その時はテキトーに返した覚えがある。俺としてはそれを本気にされることは想定していなかった。
「離れないで、ね」
「今は物理的に離れられないんですが」
ちーがーうー、と不満を漏らしながら先輩は頭突きを繰り返す。どうやら、そういうことでは無いらしい。
密着しているせいで香水らしき匂いとアルコールの匂いが混ざったものを強く感じてしまい、頭がクラクラしそうになる。
「離さないでいいですから、一旦ベッドに行ったらどうです?」
「えっ......と、それはそういうことだと捉えてもいいのかな?」
「あっ、いやそういうことじゃないですけど。床で寝たら体痛いかなーって思って」
確かに誤解を招くような表現を使ってしまったようだ。セクハラだと捉えられても仕方がない。少し反省する。
そんな様子の俺を見てか、先輩は笑いを堪えきれなかったように、クスッと笑みをこぼした。
「じょーだん、冗談。で、本当にベッド使っちゃっていいの?一緒に寝る?」
「1人で寝てください!そんなに俺の理性揺さぶらないでくださいー」
「じゃあさ、一緒じゃないと寝ないって言ったらどうする?」
「っ」
拡大解釈すれば、誘ってるようにも聞こえる言葉。どことなく甘さを帯びたような声だったのは気のせいだろうか。
不意をつかれたように言葉を詰まらせる俺を見て、先輩は「うそうそ」と小さく呟いた。
「流石にね」
先輩は腕の拘束を緩めると、ゆらゆらと体を起こす。さらさらとした長い髪が少し顔に当たってくすぐったい。
「ま、ベッドまでエスコートしてもらおうかな」
「それくらいなら......」
そう言い終わらないうちに先輩は脇の下に手を滑り込ませると、俺はもう逃げられない状態になっていた。
上機嫌なまま先輩は歩き始めたが、やはり千鳥足になっているようだった。ゆらゆらと先輩が頭を動かすたびに、カーテンのように髪が視界を遮ってくる。
「おおー、綺麗」
俺の部屋に入った先輩の第一声はそれだった。東雲としては散らかっていて、到底人に見せられないと思っている。
「いつでも女の子連れ込めるじゃん」
「連れ込みません」
一体、先輩の中で俺のイメージがどうなっているのか、想像がつかない。
室内の観察はもう満足したのか、俺のベッドに近づくとスライムのようにダラリと体を投げ出していた。
「いいにおいー」
そのまま先輩は脚をぶらぶらと動かしていたが、その眩い真っ白な脚を直視するのは気が引けるので、視線の行き先に困ってしまう。
先輩に貸す服にショートパンツを選んだ過去の自分を恨むばかりである。
「東雲くーん」
心を無にしようとしているうちにベッドに座った先輩は、ちょいちょいと可愛く手招きをしていた。
その後自分の横をポンポンと叩いた様子から察するに、どうやら横に座って欲しいらしい。
先程のことがあった後だと、すんなりと座るのには少し躊躇いがある。
「ねぇ。警戒してるでしょ」
「っ、そんなに顔に出てましたか?」
「まあねー」
諦めたように横に座ると、東雲の肩に頭を預けるようにもたれかかってくる。
何回もこんなに近くに来られるせいで、少し慣れてきている自分がいた。こうなるとは夢にも思っていなかっただろう。
不意に2人の間に沈黙が流れる。触れた先輩の腕から伝わってくる冷たさから生じるこそばゆさに耐えかねて小さく身じろぎをしようとする。
チュッ
急に周りの音が無くなり、その音だけが響いているように感じた。頬に当たった温かい感触は先輩の唇によるものだと理解するのに、数秒ほどかかってしまう。
ぎこちない動作で頬を触る俺の姿を見て、先輩は今日1番の笑顔で言った。
「大好きだよ。おやすみ」
ぽすんと音を立てて先輩が寝転び、すぅすぅと可愛らしい寝息をたて始めても、俺はその場から動くことが出来なかった。
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いつもと見える景色が違う。
それが、起きて最初に感じたことだった。枕元に置いているはずの時計を掴もうとするも、その手は空を切るばかり。
私の家じゃない。そう気づいて飛び起きようとしたが、ガンガンと鈍器で殴られているように頭が痛むせいで失敗する。
「あだまいだい」
不自然に余った袖。不躾だとはわかりつつも匂いを嗅いでみると、いつもとは違うけれど優しい柔軟剤の香りがした。何処となく落ち着く匂い。昨日東雲くんにくっついたときと同じ匂い。
ここまでくると、昨日のことを思い出すのにそう時間はかからなかった。
思い出すと急に溢れ出る恥ずかしさから枕に頭を打ち付けても、頭痛がひどくなるばかりでお酒のように記憶を消し去ってはくれない。
全部。全部知られてしまった。幻滅させたくなくて隠していた姿も、ぽやぽやに酔った顔も、秘めていた恋心もっ。
「うがーァケホッゴホッ」
急に叫んだせいで思いっきりむせてしまう。咳をしてもひとり、確かこんな俳句があった気がする。なんと悲しいことやら。
最近タバコの回数が増えている影響か、あまり喉の調子がよろしくない。酒やタバコで喉がやられるというのは本当らしい。
ふと、キチンと整頓された机の上に私の鞄と何かが書かれた紙が目に入った。近くに寄ってみるとこう書いてある。
「脱ぎ捨てられていた服は畳んでおきました。シャワーを浴びたければご自由にどうぞ。先輩が起きるころには朝食ができているはずです......か。ふふっ」
東雲くんの几帳面さや優しさが溢れ出ている文面を見て、笑みが漏れてしまう。
普段は素っ気ないけど実は相手のことをよく考えていて優しい、そんな一面に私は惹かれたのだ。とはいえ、そのせいで東雲くんの良さに気づいてしまう人がいないかヤキモキしてしまうのだけれど。
「まぁシャワーは後でいっか。早く東雲くんの朝ごはん食べたいし」
昨日はアルコールばかり摂っていたからか、怒ったようにお腹が空腹を告げ始めていたので、無理やり思考を断ち切るように勢い良く立ち上がる。
リビングへと繋がるドアを開けると、ふわっと優しい味噌汁の香りが漂ってきた。どこか懐かしさを感じさせるような香り。母親が洋食派だったからいつも朝ごはんはパンがメインだった。だけどお祖母ちゃんの家に泊まったときはいつも白米と味噌汁が出てきていた。私はその味噌汁が大好きだ。
ドアを開けた音に気付いたのか東雲くんは椅子から立ってこちらを振り向こうとする。私はその前に彼に抱き着いて言った。
「おはよ、東雲くん」
最後まで読んでいただきありがとうございます。
他にもいくつか短編を書いていますので、読んでいただけると非常に喜びます。




