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「いつまで寝てるの××!」
そう呼ばれたことで三上サナはこれが夢だとすぐに悟った。
××は彼女──ではなく彼の本名であり、口にするのもされるのも憚るようなキラキラネームであり、それを知っている人間は当の本人以外にもう誰もこの世に残っていないからだ。
だからサナはその呼びかけを無視した。
(ユメなんだから好きなのみせてよ……)
夢のわりには意識は妙にはっきりしていたが、サナは特に疑問には思わなかった。
(……ユメだってわかったら、自分の好きにできるんだっけ?)
夢より曖昧な記憶でそんなことを思い出したサナは、目を閉じたまま考える。
(ユメだけどおいしいご飯が食べたいな……白いご飯、昔はキライだったのにあの村の白いご飯はおいしかったから食べたいな…………あれ?)
唐突に、サナは違和感に襲われる。
(村? あの村? どこの村? わたし、最近白いご飯なんて食べた記憶は……あれ? ないのにある? 食べた、食べてない、あ、あれ……?)
妙にはっきりとした意識のなか、しかし記憶だけが夢のように曖昧になっている。
それはまるで、起きたはずのことが起きていないような──
「寝たフリすんじゃないよ××!」
怒声と共に乾いた音が鳴り、同時にサナの頬に痛みが走る。
(……えっ?)
夢ならあり得ない感触への驚きで、サナは反射的に目を開いた。
床に寝ているサナを見下ろしているのは女性──サナの母親だった。
若々しいが化粧がきつく、しかしそれでも険しさを全く隠せていない顔。サナが数えきれないほど見てきた顔。
これが普通の家庭環境だったなら感動の再会とあいなったかもしれないが、キラキラネームを差し引いても「息子じゃなくて娘の方が可愛いから」という理由で息子に少女趣味の服を着せていた親が相手ではそんなエピソードは望むべくもない。
着せられていた子どもの方は「キレイだから」と気に入ってそのまま成長したが。
(ちっちゃい頃の服ってもう着れないよねぇ、体が大きくなったし……って、あれ?)
どこかズレたことを考えながら起き上がったサナは、目線の高さが普段と変わらないこと──子どものそれではないことに気づいた。
サナが視線を前に向けると、目の前の子どもが成長した姿であることになんら反応を示さず、また頬を張ろうとしているのか右手を振り上げる母親の姿。
子どもの頃なら恐怖を感じていたかもしれない。
だが子どもでないのならば──
「いやそんなドシロートのビンタあたるわけないじゃん」
サナは自分の頬に向かってくる右手首を左手で掴み、自らは右足を引いて相手の勢いを殺さないように手首を右下に引っ張る。ただそれだけでバランスを崩してつんのめった相手の足を払うと、大の大人が面白いほど大げさに床に倒れこんでしまう。
悲鳴が上がらなかったことに不満げな表情を見せたサナは、膝が体につくぐらいに右足を持ち上げるといつの間にか履いていたサイドジップブーツ越しに踵を頚椎に叩きつけた。
骨が砕ける感触と音に満足げな表情を見せたサナは、「さてと」と振り返る。
「それで──あなたはだぁれ?」
鈴の音が、鳴る
サナの視線の先に──少女が立っていた。
闇のように黒い着物、鈴の付いた前垂れ。
その姿にサナは、奇妙な眩暈を覚えた。
(この子、見たことが……ある……ない……見たことがあるのに見たことがない……?)
夢の中のはずなにはっきりとした意識、それなのに霧の中に居るかのような混乱。
鈴の音が響く。
奇妙なほどに響き渡る。
ほとんど前垂れに隠れた少女の口元が僅かに動いて、言葉を紡ぐ。
「わらわは──」
それはとても小さくて、なのにはっきりとサナの耳に届いて。
そして鈴の音が──
「──かみさま」
◆◆◆
ヘッドライトの中に人影が浮かび上がった。
「うへぇッ!?」
サナはまるでいま目を覚ましたかのような奇声を上げてブレーキを踏み込む。
幸いにして徐行していたおかげで車はすぐに停車し、サナは天を仰いで安堵する。そして眉間に皺を寄せて前方を睨みつける。
「ちょっとあんたぁっ──」
その言葉が途切れる。
闇を切り取るヘッドライトの中、先ほど見たはずの人影がそこには無い。
サナは首を大きく傾げ、つぶらな瞳をパチクリとさせる。
サナはなんとなく──なぜか──何も見つからないだろうなという確信めいた予感を感じながらも降車して闇を透かし見たり、しゃがんで車の下を確認するがやはり誰もいない。
もしかして居眠り運転でもしてしまったのか──そんなことを考えながらも欠伸ひとつ出てこないことに違和感を覚えながら、サナは車に乗り込んで運転を再開させる。
そうしてしばらく走っていると、車体の揺れが目に見えて少なくなった。
(ここから道がキレイになったのね)
サナはそう考えてから路面に目を凝らし、道路が綺麗に舗装されていることを確認した。
そこでサナは「あれ?」と疑問を浮かべる。
(なんかいまおかしくなかった?)
何かが逆だったような違和感。だが何が逆だったのかまでは解らない。
違和感はもはや混乱に変わっていたが、まるで最初からそう決められていたかのようにサナは車を走らせ続ける。
少しして、サナの視界が急に開けた。
星明りに照らし出される”金色の海”──稲穂、ぽつりぽつりと点在する”小舟”──民家と”灯台”──街灯。
それら全てがサナを感嘆させるものなのに、まるで一度見たことがあるかのようにサナの心を動かさない。
「ぇっ、これ、なんだっけ……で、デ、デブ?」
デジャブという言葉を思い出せないのは混乱のせいではない。
それでもなお車を走らせるサナの前方から、畑仕事の帰りと思しき男たちが歩いてくる。もちろん彼らとは初対面のはずだし、手に手にナタや鎌を携えてはいるがその立ち振る舞いに緊張や悪意は見受けられない。
それなのにサナは、彼らが自分に襲い掛かってくるというヴィジョンがやけに鮮明に頭に浮かんだ。
もちろん殺し屋という仕事柄そういう警戒は常にしているが、だからといって一般人が誰でも彼でも襲ってくるような妄想を抱いていては仕事どころか日常生活もままならなくなるし、無駄な警戒で披露してしまったら元も子もない──ということを、サナは感覚と経験で理解している。
「やば、これチョーシ悪いわ……終わったら寝よ……」
そんなことを呟きながらサナは車を走らせる。自然、男たちとの距離が縮まるので反対側に寄せて徐行させる。
彼らの顔が識別できる距離になって、サナはますます奇妙な既視感を強めていく。だがその既視感の中には、殺し合いだけでなく談笑のヴィジョンまで入り込んでくる。
安定した運転とは裏腹にサナは混乱の極みにあった。
そうしていよいよ男たちとすれ違う段階に入って──次に何が起こるかサナはもはや確信していた。
直後、破裂音。
「えっ、ちょま──」
反射的に動揺の言葉が口を突いて出たが、サナの脳内はなぜか冷静だった。
そしてやはり決められていたかのように車を脇に寄せ、決められていたかのように停車し、決められていたかのように降車してタイヤを確認する。
「マジかぁ……」
そこに釘が刺さっているのを見ても、サナは驚けばいいか納得すればいいか自分でも分からなかった。
そうしてしゃがみ込んだままなのは、自動車のパンクではなくこの理解不能な状況自体をどうすればいいか分からないからだ。
「どうした?」
かけられた声にサナは顔を上げる。
男たちが妙に心配そうに見えるのは、サナの内心の混乱が顔に出てしまっているからだろうか。
「パンクか?」
「みたいだな」
「直せるか?」
「無理むり」
男たちが口々に言ってくるが、サナの頭にはその内容の半分も入ってきていない。
そして一人の男が、サナに左手を差し伸べた。
「家に来るか?」
「そぉですね……」
精神的に疲労していたサナは半ば上の空で返すと、立ち上がって男の手を左手で取ろうとした。
男とサナの左手が触れ──ずにすれ違う。
そのまま男の左手がサナの右手をがっしり掴んだ。
「へっ?」
男の予想外の行動に間抜けな声を上げたサナは、反射的に右腕を引こうとするがあまりの力にビクともしない。
そして男は──男たちは何も言わずに武器を振り上げた。




