0-4
ヒュッ──と空を切る音。
次の瞬間、男の手から抵抗が消失する。
「っ!?」
サナの体重を吊り上げるつもりだった男は、予想外の状況に体勢を崩してしまう。
その足元で、サナはいつの間にか右拳を振り上げていた。
だがそれは──無手ではない。
拳の下側から長さ七センチほどの、ピンク色に塗装され三日月のように湾曲したステンレス鋼の刃──首にかかる直前で紐を断ち切った鎌刃が突き出している。
言葉にすれば簡単な事実、だがサナは自らの首を絞めようとした男の方を見向きもしないでその芸当を成功させていた。
全てを見ていたはずの男たちは、まだ状況を理解できていない。唯一、奇襲に失敗した男だけが何が起きたかをようやく理解しつつある。
だが、それはあまりにも──遅すぎる。
サナは座ったままの姿勢で右肘を引くと、ピンク色の鎌刃を背後の男の右府とともに突き立てた。
「ぃぎっ!?」
男が悲鳴を上げる。
だがサナはそれで終わらず、引いた右腕を今度は畳に叩き付けんばかりの勢いで一気に引き下ろし、男の太腿動脈から膝靭帯までをも一気に切り裂いた。
「ぁっ──ぎゃぁぁぁ!?」
鮮やかな手際に一瞬認識が遅れた男は、あまりの激痛に足を抱えて転げ回った。なんとか傷口を押さえようと無駄な努力をするその両手から鮮血が溢れ出て、まだ拳に巻き付いたままだった紐から床の畳まで赤く濡らしていく。
「お前ぇっ!」
「なにやってやがる!」
仲間が致命傷を負ったことで、ようやく周囲の男たちが動き出す。
だがその動きも──遅い。
サナは顔や服の返り血も気にせず、今度は両手を勢いよく畳につけて反動で身体を浮かせる。そして、フリーになった両足の裏を目の前のテーブルに渾身の力で叩き付けた。
決して軽くないはずのテーブルが畳を滑り、対面で立ち上がろうとする男たちの腕や膝を強打する。
「いっでぇ!?」
予期せぬ攻撃に出鼻を挫かれる男たち。
一方、サナは机を蹴った反動をも利用して一気に立ち上がる。
「待て!」
サナに一番近かった両隣の男たちは、まだ膝を立てたくらいの中途半端な姿勢で逃げようとするサナに対して反射的に手を伸ばす。
だがそれはあまりにも不用意だった。
サナがまるでバレェのようにくるりと回転──ただそれだけの行為で、男たちの手首や拳にパックリと浅くない傷が走る。
「がぁぁ!?」
男たちは自らの手を押さえて悲鳴を上げ、サナをあっさりと取り逃がす。
だが彼らの行為は無駄ではない、時間を稼いだ。まだ無傷の男たちは仲間の惨状に動揺しながらも、玄関へと続く扉を守ろうとする。
しかしサナはそちらを一瞥しただけで逡巡すら見せず反対側──庭へと走り出す。
「このっ!」
なんとか立ち上がることができた男がサナの前に立ちはだかる。だがサナは止まるどころかむしろ走る速度を上げ、虚を突かれた男の懐に一気に飛び込んで鎌刃を振るった。
右下から左上に、左上から左下に──両肩口。
左から右へのバックハンド──腹部。
一秒たらずで戦闘能力を喪失し致命傷を負った男が悲鳴を上げながら転倒する。
サナは自分が倒した男に目もくれず庭へと向けて走る。
「行かせるかぁ!」
だがその横から空の酒瓶を振りかぶった男が襲い掛かる。
サナは片足を引いて男に向き直るが、その隙に男が酒瓶を一気に振り下ろす。刃物のような威力はなくても大の男が全力で振り回せば致命傷を生むことなど容易い。
だがサナはその酒瓶に右拳を合わせる。仮に鍛え上げていようと無謀な行為、勝利を確信した男が目で笑う。
そして酒瓶と拳が勢いよくぶつかり、音を立てて粉々に酒瓶が砕け散る。
「はっ──?」
予想外の現象に男が呆ける──動きが止まる。
男が立て直すよりも早く、サナは男の腹部をバックハンドで横一文字に切り裂く。悲鳴を上げて倒れる男を無視して、サナはストッキングのまま縁側から庭へと一気に飛び出す。
「ま──待て!」
背後から響く月並みな制止の声は全くの無意味。
サナは素早く庭を横切り、自分の身長ほどの高さの塀に軽々とジャンプで取りついて綺麗なフォームでその向こう側に飛び降り、男たちの視界から消えた。
塀を一気に飛び越えたのはミスだったとサナは後悔した。
「だらぁぁぁぁっ!!」
どれだけ鍛えていようとあまりにも無防備になる着地の瞬間、横合いから壮年の男性がタックルを仕掛けてきた。素人臭いが勢いはよく、サナは抵抗できずにもろとも倒れこんでしまう。
彼女にとって幸運だったのは男が素手なことだが、体格差と奇襲の効果で僅かだが男が優位に立っている。
しばしもみ合いが続き、サナが暴れさせた足を男が掴んだ。だがストッキング越しで手が滑り、半ばまでずり落ちてしまう。
だが──
「ぇ……」
ストッキングの下から現れた素足に、男の動きが止まる。
一見したところ綺麗な足だが、よくよく見るとすね毛が見つかる筋肉質なそれはサナのファッションとは──サナの外見から予想される性別とは似つかわしくない。
つまり──
「お前……男か!? 男のくせにそんな恰好で──」
その言葉に、サナの動きがピクリと止まる。
いま、彼女の両手は開いたまま地面についている。
だがナイフは取り落としていない。
サナは動きの止まった男を蹴りつけその反動で一気に回転、男の無防備な脇腹に鎌刃をねじ込む。深手を負った男の力が抜けたところでサナはもみ合いから脱し、うずくまる男の髪を左手で掴んで引っ張り上げる。
「”たよーせい”って知らないの?」
そして無防備な首筋を鎌刃で一閃し頸動脈を切断、男を突き放して吐き捨てた。
「私も知らないけど」
同業者から聞きかじっただけの言葉である。
ひとまずの危機を脱したサナだが、安心するにはまだ早すぎる。
ストッキングを素早く直し、とりあえず車に戻ろうと──タイヤがパンクした程度なら走行自体は可能だと経験で知っていた──体勢を整えたサナはしかし、目の前の光景にピタリと動きを止めた。
僅かな人工の光と圧倒的な星明りの下、サナが脱出した民家を遠巻きに取り囲むようにして──まるで村中から集めたような大勢の男たちが、村のあちこちに立っている。
壮年から中年くらいの男たちがなぜそんな風にしているか、それは彼らが手にしている鎌やナタ、ノコギリに斧、果てはお手製と思しきこん棒から日本刀に少数ながらの猟銃、そして彼らがサナを見つめる殺気の視線が雄弁に物語っている。
その光景に、さすがのサナも眩暈を覚えた。
「えぇぇぇぇぇ……えっ、あのご飯、クスリでも入ってたぁ……?」
もはや自分の目すら信じられなくなったサナは、手元──右手に目を落とした。
そこにあるのは今日もサナの命を救ったナイフ。
だがそれは、普通のナイフではない。
大きく違うのは二点。
首を絞めようとしたロープを手際よく切断した刃──鎌か獣の爪かのように内側に湾曲した刃渡り数センチの鎌刃。
叩きつけられそうになった酒瓶をあっさりと叩き割ったグリップエンドの大きな輪──指を通すためのフィンガーリング。
通常のナイフとはあまりに異質な武器──カランビット。
インドネシア発祥とされ、鎌刃による人体への深いダメージやリングによる保持力等を好んで、一部の武道家や特殊部隊が使う近接武器。
なお全体が雑にピンクでデコレーションされているのはサナの趣味である。
サナは逆手に構えていたカランビットを、フィンガーリングに通した人差し指を支点に勢いよく回転させる。そしてピタリと逆手に構え直した。
扱いなれていない素人、あるいは薬物を盛られて幻覚を見るほど朦朧とした人間であれば自らを傷つけかねない行為だが、サナはいつも通り無傷だった。
それは朗報であり、凶報である。
朗報。
「……クスリじゃない」
凶報。
「全部、現実……」
村中から集まったと思しき男たちに命を狙われるという悪夢のような現実。
「なんなのよ……」
呆然と呟く。
サナがそうこうしている間に、取り囲む男たちはだんだんと近づいてくる。脱出したばかりの背後の家からも、大勢の気配が迫って来る。
──サナは考えることが苦手だった。自分でもそれを自覚しているし、それで命を落としかけたことも一度や二度ではない。
だが、何も理解できなくても──
「あーもぅ…………めんっ! どくさいっ!!」
左手を服の隠しスリットに突っ込み、そこから右手の物と同じカランビットを掴み出して二刀流の形にする。
状況を理解できなくても殺意を鈍らせたことは一度もない。
それが彼女をここまで生き残らせてきた。
「あーもうやってやろうじゃないのっ!! そっちから襲ってきたんだからねっ!! “せーとーぼーえー”!!」
星明りの下でやけっぱちに絶叫して、サナは男たちへと突っ込んでいく。
こうして彼女──否、彼は──三上サナは──もちろん偽名──職業殺し屋は、この村の数奇な運命に巻き込まれた。




