5-2
森へ踏み入った男たちの内の一人は、少し森の中に入ったところで空気が変わったような印象を覚えた。
木々が鬱蒼と茂り、葉の隙間から星明りが差し込む森からは特に変わった様子は見受けられないが、それでも普段の森とは何かが違う──そう男は考えている。
知らず知らず男は固唾を飲み、右手のナイフを強く握りしめる。
足元で落ち葉や小枝の立てる音がどこか遠いと感じて──それは自分の鼓動の音がやけに大きく感じるせいだとすぐに男は気が付いた。
「ぉ……おーい……」
孤独や焦燥に耐えきれず男は声を出すが、そのつっかえつっかえの誰何は闇のなかへと消えてしまう。
男はまた、唾をのみ込んだ。
状況はまるで分からないが、異常な状況であることは男にも察せられた。
故に男は──今さらながらに──気配も音も──彼なりに──殺して、警戒しながら歩く。
そうして落ち着いてみると、人の痕跡は意外とすぐに見つけることができた。踏み荒らされた落ち葉や折れた小枝などを見て、その騒々しさから男はこの痕跡が先に森へ入った仲間たちのものだろうと判断する。
ようやく人間の痕跡を見つけたことで男は安堵するが、すぐに疑問が頭をもたげてくる。
──ならば仲間たちはどこへ行ったのか?
もはや何度目か分からない生唾を飲み込んだ男は、ひとまずその痕跡を辿ることにした。
もはや彼の耳には、自分の心臓の鼓動しか聞こえていない。
まるで自分以外、この森には存在しないかのような感覚、錯覚。
差し込む星明りがフラクタルな影を生み出し、風に揺れるそれが流動的な死角を生み出す。
そして男はようやく見つけた──仲間の姿を。
「っ……」
だがその姿は決して無傷とは言えなかった。
目の前の大木に背中を預けるようにして、木陰に隠れるように座り込んでいる仲間の姿。頭が隠れているせいで誰かまでは判断できないが、素人の男でもその生死に関しては──肩口にべっとりとこびりつき、早くも黒ずんできている鮮血によって半ば明らかだった。
普通なら悪い状況だが、ようやく見つけた獲物の痕跡に男はほんの少し安堵の息を漏らす。
あとは血の渇き具合でいつ頃殺されたかも分かるかもしれない、いやその前に一応生死をきっちり確かめなければ──男はそう考えながら、周囲を警戒しつつその大木を回り込み、座り込んでピクリとも動かない仲間の全身を確認しようとして──
「──ひっ!?」
その口から悲鳴が漏れた。
仲間は死んでいた。
確認するまでもなかった。
木にもたれかかるように座り込み、肩口から下部を自らの血で濡らし、ピクリとも動かない状態だったが、そんなことは全く関係なく男は死んでいた。
その身体には頭部が無かった。
まるでギロチンで落とされたかのように、頭があったはずの場所からは首の切断面が覗いている。
「ぅ……ぁ……」
そんな仲間を発見してしまった男は異様な死体から目を離すことができず、仲間を呼ぶという思考に声帯が追い付かず無意味なうめき声ばかりを漏らしてしまう。
もちろん男が死体を見たのはこれが初めてではない。
だが男は──村人たちは、こんな異常な死体は目にしたことがない。
誰かを殺すのにわざわざ首を切断するなんていう行為は、異常性を自覚する村人たちにとっても思考の埒外にあった。
なぜこんなことが起きているのか分からない。
分からないから怖い。
男はここに来てようやく──恐怖という感情を抱いた。
「っ!?」
そこで自らの置かれた状況を理解した男は、慌てて周囲を見回す。
だが左右を見ても、背後を見ても、とうとう頭上まで見上げても──そこに、獲物の姿はない。
「…………」
その時自分が抱いた感情が安堵か恐怖か、男にも分からなかった。
だがここで立ち止まっていても意味がないことは理解していたので、震える足を誤魔化すようにして男は歩き出した。
だがもしかするとそれは、首なし死体という異常から離れたかっただけなのかもしれない。
理由はどうあれ男は森を歩き続ける。
先ほどまで以上に周囲を警戒する男は、風がほんの少し草木を揺らすだけでビクリと震えあがり、いちいち立ち止まって周囲を警戒するようになっていた。
そんなことをしているからか、彼はまた仲間の──仲間と思しき──死体を見つけた。
草むらに血まみれで転がっている男性の首無し死体。
男にとって二度目の衝撃はさほど大きくなく自身が思うよりも冷静に受け止められたが、逆にその冷静さのせいで誤魔化しきれない恐怖が心に根付いてしまう。
頭部という、人間なら誰もが持っているはずのものが無くなるだけで──見知ったはずの仲間の死体は、底知れぬモノになり果てた。
無意識に、男の足が早くなる。
だが進む速度が上がるということは、仲間の死体──当然、首無し──を見つける頻度も上がるということだ。
仰向けに倒れる死体、うつぶせに倒れる死体、眠るように倒れる死体、奇妙な死後硬直を見せる死体。
どの死体にも首がない。
男の足がさらに早まる。
彼にはもう、周囲の音なんて聞こえていなかった。その耳に届くのは、張り裂けんばかりの鼓動と荒い呼吸音だけ。
それでも男はまだ理性を保っていた。
自分と同じように後から森に入った仲間の首無し死体を見つけても、まだ叫ばないだけの精神力はあった。
そしてようやく、ようやく男は見つけ出すことができた。
──首のある死体を。
その死体は木にもたれかかるようにして地面に座り込み、上半身は血まみれで目も閉じられたままだが、それでも首がある。
もしも見つけたのがサナの死体だったとしても、男はここまで喜ばなかったかもしれない。
死体であることには何ら変わりないのに、首があるだけでそれがまるで正常であるかのように思える──そんな、ともすればどうでもいい感想を男は抱いていた。
だが男はそうやって冷静さを取り戻したおかげで、”そもそも目の前の仲間はまだ死んでいないのではないか?”という当然の考えに行き着いた。
「おい! 大丈夫か!」
今さらながらに潜めた声でそう問いかけながら、男はその仲間の肩をゆする。
すると仲間の首がガクンと大げさに揺れて──
頭部がコロリと地面に転がった。
「──────!!」
男は走っていた。意味のないことを叫びながら走っていた。もはや自分が叫んでいるという感覚すらなかった。
その手に握られていたはずのナイフもどこかに消えてしまった。落としたのか、振り飛ばしたのか、その記憶すら男には存在しない。
だが、こんな暗い森のなかではそんな逃走もすぐに終わってしまう。
案の定、男は地面に転がる何かに躓き、受け身を取ることもできずに転んでしまった。
「ぃぃっ──ゲホッ! ゴホッ、ハァ、ハァ……」
転倒の痛みに悲鳴を上げることすらままならないほど、男の肺は悲鳴を上げている。
だがその二つの痛みで、男はほんの少し冷静さを取り戻して思考することができた。
男はこれまで、村だけでなくそれを取り囲む森も自分たちが知り尽くした有利な環境だと考えていた。しかし、見通しも足元も悪い環境でまるで小型の肉食獣のように動き回る存在を相手にしては、その考えは間違いだったと認めるしかなかった。ならば、このまま森をさ迷うより、視界の開けた村で待ち構える方が得策。
そう考えた男は、なんとか立ち上がって森を出ようと歩き出す。
今度は躓かないよう、しっかり足元に注意しながら──
さっき自分は何に躓いた?
唐突に頭を過った疑問に、男は動きを止めた。
まずその目線だけが動き、そして首だけで振り向こうとし、それでも足りないからと体を後ろに向けようとする。
──嫌な予感を抱えながら。
思考の冷静な部分は必死になって”見るな”と伝えてきているのに、男は振り向くのを止められない。
その視界の端からだんだんと映りこんでくるのは──木々の隙間から漏れる星明りに照らし出されているのは──おおよそ丸くて地面に転がっていて生気のない目を向けてくるのは──
それを認識した瞬間、男は背後に気配を感じた。
それで、今回の彼の命はここで終わった。
地面に転がる新旧二つの生首をしばし酷薄な目で見つめていた者──全身を返り血で真っ赤にしたサナは、「そろそろ村に行くかー」と呟いてその場を後にした。
まだ生き残っている者は幸運だった。その恐怖を知らないのだから。
まだ生き残っている者は不幸だった。その恐怖をこれから知るのだから。
そうして誰も彼もが死んだ──頭を失った──頃、動くものが一人しか存在しなくなった頃。
ようやく
鈴の音が
村に響いて
世界は──流転する
◆◆◆
「……やっぱ、こんくらいじゃ足りないかぁ……それじゃあ次はぁ──」
悪夢はまだ終わらない。




