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最終話【零時の再会】

零時を過ぎた川辺には、人の気配はなかった。街灯も少なく、ぼんやりと灯る黄色い光が濁った川面を照らしているだけだった。橋の下は闇に沈み、流れる水音だけが静かに響いていた。ぴちゃん。ぴちゃん。夜風は生ぬるく、湿った草の匂いと腐った泥の匂いを混ぜ合わせ、鼻腔を刺す。


通報を受けた警察官たちは、橋の下に降りると、そこで一人の若い男を見つけた。川岸に倒れるように横たわった男の肌は青白く、服は濡れ、指先には泥がこびりついている。脈を測った救急隊員が、小さく首を振った。


「死亡確認……」


冷たい声が、夜の川辺に溶けていく。現場は粛々とした緊張に包まれていた。誰も大声を出さない。ただ、ぴちゃん……と水音が絶え間なく響いている。


隊員が死体を引き上げると、その顔が街灯に照らされた。目は半開きで、何かを見つめたまま動かなくなっている。唇はわずかに開き、吐き出された泥水が顎を濡らしていた。その顔には苦悶も恐怖もなく、ただ冷たい水の底に沈んだかのような虚ろさだけが残っていた。


「この人……昨日もここで目撃情報があったって……」


隊員がつぶやくと、隣の警察官が川のほうを見やった。川面は黒く濁り、夜風に揺られて微かに光を跳ね返している。だがその奥、橋の下には何かが立っているように見えた。


「……あれ……人か?」


警察官は思わず口にした。

誰も返事をしなかった。

川の中、橋脚の陰に、白い影が立っていた。


黒い長い髪が濡れて川面に張り付き、白いワンピースが水の中でふわりと揺れている。顔は見えない。ただ、その存在だけが確かにそこにあった。夜風が吹き抜けるたび、髪がわずかに揺れ、その奥の闇がちらりと覗く。


ぴちゃん。

ぴちゃん。


川の水音は止まない。

その白い影は、橋の下から動こうとしなかった。


「……おい、誰か……」


警察官が震える声で呼びかけたが、返事はなかった。川面に映る影は、夜風に揺れる水面と共に波打っている。まるで、その白い影と、今引き上げられた男の死体が、鏡のように呼応しているようだった。


救急隊員がストレッチャーに死体を載せ、護送車へ運び込む。

その間も、橋の下の白い影は動かなかった。


川面を渡る夜風に乗って、ほんのかすかな声が聞こえた。


——帰ろう。


誰も何も言わなかった。

その声を聞いたのは、冷たい死体となった男だけだったのかもしれない。

だが、橋の下でじっと立つ白い影は、その黒い髪の奥で、確かに笑っているように見えた。



最終話後日譚【余波】



川辺で男の死体が発見されてから、一週間が過ぎた。梅雨が明けるか明けないかの頃で、空はどこまでも鉛色だった。川沿いの歩道を歩く人々は、誰も橋の下を見ようとしない。生ぬるい湿気と、腐った泥の匂いが混ざり合い、鼻を刺すような臭気を漂わせているが、もう誰も気に留めなかった。ただそこに川があり、水が流れ、橋の下にはいつも影がある。それだけだった。


事件としては事故死で処理された。深夜、酔った男が川に落ち、そのまま溺死したという結論。目撃情報についても、通報者の記憶違いだと片付けられた。だが、通報者である女性は、その後会社を休みがちになり、とうとう退職したと噂で聞いた。あの夜、橋の下に白い女が立っていたと話して回ったらしい。誰も信じなかった。川に取り憑かれたんだろうと笑われていた。


夕方、川沿いを歩いていたサラリーマンの男が、ふと橋の下に目をやった。黒く濁った水面が波打ち、湿った風が吹き抜ける。橋脚の陰には、やはり何かが立っているように見えた。髪の長い女。白いワンピース。だが、男はすぐに目を逸らした。生温い風と泥の匂いが胸をむかつかせた。今日は取引先でうまくいかなかった。明日も朝から会議だ。川なんて見ている暇はない。足早に歩き出すと、背後でぴちゃん……と水音が響いた。振り返らない。聞かなかったことにする。川沿いの街灯が灯り始め、夕闇が世界を飲み込み始める。橋の下では、髪の長い白い影が、ゆっくりと顔を上げた。


夜中、通り雨が降った。橋の下に溜まった水溜まりがゆらゆらと揺れる。雨音と混ざって、低く湿った声が響いた。


——帰ろう。


翌朝、川沿いの歩道でサラリーマンの男が倒れているのが発見された。水に濡れたスーツと、泥に塗れた靴。顔は川の方を向いており、目を開けたまま二度と瞬きはしなかった。救急隊が駆けつけたとき、男の耳元にはまだぴちゃん……と濁った水音が響いていたという噂が広まった。


それから、この街では深夜零時になると橋の下に白い女が立つという噂が消えなくなった。通勤途中にふと川を覗き込み、そこに女を見たという人は決して少なくない。だが誰も口にはしない。あの川の水音は、一度耳にしたら二度と忘れられないからだ。


梅雨が明けない。空は鉛色のまま湿気を孕み、生ぬるい風が吹き抜ける。夜になれば、川の濁った水面が月明かりを拒み、ただただ黒い闇を湛えている。橋の下で女が立っている。髪が揺れるたび、その奥の暗闇が覗く。

今夜もまた、帰ろうとする人の背中に、ぴちゃん……と水音がついてくる。

そしていつか、その声が届くのだ。


——帰ろう。


呼ばれたとき、二度と帰る場所はない。


(終)


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