第六話【引きずり込む手】
夜が来るのが怖かった。
いつもなら、街灯が灯り、蛍光灯の白い光が部屋を満たせば、暗闇は遠ざかるはずだった。
だが今は違う。
部屋の隅にも、廊下の奥にも、キッチンの下にも、
どこにいても、あの川の匂いがまとわりついて離れなかった。
あの夜以来、何度も女の声を聞いた。
——帰ろう。
その言葉が、耳ではなく頭の奥に響くたび、心臓が凍りつき、手足から血が引いていくようだった。
この日も、深夜二時を過ぎても眠れず、布団の中で硬く身を縮めていた。
窓の外では虫が鳴いている。
そのかすかな音に混じって、聞き覚えのある音がした。
ぴちゃん。
水音だった。
(……やめろ……)
布団を頭までかぶり、目を閉じる。
だが耳は塞げない。
部屋の中に響く水音が、少しずつ近づいてくる。
ぴちゃん。
ぴちゃん。
それは、玄関から廊下を進み、リビングを通り、寝室のドアの前で止まった。
(……入ってくる……)
恐怖で全身が震えた。
ガチャ。
ドアノブが回る音がした。
閉めたはずのドアが、きい……とゆっくり開く。
布団の中で息を潜める。
冷たい空気が肌を撫でた。
ぴちゃん。
ぴちゃん。
足音は布団のすぐそばで止まった。
次の瞬間、足元から冷たい水がじわりと滲み出す感覚があった。
(……水……?)
恐る恐る布団をめくると、足元の床が濡れていた。
水は寝室のドアから続き、廊下へと消えている。
そして、そこに立っていた。
女だった。
長い黒髪が顔を覆い、白いワンピースは水を吸って重たげに垂れていた。
足元からは水が滴り落ち、フローリングの上に小さな水たまりを作っている。
女は微動だにせず、ただ俯いたまま立っていた。
——帰ろう。
声が、部屋中に響いた。
冷たい風が吹き抜け、部屋の空気が一気に湿り気を帯びた。
女がゆっくりと顔を上げる。
髪の隙間から覗いた目は黒く、奥底には何もなかった。
ただそこには、底なしの水のような深い闇だけがあった。
視線が合った瞬間、全身が凍りついた。
動けない。
声も出ない。
女は、一歩こちらへ足を踏み出した。
ぴちゃん。
その足音が、夢の中で何度も聞いた川の音と重なる。
女はさらに近づき、布団の端を踏んだ。
そして、冷たい手がこちらへ伸びる。
(……やめろ……)
震える唇から、かすれた声が漏れた。
女の手は止まらない。
——一緒に帰ろう。
その言葉と同時に、氷のような冷たさが腕に触れた。
次の瞬間、視界が真っ暗になった。
気がつくと、川辺に立っていた。
夜の川は月明かりも届かず、濁った黒い水面がゆらゆらと揺れていた。
橋の下に目をやると、女が立っていた。
顔は見えない。
だが、その体は少しずつ、こちらへ向かって歩いてきた。
ぴちゃん。
ぴちゃん。
川の水面を踏みしめるたび、水音が濁って響く。
女はすぐ目の前まで来ると、ゆっくりと手を伸ばした。
冷たい指先が頬に触れる。
心臓が凍りつくような冷たさ。
——帰ろう。
声が響いた瞬間、足元の泥が渦を巻いた。
ずるり。
何かが足首に絡みつき、引っ張られる。
川の中へ。
足が沈む。
膝まで水に浸かると、冷たさで呼吸ができなくなった。
女はじっとこちらを見つめていた。
黒い穴のような目。
その奥底には、深い深い水底が広がっていた。
川の水は冷たかった。膝まで沈んだ足から骨の奥へと冷気が這い上がり、全身が痺れるように動かない。月明かりすら届かない水面は黒く濁り、ぬるりとした泥の感触が肌に貼り付いていた。女は目の前に立っている。長い髪で顔は隠れているが、あの黒い穴のような目がこちらを見ているのがわかった。微動だにしないその姿は、恐怖という感情を越えて意識を麻痺させた。ただひたすらに冷たく暗い川の水音と、胸を締めつけるような息苦しさだけが現実感を与える。
女はゆっくりと手を伸ばした。白く細いその指は氷のように冷たそうで、触れられた瞬間、自分の体温など一瞬で奪い去られてしまうだろうと思った。震える唇から声は出ない。助けを呼ぼうにも、声帯は凍りついたように固く、ただ荒い息が喉を震わせるだけだった。女の手が頬に触れた。びりりと電流のような痛みが走り、全身の毛穴が開く。冷たい。痛い。怖い。感覚が混ざり合い、頭の中が真っ白になった。
——帰ろう。
声が頭の奥で響いた。耳ではなく、脳髄に直接注ぎ込まれるような感覚だった。意識が暗闇へと引きずり込まれていく。川の底から何かが足を掴んだ。泥に沈んだ冷たい手。引っ張られる。ぐい、と足首を引かれ、膝まで浸かっていた水が腰まで迫る。冷たさに喉が痙攣し、短い悲鳴が漏れた。だが女は何も言わず、ただ黒い髪の奥からこちらを見つめ続けていた。
必死で足を動かそうとするが、泥に埋まった足は鉛のように重く動かない。むしろ、動かそうとすればするほど、深みへと沈んでいく感覚だけが増していった。女の唇がわずかに開いた。冷たい空気の中、そこから聞こえる声は泡立つ水音のようで、言葉にならない呻きが混じっていた。
——帰ろう……帰ろう……帰ろう……
何度も繰り返されるその言葉に、意識が遠のいていく。水面が顔の高さまで迫る。冷たさで目を開けていられない。肺が悲鳴を上げる。息ができない。女の白い手が頬から首へ、そして肩を掴む。氷のような指先が皮膚に食い込み、骨まで冷気が流れ込む感覚に全身が震えた。水の中からさらに多くの手が這い出してくるのがわかった。泥と水草にまみれた冷たい手が無数に伸び、足首を、脛を、膝を、腰を、背中を掴んでいく。
女の顔が近づく。髪が水に浮かび、その奥の目が見えた。真っ黒で、何も映さない目。その奥には、ただ深い水底の暗闇が広がっていた。全てを沈める暗黒。永遠に光の届かない底なしの闇。そこに、自分が引きずり込まれる未来がはっきりと見えた。
——帰ろう。
最後の言葉と同時に、女の手が強く肩を掴み、水面の中へと押し込んだ。口から冷たい水が流れ込み、肺が裂けるように痛んだ。暴れようとしても、無数の手に絡め取られ、指一本動かせなかった。耳の奥でぶくぶくと泡が弾ける音がする。視界は暗く、川底の泥が漂い、息を吸おうとした口に濁った水が入り込み、苦しみで頭の中が真っ白になる。女の顔が目の前にあった。髪がふわりと揺れ、その奥の目は笑っているように見えた。
もう光はなかった。
もう空気もなかった。
冷たさと暗さだけが全てを支配していた。
夢だとわかっていても、恐怖は現実と変わらなかった。夢の中で死ねば、きっとそのまま現実の自分も目を覚まさないのだろうと、頭の奥でぼんやりと理解していた。引きずり込まれる感覚が鮮明で、泥の中で動けない苦しさと冷たさが、体の端から端まで染み渡っていった。
水面は遠ざかる。耳鳴りの奥で、川の水音が永遠に続いていた。