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第四話【呼ぶ声】

その日も、眠れないまま朝を迎えた。


ソファに倒れ込んだままの体は重く、筋肉が凝り固まって思うように動かなかった。

頭の奥では、昨夜の女の声がまだ濁った水音のように響き続けていた。


——帰ろう。一緒に。


まぶたを閉じると、腐りかけた皮膚と黒い穴の目、

そして泥水が滴る指先が目前に迫ってくる。


(……いやだ……いやだ……)


身体を起こし、台所の蛇口をひねる。

冷たい水で顔を洗っても、こびりついた生臭さは消えなかった。


その匂いは、あの夜からずっと離れない。

シャンプーを変えても、消臭剤を撒いても、鼻腔の奥に残り続ける。

むしろ、風に揺れたカーテンの隙間から匂いが吹き込んでくるような錯覚さえあった。


(今日は……絶対、川沿いを通らない……)


そう決め、出勤した。

会社では西田に何度も声をかけられたが、上の空でうわべだけの返事を返すだけだった。


パソコン画面を眺めていると、ディスプレイの反射に何かが映った。


濡れた黒髪。

青白い手首。


心臓が跳ね、慌てて振り返る。

だが、そこにはコピー用紙を抱えた西田がいるだけだった。


「おい、大丈夫か?」


「……あ、ああ……ごめん」


「顔色ひでえぞ。今日はもう帰れよ」


「……うん……」


早退届を出し、会社を出ると、夏の日差しが肌を刺した。

焼けつくようなアスファルトの匂いが鼻を突き、吐き気が込み上げる。


太陽の下を歩いていても、背後からあの腐った匂いが追いかけてくるようで、汗が冷たく張り付いた。


遠回りして川沿いを避け、自宅マンションに戻る。

玄関のドアを閉めたとき、安堵よりも恐怖が勝った。


部屋は薄暗く、カーテン越しの光が埃を照らしている。

生暖かい空気が淀み、呼吸をするたびに喉奥が粘ついた。


(……いない……いないはずだ……)


そう思い込もうとするたび、頭の奥で女の声が濁る。


——帰ろう。一緒に。


耳ではなく、脳髄を湿らせるように響くその声は、夜が近づくにつれて大きくなっていった。


夕方、ふと視界の端に動く影があった。


リビングのカーテンが揺れている。

窓は閉め切っているはずなのに。


近づくと、カーテンの奥に白い何かがあった。


恐る恐る布を掴み、少しだけ開ける。


そこには何もいなかった。


安堵した瞬間、背後でガタリ、と音が鳴った。


振り返ると、廊下の奥、脱衣所のドアがわずかに開いていた。


(閉めたはず……)


冷たい汗が背筋を伝う。

足元から床の冷たさが這い上がり、指先まで震えた。


ゆっくりと廊下を進み、脱衣所のドアを押し開ける。


湿った空気が流れ出した。

風呂場のタイルは濡れていない。

鏡にも、自分以外何も映っていない。


だが、その静寂の中で、確かに聞こえた。


水の底から響くような、泡立つ濁った声。


——帰ろう。


喉が痙攣し、息が詰まった。


鏡の奥、暗い風呂場の隅で、黒髪が揺れた。


腐った匂いが一気に鼻腔を突き破り、胃の中身がこみ上げる。


女は立っていた。

髪の隙間から覗く目は、あの黒い穴のように深く、何も映していなかった。


そして唇が裂けた口元が、ゆっくりと動いた。


——迎えにきた。


腐った魚と泥の匂いが、口を開けるたびに広がり、頭がぐらりと揺れた。


足が震え、倒れ込んだ洗面台の下に冷たい水滴が落ちる。


その水滴は、女の髪から落ちたものだった。



女の髪から落ちた水滴が、洗面所のタイルを濡らす。


ぽたり、ぽたりと、一定の間隔で落ちる音が耳に張り付き、

そのたびに心臓が縮むように疼いた。


鏡越しに見える女は、昨日と同じ白いワンピースを着ていた。


濡れた髪が顔を覆い、輪郭は見えない。

だが、そこに確かに“人の気配”があった。


動けない。

冷たいタイルに膝をつき、息を潜める。


女はゆっくりと首を傾けた。


髪の隙間から、わずかに肌が見える。

水に浸かったように青白く、月明かりのような冷たさを帯びていた。


女の指が動く。


ゆっくりと、ゆっくりと、鏡の中の自分に向かって伸ばされる。


その仕草は恐ろしく静かで、

怒りでも恨みでもなく、ただ淡々とそこにあるようだった。


——帰ろう。


声は耳からではなく、頭の奥から響いてきた。


冷たい空気が洗面所を満たす。

女の伸ばした指先が鏡に触れると、

水面のように波紋が広がり、指先がそのまま鏡を通り抜けてくるように見えた。


心臓が跳ね、震えが止まらなかった。


女は動きを止めた。


鏡の中で、じっとこちらを見つめている。


髪の隙間から覗くその目は、何も映さない空洞のようで、

見つめられるほどに、意識が深い水底へ引きずり込まれるようだった。


——帰ろう。一緒に。


低く湿った声が頭の奥で響き、

背筋を氷の指でなぞられたように寒気が走った。


女はそのまま指を引っ込めると、髪を揺らしながらゆっくりと後ろを向いた。


その背中は細く、頼りなく、濡れた髪がワンピースに張り付いている。

足元から水が滲み出し、タイルの上に淡い水跡を作った。


そして、そのまま鏡の奥へと溶けるように消えていった。


静寂が戻る。


洗面所には、自分の荒い呼吸音だけが残っていた。


膝が震え、力が入らない。

洗面台の縁を掴み、どうにか立ち上がる。


鏡に映る自分の顔は、青白く汗で濡れていた。

頬を伝う冷たい水滴を拭おうとして、手が止まる。


拭ったはずの指先に、うっすらと黒い汚れが付いていた。


何度も擦っても取れない。


(……まだ……いる……)


そう思った瞬間、どこか遠くで水音が響いた。


ぴちゃん。


川の音だった。


風もないのに、部屋の中を生ぬるい空気が通り抜ける。


胸の奥がざわりと波立ち、背後に視線を感じる。


振り向けなかった。

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