第二話【橋の下の女】
朝になっても、身体の震えは収まらなかった。
夜明け前にようやく眠りに落ちたはずなのに、夢の中でも川の音が耳から離れず、浅い眠りのまま目覚めたときには全身が粘つく汗にまみれていた。
カーテンの隙間から射し込む光が、やけに白く眩しく感じる。
「……夢だよな……」
掠れた声が部屋に落ちる。
あの女を見たのは夢だったと、必死で思い込もうとした。
だがラグに染み付いた黒い水の跡は、薄く乾きかけているだけで、朝日を受けて黒光りしていた。
生臭い匂いも、まだ部屋の中にわずかに残っている。
時計を見ると、出勤まであと三十分。
頭はぼんやりと重く、熱があるようにふらついていた。
(会社……無理だろ……)
そう思いながらも、鞄を掴み、ふらつく足取りで駅へ向かった。
いつもの川沿いの道は避けた。
昨夜のことを思い出すだけで、心臓が締め付けられるように痛んだ。
遠回りでも、車の音が響く大通りを歩く方がまだ安心できる。
満員電車の中でも、昨夜の光景が頭から離れなかった。
白いワンピース、濡れた黒髪、何も言わないままこちらを見ていた顔のない女。
(なんだったんだ、あれ……幽霊……? そんなバカな……)
だが、あれが現実でなかったと証明できるものは何もない。
家に帰れば、あのラグの染みが残っている。
思い出すたび、背中にじっとりと冷たい汗が滲んだ。
「おーい、大丈夫か?」
声をかけられて我に返ると、同僚の西田が不思議そうにこちらを見ていた。
オフィスに着いていたことに気付かないほど、意識が朦朧としていたらしい。
「ああ……ごめん、ちょっと寝不足で」
「顔色悪いぞ? 昨日も遅かったんだろ。無理すんなよ」
西田は営業部の同期で、何でも遠慮なく言い合える数少ない友人だ。
いつもなら冗談交じりに返すところだが、その気力もなかった。
午前中は資料整理に追われ、頭を動かしていれば恐怖も薄らいだ。
だが、昼休みになり一人で弁当を広げたとき、昨夜の映像がぶり返してくる。
(……見間違い、じゃない。あんな鮮明に……)
食欲はなく、冷めた唐揚げを箸で崩すだけで胃が重くなった。
「なあ、西田」
「ん?」
「帰り、さ……川沿いの橋の下に、誰か立ってたらどうする?」
唐突に投げた質問に、西田はポカンと口を開けた後、苦笑した。
「お前何言ってんだよ。酔っ払いでもいたんじゃねーの?」
「いや、深夜零時くらいで……女が、橋の下で立ってて……白い服着て……」
そこまで言ったところで、我ながら何を言ってるんだと思った。
だが止まらなかった。
「髪が濡れてて、顔が見えなくて……立ったまま動かないんだよ。で、家に帰ったら……部屋にいた」
西田は箸を止めたまま、じっとこちらを見ていた。
その視線が怖くて、俯いて唐揚げを潰した。
「……マジで言ってんのか」
「……わからない。俺だって頭おかしいと思うよ……でも、怖くて……」
唇が震える。
西田はしばらく黙っていたが、ふっとため息を吐いて笑った。
「ホラー映画の見過ぎじゃねーの? 零時の橋の下って、それリングの貞子じゃねーか」
「……だよな……」
無理やり笑い返す。
西田がそう言ってくれるだけで、現実感が薄れる気がした。
だが、心の奥ではわかっていた。
あれは夢でも映画でもなく、確かにそこにいた。
昼休みが終わり、午後は取引先とのオンライン会議が続いた。
目の奥が痛むほど眠気が押し寄せるが、画面越しの相手が話している内容がほとんど頭に入らない。
やっと定時が来て、席を立とうとしたとき、西田が声をかけてきた。
「おい、今日は送ってこうか? 顔色やべーぞ」
「いや、大丈夫。……ありがとう」
「……そっか。無理すんなよ」
会社を出ると、まだ外は明るかった。
夕暮れ前の街には人が溢れ、蝉の声が高く鳴いていた。
だが、その喧騒も歩くうちに次第に遠ざかり、家が近づくころには、またあの川沿いが視界に入ってきた。
(今日は行かない……あそこは通らない……)
そう思っていたはずなのに、足は自然と遊歩道へと向かっていた。
(なんでだよ……戻れ……)
心で叫んでも、体は言うことを聞かない。
まるで、あの橋へと引き寄せられているようだった。
夏の夜風が髪を揺らし、生温かい空気が喉を焼く。
遠くで蛙が鳴き、川の流れる音が深く響いていた。
そして、橋が見えた。
昨夜と同じ、黒く沈む橋脚。
水面には月明かりが揺れ、橋の下はやはり、穴のように真っ暗だった。
足が止まる。
心臓の音が、川の音を消すほど大きく響いていた。
暗闇の中、あの白い影がいる気配がする。
川の音が、昨日よりも大きく聞こえる気がした。
それは流れる水の音というより、底の泥を這う何かが蠢いているような、ざわざわと粘ついた音だった。
橋の下に目を凝らす。
暗くて見えないはずなのに、昨日よりもはっきりと、そこに白いものが立っているのがわかった。
女だった。
濡れた長い髪が、顔を覆い隠している。
白いワンピースは水を含み、重たく貼り付いていた。
肩は細く、腕も痩せ細っている。
だが、何より恐ろしいのは、その女が昨日とまったく同じ姿勢で立っていることだった。
微動だにせず、ただ水面を見つめるように立ち尽くすその姿は、人ではなく、人の形をした何かのように思えた。
一歩下がろうとしたとき、女の顔がゆっくりと上を向いた。
顔があった。
昨日は髪で見えなかったその顔が、月明かりに照らされる。
だが、それは顔と呼べるものではなかった。
皮膚は溶けるようにただれて歪み、頬のあたりには黒い穴のような窪みがあった。
鼻も口もなく、ただどこまでも黒く沈んだその穴から、じわりと泥水が流れ出している。
足が動かない。
息もできない。
喉の奥が痙攣し、吐き気と冷たい汗が一気に噴き出した。
女は顔を上げたまま、ずるりと足を引きずってこちらに向かってきた。
橋の下から水音が響く。
歩いているというより、川底を滑るように這ってくる。
白いワンピースの裾からは、黒い泥と細い水草がまとわりついていた。
(来るな……来るな……!)
心の中で必死に叫ぶが、声は出なかった。
女の髪がばさりと揺れた瞬間、腐った魚のような生臭い匂いが風に乗って届く。
膝が震え、崩れ落ちそうになった。
女は橋の下から抜け出すと、濡れた足音を響かせて、ゆっくりと川沿いの道を這い寄ってくる。
月明かりの下、その肌は青白く、ひび割れたように乾いた部分と、水に濡れた部分がまだらに混じっていた。
指先は黒く変色し、節くれだった爪の間には、川底の泥が詰まっている。
目が合った。
黒い穴のような目。
そこには光も感情もなく、ただ深い底なしの闇だけがあった。
——帰ろう。
頭の奥に声が響いた。
耳ではなく、脳の奥に直接突き刺さるような声。
冷たく、湿っていて、生臭い匂いを伴う声だった。
女が口を開いた。
唇は腐って裂け、歯茎からは茶色い水が垂れていた。
——帰ろう。一緒に。
ぶるりと全身が震える。
足が震えて立てなくなり、その場に尻餅をついた。
女は目の前まで来ると、片足をこちらに踏み出した。
びしゃり、と水が跳ね、冷たい飛沫が頬にかかる。
近い。
息ができないほど近い。
腐敗した肉と泥の匂いで、肺が潰れそうだった。
女の指がゆっくりと伸び、俺の頬に触れた。
氷のように冷たい。
だが、その冷たさの奥には、生ぬるい水の感触があった。
そして女は顔を寄せると、耳元で囁いた。
——また来てね。
瞬間、女は消えた。
そこにはもう、誰もいなかった。
ただ、湿った川風が吹き抜け、地面には黒い泥と水滴の跡が残っていた。
恐怖に震えたまま、俺はその場から立ち上がることができなかった。
月明かりの下で、川は何もなかったように、ただ静かに流れていた。