表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/7

第一話【零時の川辺】

夜道は嫌いじゃなかった。

日中のように他人の視線を気にする必要もなく、黙々と歩いていれば頭の中が整理されていく感覚があった。

けれど、夏の夜だけは別だ。

蒸し返すような熱気がアスファルトにこもり、通り過ぎる車もほとんどなくなると、その道はまるで違う世界のように感じられる。

虫の声と遠くの信号機の色、それ以外には何もない暗闇の道。

深夜零時を過ぎると、空気さえ生ぬるく淀んでいて、まるで息をするたびに冷たい水の中に沈んでいくような気がした。


その夜も残業が長引き、電車を逃してタクシー代を惜しんだ俺は、いつもの川沿いを歩いていた。

駅から自宅までは二十五分ほどだが、川沿いの遊歩道を通れば十分は短縮できる。

街灯が少ないため薄暗く、昼間のような安心感はないが、学生時代から慣れた道だった。


風が吹けば少しは涼しいかと期待したが、吹き抜ける空気はむしろ肌にまとわりつき、汗ばんだ腕を余計に不快にした。

Tシャツの背中は椅子の背もたれで擦れ、汗の跡が黒く滲んでいるだろう。

それでも、背後に続く真っ暗な車道よりは、川の音があるだけましだった。


前方に、小さな橋が見えてきた。

コンクリート製の無機質な橋で、昼間は年配の散歩客や部活帰りの学生がよく渡っている。

だが、夜になるとその橋は別の顔を見せる。

月明かりに照らされる橋脚は陰影を強く刻み、真下に広がる水面は、黒い墨汁を流したように光を飲み込んでいた。


俺は無意識に歩みを緩め、橋の下を見やった。

街灯が届かないため、そこはまるで穴のように真っ黒で、しばらく目を凝らしても何も見えない。

ただ、水の流れる音だけが、どこか遠くから響いてくるようだった。


「……」


一歩、近づいた。

ふと、水面の奥に白い何かがあるように見えた。

黒に沈む景色の中、その白だけが異様に浮かび上がっていた。


目を凝らすと、それは人だった。


いや、正確には女のように見えた。

長い黒髪を濡らし、白いワンピースのようなものを着て、うつむいて立っている。

暗くて顔までは見えないが、その場から動かず、ただじっとこちらを向いている気配だけがあった。


背筋に冷たいものが這い登る感覚がして、思わず後ずさった。

サンダルの踵がコンクリートを擦る音が、やけに大きく響いた。


(……誰だよ、こんな時間に……)


そう思ったが、言葉には出せなかった。

声を出せば、その女が何か反応するような気がしたからだ。


足を止めたまま、月明かりに照らされた川面と、その奥の女を交互に見る。

女は動かない。

ただ、うつむいたまま、頭だけをゆっくりと傾けた。


その動作に、胸の奥が氷水に浸かったような感覚が走った。


濡れた黒髪が顔の横から垂れ、水滴が落ちる。

ぽたり。

ぽたり。

橋の下の浅瀬に小さな波紋が広がっていく。


その波紋だけが、女が現実に存在することを示していた。


心臓の音がうるさい。

耳の奥でドクンドクンと脈打ち、息をするたびに空気が冷たく肺に突き刺さるようだった。


「……見間違いだ。疲れてるだけだ……」


無理やり呟き、足を引きずるように歩き出す。

振り返らないようにと自分に言い聞かせながらも、足音が川沿いに響くたび、背後で何かが動く気配を感じていた。


遠ざかる橋の下に、あの女はまだ立っているのだろうか。


そう思うと、足がもつれそうになった。

息を整えようとしても、喉の奥が乾き、呼吸が途切れ途切れになる。


ようやく自宅近くの交差点に着いたとき、俺は振り返った。

橋は遠く、街灯に隠れて見えなかった。


安堵と同時に、冷たいものが背筋を這い降りる感覚だけが残っていた。


(……今日は疲れてたんだ。明日は、タクシーで帰ろう)


そう思いながらマンションのエントランスに入り、エレベーターを待った。

液晶パネルの数字がゆっくり変わり、閉じられたドアに自分の顔が映る。


だがその時、額からぽたりと何かが落ちた。


汗かと思って指で拭うと、ひやりとした感触があった。

そして、指先には薄く濁った水滴がついていた。


(……なんだこれ)


もう一滴、髪から落ちる。


水は冷たく、生臭い匂いがした。


玄関の鍵をかけ、靴を脱いで廊下に上がったとき、足元にぽたりと水滴が落ちた。


(……シャワーでも浴びたっけ?)


だが今日は帰宅してすぐだ。

玄関先で汗を拭いただけで、まだ鞄すら下ろしていない。

なのに、足元のフローリングには、ひやりとした水の輪がひとつ。


もう一度、額を拭った。

汗はべったりと張り付いているだけで、垂れるような水滴はない。

エアコンを入れようとリビングへ向かう途中、廊下にも小さな水滴がぽつりぽつりと落ちていた。


(何だこれ……まさか、雨漏り?)


天井を見上げても、シミも穴もない。

ただ、玄関から続くように点々と、足跡のように水滴が落ちている。


いや、落ちているというより、そこを濡れた何かが歩いたように見えた。


ぞくりと背中に悪寒が走る。

頭の奥で何かがぐらりと揺れる感覚がして、視界がにじんだ。


「……やめろよ……」


声に出してみても、返事はない。

空調の止まった部屋は蒸し暑く、喉の奥が張り付くように苦しかった。


ゆっくりと歩を進め、脱衣所のドアを開けた。

洗面台の鏡には、自分の疲れ切った顔が映っている。

目の下には隈ができ、髪は汗と湿気でぺたんと貼り付いていた。


蛇口をひねり、水で顔を洗う。

冷たい水が肌に触れた瞬間、さっきまでの粘ついた感覚が一瞬だけ消えた。


だが、顔を拭こうとタオルを取ったとき、鏡の隅に映ったものに目が留まった。


鏡の後ろ、脱衣所と廊下を隔てるドアの向こうに、白い布の端が見えた。


(……!)


思わず振り返る。

誰もいない。

廊下には小さな水滴の跡だけが点々と続いている。


けれど、確かに見えたのだ。

あの橋の下で見た白いワンピースの裾が、鏡の隅に揺れていたのを。


心臓が乱打する。

頭の奥がじんじんと痛み、耳鳴りが響き始めた。


ガタッ。


廊下から、何かがぶつかるような音がした。


震える足で脱衣所を出る。

廊下の奥、リビングのドアが半分開いていた。


いつもは帰宅してすぐ閉めるのに、今日は記憶が曖昧だ。

手を伸ばし、そっとドアを押し開けた。


暗い部屋の中、カーテン越しの街灯が薄く照らしている。

何もいない。

けれど、部屋の中央、ラグの上に小さな水たまりがあった。


(……なんでだよ……なんで濡れてる……)


ぽたり。


天井からではない。

水たまりの中央に立つ、白い足首から水滴が落ちていた。


目が慣れてくると、そこには女が立っていた。


長い黒髪が顔を覆い、白いワンピースは水に濡れて重たく張り付いている。

足元には、川底の泥のような黒い汚れがこびりついていた。


女は動かない。

ただ、うつむいたまま、濡れた髪の隙間からこちらを見ている。


声が出ない。

息すら止まったまま、体が金縛りにあったように動かなかった。


ゆっくりと女が首を傾ける。


橋の下で見たときと同じ仕草だった。

その髪から、水滴が落ちるたび、ぴちゃりと乾いた部屋に水音が響く。


——見つけた。


声は聞こえなかった。

なのに、頭の奥に直接、女の言葉が落ちてきた。


ぞわりと全身の毛穴が開き、口から短い悲鳴が漏れた。


その瞬間、女は消えた。


部屋にはただ、湿気と泥の匂い、そして冷たい水滴だけが残っていた。


崩れるようにその場に座り込み、ラグに手をつくと、指先がびしゃりと冷たい水をすくった。


震える指で濡れた床を見つめる。

水は、生臭く、川の底に溜まった泥水の匂いがした。


その夜、眠ることはできなかった。


外は、深夜零時を過ぎてもなお、川の流れる音だけが聞こえていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ