第一話【零時の川辺】
夜道は嫌いじゃなかった。
日中のように他人の視線を気にする必要もなく、黙々と歩いていれば頭の中が整理されていく感覚があった。
けれど、夏の夜だけは別だ。
蒸し返すような熱気がアスファルトにこもり、通り過ぎる車もほとんどなくなると、その道はまるで違う世界のように感じられる。
虫の声と遠くの信号機の色、それ以外には何もない暗闇の道。
深夜零時を過ぎると、空気さえ生ぬるく淀んでいて、まるで息をするたびに冷たい水の中に沈んでいくような気がした。
その夜も残業が長引き、電車を逃してタクシー代を惜しんだ俺は、いつもの川沿いを歩いていた。
駅から自宅までは二十五分ほどだが、川沿いの遊歩道を通れば十分は短縮できる。
街灯が少ないため薄暗く、昼間のような安心感はないが、学生時代から慣れた道だった。
風が吹けば少しは涼しいかと期待したが、吹き抜ける空気はむしろ肌にまとわりつき、汗ばんだ腕を余計に不快にした。
Tシャツの背中は椅子の背もたれで擦れ、汗の跡が黒く滲んでいるだろう。
それでも、背後に続く真っ暗な車道よりは、川の音があるだけましだった。
前方に、小さな橋が見えてきた。
コンクリート製の無機質な橋で、昼間は年配の散歩客や部活帰りの学生がよく渡っている。
だが、夜になるとその橋は別の顔を見せる。
月明かりに照らされる橋脚は陰影を強く刻み、真下に広がる水面は、黒い墨汁を流したように光を飲み込んでいた。
俺は無意識に歩みを緩め、橋の下を見やった。
街灯が届かないため、そこはまるで穴のように真っ黒で、しばらく目を凝らしても何も見えない。
ただ、水の流れる音だけが、どこか遠くから響いてくるようだった。
「……」
一歩、近づいた。
ふと、水面の奥に白い何かがあるように見えた。
黒に沈む景色の中、その白だけが異様に浮かび上がっていた。
目を凝らすと、それは人だった。
いや、正確には女のように見えた。
長い黒髪を濡らし、白いワンピースのようなものを着て、うつむいて立っている。
暗くて顔までは見えないが、その場から動かず、ただじっとこちらを向いている気配だけがあった。
背筋に冷たいものが這い登る感覚がして、思わず後ずさった。
サンダルの踵がコンクリートを擦る音が、やけに大きく響いた。
(……誰だよ、こんな時間に……)
そう思ったが、言葉には出せなかった。
声を出せば、その女が何か反応するような気がしたからだ。
足を止めたまま、月明かりに照らされた川面と、その奥の女を交互に見る。
女は動かない。
ただ、うつむいたまま、頭だけをゆっくりと傾けた。
その動作に、胸の奥が氷水に浸かったような感覚が走った。
濡れた黒髪が顔の横から垂れ、水滴が落ちる。
ぽたり。
ぽたり。
橋の下の浅瀬に小さな波紋が広がっていく。
その波紋だけが、女が現実に存在することを示していた。
心臓の音がうるさい。
耳の奥でドクンドクンと脈打ち、息をするたびに空気が冷たく肺に突き刺さるようだった。
「……見間違いだ。疲れてるだけだ……」
無理やり呟き、足を引きずるように歩き出す。
振り返らないようにと自分に言い聞かせながらも、足音が川沿いに響くたび、背後で何かが動く気配を感じていた。
遠ざかる橋の下に、あの女はまだ立っているのだろうか。
そう思うと、足がもつれそうになった。
息を整えようとしても、喉の奥が乾き、呼吸が途切れ途切れになる。
ようやく自宅近くの交差点に着いたとき、俺は振り返った。
橋は遠く、街灯に隠れて見えなかった。
安堵と同時に、冷たいものが背筋を這い降りる感覚だけが残っていた。
(……今日は疲れてたんだ。明日は、タクシーで帰ろう)
そう思いながらマンションのエントランスに入り、エレベーターを待った。
液晶パネルの数字がゆっくり変わり、閉じられたドアに自分の顔が映る。
だがその時、額からぽたりと何かが落ちた。
汗かと思って指で拭うと、ひやりとした感触があった。
そして、指先には薄く濁った水滴がついていた。
(……なんだこれ)
もう一滴、髪から落ちる。
水は冷たく、生臭い匂いがした。
玄関の鍵をかけ、靴を脱いで廊下に上がったとき、足元にぽたりと水滴が落ちた。
(……シャワーでも浴びたっけ?)
だが今日は帰宅してすぐだ。
玄関先で汗を拭いただけで、まだ鞄すら下ろしていない。
なのに、足元のフローリングには、ひやりとした水の輪がひとつ。
もう一度、額を拭った。
汗はべったりと張り付いているだけで、垂れるような水滴はない。
エアコンを入れようとリビングへ向かう途中、廊下にも小さな水滴がぽつりぽつりと落ちていた。
(何だこれ……まさか、雨漏り?)
天井を見上げても、シミも穴もない。
ただ、玄関から続くように点々と、足跡のように水滴が落ちている。
いや、落ちているというより、そこを濡れた何かが歩いたように見えた。
ぞくりと背中に悪寒が走る。
頭の奥で何かがぐらりと揺れる感覚がして、視界がにじんだ。
「……やめろよ……」
声に出してみても、返事はない。
空調の止まった部屋は蒸し暑く、喉の奥が張り付くように苦しかった。
ゆっくりと歩を進め、脱衣所のドアを開けた。
洗面台の鏡には、自分の疲れ切った顔が映っている。
目の下には隈ができ、髪は汗と湿気でぺたんと貼り付いていた。
蛇口をひねり、水で顔を洗う。
冷たい水が肌に触れた瞬間、さっきまでの粘ついた感覚が一瞬だけ消えた。
だが、顔を拭こうとタオルを取ったとき、鏡の隅に映ったものに目が留まった。
鏡の後ろ、脱衣所と廊下を隔てるドアの向こうに、白い布の端が見えた。
(……!)
思わず振り返る。
誰もいない。
廊下には小さな水滴の跡だけが点々と続いている。
けれど、確かに見えたのだ。
あの橋の下で見た白いワンピースの裾が、鏡の隅に揺れていたのを。
心臓が乱打する。
頭の奥がじんじんと痛み、耳鳴りが響き始めた。
ガタッ。
廊下から、何かがぶつかるような音がした。
震える足で脱衣所を出る。
廊下の奥、リビングのドアが半分開いていた。
いつもは帰宅してすぐ閉めるのに、今日は記憶が曖昧だ。
手を伸ばし、そっとドアを押し開けた。
暗い部屋の中、カーテン越しの街灯が薄く照らしている。
何もいない。
けれど、部屋の中央、ラグの上に小さな水たまりがあった。
(……なんでだよ……なんで濡れてる……)
ぽたり。
天井からではない。
水たまりの中央に立つ、白い足首から水滴が落ちていた。
目が慣れてくると、そこには女が立っていた。
長い黒髪が顔を覆い、白いワンピースは水に濡れて重たく張り付いている。
足元には、川底の泥のような黒い汚れがこびりついていた。
女は動かない。
ただ、うつむいたまま、濡れた髪の隙間からこちらを見ている。
声が出ない。
息すら止まったまま、体が金縛りにあったように動かなかった。
ゆっくりと女が首を傾ける。
橋の下で見たときと同じ仕草だった。
その髪から、水滴が落ちるたび、ぴちゃりと乾いた部屋に水音が響く。
——見つけた。
声は聞こえなかった。
なのに、頭の奥に直接、女の言葉が落ちてきた。
ぞわりと全身の毛穴が開き、口から短い悲鳴が漏れた。
その瞬間、女は消えた。
部屋にはただ、湿気と泥の匂い、そして冷たい水滴だけが残っていた。
崩れるようにその場に座り込み、ラグに手をつくと、指先がびしゃりと冷たい水をすくった。
震える指で濡れた床を見つめる。
水は、生臭く、川の底に溜まった泥水の匂いがした。
その夜、眠ることはできなかった。
外は、深夜零時を過ぎてもなお、川の流れる音だけが聞こえていた。