婚約破棄されたけど諦め切れないので取り戻しに行ってきた
「レナータ、今日も綺麗だね!髪がいつもよりも艶が増してる……。香油を変えた?」
リン・アンブローズは少女の黒髪に指を絡めて一房掬い取ってその香りを確かめた。
整ったリンの顔を間近にした少女は頬を赤らめて言った。
「あ、アンブローズ様おはようございます……。あの、ハーブオイルの良い物が手に入りましたの……」
「待って!当てて見せるから!」
少女は続きを口にしようとしたがリンはそれを制して少女の頭に手をやり、その髪に触れるか触れないかのギリギリまで鼻を近づけた。
周囲からキャーという歓声が聞こえ、少女は益々顔を赤くする。
「……うーん。この甘やかな香りは少しバニラに似てるね。……アフロディテかな?」
「そうです!正解ですわ!すごいわ……。何でもご存知なのね」
アフロディテは南国からわざわざ輸入され、近年登場したばかりの観葉植物だった。その芳しい香りが注目され、色々な化粧品の香料に使用が検討されているところである。
この少女の実家は南国との貿易が盛んで、アフロディテのコロンを特に積極的に社交界に広めているのだ。
「もちろん!君のご実家のアフロディテのコロンを僕の家族も気に入ってたからね。この素晴らしい香りは忘れようとしても忘れられないさ」
リンは少女の髪に優しく口付けながらそう言った。
少女はうっとりとその様子を眺めていたが、突然顔色を変えて、後退った。
その不穏な様子にリンもギクリとして固まる。ああ、またかと諦めにも似た感情が湧き上がり、だらんと両腕を下げる。その途端に少女はスルリと抜け出し、無言で一礼すると走り去ってしまった。
「朝から楽しそうね。リン・アンブローズ」
背後からよく知った声が聞こえて振り返れば、案の定、幼馴染兼婚約者のビビアン・レイクリアがそこにいた。
「ああ、もう!!もう少しで落ちそうだったのにまた邪魔しやがって!ビビのお邪魔虫!」
「婚約者に向かって『落ちそう』とかよく言えたもんね……。いくら何でも髪にキスなんて必要ないでしょう!やりすぎよ!」
「こちとら、生活が懸かってるんだよ!俺の邪魔ばっかりして!ビビなんて知らね!」
売り言葉に買い言葉がヒートアップし始めたところで、リンは大きくジャンプして建物の屋根に飛び移った。お説教が始まる前に逃げるが勝ちだ。一つ年上の婚約者にリンが口論で勝った試しはない。
「リン!待ちなさい!」
ビビアンの叫びも虚しく、リンの姿はスルリと空気に溶けていった。何処かに転移したのだ。
また逃したかとビビアンは「はあ」と息を溢した。
小さな頃からヤンチャで自由人のリンに対してビビアンは婚約者というより姉のように接して来たが、もう言う事を素直に聞くような歳でもないのだろう。
いつからだろうか?顔を見ればリンの眉に疎ましげな皺が寄るようになったのは。
小さな頃はキラキラと輝く眼でいつも見つめられていた。先程の少女に向けられていた甘い眼差しに勝る純粋な思慕。それがいつしか変わってしまったのだ。何が悪くてこうなったのか……。
――黒髪なら私だって……。
ビビアンは自身のクルクルとカールした髪を手に取って見つめた。同じ黒髪でもあの少女はサラサラとした真っ直ぐな髪だったが、ビビアンの髪は細かなウェーブがついており広がっている。
――似ても似つかないか……。
ビビアンはそう思って再度溜息を吐いた。
「おいまたビビとやり合ったのか?」
リンが教室に入ると、同級生であるランス・ローデルが呆れたように言った。ランスはビビアンの母方の従弟だ。ビビアンの母はローデル辺境伯家出身で、父親はローデルに代々仕えるレイクリア男爵家当主である。
アンブローズ家の次男であるリンがビビアンと結婚してレイクリアを継げば、この男が将来的には主になることになるだろう。
ランスは魔法は得意ではないが、A級冒険者だ。剣の腕も王国内では上位に位置する。仕えるにはまあ申し分無いとも言えるし、ビビアンを通じて以前から交流があり、気安くもあった。
「やり合ってない!ビビアンが俺の邪魔をしたんだ!くそ!レナータ嬢にお願いしてアフロディテを融通してもらおうと思ってたのに!」
翡翠色の髪に装飾をジャラジャラ付けているリンは一見派手で軟派に見えるが、実は王国一との呼び声も高い天才魔導師である。そもそもアンブローズ家はニーベルン王国の魔導師団長を代々務める家系で、魔導具や魔法薬の研究も一族で担っているのだ。
リン自身も軽い言動で誤魔化してはいるが、本心は魔法薬の研究の為でもないなら誰かに媚を売ることも女性を口説くことも、面倒くさくてやりたくはない物だった。
「アフロディテは魔法薬の原料として申し分無いんだ!きっとあれなら従来のものよりもっと効率の良いポーションが出来上がるんだ!ああ、もうちょっとだったのに……」
一族の鑑定士によれば、アフロディテは高い血行促進作用と浄化作用を持つ。毒消し等の治療薬やポーションにも利用可能なのだ。研究したいが手に入りづらいし、取引価格も高額だ。だからこそ家業で取り扱っているレナータに近付いたのに失敗してしまった。
リンは既に魔導師としていくらか収入を得ているが、研究の為にいつも金欠状態であり、また希少な素材にばかり興味を示す為、どうしても協力者が必要になる。
幸い美貌に恵まれているので、必要な素材を手に入れるために愛想を振り撒き、協力者
を得る事はそう難しくはない。
基本的にまず女性に声をかけて興味のありそうな話題を振り、最終的にその家族に渡りをつけてもらうのだが、婚約者であるビビアンはそのやり方が気に食わないらしい。
確かに中には、是非娘を嫁にと縁談にまで発展するケースも数度はあったが、リンは口が上手く、丸め込むのも得意なので今まで大事に至っていない。それでもビビアンはそのやり方に苦言を呈する。
「そりゃビビの立場からすれば当たり前だろ。お前が派手に女を口説く度に、彼女の耳に『浮気者の婚約者』の話が届くんだ。最近はお前との婚約破棄の噂も立ってて、毎週求婚者の釣書が家に届くそうだぞ」
「はあ!?求婚者だって!?誰だ、そんな命知らずな奴は!」
リンは予想外の話に驚き、ここが教室である事を忘れて思わず声を荒げた。
ホームルーム前で騒がしかった筈の教室が一瞬静まり、注目を浴びてしまって大変気まずい。
誤魔化すように愛想笑いを浮かべると、見知った顔が近寄って来た。
「おはようございます。アンブローズ様」
ピンク色の髪をした可愛らしい少女がニッコリ笑ってそう言った。だがしかしその眼は決して笑っていない。
「おはよう、アリシアちゃん!今日も可愛いね!」
「……お前、俺の前で口説くのやめろ。冗談でも手が出そうになる」
先ほどまでの様子と打って変わって明るく答えたリンと反対にランスは機嫌を悪くした。
何しろ目の前の少女、アリシア・エルメはランスの婚約者なのだ。
リンはそれが分かっていて、半分ランスを揶揄うつもりでアリシアに向かっていつも愛想を振りまく。
もう半分は彼女がリンの憧れだった魔導騎士の娘だからというのもあった。
「アンブローズ様、ビビアン様が落ち込んでおられました。いい加減に誠実に行動してくださらないと、私も黙っていられませんよ……」
アリシアはビビアンを幼い頃から知っており、姉のように慕っているので、リンの行動を面白く思っていない者の筆頭だった。かといって、今まで差し出がましい口を聞いたことはなかったのだが、今日はよほど腹に据えかねたのだろう。心なしかピンク色の髪がふわりと揺れている。彼女は風と光の二属性しかないが、その魔力量は申し分なく、魔力操作も一級だ。何しろランスと一緒にA級冒険者の称号を得ているのだ。
リンはただならぬ気配に苦笑いして、ランスの陰に隠れるように一歩下がった。
「ランス、お前の婚約者こえーよ……」
「だと思うなら、自重しろ。アリシアを怒らせたら俺でもどうしようもないぞ」
男二人が小柄な少女に怯えて顔色を悪くする中、救いのベルが鳴って、アリシアは憮然としながらも席に着いた。
アリシアに睨まれてもリンは態度を改めるつもりはなかった。むしろ何が悪いのか全く理解できていないし、するつもりもなかった。
魔法の研究には金がかかる。その協力者を見つけるために愛想を振りまいて何が悪いのか。リンは本気でそう思っているし、ビビアンだって同じ魔導師なのだから、逆になぜ邪魔をするような真似をするのかと憤慨していた。
小さな頃はビビアンと一緒に遊び代わりに色々な魔法を試し、ポーションを作ったり、魔導具を開発したりしていた。
ビビアンがこの学園に入るまでは二人はよく一緒に色々な挑戦に明け暮れ、一緒に親たちから怒られたりもしていたし、逆に褒められもしていた。それはとても充実した日々で、本当は一年遅れでリンも学園に入った時、ビビアンとまた同じように新しい何かを生み出すことができるのではとワクワクしていたのだ。
その思惑が外れ、リンがビビアンとできることはとても少なかった。彼女は彼女なりに学園のカリキュラムや研究で忙しいのだ。リンがやりたいことにビビアンが付き合ってくれるような、「都合」はもう付けることはできないようだった。
「くそ……。ビビアンなんて、新しいポーションが出来ても絶対に見せてやらないし、作り方も教えてやらない」
学園から自宅に帰宅したリンは、自分の研究室でブツブツと不満を口にしていた。
あの後、再度レナータに声を掛けようとしたが、朝のビビアンの様子がよっぽど怖かったようで、リンの顔をみるなり、顔色を悪くして逃げて行ったのだ。
アフロディテを手に入れる他の方法を考えていると、執事がリンを呼びに来て、父親の部屋に連れて行かれた。普段放任主義の父に呼び出されることなどほとんどないので、リンは何事かと訝しんだ。
リンの父、王国魔導士団の現団長であるエムリス・アンブローズ伯爵は、リンによく似た翡翠色の髪に整った顔で眉根の一つも動かさずに言った。
「お前とビビアン嬢の婚約を白紙に戻そうと思う」
リンはあまりに突然のその申し出に驚愕し、うろたえた。
「何で……何で急にそんな事!」
「お前にはローデルに仕えるよりも国に仕えてもらいたいというのが、陛下とローデル卿、そして私とエクターの総意だからだ」
リンはビビアンと結婚してレイクリア男爵家を継ぐ予定だったが、それは「ローデルと共に辺境の守りにつく」という事だ。
しかし、リンはニーベルン王国最強とも呼び声の高い天才魔導師なのだ。
要所を守るために私軍を持つことが許された辺境伯と共にあるのは、国内のパワーバランスを考えると宜しくないというのが大方の見方だった。
「お前には王国魔導師団に所属し、王都の守りの要になってほしい。爵位もアンブローズ伯と別に新しく男爵位が与えられる予定だ。また領地ではなく、国から一生涯十二分な年給が保証されるようになる。事情が変わったから、結婚ももう急いでする必要はない。気に入った娘が他にいるなら、婚約を結び直すのも良いが……。ああ、レナータ嬢などはどうだ?まあ、研究費や素材費は魔導士団で持つことになるからもう新たにパトロンを探す必要もないがな……」
頭の追い付かないリンをよそに、伯爵は淡々と話を続けた。
国王陛下の意向ならリンに覆しようもない。リンがレイクリアを継ぐことは不可能になったのだ。そしてその一人娘のビビアンがリンと結婚することも……。
当然だと思っていた未来がガラガラと崩れ、リンは薄ら寒く感じた。
「……できた。」
翌日から魔導士団の中の一室を与えられ、リンは研究に没頭した。所望した通りにアフロディテも手に入り、ポーション作りに勤しむ事一週間、リンはキュアポーション、エクストラポーション、そして媚薬を作り上げた。
いずれも従来品より性能が十割増しになっている。目を付けた通り、アフロディテは素晴らしい効能を持っていた。判明していた浄化と血行促進だけではなく香りに高い安息効果があり、それらの作用がいずれのポーションの性能を高める事にも寄与したと考えられる。
全てリンが予想した通りだったが、リンは完成した時にいつものように達成感を感じられなかった。
『ビビアン、見てくれ!新しいポーションができたんだ!』
そう言って出来たものを見せる相手が横にいない。
それだけで、大好きだった魔法薬作りがこれほど虚しくなるものか。
リンが溜息を吐いた所で、研究室の扉をノックする音が響いた。振り返るとよく見知った顔が立っていた。
「よう。しけた顔だな」
「ランス……。何しに来たんだ」
リンは責められるような気がして慌ててランスから顔を背けた。その背中にランスの穏やかな声が響く。
「お前が一週間も引き篭もってるからな。……皆心配してる」
「皆?嘘だ。俺の心配をする奴なんていないさ。誰も。いるわけがない」
リンは信じられないと言う風に首を振った。ランスは肩を竦める。
「そうでもないぞ。アリシアも殿下も、少なくともお前のクラスメイトは皆心配してる。それにもう一人、ビビもな」
リンは元婚約者の名前を聞いて胸がツキリと痛んだ。しかし、そんな事をランスに気付かれたくなくて、顔を伏せたまま答えた。
「……別に。好きな事ができる場所が貰えたから、夢中になってただけだ。……ひと段落ついたから、週明けから行くよ」
「ビビとの婚約が破棄されたそうだな」
「……人聞きが悪いな。白紙になったと言ってくれよ」
「学園ではその話題で一時持ちきりになった。ビビに婚約を申し込もうかと、色々な男たちが画策している。何しろレイクリア男爵家の一人娘だからな。継げる爵位がない奴らには理想の結婚相手だ」
「爵位目当ての求婚者なんて、ビビが相手にするわけないだろ!レイクリアは優秀な魔導士の家系だ。せめて俺と同等ぐらいの魔法の実力がないとふさわしくない!」
リンの剣幕にランスは呆れたように息を吐いて言った。
「お前と同等の魔導士なんてこの国におらんだろ。それに同等の奴が新たに婚約者になるなら、お前が婚約者のままでもいいじゃないか」
「でも俺は、俺より劣るような奴にビビを渡すのは嫌だ……」
ビビアンはリンにとって、婚約者であり、幼馴染であり、最も信頼している魔導士仲間であり、最も大切な女性だった。リンはとうに自覚していたが、それをビビアンに直接伝えたことは一度もなかった。
ランスは真剣な顔でリンを見つめて言った。
「実際お前の気持ちはどうなんだ?俺はアリシアと結婚が許されないならローデルの名を捨てる覚悟だったぞ。少なくともそれぐらいの覚悟を持って、あいつに結婚を申し込むことにしたんだ」
リンは意外そうにランスの顔を見て言った。
「ランスって見かけに寄らずロマンチストだよな……」
ランスはどちらかといえば強面だ。身体も大きく、ロマンス小説のヒーローよりも悪役の方が似合うだろう。
それでも平民だったアリシアに惚れて、その想いを貫いた姿は、男として格好良く思える。
「……お前はずるいよ。アリシアちゃんがどうすれば一番お前に惚れるか分かっててやってるだろう?」
リンは泣き笑いのような顔をしてそう言った。ビビアンとの付き合いは生まれた頃からなのに、今は彼女が何を喜ぶのかも分からない。
「いや、反面教師がいたからな。俺が真似しようとしてたと言ったら物凄く嫌がってたぞ。親父さんのことはあいつのトラウマだ」
アリシアの父はエルメ子爵家の嫡男だった。優れた魔導騎士として将来を約束されていたが、彼女の母に惚れて貴族籍を捨て去り、一介の冒険者になった。
スタンピードで死ぬまでは、家族三人で幸せに過ごしていたと聞く。
アリシアもつい一年ほど前に祖父であるエルメ子爵に引き取られる迄平民だったので、ランスが爵位を捨てるか捨てないかの話に発展したのだが、今は問題は全て解決され、周囲も皆二人を祝福している。
「まあ、惚れた女と幸せになるのも、大人しく家に従って栄誉を手に入れるのも、お前の好きにすれば良い。だけど両方手に入れる方法だってないわけじゃないだろ?」
「両方?」
「そうだ。お前がレイクリアに婿に入るんじゃなくて、ビビを嫁に貰えば良いだろ?」
ランスの提案にリンは首を振った。
「無理だ。レイクリアに他に子はいないだろ!」
しかし、ランスはそんな事かと言うようにリンの言葉をあっさり躱す。
「別に今すぐ継ぐわけじゃないだろ。エクターはまだまだ現役だ。ビビとお前の子を養子に出せば済むさ。あとはお得意の口説きでビビとエクターを説得すれば良いだけだ」
「でもそんなの上手く行くわけが……」
「お前に与えられる爵位に領地はついてない。年給も子供に世襲できない一代限りのものになるだろう。それならお前らの第一子をレイクリアの後継に据えれば良いだけだ。簡単だろ?」
リンは戸惑った。ビビアンとレイクリアを継ぐことという分かりきった未来から、王国魔導師団に所属し、国のために生きるという大きな舵切りだけでも頭が一杯なのに、子供の未来まで巻き込んで良いのか?
そんな気持ちを吐露すると、またもやランスがあっさり覆す。
「気に喰わなけりゃお前の子供自ら抗うさ。俺達はいつも『義務』が付いて回る。お前の子だけじゃない、誰でもだ。本気で嫌がったら、またその時考えれば良い。お前達の子供なら、自らの手で必ず運命を捥ぎ取りに行くだろうぜ。その時はその時だ」
一度は貴族籍を捨てようとした男の言葉には重みがあった。
リンは口の端を上げて言った。
「……そうだな。……俺、ビビアンと話したい。彼女の気持ちが聞きたい!」
「じゃあ、善は急げだ。実は今夜、爺様の家でパーティーがあって、ビビアンの見合い相手が何人か用意されている。その中にビビアンが気に入ったやつがいれば、そいつが新たな婚約者に収まることになってるんだ」
「はあ!?なんでそんな急に!早すぎだろ!」
リンは驚きのあまり、ランスの胸倉を掴んで訴えるが、ランスは微動だにせず冷静に言葉を返した。
「お前らの婚約の破棄自体はもう一月以上前から決まってたんだよ。色々条件の擦り合わせに時間がかかっただけだ。ビビアンの新たな婚約者を用意するのはその条件の中に入ってたんだ」
「そんな。……止めにいかなきゃ」
「と、言うと思って、迎えに来たんだ。だがその前に……」
「その前に?」
ランスは顔を顰めて言った。
「とりあえず、風呂に入ってこい。お前、一週間風呂に入ってないだろ。その匂いじゃ流石に爺様の屋敷に連れて行けんぞ」
リンは研究室の付属の風呂に急いで入り、生乾きの髪を無造作に結んで、ランスの持ってきた服に着替えた。
「なんで侍従服なんだ?」
「パーティーの招待状は用意できないが、侍従の振りをすれば潜り込めるからな」
ランスの母方の祖父は王国内でも最も権勢を誇る侯爵である。自分とよく似たランスをとても可愛がっており、リンも何度か会ったことがあるが、底の知れない迫力のある人物だ。
そんな屋敷に招待もなく潜り込むのは、気が引けるが、侍従の振りをするのは余計に恐ろしい。
大丈夫なのかと不安が募る。
「大きなパーティーだから人手が欲しいそうだ。俺が一人見目の良い友人を助っ人に出すと言ったら伯母上が喜んでいたぞ」
「えっ俺、何やらされんの?」
屋敷に着くとリンは侍従長の下に連れて行かれた。
「この度はご助力ありがとうございます。ところで、その御髪では当家の侍従としてふさわしくありませんので、整えさせていただきます」
侍従長がサッと手を上げると、メイドの一人がやってきて、有無も言わせずリンを椅子に座らせ、するすると髪を解き、綺麗に編み込みを始めた。オールバッグに一纏めに編み込まれて、リンの普段のチャラチャラとした印象が一掃され、いかにも仕事ができそうな若い侍従の姿に、メイドは満足そうに溜息を吐いた。
「うわ、髪型を変えるだけで印象が変わるもんだな。一瞬誰か分からんぞ。まあ、潜り込むにはちょうどいいがな」
ランスも感心したようにそう言うが、リンはいつもと違う自分に落ち着かない。それでも侍従らしくと姿勢を伸ばし、グラスの載ったトレイを片手で持てば、様になっているような気もした。
「まあ、ビビアンが一人になったらこっそり声をかけてみろよ。これが最後のチャンスと言っても過言ではないからな」
「ありがとう、ランス。俺頑張る」
「お前のためじゃない。俺も従姉には幸せになってほしいからな」
そう言って、ランスは笑顔でリンを送り出した。
リンが会場に入ってすぐに客たちが次々と到着し始めた。
なかなか盛大なパーティーのようで人数が多い。
リンの待機場所は奥のドリンクスペースなので、客たちを全員確認することは難しい。
ビビアンらしき姿もなかなか見つからない。
客たちにグラスを配りながら、ビビアンを探し続け、パーティーの半ばが過ぎたところで、男に連れられ、バルコニーに移動しようとする彼女の姿をやっと見つけることができた。
トレーを持ったまま足早に近付き二人の声が聞こえる所まで行こうとするが、あまり近ければ気付かれてしまうだろう。
覗きこんで様子を伺うと、美しく着飾ったビビアンが楽しそうに男と談笑していた。
相手の男に見覚えはないが年齢は年上のようで落ち着きが感じられた。リンとは正反対のタイプだ。
悔しいが見た目だけなら見合い相手として高得点のタイプだろう。ビビアンはこいつに決めたのかと、リンは焦りを感じた。
「あれはマクゴーグル子爵の弟だな」
不意に真後ろから聞こえてきた声にリンは思わずグラスを落としそうになったがなんとか体勢を持ち直した。
「ランス!お前急に声を掛けんなよ!危うく落とすところだったじゃないか!」
「シーッ!声を落とせ。気付かれるぞ。あの男は魔導士団の精鋭の一人だな。まあ申し分ないな」
「お前、どっちの味方だよ!」
「強いて言えばビビの味方だ」
「おい!そこは嘘でも俺の味方と言えよ、友達だろ?」
「いやいや、折角御膳立てしてやったのにグダグダ、コソコソやってる男に大事な従姉をやるのもなあ!」
「グダグダじゃない!タイミングを測ってるんだから邪魔すんなよ!」
「ーー何してるの?」
聞き慣れた声に恐る恐る目を向ければ、ビビアンが呆れた顔をして、腰に手を当て立っていた。
男は苦笑いをして去っていった。ランスもリンの背中を叩いた後、会場の方に戻っていった。
残されたリンはたっぷり沈黙を貫いた後、徐に口を開いた。
「ドリンクはいかがですか?」
ビビアンは不快そうに目を細めて、やはりやや長い沈黙の後、徐に手を伸ばしてグラスを取った。そして顎をクイッと動かした後、ベランダに戻って行った。リンはその後をシオシオとついて行く。いつもの説教タイムを予想して。
計画では格好良く登場して、真面目に言葉を尽くすつもりだった。まさか、いたずらを見つけたような呆れた顔をさせるつもりなんて一ミリもなかったのだ。
「なんでそんな格好してるの?バイト?」
リンは叱られると身構えたが、ビビアンの声は穏やかだった。学園に入ってから怒らせることが多かったので、その静かな様子とドレスアップした姿にドキッとした。
「……ランスが人手が足りないって言うから」
素直に本当のことを言えず、言い訳の様になってしまった。
『最後のチャンス』というランスの言葉を思い出す。そして先ほどの男と楽しそうに話していたビビアンの姿も。
リンは嫉妬と焦りが入り混じった感情が沸き上がり、衝動的に動いた。
「えっ!?何?急にどうしたの?」
突然跪いて手をついたリンにビビアンは驚き、声を上擦らせた。
リンは下を向いたまま口を開いた。
「……俺は、今まで魔法の研究のことしか考えてなかった。いつでも新しいポーションや魔法陣とか何でも思い付いたら試してみたくて、考えなしに動いてきた。でも俺がそれを出来たのは、できたら絶対に笑ってくれる人がいるって思ってたからなんだ」
「……」
久しく聞いたことのないリンの真剣な声に、ビビアンは静かに耳を傾けた。
「俺は、その笑顔を見れなくなるのは嫌なんだ。俺はその人に会えなくなるのは嫌なんだ。俺が作った物は一番にその人に見せたいんだ!」
初めてポーションを完成させた時を思い出す。実家にある父の研究室から持ち出した本を片手に、庭で一番簡単な初級ポーションをビビアンと一緒に作ったのだ。
おままごとの道具の代わりの有り合わせの鉢や小鍋用意して、一生懸命石の上で草を擦り潰した。
そうして出来上がったポーションを恐る恐る瓶に詰めて、シールドを施して「出来た!」と高らかに掲げると、ビビアンが顔を輝かせてパチパチと拍手をしてくれた。
リンはそのビビアンの笑顔が「この世で一番好きなもの」になった。
研究のために女の子たちに声を掛けて、甘い言葉を紡ぐところを咎められても、結局出来上がった物を見せれば、やはりビビアンは我がことの様に喜び、いつもの笑顔を見せてくれていた。
「……俺は、俺の横にはビビアンがいてほしいし、ビビアンの横にいるのは俺じゃないと嫌だ。だから……」
リンは顔を上げてビビアンの手を両手で掴み、縋る様に言った。
「好きだビビアン!俺と結婚して下さい!」
ビビアンは予想外にストレートな愛の告白に顔を真っ赤にさせた。リンとの付き合いは長いが、甘えられたことはあっても甘い言葉をかけられたことはない。
内心リンがパトロン目当てに女の子たちに甘い言葉を囁くのを苦々しく思っていた。その姿が本来のリンとはかけ離れており、本音ではないからこそ紡げる言葉だと知っていても、女性として砂糖菓子の様に甘い言葉を囁かれている少女達を羨ましく思っていた。
今リンから発せられた言葉は、ストレートすぎて全くロマンチックではない。
だが、どんな言葉よりも切実で、真摯な想いが詰まっていることは痛いほど伝わってきた。
耐性が無さすぎて動揺が止まらないが、胸の奥が熱くなり、視界が潤むのを感じ、咄嗟に顔を手で覆って隠した。
「ビビアン!?」
「……もう……、リンのばかぁ……!遅いのよ!もっと早く言ってよ!私、私、……会いにきてくれないから、嫌われたかと思って……!」
婚約を取りやめると父から伝えられた翌日、学園で話せないかとリンを探したが、一週間経っても会うことは叶わなかった。直接話をする必要もないと思われるほどに嫌われていたのかと落ち込んでいた所、アリシアに慰められ、ランスがパーティーにリンを連れて行くと約束してくれたのだ。
パーティーでは三人の男性を次々と紹介された。どの人物も将来有望で立派な大人の男性だった。
彼らと話している間、ビビアンはずっと考えていた。
落ち着いた話し声よりも、少し高い明るい声が好きだと。憧れていた甘い言葉は、そんなに嬉しいものでもないのだなと。趣味を聞き合ったり将来の話をするよりも、ポーション作りや新しい魔導具のアイディアの方が何倍もワクワクするなと。
常に翡翠色の髪の少年が目を輝かせて語る姿が脳裏にチラついて、泣きそうになっていた。
このまま現れなければどうしようと、今日会った誰か一人を選ばなければならないのかと、このままもしかしたら一生会えないのではないかと、不安で胸が押し潰されそうになっていた。
最後の一人に誘われてバルコニーに出る時、視界の端にエメラルドグリーンが映った。
もしかしてと心ここにあらずでは、見合い相手との弾まない会話は長く続かず、直ぐに中に戻ることになった。
そして振り返った時、ランスと言い合いをしてる元婚約者の姿が目に入った。
やっと来てくれたという安堵と、何をしてるのだというイラつきと、やっぱり好きだという想いが同時に溢れて出た言葉は思いの外低くなってしまったが、
気持ちが落ち着くにつれて、また不安が募った。ランスに無理やり連れて来られたのか?
それとも本当にただバイトのつもりなのか?リンの考えていることが分からない。
でも問いただす勇気はなかなか湧いて来なかった。
だが、今、ずっと聞きたかった言葉を、リンの想いを聞くことができた。
それならばビビアンの答えは決まっている。
「私も、リンが好き!結婚するのはリンじゃなきゃ、リン以外は嫌なの!」
ビビアンは跪いて、リンに抱きついた。
ビビアンの涙が溢れて、リンも同じ様に目を潤ませて長いこと抱きしめ合っていたら、いつの間にかビビアンの父のエクター・レイクリアがやって来た。
「お父様……」
リンとビビアンは慌てて立ち上がった。
「……ランス様から話は聞いた。しかし二人の気持ちを確認しておきたいと思ってね。リン、うちの娘を本気で欲しいのか?本当に?君なら学園でもよりどりみどりだろう?」
長年家族の様に付き合ってきたエクターはリンにとってもう一人の父親の様なものだ。
その問い掛けは娘の父親としてというより、子供の我が儘を諭すかの様に穏やかな口調だった。
「おじさん、俺はビビアンしか好きじゃない。ビビアンだけなんだよ。俺がずっとそばにいて欲しいと思うのは。だからビビアンを俺にください。我が儘だって分かってるけれど、これだけは、彼女だけは絶対に譲れないんだ。国に貢献しろっていうならするし、もっと世の中の役に立つ薬や道具も作ってみせるよ。だからビビアンを俺から取り上げないで!」
エクターは苦笑いすると、今度は娘に問いかけた。
「お前は本当に良いのか?リンとの結婚を選ぶならレイクリアを出ることになる。お前は領地で錬金術師になることを望んていたじゃないか」
「お父様、ごめんなさい。でも私、リンと一緒にいたいの。他の人との未来では私は本心から幸せになれない。それは本来優先するべきじゃないかもしれないけど、でも、私は諦めたくない!」
「……婚約を白紙にすると話した時、ビビアンは静かに従ったし、リンも同じだったと聞いたから、二人の仲は恋人というより友人や姉弟の様な関係だったのかと思ったんだ。読み誤っていたなって」
エクターは独り言の様に続けた。
「私たちは二人は婚約破棄を嫌がるだろうと予想していたんだ。なのにやけにあっさり言うことを聞いたので拍子抜けをしたぐらいだったんだが、まあ、やっぱりだったな……。良いだろうあとはこちらに任せなさい。お前たちの関係は元通りだ。レイクリアの跡取りについても焦らなくて良い。なる様になるものだよ」
「ありがとうございます!」
「ありがとう!お父様!」
エクターが去った後も、二人はしばらく余韻に浸っていた。
「ねえ、ビビ?」
「なあに?」
「キスして良い?」
ビビアンはそれには答えず、顔を近付けて素早くリンの唇を奪った。
実は初めてではない。幼い頃はしょっちゅう軽いキスを送り合っていたのだ。
思春期になり、いつの間にかしなくなったが、急激に縮んだ距離感があの頃の気安さを思い出させた。
「……もっとゆっくりしたやつが欲しい」
そう言うと今度はリンの方からビビアンに顔を寄せて、宣言通り、ゆっくりとキスをした。それは、どんな言葉よりも甘やかなものだった。
「コレとコレとこれ!どう?凄いでしょ!」
リンは先日完成させたキュアポーション、エクストラポーション、そして媚薬をビビアンに見せた。
「凄い!これアフロディテ使用して作ったのね。流石だわ。素晴らしい効能ね」
「だろ?」
リンはもっと褒めろと言う様に鼻高々でご満悦だった。ビビアンが夢中で薬瓶を眺める姿に、いつも以上に胸が高鳴っている。今なら何でも出来そうな気がするぐらいに、気分が高揚している。
「でも何で媚薬なんか作ったの?誰に使うつもりなの?」
僅かに抱いた疑念に声を低くしたビビアンの様子に、気付いていないかの様にあっけらかんとリンは答えた。
「うん。ビビアンに使えるかなと思って」
「はあ?私に?」
「使ったらもう一度婚約してもらえるかもって。まあ使わなくてもできたけど!あっ試しに使ってみる?」
「……いえ、結構よ。取り敢えずこれは厳重に管理して、間違っても流出させないこと!良いわね」
何だか凄く悪い予感がしたビビアンは念押しした上に、リンがそれを危険物類の管理箱に入れるのをしっかりと確認した。
きっと世に出しても碌なことはない様な気がした。自分に使われなくて良かったと心から安堵した。
「さあ、そろそろ行きましょう。今日はランスとアリシアにお世話になったお礼のご馳走をしなくてはいけないのよ。遅れたくないわ」
「そうだな。店は予約は出来てるし、アイツらならほっといても二人でイチャイチャしてるだろうけど。……まあ、もてなす側が遅れたら格好がつかないか」
そう言って口を尖らせたリンに、ビビアンは素早くキスをした。
「もう!キスはゆっくりの方が良いって言ってるじゃん!」
そう文句を言いながら、リンは再び愛する人に唇を重ねた。
了