Prologue
冒頭に若干の性的描写があります。地雷の方はお気をつけください。
下っ端男爵家の人間は、所詮媚びを売ることでしか生きられない。
そう悟ったのはいつのことだっただろうか。
ああ、きっと――5歳のときだ。
なんの因果か人よりは少し容姿に優れていた私は、齢5歳で侯爵家の人間の接客を命じられたのだ。
嗄れた声のお爺さんは、私を上から下まで舐めるように見つめてきて、「ほう」と一つ頷いたあと、私の前に膝をつき、お尻を撫で回してきた。
何が起こっているか分からなくて泣きそうだった私は、父の方を見て、絶望を覚えたのを鮮明に覚えている。
父は媚びた表情をぴたりと顔に貼り付けたまま、目の奥に苛立ちを込めて私を一瞥したのだ。
『笑え。媚びろ、この役立たず』
そのメッセージを受けて、私は恐れた。
これで、追い出されたら、どうしよう。
そんな思いから私は、役立たずから使える道具へと昇格した。
体を撫で回されれば「く、くすぐったいです」と頬を染めて身を捩り、首にキスされたらお返しとばかりに頬にキスを返した。
全て、母の真似だった。
そうしたら、どんどんお客さんが増えて、どんどん触ってくる場所は際どいところになっていって――何も知らなく、また抵抗もできない状況で、貞操を守れたのは奇跡に等しいだろう。
きっと、父が爵位の高いところへ嫁にやるために取って置かせたのだろうけれど。
それで、私は媚びることでしか世の中を渡る術はないと理解したのだ。
それは、15のときまでずっと続いていて、私は貞操以外の全てを失っていて、やっと開放されたのは訳ありの公爵家からの縁談が申し込まれたときだった。
***
「いいか、リーフィア・ヴィトン男爵令嬢」
旦那様となる方――公爵子息アルト・バーシュ様。
金色の瞳に黒よりの藍髪をした彼は、紳士な美少年として社交界では有名だ。
だから会って開口一番突きつけられた指に困惑してしまう。
「俺は、お前なんか好きにならない。お前のようなひとを誑かし脅かす魔女を愛すことなんか、出来るはずがない! ―――俺は好きな人と一緒になるんだ」
「た、たぶらか……」
おおよそいいとこの坊っちゃんが知っているとは思えない卑猥な言葉に、リーフィアは絶句する。
と、同時に目の前の12の少年までもが自分の所業を――まっとうな婿など望めないだろう行動の数々を知っているのだと思うと、なんだか気まずい思いをしてしまう。
もう、自分の穢れた体とは見切りをつけた。
自分の聞き分けの悪い心は、ずっと前に胸の奥に閉じ込めた。
だから、真っ青な顔はしていない――ただ、少し困惑するだけだ。
「本来、お前と俺とじゃ身分が違う――それこそ、お前が嫁いでくるなんて、庶民が貴族と結ばれるよりありえない話だ! それを、こんな……金で俺を買うなんて、なんて卑劣な!!」
唾を飛ばす勢いで喚き、顔を怒りで茹でダコのように真っ赤にした彼に、リーフィアは困惑顔を深めた。
金で君を買うってなんか語弊がある言い方では? とか、突っ込んでは駄目なんだろう、たぶん。
もう一度何かを怒鳴ろうとしたアルトの声は、ゴンと鈍い音に遮られた。
怒りの形相は鳴りを潜め、アルトは「〜〜〜〜ってぇ」としゃがみ込む。
明らかにやり過ぎな制裁をしたアルトの父――公爵家当主、ガレム・バーシュ閣下は眉をへの字にし、リーフィアに謝罪を述べた。
「悪い子ではないのですが……」
「いいえ、そもそも奇妙な噂を立ててしまったこちらが悪いのですから」
父が応対し、リーフィアも笑みを浮かべる。
周知の事実ではあっても、表向き噂はでまかせということにしなくてはならない。
これは貴族社会じゃなくてもそういうものだと思う。
人間とは、そういう生き物だ。
父と公爵で言葉を交わし、書類を交わし、リーフィアはアルトの正式な嫁となった。
婚約者ではない。
この契約を無かったこととしないように、父は即日で嫁がせるという条件で公爵家の借金の3割を帳消しにした。
「……」
「……」
き、気まずい。
父等が他に話があるどうのこうの言って別の部屋へと移り、20分が立つ。
その間アルトはずっとカーペットを見つめていて、リーフィアはそんなアルトをにこにこと笑みを浮かべながら見守っていた。
いつもの方々だったらとっくの昔に致していただろうが、流石にまだ子供だ。
そんな心配は毛ほどもなく、リーフィアの精神は安定していたが、沈黙がこうも続くとなんだか居たたまれなくなってくる。
「あ、あの」
リーフィアが控えめに声を上げると、アルトはギロリと睨むようにこちらを見てくる。
それでも意を決し、リーフィアは先ほどから気になっていたことを聞いてみた。
「先ほどの話なのですが――もしかして、アルト様にはもう好きな方が……?」
「好きな奴?」
「『俺は好きな人と一緒になるんだ』って……」
ああ、と納得したように頷き、アルトは口を開いた。
だが何が思い出したように思案げな顔をし、リーフィアの顔を再び見つめた。
「そうだ。……す、好きな奴が、いる」
若干耳を赤に染め、カタコトになっているのは好きな子を思い出しているからだろうか。
手の平で真っ赤になっている顔を隠し、目を逸らされた。
思わぬ初心な反応に目を丸くする私の視線を遮るようにアルトは怒鳴る。
「だ、だから!! お前を愛すことは一生、1度たりともない!! お前は、不倫をするために選ばれた女だ!!!」
「ふ、ふりん……」
難しい言葉を知っているのね、と頷くと、なんだ、その反応は!! とアルトは再度怒鳴り、机を叩いた。
どうやら違う反応をご所望らしい。
思春期の男の子ってめんどく……難しいんだな、とリーフィアは首をひねる。
アルトは、何だこの女は!! と言って部屋を出ていってしまった。
男の子って難しい。
それを知れたのがこの日の一番の収穫だった。