調布の飛行場放浪記
調布の飛行場放浪記
私はたまに調布の飛行場に行く。たまにと言っても、年に1~2回だが。それも晴れた気持ちのいい日にしか行かない。例年だと5月の連休の時がベストだ。寝そべっていて寒くもなく暑くもなく、ホンワカとした気持ちになれる時期だからだ。しかし、今日は4月の18日。連休にはまだ早いが、晴天で気温も23℃と暖かいという。年度末の仕事もひと段落し、休暇を取っている。朝起きて何処に行こうかと悩んだか、リビングから丹沢の稜線がくっきりしているのを見て、ちょっと早いが調布の飛行場に行こうと決め家を出た。
小田急で登戸まで行き、南武線に乗り換え稲田堤経由京王線で調布へ。そして、高尾山口行きに乗り換えて飛田給駅で下車した。ここが調布の飛行場の最寄り駅となる。駅名に「飛ぶ」という字が付くくらいだから、飛行場に関係した名前かと思ったらそうでないらしい。昔、荘園制度が盛んだったころ、この地は「飛田氏」という荘園主が居て、その飛田氏から給された給田地だったということで、駅名となったらしい。
駅前広場右手にあるセブンイレブンに入り、おにぎり2個とペットボトルのお茶を買い、電子マネーで支払った。昨年、スマホを買ったときにこの機能があることを覚え利用している。昨今、電子マネーでの支払いを国も推奨しているようであるが、私もその一翼を担っている。「クイックペイで!」というこの響きが何とも言えない。しばし、優越感に浸るときである。隣りのレジで現金払いしている人がいたが、「何? まだ現金なの!」と上から目線で見ている自分がいた。
駅前通りを飛行場のほうに数分歩き、国道20号線(青梅街道)の歩道橋を上ると、目の前に「味の素スタジアム」がその巨大な姿を現す。昨年からFC東京のホームスタジアムとなり、また、来年の東京オリンピックのときのサッカー競技場となることで、周辺はサッカー一色だ。今日はスタジアムでの模様し物もなく人通りが少ないが、サッカーの試合のある日は人で溢れかえるのだろう。
その味の素スタジアムを右手に見て、歩道を15分ほど歩くと武蔵野の森公園に行きつく。この公園の高台に出ると飛行場が一望できる。高台の斜面は寝そべるのにちょうどいい。今日は快晴で風も穏やかであり、飛行機見には絶好の日だ。これが羽田とか成田では味わえない、小粒でぴりりと辛いというやつだ。今この斜面にいるのは、子供を連れた若いご夫婦と、見た目私とそんなに年が変わらないが、サイクリングスーツに身を固めたかっこいいご老人の3組のみ。やけに人が少ないなと思ったら、今日は平日なのだ。そこでまた、優越感に浸る。
買ってきたおにぎりを頬張り、滑走路上をゆっくりと眺めていた。食べ終わり寝そべると、この時期でも日差しが少し強く感じる。数年前、ここから飛び立った小型機が住宅街に墜落し、何人か亡くなったという痛ましい事故があった。広い飛行場ではあるが、周りを運動場や公園で囲まれているとはいうものの、そのすぐ外側はマンションだの住宅街だのが多くある地域なのだ。安全第一の運行を願わざるにはいられない。
私は、ここで頭の中をしばし「無」にすることにしている。考え事などしない。とはいうものの、頭の中を「無」にすることは中々できない。「無」にしようとすればするほど、何かが過ってしまう。「無」に集中できないのだ。これは私だけではなく、だれにでも共通することだと思っている。そう、聖人や高層、神父や牧師でもない凡人が「無」の境地に簡単に入れる訳がないのだ。しかし、私はその方法を知っている。それは、「般若心経」を唱えることだ。「何だ、そんなことか!」と言うなかれ。「般若心経」の一説に、
「色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。」
という節があるが、これがまさに「無」につながるのだ。15年ほど前、私の両親が相次いで亡くなり、こんな私でも少し堪えた時期があった。世の中のはかなさが身に沁み、少しうつ気味にもなった。「何のために生きているのだろう」と真剣に悩んだ。その時、親父が生前、毎朝、仏壇の前で何かブツブツ声を出しながら手を合わせているのが思い出された。それが般若心経だったのだ。親父が何を悟ったかは知らないが、私も真似てみようと思いCDを買って毎夜聞いていた。その頃は仕事の関係で、単身で川越に住んでいたので、だれ気兼ねなくそのCDを聞くことが出来た。そのCDで、宗派によっていろんな般若心経の唱え方があることを知った。ちなみに私は曹洞宗派の唱え方をしている。CDを聞き始めてから1ヵ月ほどして、隣の住人が引っ越していった。もしかしたら、CDの音漏れが原因で気味が悪くなり出て行ったのかもしれない。
3ヵ月ほど掛けて空で唱えることが出来るようになった。意味はわからない。ただ、唱えることにのみ集中した。今でも、毎朝、駅までの通勤時に歩きながら唱えている。もちろん無言で。そして、前述した「無」(=空)を悟ったのだ。
さらに遡ると、私が小学3年生のころだったと思う。夜、布団に入っているときに、
「地球がなくなったら、人はどうなってしまうのだろう。さらに、宇宙がなくなったらどうなるのだろう。過去も現在も未来もない世界。いやそれはもう世界ではない。痛くも痒くもなく、匂いも味もなく、光がなく、真っ暗な・・・」と考えたら、急に怖くなり声を上げて泣いてしまったことがあった。それはまさに般若心経でいう「無」(=空)の入り口の一歩手前だったのかもしれない。それが数十年後に私を悟りに導いてくれたのだ。
「待て! 今は、宗教の話をしているのではない。ただ単に調布の飛行場の話をしているのだ。」と我に返った。話を戻そう。とにかくこの斜面に寝そべっていると、嫌なことなど忘れてしまうことが出来るのだ。
よくこんな東京の真ん中に飛行場を作ったものだと思っていたら、ここはもともと山林や田畑で、その周りに農家が点在していたところだったらしい。戦前、東京府は都市計画としてここに公共の飛行場を作ろうとしたのだという。しかし、本当の目的は「帝都防衛」だったとのこと。羽田の予備飛行場として、また、飛行試験場としての目的もあったらしく、建設当時は今の滑走路のほかに、東西に伸びる滑走路がもう1本あったそうだ。太平洋戦争が始まり戦局が厳しくなると、本来の目的であった「帝都防衛」(=本土防衛)の重要拠点となり、攻撃機「飛燕」がB29の攻撃にここから飛び立ったのだという。公園の北隅には、その「飛燕」を隠した壕(掩体壕)が2か所、残されている。
この斜面には2時間ほどいた。その内、30分ほどは小型機の離着陸の様子を見ていた。この飛行場からは、近い順に大島、新島、神津島、それと三宅島に定期便が運行されている。大島までは25分しかかからない。離陸し上昇したと思ったら、すぐに着陸態勢に入らなければならないというせわしない飛行になる。都心からここまで少し時間はかかるが、成田までの移動を考えたらどっこいどっこいだろう。運行機種は、ドイツのドルニエ社製19人乗り(+乗員2人)双発プロペラ機だそうだ。離陸も着陸も滑走距離がすこぶる短く、この飛行場には適した機材だ。ちなみに小型機がゆえ重量には厳しく、手荷物の重量のみならず搭乗者の重量も申告してもらい、そのバランスを考慮の上座席を決めるそうだ。
「ダイエット中の各各方、ご婦人の方々、体重をサバ呼んで申告してはいけませんぞ!」
スマホで離着陸の様子を何枚か写真に収めた。その場ですぐに見ることが出来、しかも、拡大縮小、縦横も自由自在だ。この便利さは、逆に街の多くの写真現像店を廃業に追い込んだという現実もある。フィルム使用のカメラで写真を撮り、それを現像店に持ち込んで出来上がり日に取り日行くという、あのわくわく感はもうない。ちょうど馬車が自動車に取って代わられたようなものか。
時間はもう午後の2時半をまわっている。そろそろ歩こう。滑走路の北端の公園内を進み、飛燕の掩体壕の前を通る滑走路と平行する道をターミナルビル方向へ歩いた。途中、今まで寝そべっていた公園の斜面が、滑走路を挟んで遠くに見える。10分ほどでターミナルビルの前に出た。このビルは数年前に建て替えられたばかりでとてもきれいだ。2階には休憩エリアと展望デッキが設けられている。羽田や成田のそれとは比べ物にならないが、なぜか私はこちらの方が好きだ。
初めてこの飛行場に来たとき、ターミナルビルはまだ建替え前だった。調布に住んでいる会社の先輩から、
「羽田や成田のターミナルビルに比べたら、びっくりするほど小さいぞ。」と予備知識は持っていたが、初めて見たときは本当にびっくりした。小さいばかりか、建設現場にあるプレハブの詰め所のようなバラック建ての建物だったのである。いや、「ような」ではなくバラック小屋そのものだったのだ。東京都が運営しているのだから、何もここまでみすぼらしい建物にしなくともと、哀れみさえ感じた。小池都知事に意見書まで出そうかと思った(嘘)。ここで働いている人も、最初は羽田の地上職員のような姿を想像していたに違いない。それがバラック小屋かと泣きたくなったのではないかと想像される。すると、哀れみから怒りに変わったことを覚えている。
しかし、もう帰ろうと思ってバラック小屋を出て歩き出したら、塀に囲まれてはいたが隣に大きなビルが建設中ではないか。「調布飛行場 新ターミナルビル建設現場」という立て看板を見て謎が解けた。そうか、今いたバラック小屋は、一時的な仮の搭乗施設だったのだ。
「ああ、よかった。」と、別に私が心配する必要はなかったのだか、急に力が抜けると同時に、トイレを模様してきた。すぐに隣のバラック小屋、いや、仮搭乗施設のトイレに入り用を足した。トイレから出てきた時は、お尻のほうの爽快感と共に心の爽快感も味わうことが出来た。
ターミナルビルからまた道路に出、飛行場の南端へと歩き出した。歩道沿いは桜並木となっている。もう散ってはいたが、4月初旬は満開の桜できれいだったろうと思われる。しばらく歩いていると、また、公園内へとつながる道に出た。先ほどまでいた北側の公園は芝生や遊歩道などがあったが、ここ南側の公園内は野球場やサッカー場、テニスコートなどの運動施設がたくさんある地区となっている。今日は平日ということもあり、運動場はほとんど使われていなかったが、野球場だけはまさに試合の最中だった。
私は野球にそれほど興味はないが、せっかく来たのだからと芝生に腰を下ろして見ていた。地元のシルバーチーム同士の試合なのか、両チームとも高齢者ばかりのように見えた。試合は5回表の攻撃中で、守備側が0対6で負けていた。その守備側の監督らしい人が、年は私よりだいぶ上に見えたが、顔を紅潮させて怒鳴り散らしていた。「ばか野郎!何やってんだ!」とか、「目を開けて野球しろ!」だとか、しまいには、「今日の飲み会の費用は全部お前が持て!」とか言いたい放題だった。何も50歳以上(みんなそう見えた)のいい大人をつかまえて、そこまで言うことはないだろうと思ったが、ストライクは入らないわ、外野がトンネルするわ、1塁へ暴投するわで、監督の気持ちもわかるような気がした。「このチームはしばらく勝てないだろうな」と思いながら腰を上げ、また歩きだした。
目の前に味の素スタジアムが見えているが、そのすぐ横の道は通行止めになっていて進めない。ここを通ると駅への近道なのだか・・・。 矢印に従って少し遠回りにはなるが、滑走路横の歩道を北側に向かって歩きだした。5分ほどで出口方向と表示された道に出たので、そこを通って最初に歩いた道に出た。ちょうど飛行場を一周したことになる。あとはここから駅に向かって進むだけだ。途中、スタジアムと道路を挟んだ反対側の歩道に出たが、そこにスポーツプラザアリーナがあって、その前に女性が列をなして並んでいるのが見えた。近づくとFC東京のグッズ販売入り口の看板が見えた。女性たちはこれが目当てだったのだと思うと共に、サッカー選手はアイドルなのだと気づかされた。
国道20号線(青梅街道)をまたぐ歩道橋を上ると駅はもうすぐだ。その歩道橋から青梅街道を眺めたが、平日ということもあって車はスムーズに流れていた。東京方面100m先に交通標識かと思って見ていたら、「オリンピック東京大会マラソン折返点 調布市」とう字が飛び込んできた。そうか、ここがその場所だったのか。歩道橋を下りその標識に向かって歩くと、ロイヤルホスト前の歩道わきに、「1964TOKYO マラソン折返し地点」と刻まれた石碑が静かにたたずんでいた。アベベが、ヒートリーが、そして、円谷がここを折り返して千駄ヶ谷の国立競技場のゴールに向かったのだ。すると、アベベが独走でゴールテープを切り、円谷とヒートリーが競技場内で2位、3位のデットヒートを繰り広げたあのテレビ画面が鮮明に思い出された。円谷は惜しくも3位だったが、日本人みんなのヒーローになったことは言うまでもない。しかし、円谷は次のメキシコオリンピックの年の1月、そのヒーローがゆえのプレッシャーから逃れられず、
「お父様、お母様、幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません。」という遺書を残し、27歳の若さで自ら命を絶ったという痛ましい出来事もあった。
2回目の東京オリンピックが来年開催される。今度はこの目で直に見て感動を味わいたいものだ。
飛田給駅に戻ったら、もう午後4時をまわっていた。来た時と逆のルートで家路に着いた。
久しぶりに充実した一日だった。また来よう!
おわり